studio Odyssey




明日もまた、エッセイ?

『大人に3』(2001/1/14)

 新聞を読んでいたら、面白い記事があった。
 青森であった教育シンポジウムで、「青少年犯罪について」のシンポの会場で、高校生が発言したらしいのだ。「何故、人を殺してはいけないのですか?」

「別に殺そうとは思っていないですよ。でも、悪いことをしたら死刑になる。なんで国が人を殺せるんですか。心から愛している人が何かされたら、殺しても守ってやりたいと思うこともある。殺す少年に何か言ってあげられるんだろうか。核心に迫ることをずっと探してた。学びたい。知りたいです」

 会場はしんとなり、大人たちは誰も答えられなかったという。
 その風景が、簡単に目に浮かぶ。

 っていうか、「青少年犯罪について」のシンポなら、考えて来いよって話も、ある。
 何を考えてるんだか。

 いい機会だから、考えてみようと思う。何故、人を殺してはいけないか。

 難しい。何故だろう。僕にも、よくわからない。「いけないから」そんなのは答えにならない。「常識だから」そんなのも、今の時代、答えにならない。
 なんでだ?

 じゃあ、いっそのこと、ここは逆転の発想でひっくり返してみよう。「何故人を殺してもよいか」

 おや。
 こっちも難しい。なんでだ?なんで、人って、殺していいんだ?

 っていうか、そもそも人って、殺していいのか?あー…難しいので、逆転の発想で考えてみよう。「何故人を殺してはいけないか」
 って、堂々巡りじゃないか。

 つまり、これがホントのことなんだと思う。

 矛盾してる。矛盾だ。
 世の中、矛盾だらけ。

 何故国は「死刑」という判決によって人を殺すか。人は、誰にも生きる権利があって、誰にもその権利を奪う事なんて出来やしないはずなのに。
 だけども、死刑で人を殺すことができる。矛盾。

 自分の愛する人が、目の前でたとえばレイプされたとする。僕が、犯人を殴り殺すとする。僕は無罪になる。これは、第三者の正当防衛だ。人を殺してもよいという事になる。
 犯罪者にも、権利は当然ある。当然、保証されるべき権利がある。
 だけども、殺してもよい。矛盾。
 船が難破したとして、無人島に漂着したとする。食料はわずかで、一人の人間が三日生き延びるのにぎりぎりくらいの量しかなくて、その時、まわりに五人の人間がいたとする。僕がここで、四人を一気に蹴り殺すとする。僕は無罪。緊急避難だ。人を殺してもよいという事になる。
 誰にだって、生きる権利はある。
 だけども、殺してもよい。矛盾。

 戦争。
 たくさん殺せば、英雄。マシンガンを撃ちまくって、地雷をたくさん埋め込んで、たくさん殺せば、英雄。当然、無罪。
 女も子どもも老人も兵士も何も、関係ない。殺してよし。矛盾。

 だから、まずは矛盾を受け入れなければならない。
 道徳観念。「人を殺してはいけない」
 実際行動。「人を殺してもよい」

 相反するふたつ。まずは、この矛盾を受け入れなければならない。
 最強の、どんな盾も貫き通す矛と、そしてどんな矛も通さない盾。「ふたつをぶつけたら、どうなるのですか?」
 その時、その商人は答えられず…矛盾。

 つまり、それが本当の事だと思う。
 本当のことをいえば、誰も答えられない。答えなんか、ない。

 実際はだから、やってみるしかないのだ。結果は、やってみればわかるのだ。矛と盾をぶつけ合えばいい。「殺してはいけない」という人と、「殺してよい」という人とを、ぶつければいいのだ。

 きっと、答えはそこにあると思う。
 いつまでも答えを出すことを逃げ続けて、何もしないでいたら、きっと、いつまでも答えは出ない。5時間でも、6時間でも、やればいい。ぶつけ続ければいい。そして最後に残るのは、どっちか。
 それが、答えだ。

 僕は、「人は殺してはいけない」が残ることを望む。
 何故か。

 僕は、誰も殺したくなんかないからだ。理由なんか、ない。僕がそう決めたからだ。僕の心の中の法律で、そう決まっているからだ。僕の心の中の、正義だ。
 どんな時でも、僕はたぶん、誰も殺さない。本当はわかんないけど、殺さないでいたい。誰も、殺したくなんかない。

 だったらむしろ、僕は殺される方を望む。
 「殺す」少年たちに、僕が何かを言ってあげられるとすれば、まぁ、それはR‐0でも読んでもらいたいところだけれど…「正義って、なんだっけ?」

 さて。
 最強の矛と盾は、どっちが強いか。

 みんなで考えてみれば、きっと答えは結構簡単に見つかると思う。