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新聞を読んでいたら、面白い記事があった。
青森であった教育シンポジウムで、「青少年犯罪について」のシンポの会場で、高校生が発言したらしいのだ。「何故、人を殺してはいけないのですか?」
「別に殺そうとは思っていないですよ。でも、悪いことをしたら死刑になる。なんで国が人を殺せるんですか。心から愛している人が何かされたら、殺しても守ってやりたいと思うこともある。殺す少年に何か言ってあげられるんだろうか。核心に迫ることをずっと探してた。学びたい。知りたいです」
会場はしんとなり、大人たちは誰も答えられなかったという。
その風景が、簡単に目に浮かぶ。
っていうか、「青少年犯罪について」のシンポなら、考えて来いよって話も、ある。
何を考えてるんだか。
いい機会だから、考えてみようと思う。何故、人を殺してはいけないか。
難しい。何故だろう。僕にも、よくわからない。「いけないから」そんなのは答えにならない。「常識だから」そんなのも、今の時代、答えにならない。
なんでだ?
じゃあ、いっそのこと、ここは逆転の発想でひっくり返してみよう。「何故人を殺してもよいか」
おや。
こっちも難しい。なんでだ?なんで、人って、殺していいんだ?
っていうか、そもそも人って、殺していいのか?あー…難しいので、逆転の発想で考えてみよう。「何故人を殺してはいけないか」
って、堂々巡りじゃないか。
つまり、これがホントのことなんだと思う。
矛盾してる。矛盾だ。
世の中、矛盾だらけ。
何故国は「死刑」という判決によって人を殺すか。人は、誰にも生きる権利があって、誰にもその権利を奪う事なんて出来やしないはずなのに。
だけども、死刑で人を殺すことができる。矛盾。
自分の愛する人が、目の前でたとえばレイプされたとする。僕が、犯人を殴り殺すとする。僕は無罪になる。これは、第三者の正当防衛だ。人を殺してもよいという事になる。
犯罪者にも、権利は当然ある。当然、保証されるべき権利がある。
だけども、殺してもよい。矛盾。
船が難破したとして、無人島に漂着したとする。食料はわずかで、一人の人間が三日生き延びるのにぎりぎりくらいの量しかなくて、その時、まわりに五人の人間がいたとする。僕がここで、四人を一気に蹴り殺すとする。僕は無罪。緊急避難だ。人を殺してもよいという事になる。
誰にだって、生きる権利はある。
だけども、殺してもよい。矛盾。
戦争。
たくさん殺せば、英雄。マシンガンを撃ちまくって、地雷をたくさん埋め込んで、たくさん殺せば、英雄。当然、無罪。
女も子どもも老人も兵士も何も、関係ない。殺してよし。矛盾。
だから、まずは矛盾を受け入れなければならない。
道徳観念。「人を殺してはいけない」
実際行動。「人を殺してもよい」
相反するふたつ。まずは、この矛盾を受け入れなければならない。
最強の、どんな盾も貫き通す矛と、そしてどんな矛も通さない盾。「ふたつをぶつけたら、どうなるのですか?」
その時、その商人は答えられず…矛盾。
つまり、それが本当の事だと思う。
本当のことをいえば、誰も答えられない。答えなんか、ない。
実際はだから、やってみるしかないのだ。結果は、やってみればわかるのだ。矛と盾をぶつけ合えばいい。「殺してはいけない」という人と、「殺してよい」という人とを、ぶつければいいのだ。
きっと、答えはそこにあると思う。
いつまでも答えを出すことを逃げ続けて、何もしないでいたら、きっと、いつまでも答えは出ない。5時間でも、6時間でも、やればいい。ぶつけ続ければいい。そして最後に残るのは、どっちか。
それが、答えだ。
僕は、「人は殺してはいけない」が残ることを望む。
何故か。
僕は、誰も殺したくなんかないからだ。理由なんか、ない。僕がそう決めたからだ。僕の心の中の法律で、そう決まっているからだ。僕の心の中の、正義だ。
どんな時でも、僕はたぶん、誰も殺さない。本当はわかんないけど、殺さないでいたい。誰も、殺したくなんかない。
だったらむしろ、僕は殺される方を望む。
「殺す」少年たちに、僕が何かを言ってあげられるとすれば、まぁ、それはR‐0でも読んでもらいたいところだけれど…「正義って、なんだっけ?」
さて。
最強の矛と盾は、どっちが強いか。
みんなで考えてみれば、きっと答えは結構簡単に見つかると思う。