studio Odyssey




毎日が、エッセイ?

『人を殺すこと』(2000/5/12)

 17歳が犯罪ラッシュのようで。(バスジャック事件等の事と記憶している)

 ニュースコメンテーターの方々は、したり顔に、「動機のない犯行」という。何を訳の分からないことを言っているのやら。「やってみたかったからやった」
 ちゃんと言っているじゃないか。

 十分な理由だと思う。どうしてそれを理解できないのかが、どうもわからない。いきなりの否定口調で「動機がない」なんて言われては困る。「やってみたいからやった」が動機だ。
 何も間違っていない。僕はその理由で納得する。
 それは僕が、どちらかと言えば、こちらよりに近い人間だからなのかも知れないと思う。

 はっきりと言ってしまえば、だ。

 経験として人を殺すという行為、出来るのならばしたって構わない。僕は物書きをするわけで、普段から、経験したことのない事はかけないと言っている。そういう意味で、人を殺すと言うことは僕は経験したことがない。
 限りないリアリティを僕が求めるのならば、僕はきっと、いつか人を殺すこともあるかも知れない。

 そこにそれ以上の理由はない。そして、動機はそれで十分だとおもう。
「やってみたいからやった」
 それは理由として十分だと思う。

 それは理解できないんじゃない。はなっから、理解したくないだけだろう。それはもしかしたら、自分の闇の部分を見つめなければならないかも知れないからなわけで。
 殺したいほど憎い奴がいるだろうか。
 例えば、人は死んだらどうなるんだろうかとか、思ったりしたことはないだろうか。
 誰かを殺して、試してみたいと思ったことはないだろうか。
 僕は、ある。

 人の首にある頸動脈付近の血管は非常に弾力があり、軽く刃物を当てた程度では切れないという。
 強く刃物を押し当て、引く。と、ぷっという音と共にはじけるようにしてそれが切れ、脈動と共に血が吹き出るというのだ。
 一緒に喉を切っていれば、そこからは声にならない空気が音を立てるという。笛を鳴らすように、弱く、ひゅうひゅうと音を立てるのだそうだ。

 そんな描写を、小説の中で使ったことがある。

 だけれど、僕はそれが本当か知らない。
 それを知りたいと思うこともある。
 だけど今、こうして書き出す自分と、そしてそれを読んでいる人と、僕はこのモニターを通して向き合っている。
 自分の心の中にある闇の部分を、誰かに見せることによって、自分で見つめている。
 だから、彼らのことを理解できる。
 が、しない。

 きっと、その闇の部分を誰かに見せることが出来て、そしてそれを通して自分を見つめる事の出来る人は、きっと、誰も殺さない。
 一番危険なのは、「理解できない」と言い続ける人たちだ。理解できないのでなく、理解しようとしない人たちだ。僕は理解できる。
 ただし、認めは、しない。

 だから僕はまた、間に合わなかったんだなぁと、R‐0を書きながら、届かなかった僕のメッセージに、いつかきっとを思って書き続けるわけです。