studio Odyssey




なんというか、エッセイ?

『その時、駆け出せるか』(99/6/30日誌より)

 26日、夜。
 小田急線という私鉄で、一件の踏切事故があった。人身事故だ。二人の男性が、亡くなった。

 はっきり言っておくけれど、僕は、全くこの二人とは面識がない。新聞の記事でしか、この事件のことも知らない。けれど、僕は心から、二人のご冥福をお祈りする。

 亡くなったのは、59歳の男性と、18歳の大学生だった。

 大学生の彼は、この春に大学に入学したばかりだった。映画研究会に所属し、この7月の七夕祭に向け、サークルの仲間達と映画の製作を始めたところだったという。「ここからがスタートだ」と、仲間達と、語り合っていたのだろう。
 彼らの作品のテーマは、「人のいやし合い」だった。

 この日も、彼は映画の撮影を進めるために、友人宅に集まっていた。そこで、彼は映画で使う曲を探しに、一人でCDのレンタルショップに向かったという。

 その帰路。事件は起こった。

 友人宅近くの踏切で、線路上に立つ人の影が見えた。警報機が鳴っていた。近づく、電車の騒音があった。悲鳴があったに違いない。躊躇だって、自問だって、あったに違いない。

 だけれど、彼は駆けた。
 遮断機をくぐって、踏切の中に飛び込んで、その男性を助けようとしたのだ。

 彼は、「映画の道に進みたい」とか、「戦場カメラマンになりたい」などと友人に語っていたという。
 彼は、果たしてファインダーの向こうに何が見たかったのだろうか。
 映画を通して、戦場の写真を通して。

 「自分探し」は、誰でもが直面する思いのひとつだ。きっと誰だって、自分を探す思いに捕らわれたことがあるのに違いない。「自分は何だ?」「今しなければならない、本当のこととは何だ?」「人間とは何だ?そして人間は、何故生きるのか?」

 全てのことを、僕が語ったとしても、それはあまりにも陳腐すぎる表現にしかならないだろう。小手先だけの、上辺だけの、言葉にしかならないだろう。なぜなら、僕はきっとその時に駆け出せないだろうから。

 駆け出す瞬間、彼は何を思ったか。
 僕に、知る由はない。その場にいれば、僕は、ただ傍観するだけの存在だっただろうから。

 ただ、何故だろう。
 僕は、悔しいくらいの何かの思いに、捕らわれた。彼にあって、僕にないもの。
 そしてきっと、それは大事なものに違いない。なのに、僕はきっと、それを今のままじゃ手にいれられないんだ。

 はっきり言って、僕は悔しい。
 けれど、強く、思う。
 これでもモノを書くはしくれ。そして、彼と同じように、「写真」に触れてきた一人の人間として、思う。

 心から、二人のご冥福をお祈りする。