studio Odyssey




なんというか、エッセイ?

『ユーモア』(99/4/26日誌より)

 ユーモアとは、ぎりぎりの悪口の所に存在する。
 行きすぎるとただの悪口。
 ぎりぎりのラインが毒舌。そして、ユーモア。

 ユーモアがあるかないかと言えば、無いと言うことはないけれども…という感じだが、最近、ただの悪口が増えてきた。よくない傾向。

 「毒舌」「悪口」「言いたい放題」は、全て違う言葉だ。けれど、それを混同している人は結構多い。

 僕に言わせれば、よくテレビ番組に出てきて「ああだこうだ、云々かんぬん」と抜かしているオバサン連中は(あんただ、あんた)、ただの「言いたい放題」なだけで、全く毒舌家などではない。

 で「毒舌」と「悪口」の境界ってどこか。
 これは以外と簡単だ。

 「毒舌」はユーモアだ。だから、自分の身を削るようにして話さなくなったら、そこからただの「悪口」になる。

 だから、やっぱりあれだけ肥えているオバはんたちの台詞は、「毒舌」ではなく「言いたい放題」ということになる。

 「毒舌」は身を削る。ユーモアである以上、それは絶対。

 たとえばピエロ。僕らはピエロを見て笑う。
 笑うけれど、僕らはピエロの何を見て笑う?

 ピエロは、なかなか辛い仕事だといつも思う。あれほど、身を削る仕事はなかなかない。笑われてなんぼ、笑わせてなんぼ。同じ人間だもの。辛いことも悲しいこともあるだろうに。
 でも、笑ってもらわなきゃならない。じゃ、どんな人間でも笑うシュチュエーションて、どんなものか。

 人の不幸っていうものは、結構笑いのタネになる。

 僕らがピエロを見て笑うとき、それは、ピエロの不幸の瞬間だ。
 ピエロは自分の不幸を笑いにする。身を削る思いをして、笑いを取る。ユーモアとは、そういうものだ。

 「毒舌」もそれと同じ。
 だから、「悪口」とは違う。

 ユーモアは「毒舌」の中にある。

 勘違いしている人たちが、どうも最近多いようだ。特に、ブラウン管の向こうに。