studio Odyssey




なんというか、エッセイ?

『重箱の隅メディア2』(99/5/8日誌より)

「問題はメディアにではなくて、無知にある」
 という話は以前にもした。

 この言葉は、ニューメディア、その他、メディアに対しての事件が起こる度に、僕は自己防衛的意味も含めて、よく口にする。

 メディア=悪を決定的にした事件と言えば、97年の少年Aの事件を思い出す。それ以前にもメディアを悪とした事件はいくつかあったりもしたが、その時の経験が全く生かされていないからか、事件が起こる度に、メディアは悪としていじめられる。

 そんな中でも、個人的に好きな、向かうところ敵なしと思っていた新聞に、ちょっと悲しい話が載っていた。

 アメリカで起こった銃乱射事件の発端が、レオナルド・ディカプリオの出ていた映画、「バスケットボール・ダイアリー」のせいだというのだ。

 この夕刊紙、一昨年前の少年A事件の時など、「自分の名前を間違えられて怒るような奴に、ろくな奴はいない」という様な文面を出し、いちメディアとしてのその姿勢は、向かうところ敵なしな夕刊紙だなと思ったりもしたのだが、この最終面のタイトルは、ちょっと、寂しいものだった。

 まぁ、もちろんこの夕刊紙サイドとしては、そんなことよりディカプリオの童貞を奪った元モデルの話がしたかったのかも知れないのだけれど、(無論、バスケットボール・ダイアリーについてのアメリカでの訴訟の話にも触れていたけれど) 一ガンマニアとして、あの見出しは少々、寂しいものを感じた。

 Gunは悪くない。悪いのは、それを使う人だ。

 僕はGunが好きだし、実際、本物を撃ってみたいとも思う。でも、それが十分危険なものだとわかっているし、日本では手にしてはいけないものだとわかっている。法を犯してまで、欲しいとも思っていないからかも知れないが。
 僕はGunアクション好きだ。だからって、学校で銃を乱射してやろうとは、思ったことがない…と、書いたが、よく考えてみると、HP内の作品「魍魎撲滅委員会」で撃ちまくっていた…まぁ、あれはトイガンなので異例と言うことで…ダメ?

 話を続ける。
 って、あの映画がイコール悪と言われてしまったら、ウチの「魍魎」もかなりの悪だとされてしまう。実際、今の日本でも学校でエアガンをぼこぼこ撃つような子が出ないとも言えない。というか、僕ら、撃ってるし。

 けれど、「人に向けて撃たない」なんていうのは、もぅ、当たり前のルールだ。常識だ。常識的、知識だ。

 それを人に向けて撃つ。それは、別にメディアに問題があるんじゃない。個人に問題がある。

 「問題はメディアにではなく、無知にある」

 だから、メディアはそれを問題定義する宿命がある。
 何が悪いかは、最終的にはエンドユーザーが決めるとして、そのメディアの一部に属している手前、この問題は無視するわけにはいかない。

 だから僕は、きっと書き続ける。