studio Odyssey




そんなこんなで、エッセイ?

『また汁』(2001/4/13)

 汁。汁ー。

 汁がでてますよー。

 ある本を読んでいたのですよ。今日。
 でね、その中で、あるコンテストの寸評が載っていたのですけども、みていて、思ったのです。っていうか、いつもコンテストとかの寸評をみていると思うのですけどね。

「コンテストに参加するプロを目指すアマチュアの方には、へたくそでもいいから、はじけるような勢いのある作品を期待する」

 って。
 じゃあ、具体的にそれって、なに?

 コンテストの審査員の方って、えらーい、先生たちなわけでしょう。別に、それに挑む気はさらさらないんだけども、「自分たちもあっと言わせるような、勢いのある作品がほしい」って、いっこ、聞かせてください。
 それって、どんなん?

 それを考えるのが、作品づくりって話になるとね、思うんだけど、それ考えるのが仕事の人たちと勝負なのでしょ。
 なんか、むちゃくちゃな気がするのね。

 どうなのかしら。

 僕は、自分の書いているものを「小説」と言うことはあんまりない。と、言うのも、僕はね、小説を書いているつもりはないので。わかりやすい分類的なものとして、「小説」という言葉を使いはするけども、どうかなぁ。
 なんか、「小説」なんて難しい言葉を使って、テケトーにごまかしているだけな気がするのよね。ある意味では、はかない自己弁護?みたいな。

 多くの人がそうであるとは思わないけども、そうである人がいる気もするので、僕はそこでは、なんとか、自分で線を引いておきたいなぁと。
 いや、それこそまさにはかない自己弁護?みたいな。

 ま。なんだっていいや。
 おもしろければ。
 読んでくれた人が、ちょっとでも、おもしろかったと思ってくれれば。

 テーマなんか、くそ、ですよ。
 どんなに深いテーマがあっても、おもしろくなければ、ダメでしょ。すべての文章は、誰かに読んでもらうために生まれてくる訳で、そうでない文章は、つまり、文章としての意味を持ってない。
 と、思う。
 そういう意味では、最近の僕はちょっと問題だけどもね。
 そこはまぁ、おいておいて。ってか、それが問題じゃん?言葉に重みがないよ。

 それはそれ。
 ぶっちゃけた話。

 僕はコンテストの寸評というのが、嫌い。

 理由。

 昔の話だけども、僕が撮った写真が、まぁ、結構それなりに認められたとき、その寸評で、その写真とその撮影者の人のことを、「ものすごくナイーブな神経をもった、繊細な人が撮った物だと思います」なんて言ったのですよ。

 腹抱えて笑いました。
 みんなで。

 違いまっす。
 それはものすごーく腹黒い人が、狙って撮ったのでっす。そして、狙って作ったのでっす。
 どうかなぁ。

 僕はその写真なんかより、ずっとずっと好きな写真が、10枚以上はある。
 そして飾っていつも眺めていたい作品は、少なくとも、その後者の作品たちだ。

 だから、それでいいと思っている。今も。
 そしてたぶん、これからも。

 だから、気にすることなんか、ないのです。
 いろんなこと。
 変えることなんか、ないのです。