studio Odyssey


キャンパス - 第五章

writtenby : しゃちょ

「バカだ!」
 息を切らしながら、そいつは言った。
「よく考えて見りゃ、あれだ。俺、車があんじゃんか!」
 叫ぶ。雲が覆う夜空に向かって、あほらしいというように。
 そして足を弛めていく。
 先を行っていた奴らも足を弛めて、立ち止まって、振り向いた。
「お前が一番に飛び出したんじゃねーか」
「そうだぞ。俺らはつられてなぁ…」
「なぁ」
「酔いが醒めちまった」
 言って、足を弛めていた奴もついに立ち止まった。坂道の途中。駅前の灯りが眼下に見える坂の途中。
 街灯りから離れて、星明かりが包む坂の途中。
「待って下さいよぅ」
 後からの声。振り返ると視界に入ってくる、その坂を昇ってくる女の子の姿。
「本気で走らないで下さいよぅ」
 息も絶え絶えに彼女は言う。さすがに、男のダッシュに彼女がついていけるわけもなかった。それでも彼女は何とか彼らを追いかけて、
「お金払って下さいよぅ」
 言う。
「あ、わりー。忘れてた」
「食い逃げ!?」
「やった!?人生初?」
「嘘をつけ!!」
「記憶にねー話だ」
「事件の記録もないな」
「犯罪者どもめ」
 なんて言い合う奴らののところまで、やっとの事で彼女は追いついて、
「突然走り出すんですから…相変わらず、何をするにも考えなしですね」
 皆に向かって言う。
「そう?」
 けれども、
「それじゃまるで、普段何も考えていないみたいじゃないか」
「考えてるの?」
「うーん、びみょ〜」
「考えてるだろ。マジな話」
「いかにしたら、女の子にモテるようになるか」
「それは考えている」
「が、今は関係のない話でもある」
 奴ら、口々に適当なこと。彼女は仕方なしに、笑っていた。
 そして初めに立ち止まった奴が、皆が立ち止まった道ばたに座り込んでコートの前をあわせた。袖だけを通して駆け出したのだが、春が近づく季節とはいえ、深夜を回ろうとする時間には、まだ少しだけ冬の残り香が夜の道を包んでいた。
 そしてポケットから煙草を取り出し、当たり前のようにそれに火をつける。
「一番に飛び出したくせに、一番に止まって一番に火をつける」
「問題なし」
 言い、軽く煙草を吸い込んで煙を吐き出す。それに習うように、他の連中もポケットやら鞄やらから煙草を取り出す。そして、お互いにお互いの口の煙草に火をつけあう。ばからしいというように笑いあいながら、昔していたのと同じように。
「そういやぁ…」
 座り込んで煙草を吸っていた奴は、その手の中の赤い火種を見つめながら呟いた。
「初めは、煙草を吸いに行っただけなんだよな」
「屋上?」
「そ」
 思い出すようにして、笑う。そしてまた煙草をゆっくりと飲む。
「懐かしいな」
「あの頃?」
「ほんの──ちょっと前の話なのに」
 今ではその屋上も鍵がかけられている。
 それは、自分たちが勝手にその屋上にたむろすることが大学にばれたからだったかもしれない。今となっては、その理由を知るもの誰もいなくなっていたし、そして昔はその鉄の扉がいつも開けっ放しだったことを知るものも、いなくなってしまっていたけれど。
 ぎいと重い鉄の扉を開けて屋上に出ると、だいたいいつも決まった時間に、その場所には同じ面子がいた。午後の一番と夕暮れと、そして大学の正門が閉門されるまでの間の夜。
 そこには必ず、同じ面子がいた。
「よう」
 手の中の煙草を軽く振って一本飛び出させながら言う。
「ヤフ」
 短く、挨拶を返す。くわえたままの煙草に火がついていないのを見て、ライターを見せてみる。「いや、いいよ」という風に手をふって、そいつは自分の目の前にあったキャンバスを見つめていた。
 「そう」という風に会釈して、自分の煙草に火をつける。
「まだ描いてんの?」
「んー?」
「その絵」
「ああ」
「俺がここに来る前から描いてるでしょ?しかも、何遍も描き直してるでしょ?」
 自分がここに来るようになって、もう数ヶ月。だのに、今、目の前にいるこの男は自分よりもずっと前からここに出入りしているようで、そしてずっと、油絵を描いているようで、「よく飽きないね」「飽きないよ」
 小さな木のイーゼルに立てかけられた絵。足下に転がっている金属のチューブ。
「…芸術学科なんだ?」
 二度目にあったときもそいつはそこで絵を描いていて、工学部の自分は聞いてみた。「いや、違うよ」そいつはあっさりと返した。
「ただ、なんとなく描いてみてるだけ」
 何遍書き直されたか、わからない絵。
 初めて自分が見たときは、たしか夕焼けの絵だったような気がする。
 そして、自分が友達と一緒にここに来るようになった頃は、青い空の絵だっと記憶している。
 やがて当たり前のようにその面子が集まるようになって、いつもの面子という奴らができあがって、バカ話をするようになって、初めてそれぞれの手にしたライターでそれぞれのくわえた煙草にそれぞれが火をつけて笑ったときは、その絵はたしか、夜空の絵だったような気がする。
 
 
「なつかしいな」
 夜空を見上げて煙草を吸いながら誰かが言った。
 眼下に街灯りが見える坂の途中。
「そりゃ──確かに想い出の品だけど」
「別に、売ったって俺たちはかまわないのになぁ」
「ああ」
 誰の言葉に返すという風でもなくて、生返事。
 冬の残りの、静かな夜の沈黙。
「あの絵──」
 夜の中に光る赤い火種に向かって、言う。
「あの絵、本当は何が描かれていたんだか、知ってる?」
「いや、知らない」
「聞いたこともない」
「俺も、知らない」
「そういや、俺たち、本当のことを言えば、何にもしらないな」
「でも──」
 軽く煙草を吸い込んで、笑う。
「奴が初めて俺たちを描いたときの事は、憶えてる」
「ああ」
 そして軽い笑いに、彼女が続いた。
「え?」
 少し驚いたように。
「あの絵、初めからセンパイたちみんな、描いてあったんじゃないんですか?」
「ないよ」
 即、誰かが言う。
「あ、それしか見たことねーんだ」
「初めは違うのよー」
「初めはただの風景画」
 言って、皆、思わず笑う。
「俺たちだって、初めからあの風景の中に一緒にいた訳じゃないんだ」
「ああ」
 そして誰かが呟いた。
「そーいや、奴の電話って、あの日に壊れたんだったっけ」
 
 
 いつだっけか。忘れた。
「聞いてくれよー」
 いつもの調子で、そいつが言った。
「昨日、とーとー、本当にフラれたー!」
「おめでとう」
 即、返す。
「おお、ついに俺らの仲間入り」
「お前も傷心に、絵でも描けば?」
「俺は別に傷心で描いてるわけじゃねー」
「本当はどうだかねー」
 いつもの屋上。夜の屋上。たしか、半月が昇りはじめた頃。
「また、変なこと、言ったんじゃないの?」
「『君なしじゃ生きていけない!』」
「『じゃあ、死ね』みたいな」
「似たようなことは、言ったかも」
「似たようなことも、言われたかも?」
「じゃあ、飛び降りろ。俺たちは見守っていてやる」
「この前買ったパソコンは俺にくれ」
「じゃ、MOもらう」
「いい仲間をもって、俺ぁ、しあわせだなぁ」
「もうオゴんねー。先々週で、金がない」
「フラれるときは、さくっとフラれてくれ。頼むから」
「今月はもー、電話代もあるからダメ。オゴらない」
「あぁ、みんなで買い換えた奴?」
「『ケータイの時代は終わった』」
「ノリで電話変えるから。おかげて知り合いに番号変更教えるのが面倒で…」
「いや、でもよかったじゃん。電話変えて。もーどうせ電話、かかってこねーだろ」
「まぁ…そうかもしれないけど」
 ぷらぷらと取りだした電話を、皆が皆の手の中で揺らしていた。五人、同じ電話。色違いなだけ。持ってる奴と持ってない奴と、メーカーの違う奴がいて、せっかくだから、俺たちは一斉に同じ電話に切り替えたんだった。ノリで。電気屋に行って、五人、五人の女性店員に別々に声をかけて、同じに同じ電話を指さして、「これ」なんて言って。
 ふらふらと電話を揺らしながら、奴が言った。
「なーんか、もぅかかってこないってわかってても、なーんか、いやな感じなんだよね。新しく電話買ったから、そっちに完全に切り替えちゃえばいいんだけど、この番号も捨てられないってゆーか…」
「ああ…わかんない事もない」
 ぷらぷらと揺れる電話を見つめながら、誰かが返す。
 それから少し俺たちは無言になってしまって、同じタイミングに、俺たちは煙草に火をつけた。
 月が、昇りはじめていた。奴が描いていた絵が立てかけられたキャンバスの向こう、半分だけの、月が昇りはじめていた。
 ふと、それを見つめながら奴が言った。
「これって、繋がりなのかな?」
 手の中で、煙草と電話をぷらぷらと揺らしながら。
「何が?」
「これ。電話。こんなちっこい、デジタルの有形物」
「芸術家がわけわかんねー事、言い始めたぞ」
 笑いながらそいつは言ったけれど、俺は、なんとなく、奴の言うことがわかった。これって、繋がりなんだろうか。俺たち、こうして屋上に集まるようになった俺たち。それでもこれって、繋がりなんだろうか。
 携帯の時計が、一分、そのカウンタを進めていた。
 「フラれた」なんて笑って言っていた奴が、じっとそれを見つめて、黙りこくっていた。
「だったら、こんなモン、いらねー」
 そうして奴は煙草を口にくわえたまま立ち上がった。立ち上がって、自分のキャンバスの近くにまで走っていって、思い切りに踏み込んだ。
 振り下ろした右手を、月に向かってぶつけるようにして。
「あ…」
 くわえた煙草の火が、夜空の中で揺れていた。
 飛んでいく銀色のプラスチックの塊がやがて、俺たちの視界から消えて見えなくなった。
 誰かが、自分の手の中にあった電話で、電話をかけた。
 奴はキャンバスの前に軽く笑いながら座ると、絵筆を手にとっていた。「おかけになった電話は、現在、電波の届かないところにいるか、または電源がきられて──」
 何となく、俺たちは真っ直ぐに奴の方を向いたまま、煙草を吸っていた。
 並んで座った、誰の顔の記憶も、ない──ただ、奴はちょっと笑いながら、キャンバスに絵を描いていたんだった。
 並んで座る五人の男たち。手か、口か。夜空のその絵の中に、赤い光。
「──悪くねぇじゃん」
 ぽつりと呟いた奴の言葉に、沈黙。
 ただ、俺たちは時が過ぎるのを、待った。
 
 
「仲間って、こういう感じなのかな」
 街灯りが眼下に見える坂の途中。誰かがぽつりと言う。
「知らん」
 即、誰かが返す。
「俺たち、お互いの事を親友とか仲間とか、そういや言わないな」
「実際、そう誰も思ってないからじゃねぇ?」
「じゃあ、きっとそうだ」
「そうなんですか?」
 彼女が言う。
「私は、センパイたち、仲間だと思いますよ。すごく、仲のいい。本当のことを言えば、ちょっと、私なんか入る隙間、ないのかな?なんて思っちゃうくらい」
「俺たちは、きっと、親友じゃ、ない」
「仲間でも、ない」
 煙草の煙と赤い火種。
「俺たちは、たまたま、たまり場の面子。それ以上でも、それ以下でも、ない」
「もしもあの場所とあの絵がなければ、出会ってなかったしな」
「人生に置いて、最も黒い汚点で、最も大きな誤算」
「あの日あの時あの場所で、二人で会わなければ?」
「僕らは、いつまでも、普通の人のまま?」
「古っ」
「私、あの屋上、あの頃からずっと、そして今でも、すごく好きです」
 彼女がゆっくりと言う。
「センパイたちのあの頃が、今でも、好きですよ」
 
 
 ゆっくりと鉄の扉を開ける手。
 夕焼けの赤い光が薄暗い踊り場に差し込んでくる。彼女はそっと、そのコンクリートの屋上の上に出た。
 話に聞いていた屋上。初めて来た。キャンパスに立つ建物たちの屋上にあがれるなんて知らなかったし、そして実際、屋上からの景色がこんなに綺麗だとも、知らなかった。
 白、赤、オレンジ、そして紫、青、黒へと変わっていく空のグラデーション。一番星が、輝きはじめた頃。
 屋上。だけれどまだ、誰の姿もない。
「早く来すぎたのかな」
 呟いて、少し歩く。と、エアコンの室外機の影に木のイーゼルがあった。そしてその上に、一枚の絵が置かれていた。彼女は笑う。見たことのあるタッチ。バイト先の店に飾ってあるのに、角席で笑う五人と店長と、そしてオーダーを取りに行く自分と同じ髪型の女の子が描かれた絵のタッチに、よく似た絵。
 それと同じ五人の描かれた絵。
「アイツ、ここではその絵ばっかり、描いてるんだ」
 ふいにかけられた声に、彼女は振り向いた。
「まさか、本当に顔出しに来るとは思わなかったなぁ」
 同じ大学の先輩で、バイト先のファミリーレストランの常連のひとり。
「あ、こんにち…こんばんわですかね?」
「おはようございます」
「業界ですか」
「どうだろう?」
 彼は笑う。
「絵が出てるってことは、もちっとすると、奴らも来るよ」
「そうなんですか?」
「集合マークみたいなモンだ」
「仲、よろしいんですね」
「よろしくないよ」
「そうなんですか?」
「たとえば、今、俺が君と話してるじゃん。で、アイツらのうちの誰かが、ここに来るとする。第一声はそうだな。『あっ、テメェ!何抜け駆けしてんだ!!』」
「まさか」
 と、彼女が笑う。その時、屋上のドアが開いて、声が聞こえた。「あ、テメェ!何してやがる!!」「抜け駆けすんなっ!!」
「な」
 彼女はどうしようもなくて、吹き出した。
 そして結局、それから先、彼女は集まった五人の話の中で、ずっとずっと、笑っていた。
 
 
「センパイたちが卒業してしばらく経ってから、屋上、入れなくなっちゃったの、知ってます?」
「ああ、聞いたよ」
 冬の残り香のする夜風が包む坂の途中。煙草の火を見つめながら呟く。
「大学も、もったいないことするもんだ」
「なぁ」
「私、センパイたちが卒業しても、たまーに、屋上に行ったりしていたんですよ」
「なに?俺たちを思い出しに?」
「光栄だねぇ。でも、どうせならもっと美人にそうしてもらいたかったところだ」
「まー、俺たちの事だから、きっとこの星のどこかで、数百はそんな女人が──」
「三編くらい死んどけ」
「三、かよ!?」
「センパイたちの居なくなった屋上って、すごく広くて、閑散としていて──」
 彼女が、白い息に、言う。
「センパイたちにとって、屋上って、なんだったんですか?」
「なんだろね?」
「たまり場でしょ。良くも、悪くも」
「そうね」
「ってか、悪いことの方しか記憶がない」
「そうよ」
 聞く彼女に向かって、誰かが言った。
「あの絵、ちょっと、絵とかっていうと、綺麗な気がするけど、嘘だぜ。全然、綺麗なんかじゃ、ない」
「そうなんですか?」
「そうよ〜、な」
「だよ。あの裏には、悪事の数々が…」
「ってことはアレじゃん!」
 はっとして、手にしていた煙草を取り落としながらそいつは言った。
「あの絵、売られたら、俺らの犯罪の数々が明るみに!?」
「それは──大いに困る!!」
「行くべ!!」
 吸い殻を携帯灰皿に押しつけて言う声。「おう!!」皆が返す。
「理由が、なんか──」
 彼女は仕方なさそうに、笑っていた。でもきっと──という雰囲気。本当のところはわからない。
「でも、行くって、どこに?」
 言う彼女。少しだけ、眉を寄せる。
「決まってる」
 返すそいつの後ろ、携帯でアイツのアパートへと電話をかけている奴の姿。「留守電じゃねぇ?」「かもなぁ」「あ、やっぱし留守電だ。もしもーし、俺ー。今歩いてる。どーしたぁ?あんな──」
「決まってる」
 それを耳にしながらに、続ける。
「もしもの話」
「ま、ね」
「もしも、あのキャンパスの中の俺たちが俺たちを呼んだんだとして、『いつものコースで』って言ったら、決まってる」
「だな」
 電話を切って返す。その時計表示はもう、次の日付に変わっていた。だけれど皆、軽く笑っていた。
 そして──
「あっ!!」
 後輩の彼女は短く声を上げた。
 笑って、一斉に駆け出した男どもの意地悪に、
「待ってくださいよぅ!」
 慌てて走り出して。
 
 
「なぁ」
 誰かが走りながらに、言う。
「俺たちは、変わったかな?」
「どうかなぁ?」
 誰かが笑って返す。
「あの時の俺たちと比べて、どうかな?」
「どうだろうな」
「でも、今なら、言えるな」
 走りながら、笑って、言う。
「馬鹿さ加減は、相も変わらず、変わってねーよ」
「だな!」
 
 
 いつものコース。
 閉門は二二時。
 当然、門はすでに閉じられている。けれど、いつものコース。
 閉じられた門なんて、些細な問題でしかなかった。何しろ四年も通い続けたキャンパスだ。裏道も熟知しているし、そんなことよりも何よりも、連中はその行為の常連でもあった。「見つかったら、やべぇかな?」「どうせ見てないよ、警備員」「いつも通り」
 そしてあの屋上のある、キャンパスで一番高い建物を目指す。建物の正面玄関のドアは当然、閉まっている。けれど裏口は開いているはずだった。ちょっとドアノブをまわすコツさえ知っていれば、鍵がかかっていても、開く仕掛けになっていたはずだった。
 だから、慣れた手つきで、彼らはそのドアを開けた。
「な」
 笑いあって、電気もつけずに階段をあがる。くだらない話をしながら、薄暗い踊り場に笑い声を響かせながら。
 そして鉄の扉の前に立つ。
 重い鉄の扉。ノブの鍵を見ると、真っ直ぐに縦。
「な」
 そして皆は相も変わらずに、笑いあった。
 
 
 そして──そのドアを思い切りに勢いよく、彼らは押し開けた。
 
 
 月明かりが差し込んでいた。
 どこかの研究室にまだ誰か残っているのだろう。屋上の室外機が、小さく音を立てている。
 街灯りが遠く、眼下に見える。見上げれば、星明かりが見える。
 そしてコンクリートの屋上の上、
「ヤフ」
 奴が笑ってる。
「てめぇ」
 苦笑して、コートのポケットから煙草を取り出しながら言う。
「俺らは明日も会社があんだよ」
「そーそ。お前の道楽につき合ってられる程、ヒマじゃねぇんだ」
 笑いながらなので、その言葉に説得力なんか、ない。
「来てくれて、よかったよ」
 答えて返す。そして煙草を口にくわえる。その脇には、見慣れたあの木のイーゼルとそして、懐かしいキャンバスがあった。
「それ、絵」
「返してもらってきた」
「嘘をつけ」
「なんの話だろー?」
「お前、いい加減、殴るぞ」
「でも、あながち、嘘でもないんだけども」
「そこにあるじゃねぇか」
「あれは、先々週くらいの話だったかな?」
「『ゆう』の電話は、タイムマシンか!?」
「俺たちを巻き込んで、人の人生めちゃくちゃにしないでくれる?」
「でも、来ないかと思ったよ」
「来るよ」
「どーせまた、ノリでなんか面白いことでもしようってんだろ」
「俺たちも、どうせならまぜろよ」
「だろ」
 奴は笑った。
 
 
「それで結局──」
 夜空の下、火のついていない煙草を口にくわえたままで聞く。
「今回のこれは、どういう事?」
「話せば、長くなるぞ」
 キャンバスに腕をかけて、奴は言う。
「簡単に言えば、まぁ、お前ら、試してみた」
「面白くねー、ジョークだ」
「じゃあお前、俺たちがもしもお前を追っかけなかったら?いや、追いかけたとして、ここに来なかったら?」
「だとしたら、そうだなー、この絵を売る決心もついたかもなぁ。十五万っていったら、けっこうな額だしなぁ」
「それが!?」
「じゃあ、ロイヤリティ払え!一人三万!!」
「嫌じゃ」
 なんて言って笑って、奴は煙草を飲む。そしてふいとそっぽを向いて、「おーおー、月が綺麗だ」
「ったく」
 軽く舌を打って、その台詞に返す。
「じゃあ、やっぱしあのメールもお前か。手の込んだことしやがって」
「そうだぜ。あ、じゃあ、『ゆう』でのあれも演技か!?他人様に迷惑かけやがって!」
「あれは『ゆう』の店長も了承済みだし、それに、俺が考えたことでもないー。ついでに言えば、メールも俺じゃないー」
「お前の脳みそ以外のどこから、あんなモンが出て来るんだよ」
「メールだって、あの番号、お前以外に誰がやるんだよ」
「俺は、『やってっ』ってにこにこに言われたから、断れなかっただけー」
「──おい」
 奴の物言いに、誰かが突っ込む。「その『やってっ』ってセリフ…」
 ただキャンバスに手をかけて月を見上げて笑っている奴から、視線を外す。そしてゆっくりと、振り向く。
「なぁ──」「ああ、みなまで言うな。わかってる」「俺らの中でさ、ああいう風に言う奴、いねーよな」「っていうか、俺らの中で、誰が奴に言ったって、奴はやらねー」「だよなぁ」
 振り向いた先、その先で、少し苦笑するようにして笑っているその表情。
「えへへ…」
「…お前、やっぱり金、払わねー」
「うお!めちゃくちゃ損した気分!ここまでのエネルギー返せ!酒代返せ!」
「いや、だから酒代は払ってないって」
「そういやそうだ」
「でも、その台詞言ったの、私でもないです。メールも、私じゃないです」
「じゃあ、誰だよ」
「まぁまぁ」
 奴が割り込む。
「まぁ、そんなトコにいるのもアレだろ、こっち来いよ」
 言いながら、奴はいつもの座り位置に座った。貯水タンクの乗ったコンクリートの台座の上。三○センチばかり飛び出した、連中のいつもの椅子。
「説明しろよ」
「論より、証拠って話もあるな」
「なんだそれ──」
 そこまで言って、言葉をそいつは途切れさせた。くるりと皆を見回して、「どうした?」「何かありました?」「変な顔して」「いや──電話鳴ってる」
 スーツの内ポケットから携帯を取り出す。バイブコールになっていた電話が、手の中で振動していた。そしてその番号──「どうした?」なんて笑う奴の事を見て、そいつはそのコールにおそるおそるという風に、応えた。
「もしもし──?」
「こんばんわ」
 聞いたことのある声が、言う。
「ごめんなさい」
「──ちょっと待て!?」
 他の連中は何がなにやら、よくはわからなかった。けれど、誰の目にも彼女の姿が入った。そのいつもの座り位置の向こう、室外機の影から現れた、くりくりとした大きな目の彼女の姿が、誰の目にも入った。
「なんで!?」
 携帯を耳に押しあてたまま、そいつが言う。
「ちょっと、試しちゃいました」
 ぺこりと頭を下げて、彼女が言う。その耳に、彼女もまた携帯を押しつけたままで。
「…誰?」
 奴に向かって聞くようにして呟く。連中の皆の趣味的に言えば、ちょっと、かわいいじゃんという彼女。自分たちよりは、ひとつかふたつくらい年下の感じ。
「だーれだ」
 奴は煙草をくわえて笑う。
「誰?」
 今度は自分らの後ろに続いていた後輩の彼女に聞く。彼女は微笑みながら、返す。
「私のお友達です。で、今回の主犯。あとは、詳しくはセンパイに紹介してもらって下さい」
「主犯だと!?」
 大袈裟気味に言って、その彼女を皆は見た。だけれど、それ以上は言葉を続けない。「センパイがた?」彼女が突っ込む。
「可愛いから、どう突っ込んだらよいか、思案しているでしょう」
「黙れ、馬鹿」
 すかさずに言って返す。それに、携帯を耳に押しあてていたそいつが言った。
「おま──なんでこんなとこにいんの!?」
「誰なんだよ?」
 聞く声に、一人何もかも全部知っているという風の奴が言う。
「こいつの会社の後輩。俺も先週、知った」
「マジで!?」
「世界、せまー」
「そして、私のお友達ー」
「それは別に聞いてない」
「あっ!ヒドいっ!」
「で?」
「何が?」
「話が見えない…」
「まぁ、座れって。煙草の火もついてねーじゃんか」
 月明かりの中で、奴はちょっと楽しそうに笑っていた。
 
 
 一列に並んで座って、夜空の月とその下のキャンバスを見つめて、少し無言。
 一番端に座っていた彼女が小さく、呟いた。
「あのー…」
 それを遮るように、奴が言う。目の前のキャンバスを見つめたまま。
「俺たち、あの頃から、変わったと思う?」
「何を突然」
「二年だぜ。変わんなきゃ、おかしいべ」
「その割には、同じところで同じこと、してるけどな」
「同感」
「でも、あの絵は、あの頃から変わってないんだ」
「当たり前だ」
「卒業の日に、完成って」
「そうそう。みんなでサイン、入れたっけ」
「俺たち、あの頃から、変わったと思う?」
「──さぁ?」
 代表して答えた誰かの言葉に、皆、また、黙りこくった。
「──だな」
 そして、奴は立ち上がった。立ち上がって、言った。
「じゃ、初めっかな」
「は?」
「何を?」
「何をはじめるって?」
「また、くだらねー事だろう」
「来いよ」
 そして奴は彼女の手を取った。そして、キャンバスと自分の間に立たせて、言う。
「なんつーか、もともとはな。こいつがこの絵を見て、お前らにあってみたいって言いだしたのが、始まりなんだわ」
「ごめんなさい」
「で、まぁ、俺もお前らに長いこと会ってなかったし、『そうだなー』なんて言ってたら、こいつ──貸してみ」
 と、その彼女の手の中から携帯電話──PHSだ──を受け取って笑う。
「機種変更してきたんだわ」
「待て」
 奴を制して、そいつが聞く。
「お前、電話、あの時に壊したよな」
「ああ」
「で、同じ番号を使っているってことは──」
「ああ」
「──お前、もしかして、料金だけ払っていたわけ?」
 笑ってる。笑って、取りだした煙草を口にくわえて火をつけてる。
「お前は──阿呆だ!!」
「ってか、俺、面倒くせぇからって、銀行引き落としにしたままだったからな。毎月、約二千円」
「解約しろよ」
「でも、お陰で、お前らをだませて楽しかったけどな。そう考えれば、安いモンよ」
「阿呆」
「で?」
 聞き返すけれど、「これ、どうやって使うんだっけ?」「ここ、こう」なんてキャンバスを挟んでアイツは聞いているんだか、いないんだか。
「で?そんなことまでして俺らを呼び出したからには、それなりの理由があるんだろうな」
「まぁね」
 言って、奴は携帯を耳に当てる。さっき鳴っていた電話が、また再び鳴ったらしかった。コールに応えるように、「馬鹿か、おめぇ」なんて、そいつが電話にでる。
 俺たちの目の前、電話の向こう、アイツが言う。
「『いつものコースで、飲みに行こう。日付はそうだな。約束の日ってことで』」
「で?」
「俺たちの話を聞いて、こいつが、そうメールを打ったわけ」
「で?」
 電話の向こう、目の前のアイツに言いながら、ゆっくりと煙草を飲む。奴もそうしてる。そして、笑ってる。
「だから、ここだ」
 キャンバスに、そっと腕を置く。
「ああ──そーいや、いつものコースの終着点はここだな」
「それから、約束したの、覚えてるか?」
「なんの?」
「忘れてっか」
「男との約束なんか、覚えてねー」
「だろうな。だけど、お前らからも連絡なかったし、今日の話を聞いてる限りじゃ、忘れてもいなかったみたいだけどな」
「なんの話だよ」
「いつだっけか。ここで、フラれた男がいて──」「こいつ」「うるせぇよ」
「そん時、約束したべ。『もしも、俺たちの中の誰かに彼女でも出来たら、拉致』」
「した」
「忘れてた」
「したような気がする」
「っていうか、あの頃の俺たちなら、言いそうなことだ」
「だから、拉致ってみた」
「はぁ?」
「俺たち、変わったかな?あの頃から。この、キャンバスに描かれた、この頃から」
 奴が言う。
 少し、静かに。そっと。軽く耳に押しあてていた携帯を、そっと、下げて。
 そして通話を切って。
「真面目な話」
 キャンバスに腕を乗せて。
「俺は、この絵、売れなかったよ。他の絵はな、タダみたいな値段でも、売れたんだけど、この絵だけはな。なんかな。よくわかんねーけど」
「俺たちに、変に義理だてんな」
「うぜぇから、やめろ」
「ってか、気持ちわりー」
「俺ぁ、いい仲間をもって、幸せだなぁ」
 笑う。そして煙草の煙をゆっくり吐き出して、言う。
「俺な、この絵、やっぱしあの時にみんなで完成って、サインいれたんだけど──やっぱし、完成じゃないと思ったんだわ。だから、売れなかった」
「でも、俺たちのキャンパスは、終わったろ」
 
 
「そうか?そう思うか?だってよ──」
 屋上。
 最寄駅からでも、バスで三○分は離れた小高い丘の上にあるキャンパス。そしてそのキャンパスの中で一番高い校舎の屋上。
 眼下に街灯り。夜空には月明かりと星明かり。そして、赤い煙草の火と煙と笑い声。
 いつの間にかの、いつもの面子。
「だってよ」
 たまり場。
「俺たち、今でもこの場所にいて、相も変わらずなんだぜ」
 
 
「この絵、やっぱし、まだ完成してない。だから、売れない。だから、まだまだ、描き足す。この頃が懐かしい訳でも、戻りたい訳でも、そういう訳じゃないけど、何遍も重ね塗りされて、消えて、すごく前に描いたことなんか、忘れちゃってるけど、でも、まだ、完成じゃない」
「芸術家が、まーた、わけわかんねーこと言ってるぞ」
「だからよ、今日は、そういう意味も含めて」
 奴が言う。
「この絵に、描き足してもいいかな?」
「なにを?」
「新しい仲間たちを。新しい、あの頃を」
 
 
 そして奴はぽんと手を打った。俺たちに聞き返す隙すらも、与えずに。
 相も変わらずに。
「さ、じゃ、再会と再開とその他もろもろを含めて──司会、責任持ってお前ら、最後まで頼むぜ」
 奴に言われて、後輩の彼女と奴の隣にいた彼女が顔を見合わせる。そして結局、
「私ですかぁ?」
 ちょっといやそうに、後輩の彼女。「お前、責任取れよ。お前がそもそもだろうが」「わかりましたよぅ」
「えー…ではー」
 座っていた彼女が立ちあがる。そして奴と彼女とキャンバスとの間に立って、小さく咳払い。見つめる皆の視線にすこし気後れしつつも、それでも、言った。「では」
「ただいまより、センパイと、そして私のお友達でありながら私の忠告を聞きゃしなかった彼女との、新しい門出を──」
「ちょっと待て!!」
「はい?」「門出?」
「おふたり──」彼女が言う。
「ご婚約なさいました」
 誰かがせき込んだ。吸っていた煙草の煙が、変なところに入って。「げほっげほっ!!」「だ、大丈夫か!?」「死ぬな!!」「遺産は俺にと書いてから死ね!!」
「この度。ってか、正確には、今日ですけど」
「ちょっと待てーッ!!」
 咳込んでいた奴が言う。思い切りに。そして何かを続けようとしたが、言葉を失った。「ほれ。高かったんだぜ」なんて言って、奴がキャンバスに手をかけたままで隣の彼女の左手を取っていたからだ。
 笑いながら。
「面白いだろ」
 隣の彼女がちょっと困ったように、笑っていた。
「ってか──」
 だから、声をあわせて、返す。
「面白くねー!!」
 笑う奴に向かって、殴りかかるみたいに、蹴りかかるみたいに駆け出して。「もー、どうしょうもねぇくらいに馬鹿な事につき合わされてんな、俺たち!」「ナメンナ!」「うちの課のアイドルにーッ!!」「死ねーッ!!」
 逃げ出す奴に向かって、殴りかかるみたいに、蹴りかかるみたいに、笑いながら。
 
 
「お前らにただ紹介するのも面白くないだろ。それに、俺の嫁さんなら、たぶん、お前らもわかると思うけど、こういうの好きなんだわ」
 逃げる奴が言う。
「ゆるさねぇ!一人だけ抜け駆けだ!」
「っていうか、いつの間にお前、うちの会社の後輩に手を!?」
「そんなの、知ったのはついこないだー」
「ナンパか!?え!?またナンパかッ!?」
「そうに違いない!」
「それ以外考えられん!」
「なんでだッ!!」
 
 
 
 
 携帯の時計を見る。もう、深夜と言う時間をまわっている。月もだいぶん上にまで昇って来ている。月明かりの落とす影が、コンクリートの屋上の上に伸びている。
 懐かしい風。あの日と同じ、冬の風。春の香りを微かに乗せた、冬の風。
 投げ渡された缶ビールを受け取って、プルトップをあげながら、
「もぅ、ここまで来たら、つき合っちゃる」
 言う。
「で?なれそめってのはよ?」
「別に」
 奴もビールを開けながらに返す。そっけなく。だから、
「もともとは、絵をはじめたいからって言う話で、センパイ紹介したんです」
 同じくビールを開けながら、後輩の彼女がその彼女の事を見ながら言った。
「ね?」
「ええ。それで、いろいろ絵とか教えて貰ってるうちに──」
「変なことまで教えられた──と」
「おい、お前ら人の近い将来の嫁さんに向かってひでぇこと言うなよ」
「はい。まあ、そんなトコです」
「ってか、お前も答えんな!」
「ってか、答えられるくらいの奴じゃないと、お前の嫁さんなんか勤まらねえ」
「同感」
「そして、この場所になんか、居られない」
「ねー、言ったでしょ。絶対、ヤメときゃよかったって思うって」
「ひでぇ」
「コレが旦那だもんなぁ…」
「コレ!?」
「おーっと…みんな、ビール、行き渡った?」
「あるぞー」
「はいはい」
「コレ…」
「うるせぇよ」
「いいから、じゃ、お前、なんか一言」
「コレ…」「それで終わり?みじけー」
「じゃー、長く」
 そして奴はビールをちょいと掲げて、言った。
「本当のことを言えばな」
 奴は軽く笑う。
「俺もそういう意味じゃ、ちょっと不安。こいつの前でこんな事いうのもなんだけど、お前らが感じてるみたいな感じで、社会とか、会社とか?それと同じで、結婚とかそういうのって、しがらみだと思う。それによって、俺たち、もしかすると、この絵に書き込まれたいろんな事、全部忘れちゃうかもって思う。だからかな。だからだろうな。それをなくしたくないし、いつまでも、このままでいたいと思う。だから、試してみたかったし、そして今、ここに居られる俺たちを、誇りに思う」
「芸術家が、またわけわかんねー事言ってる」
「長い。長すぎ!講釈は後にしてくれ。ビールが温くなる」
「おーい、長くていいっつたろう。人の話くらい聞けよ。ちょっとはさー、マリッジブルーってやつ?独白くらいさせろよ」
「あー、右手のビールがおもーい。早くかるくしたーい」
「…てめぇ」
「いいじゃねぇか。一言で終わらせろよ、そんなこと」
 静かに、その絵を見る。
「そうそ。わかってるっての。俺らも」
 誰もが、その絵を見る。
「たまに、忘れたりするけどな」
 そして言う。
「でも、ベランダとか、屋上とか出て、煙草吸いながら月をみてりゃ、思い出すさ」
 笑うふうに。
「キャンパス?」
「キャンバス」
「たくさんの絵に、塗り尽くされたそれ?」
「たまに忘れたりするけど、俺たちの合い言葉かね?」
「そうだべ。次からもそうしようぜ」
「何が?」
「いや、誰か結婚するときはさ、必ず、この絵と一緒に、どっきり企画用意すること。あと4回出来る」
「いやー、3回かもしれねぇ」
「いやー、2回じゃねぇか」
「っていうか、もうねぇんじゃねぇか」
「うー!右手がおもーい!!」
「うるせぇよ」
「俺はお前らみたいな仲間を持ってしあわせだわ。嫁さんに、結婚前にお前らにあわせておいて、正解だったわ。な」
「んー…ちょっと?」
「ね、やめた方がいいって、言ったでしょ?」
「ま、辛くなったら僕のところに来てください」
「あ、いや。会社のセンパイである僕のところに」
「いやいや、全然関係ない人に相談した方が気が楽になりますよ。僕のところへ」
「っていうか、今なら遅くありません。破棄した方が、あなたの人生のためです」
「え?えーと…」
「悩んでるよ、この子!?」
「俺ぁ、本当にいい仲間を持ったぜ」
 軽い笑い声が、キャンバスの周りを包んでいた。
 新しく、ふたり、描き込まれたキャンバス。煙草をもって座る連中の隣、笑ってる彼女達の姿。そしてそこに、真新しい白いサイン。
 見つめて、笑う。
「次は、誰がサインをいれんだかなぁー」
「いるのかなぁ」
「さぁー?」
 そして、笑いあう。
「それじゃあ、例の合い言葉を!」
 ビールを軽くかかげて、降り注ぐ月明かりに向かって、笑って。
「二人の、幸ある人生を願って?」
「いや、波瀾万丈な人生を願って」
「我々の恨み、妬み、嫉みの元に」
「人生捨てた、彼女の勇気に!」
「お前ら、サイテー」
「ともかくも──」
 そして笑いあう。そして、同時に言う。手にしたビールを掲げて。
 
 
 
 
「忘れたくはないな」
「同感」
「大切なもの?」
「どーかな。地獄までは持ってく物かもしんないけど、天国まではね」
「大丈夫、いけないから」
「サイテー」
「忘れそうになったら、またこよっと」
「お前は離婚しそうになったら来いよ」
「したら確実に離婚するだろうから」
「私、やっぱりあの時間違っていたのねっみたいな」
「サーイテー」
「変わりたくねーな」
「同感」
「難しいよなぁ」
「大切なもの、なくしたくはないよなぁ」
「変わるさ」
「お、はっきり言うね」
「変わるでしょ。変わりたくないって思うことが、もう、変わってる。だから、変わるさ」
「まーた、芸術家がわけわかんねーこと、言ってる」
「あのキャンバス、初め、何が描かれてたか、誰も知らないでしょ?」
「あ、それ、聞こうと思ってたんだよ。何が描いてあったんだよ?」
「教えなーい」
「てめぇ」
「でも、初めはキャンバス、真っ白だった事は確かだぜ。何にもなかった。白。真っ白」
「当たり前だ」
「そこに描き込んで言ったわけだ。記憶を。お、俺、今いいこと言った」
「何処が!」
「あと、未来ね」
「死ね!」
「サーイテー」
 
 
「ともかくも──」
 そして笑いあう。そして、同時に言う。手にしたビールを掲げて。
「いつまでも面白さと格好良さを、全てにおいて最優先に!」
 
 
 
 
「いつかみんな死んだら、この絵も完成かな。そしたら、この絵、うちの娘に渡すから」
「娘なんだ」
「もう決めてるし」
「いやー、もういるし」
「マジで!?」
「うっそーん」
「死ね」
「そしたら、お前らの事、全部チクっちゃる。全部な!」
「それはやめて」
「孫の代まで伝えてやる。おじいちゃんには、こんな仲間がいたんだぜ。お前に、いるか?なーんてな」
「格好いいなぁ…」
「でもそんな未来の話するってーのも、なんだかなぁ」
「ふふん。明るい未来がある俺だから言える台詞だな」
「はぁ!?」
「誰かこいつを殴ってくれ!」
「人の後輩に手ェ、出すんじゃねーよ」
「っていうか抜け駆けすんな!」
 
 
「死ねっ!」
「サーイテー」