studio Odyssey


キャンパス - 第四章

writtenby : A

 味が変わりはじめていた。フィルターの近くまで火種が迫ってきて、指先にかすかな熱を感じはじめたころ。それが、何度目かのころ。夜の帳が、すっぽりと公園を包み込んでしまったころ。
 工事現場を囲う白い鉄板の間から人影があらわれた。
 がつんと、それを壊すのではないかという勢いで、「うがー!邪魔くせー!!」などという声とともに。
「野人があらわれた」
 誰かが言う。
「文明人とは言い難いな」
 灰皿に煙草を押しつけ、
「お前、何分遅刻だ?」
「ごちそうさまでーす」
「俺かっ!?」
「二年ぶりに出会った人間同士の会話じゃねーな」
「ヤフ」
「こんばんわ」
「ジャンボ」
「ナマステ」
「こんなもんでどうだ?」
「なにがだ!?」
「アットーテキに、おせえ」
 奴は笑っていた。いつもと同じに。あの頃と同じに。何を考えているのか、結局は誰にもわからない感じで、何が言いたいのか、何がやりたいのか、結局は誰にもわからない感じで、奴に言わせれば、『面白さと格好よさはすべてにおいて最優先』という一言でかたづけられてしまうような、あの頃の感じで。
「主役は、一番最後に登場するものなのですよ」
 奴が言う。
「っていうか、お前が時間どおりに待ち合わせにあらわれた記憶が、俺たちにはない」
「遅刻キャラ」
「俺時間」
「前後に二時間の幅をとっているんだろう?」
「光画部時間」
「しるか」
「じゃ、行きますか」
「一服させてくれ」
「ナメンナ」
「激マジ」
「火をつけるな〜!」
 五つ目のライターが、俺たちの目の前で火をともす。
 ブランコをゆっくりと漕いでいた彼女が、俺たちのことを見て微笑んでいた。軽く。それでいて先ほどまでよりも少し強く、それを漕ぎながら。
「何笑ってんの」
 俺が言うと、彼女はころころと、今度は仕方なく笑いながら、言った。
「先輩たちは、やっぱり五人そろってなんですよ」
「ナンパーズ?」
「隊長も来たしな」
「なんでだ!?」
「ちゃんと聞こえていらっしゃる…」
 そして俺たちはバカみたいに、いつもみたいに笑いながら、歩きだした。
「どこにいくか?」「スーパールーズ」「死ね」「香代ちゃんのとこ」「そこはつぶれました」「『ゆう』?」「あそこは高いー」「でもうまい」「そして店員がいい」「なんですか、それ?」「俺たちのトークについてこれる」「それって、ナンパーズトーク?」「とも言う」「軽くあしらってくれると言うことですね」
「そうとも、言う」
 
 
 そして俺たちはテーブルについた。
 飲み屋──と言うよりは、ちょっと感じのいい雰囲気の料理居酒屋、『ゆう』。
「いらっしゃいませ」
 店員がおしぼりを渡しながら言った。その子は、俺たちも初めて見る子だった。不思議に思って奥を覗けば、いつもの店員たちが隠れて笑っている。「お飲み物のご注文がお決まりでしたら、どうぞ」
 なるほどね。
 奴らは一斉に、言う。
「いつもの」「といいながらも、いつも違うものを頼むくせに」「とりあえずビールのひとー?」「何はさておき、ビールでしょ」「霧の松島。五合」「マジで!?」「ジャックダニエルのソーダ割り。シングル」「そのシングルはこうだろ?」「って、人差し指を縦にするな〜!」「ダブルより多いシングル」「例のカクテル」「なんとかフット!」「放送禁止用語だー」「スパークリングワイン?」「どんぺりにょん」「ごちそうさまでーす」「死ね」「スピリッツ、ライムオンリー!」「火、つきますがな」
「あの…それでご注文は…」
 きっと試練だ。
「うぃす」
 誰かが仕切りなおすようにして言って、ドリンクメニューに皆の視線を集中させた。が、
「お姉さんのオススメはなんですか?こう、僕らを見て、これなんかっていう奴」
「え?」
「さすがはナンパーズ」
「店員に聞くのが、店の味をしる心得ぞ」
「どの口がそう言う」
「このキュートな」
「誰かこいつを太刀魚で刺してやれ」
「なぜ太刀魚!?」
「ここに太刀魚のからあげってメニューがあるからに決まってるだろう」
「だと思った」
「いい加減、決めてやれよ」
 苦笑に俺が言うと、奥にいた店員が姿を現わした。知っている顔だ。奴らも気付いて、軽くあいさつをする。そして「ご注文は?」と再び聞かれると共に、その攻撃の矛先を変えた。
「俺たち、ビールでいいよな?あっと、どうする?ビール好きじゃないだろ」
 やさしい風にして、唯一席についている彼女に向かって言う。
「カクテルとかの方がいいんじゃん?」
 そういえば、彼女はたぶんここに来たのは初めてだ。いつもいつも、雰囲気のいい店だって言うのに、男ばっかりで来ていたっけ。よくもまぁ、飽きもせずに。
「これなんか、オススメ」
 と、メニューを指差す。
「日替わりカクテル…」
 彼女がつぶやく風にして言った。いや、言わされた。
「ひみつ?」
「ちっがー!!」
 感発入れずに奴らは続く。
「よく見たまえ」
「『ひ』と、『み』と、『つ』の間には、点が入るんだよ!」
「は…はい?」
「はいお姉さん、正しい発音っ!」
「ひ・み・つ、ですね?」
 そして湧くナンパーズ。相変わらず、だ。「お姉さん、わかっていらっしゃる!」「メロメロですぅ〜」「この、点がポイントなんだよ、点が!!」「拳握りますか!?」
「さぁ、では次はあなたの番です」
「え?」
 何が何やら、テンションについてこられなかった、新しくバイトに入ったらしい店員の彼女が目を丸くしていた。「右手の人差し指なんかをたてて、軽くふりふりしながら言うと、効果的ですよ」「何に?」「いや…さぁ?」「妄想刺激ホルモンにだろ」「あながち外れではない」「ってね、トークしてるのは、気持ちの整理を付かせるための、間です」「さぁ、どうぞ!!」
「え?いえ…えーと…」
 それでまた俺たちは大仰にため息を吐いて笑う。「以上でよろしいですね」言う手慣れた店員に、「とりあえず、そんなところで」「とりあえずとは何だ」「じゃあ、それで」
 決まり切った話筋に言う。オーダーをもって下がっていく二人の店員の背中を見送りながら、「また呼ぶからねー」なんて誰かが言っている。「きっといい迷惑だ」「っていうか、単純に迷惑だと思う」「っていうか、セクハラだな」
「違うな」
 きっぱりはっきりと言って、そいつはテーブルの上に置かれているインテリアの蝋燭で煙草の火をつけながらに、言った。「やめなさいって」「これがうまいんだよ」「で?」
「そう!」
 と、得意の口調で皆に向かって言う。
「大体、アレですよ!セクハラなんていうものは、相手がこっちにちょっとでも好意をもっていれば、セクハラにはならないのですよ」
「聞き慣れたセリフだ…」
「ってか、持ってないんでは?」
「いや、彼女、きっと惚れたね。この俺に」
「お前には、ないな」
「俺だろう」
「俺だろ」
「死ねよ」
「俺は、別にいいや。数多の女性に惚れられるより、一人の女性に愛し続けられるほうを望むね」
「幻聴が聞こえた気がする…」
「そう言うこと言ってると、彼女できねーぞ」
「逆じゃ!?」
「──彼女、出来たんですか?」
 唯一の女の子であるところの彼女が、メニューを手にしたままで聞く。屈託なく。
 そして俺たちのトークは停止。
 取りだした煙草に、皆が皆、火をつけ──
「禁句…でした…?」
 俺たちは煙をふーと吐き出す。
 一人先に煙草をくわえていた奴は、勝ち誇ったように笑っていた。
 
 
「最近どうよ?」
 太刀魚のからあげをつつきながら誰かが誰かに向かって言う。
「ぼつぼつ」
「彼女出来た?」
「お前、本当に太刀魚で刺してやろうか?」
「今、仕事何してんの?」
「今はひたすら新規開発に向けてのプログラム。そっちは?」
「似たようなものね。お前は最近どうなの?」
「最近、描いてない」
「芸術家、再び筆を折る?」
「真面目に、職探ししようかなー」
「仕事やめて、また再就職ですか。この氷河期のご時世に」
「SEはやめておけと助言しよう」
「彼女出来なくなるぞ。男ばっかだ」
「俺なら死ぬ」
 何杯目かのソーダ割りに口をつけながら、
「最も、近頃じゃ、とうに死んだという気もしなくもないけど」
「死んでるの?」
「もう、真夏の一週間後のアジのように」
「目がヤバイって感じ?」
「忙しいからな。人生から余裕がなくなると、人間は死ぬよ」
「いいこというなぁ」
「お仕事、忙しいんですか?」
 彼女がゆっくりとした口調で聞いた。
「私は、あんまりわかんないんですけど」
「忙しい──んじゃ、ねぇか?」
 と、言い出しっぺが皆のことをくるりと見回して皆の言葉を促した。「まぁ…忙しいんじゃねぇか?」「こうして集まるのも、二年ぶりだしな」「社会人になるとな、会社とか、売り上げとか納期とか、そういう責任とかが出来ちゃうのよ。学生の時みたいに、だらだらとしていられないんだわな。な?」「確かに。うちも納期が厳しい」「俺は単純作業ばっかだ」「給料も安くて、趣味もできんしな」
 そしてアイツが、軽く言う。
「忙しいふり、してるだけだったりして」
 太刀魚と格闘しながら、アイツが軽く言う。「うぬれ!太刀魚は骨離れがよい魚であるはずなのに!」なんていう言葉の間に。
「何言ってんだよ」
 呟くようにして返して、俺たちはそれぞれの手にした煙草やグラスを口許に運んで、その奴の脳天を見ていた。奴は、たぶん別に何か考えて言ったわけじゃないはずだ。ただ、思ったことを言っただけのはずだ。いつも通りに、なんも、考えずに。
「食う?」
 残りカスをつきだしてアイツが言う。
「骨ばっかじゃねぇか」
「ホッケは骨のまわりがうまいんだ!」
「これは太刀魚だっ!!」
「おおっ、そいつは盲点!」
 きっとそうだ。
「なぁ」
 だから、俺はゆっくりと聞いた。
「お前、なんで今さら、俺らのこと呼び出したんだ?」
「何が?」
「何がじゃねぇよ、俺なんか、今日会社早退したんだぜ」
「お前の電話番号から電話があったから、俺たちはここに来たんだよ」
「ちなみに俺、半休」
「俺はたまたま、今日の出先がこっちだったからよかったけど、突然に呼び出されたからって、集まれるもんじゃないんだぜ。俺たち、社会人なんだからよ」
「はあ?」
 奴は箸をくわえて、俺たちのことを眺めていた。
「俺だって、暇じゃねぇぞ。呼ばれたから、来たんだ」
「呼ばれた?」
「誰に?」
「ちょっと待て!」
 はしと手を立て、奴が言う。
「整理しよう。これは一体、どういう趣旨の集まりで?」
「…先日」
「重々しく言っても、内容はかわらん」
「お前のあのピッチの電話番号で、俺のところに電話が来た。お前、ピッチ買ったなら、言え」
「買ってない。俺は携帯は金輪際、持たないとあの時に決めた。お前らとの、約束でもある」
「それはご丁寧にどうも」
「お前だけ連絡がとれんのは、いい加減なんとかしてくれ」
「その方がおもしろいじゃーん」
「そうか…?」
「いや、それはともかくだな。メールで、『いつものコースで、飲みに行こう。日付はそうだな。約束の日ってことで』って、お前じゃないの?」
「きっと、2時間かかるな、打つとすると」
「バカ。俺らは、そのメールを受けたこいつから聞かされて、ここに来たの。彼女も、途中で引っかけてきたの」
「引っかけてきたの!?」
「サーイテー」
「昔から、かわらないねー」
「太刀魚で刺すぞ?」
「もうねぇよ」
「じゃあ、犯人は誰だ?」
「お前の狂言か!」
「首を締めるなー!俺はわざわざ課長の隙をついて、定時で即逃げってきたんだー!!」
「そうか…そんな面倒くさいことはしないな、社会人なら」
「だろう」
「とすれば──誰だ!?」
 そして俺たちはテーブルを挟んで皆でにらみ合った。視線の動きのひとつも見逃さない風に。「この中に…裏切り者がいる…」「ガーリックピザ」「ノットワンハンドレッド」「キムチ」「ノットワンハンドレッド、酢版」「トマト」「ナス」「誰が…食うんだ?」
 にらみ合い、そして空気がぴんと張りつめ──誰かの着メロが鳴った。
「あ…ごめんなさい」
 彼女が両手をあわせて言う。「せっかくの勝負に水を…」
 俺たちは一斉にわざとらしくため息を付いて、テーブルの上にあった煙草に手を伸ばした。彼女が携帯電話を持って離れていく。火をつける俺たち。
 軽く、吐き出す。
「まぁ、いいんだけどね」
「こうしてあったのも、久々だしよ」
「なかなか、会えないしな」
 そう言って、俺はスーツの内ポケットから携帯を取りだした。時刻表示を見る。二三時三○分ちょっと前。いつの間にか、バカ話に時間が過ぎていた。
「話まくったな、久々に」
 携帯の時刻表示を見ながら言う俺に、他の奴らも携帯を取りだしてその時計を見た。「ああ、もうこんな時間か」「話まくったなー」「でもよ──」
「ファミレスが閉店になるまで話し続けてたんだぜ?俺たち」
 煙草の煙に紛れて、俺たちは笑った。「そういや、そうだ」
「でも、そろそろ行き先別最終だわ」
「もうか?」
「時がたつのは、はえーよ」
「光陰矢のごとし」
「そろそろ、出ねぇと。明日も仕事だ」
「俺もだ」
「学生の頃みたく、朝までは遊べねーよ」
「社会人らしくしねーと」
「同感」
「なんだかんだと、明日があるからな」
「それじゃあ──」
 一人、携帯を持たない奴が、煙草の煙と一緒に軽く、本当に軽く、言う。笑いながら。
「まるで学生の時は明日がなかったみてーだな」
「お前は──また、そう言うことを言う」
「そう思っただけだよ」
「芸術家が、またわけわかんねー事言ってるぞ」
「そう思った、だけさ」
 軽くはずむ風にして言いながら奴は煙草を灰皿にもみ消す。だいぶんフィルターが溜まって、山となった灰皿に。「そう思った、だけ」
「もしかしてよ」
「なに?」
「俺たちを呼んだのは、あの頃の俺たちだったりしたのかな。なんてな」
 まさか。
 という軽口を、誰もたたけなくて、奴が言う。
「あのキャンバスの中の俺らだったり、してな」
 
 
 キャンバスの中の俺たち。
 五つの、夜空に赤い光。バカな奴らのいつもの横並び。
 あのキャンパスの、あのキャンバス。約束の日と、そしてあのたまり場。俺たちが、こうして集まってバカばっか言いあえるようになった、始まりの絵。
 奴の絵。別段、綺麗な絵でも、芸術的な絵でもなくて、ただの絵。アクリルだったか、油だったか、忘れた。
 白い五つのサインの入った、絵。
 あの日、完成した、あの絵。
「まさか」
 俺は軽く言った。
「そんなこと、あるわけねーだろ」
「ねぇよ」
「芸術家が、またわけのわかんねー事いいだしてるぞ」
「いっぺん、病院行って来い」
「なんでだ!?」
 奴も笑っていた。いつもと同じに。
 
 
「もしもし?」
「もしもし?ごめん、電話するの遅くなったよ、なかなか課長をまくのが大変で…」
「先輩たち、そろそろもう帰っちゃう雰囲気だよ?」
「本当に!?」
 電話の向こうの彼女は、くりくりとした大きな目をさらに大きくして言った。
「どうしよう…会えないかな?」
「うーん…」
 彼女は電話に向かって唸る。ちょっと、店の奥のバカ話をうかがいながら。
「あのね」
「なに?」
「私も、ちょっと、試したいんだ」
「試す?何を?」
「親友として、言うね。あの人たち、真面目な話、バカだよ。バカで、オチョーシモンの集まりで、群れたら、何するかなんか、わかったモンじゃない」
「ひどいね」
「会社の先輩でもあるわけでしょ?」
「ひとりね。他の先輩たちが、先輩の言ってた仲良かった友達で、あなたの先輩とは、知らなかったよ」
「それは偶然。そして、私の人生最大の誤算」
「何言ってんの」
「でも、じゃ、ひとりは先輩見たことあるんだよね?じゃ、知ってるでしょ?あの五倍よ、五倍。いや、五乗」
「そりゃ、ひどいよ」
「マジだって。本当に、そうなの。先にいっとく。後悔しても知らない」
「ホント、親友っていいモンね」
「でも、私も、試してみたいなって、思う」
 彼女は耳に少し強く携帯電話を押しあてて、その向こうに向かって言った。
「私も好きなんだ」
「何が?」
「あの絵。あなたも好きな、あの絵。そしてたぶん、先輩たちも好きな、あのキャンバス」
 静かに彼女は言う。
「だから、試してみたいんだ」
 
 
「帰るか…」
 電話を終えた彼女が戻って来るのを認めたアイツが言う。
「だな」
「電車がなくなるわ!」
「誰かー、まとめて払える人ー」
「ってか、今日って、順番的に言うと誰の番だ?」
「二年も前のローテーションなんか、覚えてるわけねーだろ!」
「じゃ、ゴチになりまっす」
「俺かぁ!?」
「遅刻キャラだろう」
「さようなら」
「逃げるなー!!」
 と、出ていこうとしたアイツの前に、俺たちもよく知る店員が立った。「あ、今、ちょうどお呼びしようと──」「ええ、この後は暇です」「ぜってー、違う」「ぜってー、話、かみ合ってない」「うるせぇ」
「お電話なんですげと…」
 そういう店員の手の中には、コードレスホンがあった。
「俺に?」
「はい」
「誰だ?」
 と、奴は受話器を受け取った。俺たちは荷物をまとめて、「この隙に行こう」「同感だ」「一日二日、皿を洗えば釈放されるさ」「行くべ、行くべ」
「ちょっと待って下さい!」
 アイツが言った。俺たちにではなくて、当然に、受話器の向こうに。
「あの絵は、あれで完成じゃないんです。誰がなんと言ったって、売れないんですよ」
「何が?」
「絵?」
「絵、売れるんだったら、儲けじゃん。初売れじゃねーの?」
「自称芸術家、ついにデビュー?」
「祝杯は来週にするか?」
「毎週なんか、飲んでられっか」
「それもそうだ」
 笑う俺たちの後ろ、奴が言う。
「──ちょ…待って下さいよ!!」
「誰?」
 レジの脇にいた顔見知りの店員に聞く。「誰からの電話?」
「以前、お店に男の人と飲みにいらした事があるんですけど」
 そっと、耳打ちするようにして彼女が俺たちに向かって言った。
「その時の人だと思います。うちに飾ってある、あの、頂いた絵をすごい気に入っていて、描いた人を探していらしたので、お教えしたんです」
「『ゆう』に飾った絵って、なんだっけ?」
「窓からの風景。駅前のスクランブル交差点をバカ五人組が歩いてる奴」
「別名、大富豪の夜」
「あ、思い出した」
「でも、マスターも気に入っていて、手放したくなくて…それで、何か別の絵ならって、お話していたみたいです」
「で、別の絵?売ればいいじゃん。儲けじゃん」
「今度はマジ、おごってもらわねーと」
「いくらで売れんだろう」
「ってか、売らないって言ってんだけど…」
「うっちまえー」
「何の絵の話だ?」
 俺は、ぽつりと言った。奴が言う完成していない絵と、そしてその絵──まさか。だって、あの絵は、完成したじゃないか。
「──そうですか」
 静かにアイツが言う。
「わかりました」
 そして小さく息を吐き出し──その手にしていたコードレスホンを、奴は、思い切りに壁に向かって投げつけた。派手なプラスチックの音が響きわたって、破片が飛び散る。近くにあったテーブルの上、片づけられる前のそのテーブルの上のショットグラスが、吹っ飛んで一緒に派手な音を立てて飛び散った。
 誰もが、息を飲んだ。
「お…おい」
 奴が大股に歩いていく。「何してんだよ」
「ちょっと、絵を返してもらいに行ってくる」
「絵って、なんだよ。おい!?」
「ちょっと待てよ!?」
 ──絵。
 絵だ。あの絵だ。
 完成してない?嘘つけよ。完成、しただろう。あの日、あの約束の日に。
 俺たちでサインを入れたじゃないか。
 俺たちが、こうして集まってバカが言える始まりの絵。あの絵があるから、今の俺たちがいるという、絵。でも、あの日にサインを入れたじゃないか。あれで、俺たちの絵は、あのキャンバスは、完成したじゃないか。
「お…おい」
 レジの前、あっけに取られて、俺たちは立ちつくす。
 ドアを開けて一人歩いていくアイツの背中を、俺たちは立ちつくして見ている。見送る。
 だけ。
 帰ろう──明日も仕事だ。
 終電がいっちまう。行き先別最終はもうない。いけるところまでいって、タクシーで帰るしかない。帰ろう。そして明日もまた──仕事だ。俺たちは、学生なんかじゃない。社会人だ。それぞれの生活があって、それぞれの、いろんな事があって──
「何、一人で熱くなってんだよ」
「バカじゃねぇか?」
「すみません、グラスの代金は、出しますよ」
「イテー出費、させんじゃねーよ。ったく──」
 俺たちはもう、大人だ。ガキじゃない。合い言葉みたいに言っていたあんな言葉、もう言ってなんていられない。それだけの時間が過ぎて、俺たちは──
「いいんですか…?」
 それぞれに呟く俺たちの言葉を、その声がとめた。
「あの絵、私、好きです。別に、綺麗な絵じゃないし、何が描いてあるって訳でもないけど──でも、いいんですか?」
 すこし、寂しそうな。
「いいんですか?私が、私が言うことなんかじゃ、ないかもしれないんですけど──」
 俺たちは静かに顔を見合わせる。
「そうして大切なものを失っていっても、それに気づかないふりして──」
 ただ立ちつくす、俺たち。
 それぞれの方向を向いて、ただ、立つ俺たち。
「俺たちは──」
 誰かが静かに言う。
「変わったかな?」
「どうかなぁ?」
 誰かが笑う。
「あの時の俺たちなら、どうするのかなぁ」
「どうするんだろうなぁ」
「どう──するんだろうなぁ」
 ただ、俺たちは笑う。
 
 
 静かに、彼女が言った。
「そうして大切なものを失っていっても、それに気づかないふりして──」
 
 
「それでいいんですか?」
 だから俺たちは、ゆっくりと息を吸った。