studio Odyssey


キャンパス - 第二章

writtenby : 黒峰箕緑

 店の扉を開けると、そこには多くの学生を見ることができる。
 昔は自分もその中の一人だった。だが、今はちょっと場違いな感じがしてしまう。…歳を取ったかな。少し苦笑いを浮かべて、笑う。あの席に座らなくなって、たった二年しか、経っていないというのに。
「いらっしゃいませ、お一人様ですか?」
 感傷に浸る間もなく、店員の女の子が声をかけてきた。知らない顔だ。店員の顔は全員覚えていたはずだったのに。アイツらと、みんなの。
 もっとも、女だけという限定付きで。
 あ、それでも店長の顔くらいは覚えていたか。「あの…閉店なんですが…」と言いに来るのは、そう言えば二年前のあの頃は、いつも店長だったっけ。
「あの…」
 店員の女の子が困ったように呟く。ファミレス特有の作り笑顔が、少し苦笑いのようになっていた。
「あ…」
 店内を見回す。見知った顔はいない。そりゃそうだ。
 ここによくたまっていたのはあの頃のこと。あのキャンパスにいた頃までだ。
「一人です」
 言う。
「お煙草はお吸いになりますか」
 「当然でしょう」という台詞を言いそうになって、堪える。「あ、吸います」
「どうぞこちらへ」
 店員の女の子が先を行く。あの、角の六人席を抜けて、その向こうの二人用の席の方へ。
「ご注文がおきまりでしたら、ベルでお知らせ下さい」
「──いつもの」
「え?」
「あ、いや。ホットドリンクバーと、ポテトフライで」
「かしこまりました」
 その店員が離れていく。軽くため息を吐いて、煙草とライターをスーツの内ポケットから取り出す。そしてテーブルの上に置く。一セット。五セット、そろうわけもなく。
 大きな窓から外を見ると、国道を抜けていく車たちがよく見えた。相変わらずの、風景。
 差し込む午後の陽射しに煙草の火をつける。たまたまだ。偶然。偶然、仕事でこの近くに立ち寄ったので、久し振りに来てみただけだった。
 最も──あの頃とは違って、車でだが。
「またお前、振られたのかよ」
 奥の席から、笑い声とともにそんな声が聞こえてきた。
「それがよ〜、聞いてくれよ」
 仲のよさそうな五人組。学生だろうか、こんな昼間っからファミレスでダベってるなんて。五人、ドリンクバーと中央にポテトフライ。一番安くて、一番長持ちするメニュー。
 笑いすぎて涙を流している連中の中、ひとり笑っていない奴が言う。
「聞いてくれよ〜」
「聞いてるって。また、変なセリフ吐いたんだろう?」
「そんなこと、ないよ」
「わかってる。『僕はあなたと一緒なら、どこまでも行けます』だろ」
「前と変わらないじゃん。それじゃ」
「だって今回は旅好きの娘だったからさあ」
 どこかで聞いたことのあるようなセリフだ。ってか、アイツなら、言いそうだ。旅好きの娘に向かってなら。だけど──
「それ実行したら、でもやっぱストーカーじゃん」
 別の奴が言った。
 思わず煙草の煙にむせる。同じ事を考える奴も、やっぱりいるものなんだな。
「わかった。お前、やっぱしストーカーなんだよ」
「なんでだ!?」
「あー…職質受けている姿が容易に想像できる」
「それだったら、こいつの方が容易だろう」
「失敬なっ!」
「どっちもどっちだな」
 どっちもどっちだ。
 俺は頬杖を付いて笑いを堪えていた。
「いらっしゃいませ」
 ふいにかけられた懐かしいような声に、俺は顔をあげた。ファミレスの制服を着た女の子が、トレイの上にドリンクバーのカップを乗せて笑っていた。「ずいぶん、久しぶりですね」
「あ…」
「ホットコーヒーでよろしかったですか?」
 落ちそうになった煙草を、あわてて持ち直す。二年以上も前の事になった記憶が、ふいに蘇ってくる。「あれ、なにちゃんだっけ?」「名札ついてるだろう?」「見えないのよ〜。新人だよね。見たことない」「六番テーブル、ご指名でーっす」「店、違う」
「今日は、ひとりで?」
「…まぁ、ね」
 落ち着かせるように煙草を口に運んで、彼女がテーブルの上にカップを置くのを待つ。カップの中には、ホットコーヒーがすでに入っていた。脇に、彼女が砂糖とミルクを置く。
「残念」
「何がですか?」
「ミルクを使っていたのは、俺じゃないのよ」
「…でしたっけ?」
「二年も経つと、わすれちゃうか」
「でも、お砂糖は使う。そう、お砂糖は使う」
「それは使う」
「ほら、覚えてる。ちゃんと」
「ありがとうございます」
 わざと他人行儀風に、俺は言った。
「まだこの店でバイトしてたんだ?」
「ええっと…バイトというか…就職、失敗しまして…先輩方みたいに、ちゃんとした会社に入れなかったんで。店長さんに頼んで、契約社員で」
「──さすが店長」
 本気で言う。「話がわかる」
「先輩方が貯金して下さった売り上げを、浪費しています」
 そう言って彼女は軽く笑った。貢献というほど、貢献した記憶もないが。というよりむしろ、他の客からすれば、かなり迷惑だったような気もしないでもない。ドリンクバーひとつで、閉店まで粘る客。「確実にブラックリスト」「『あの人たちには、気をつけて!』みたいな」「新人さんの登竜門だろう」「あの客のオーダーとってこいって?」「そしてバックルームで『店長、私、やめますっ!』」「やめちゃうのか!」「やめるでしょう」
 やめなかった娘も中にはいて、そして今、目の前にいて。
「みなさん、今、何してるんですか?」
「…仕事中だろ?」
「今、お客さん、居ません」
 店内を見回せば、奥の席にいる五人組だけ。
「客」
 いるじゃんというように、俺はそっちの方向を指さす。彼女もくるりと振り向いてそっちを見て、
「いません」
 はっきりと言った。
 ふと、思う。もしかすると、俺たちもこんな風に──いや、やめよう。
「先輩、仕事はどうですか?」
 彼女は俺のテーブルの隣に立ったままで聞く。俺は返す。
「座れば?客、いないなら」
「そうします」
 そして彼女は俺の目の前に座った。向かい合って──そうしたのは、ずいぶん久しぶりな気もした。「で、先輩もそうですけど、みなさん、お仕事どうなんですか?」
「あー…さぁ?」
 答えて、煙草を吸いながら俺は外を見た。俺を見る視線があるような気がしたからだ。ガラスの反射に店内を見回す。奥の五人組が、こっちをちらちらと見ているらしかった。
 まぁ──店員と親しげに喋っている客というのは、奴らにしてみれば、思うところがあるんだろう。最も、向こうが知らないだけで、歴で言えばきっと負けやしないんだろうが。
 いや、勝っても全然嬉しくないが。
「今でも、しょっちゅう会ったり、してるんですか?」
 目の前の彼女が言う。
 奴らの気持ちも、わからなくもない。もしも自分が向こう側にいて、こうして店内でこの娘と親しげに座って話している奴がいれば、アイツらだったら、どうするだろう。
「全然、あってない」
 俺は軽く返した。
「最後に会ったのは、卒業式…かな?」
「二年以上も前の話ですよ!?」
「ちょうど二年だよ」
「じゃ、もしかして、今日私にあったのと同じくらい、会ってない?」
「っていうか、今日会ったからな。向こうは今だに記録更新中」
「あんなに仲良かったのに…どうしてですか?」
「──さぁ?」
 俺は煙草を消して返した。そう言えば、彼女はあんまり煙草の煙が好きじゃなかった。口に出して言うほどではなかったけど、そんな話を聞いたこともあった。「煙草、やめてよ」みたいな。
 俺はゆっくりと言う。
「どんなに仲がいい風に見えたって、別れて、以来、会わなくなることだってあるでしょ」
「辛いことを言いますねー」
「オトナだからね」
「はい?」
「オトナ。なんていうかね、見えない?このオトナな雰囲気。スーツ着て、ぴしっとして、煙草なんかくゆらせながらコーヒー飲んで。いい歳して、ファミレスのひらひらな制服着ている娘とは違う」
「誰?」
「誰でしょう?」
「いえ。オトナって、誰のことを?」
「そっちかい!」
 突っ込んで、俺は笑いながら「どうでもいいや」というようなそぶりを見せて視線を外した。そしてふと、その絵に目を留めた。「あ…」小さく呟く。
 壁にかけられた絵。いつもの角席からは見えない、同じ壁の位置にある絵。
「あの絵、まだあるんだ」
 俺は小さく呟いてコーヒーに手を伸ばした。こんな風にしてまじまじとこの絵を見たのは、きっと、この絵がこの場所にかけられた次の日以来だ。
 店内の雰囲気をそのままに描き込んだ、すこしだけオレンジがかった雰囲気の絵。カウンターの脇に店長と店員の女の子が笑いながら話していて、そして窓際の奥、角の六人席に、五人が座って笑っている絵。油絵だったか、アクリルだったか…忘れた。
「店長の、お気に入りですから」
 彼女も同じものを見て言う。笑いながら。
「あの食い逃げの犯人も、今だにわからないと言い切ってますよ」
「誰だろうー?」
 俺も笑った。あの絵は、ある日の夜。閉店間際に最後まで残っていた客たちがかけていったものだと聞いている。閉店間際、店内に誰もいなくなった隙に、金を払わずにそこに絵をかけてその男たちは逃げ出したのだそうだ。そしてその犯人は、未だに──
「──バカばっかやってたな」
 俺は笑いながらコーヒーに砂糖を入れた。やっぱり少し苦かかった。
「懐かしいな」
「会えるんですから、会えばいいじゃないですか」
 彼女が言う。俺はゆっくりと彼女を見た。
「なんか、理由があって、会えないわけじゃないじゃないですか。こうして、偶然でなきゃ、会えないって訳じゃないんですから。会おうと思えば、いつでも会えるんですから」
 そう…たしかに、そう。
 会おうと思えば、いつでも会える。いつだって会えるんだ。
 でも、だからこそ──
「私、あの絵、好きですよ」
「あの絵?」
 俺が指さすその絵に、彼女は首を横に振る。「あの絵じゃ、ないです。確かにあの絵も私にとっては想い出の絵ですけど、あの絵です」
「先輩たちの、絵。私、あの絵、好きです」
「ああ──」
 俺は気のない風に返した。あの絵。そう、キャンパスの絵。なつかしいな。最後に俺たちがみんなで、完成させた絵。アイツの、絵。いろんな事の書き込まれた、絵。
 ふいに、スーツの内ポケットで電話が鳴った。俺はあわてて電話を取り出す。会社からか──面倒くさい──と思いながら。
 電話はすぐに切れた。
 表示を見ると、あの番号からの電話だった。俺は困った風に、軽くため息を吐いた。それを見た彼女が、聞く。
「メールですか?」
「いや」
 俺は返した。
「ワンコ」
「犬?」
「違う。ベタ過ぎるぞ。ワン切りだよ。大学の頃、はやったろ?一回だけコールして、切るやつ。アイツに言わせれば、たった一回のコールで、いろんなことを伝えちゃうやつ。最近、またよく来るんだ」
「誰からです?」
「いや、アイツから」
「先輩?」
「の、番号なんだけどね…アイツは携帯、持ってない」
「あれ?」
 彼女は小さく首を傾げた。
「一緒のやつ、持ってませんでしたっけ?一緒に買い換えて、五色全色そろえて」
「…懐かしいなぁ。そういや、そんなこともしたな。『携帯の時代は終わったな』とか言って」
 懐かしいCMの言葉を口にする。そう、携帯と言っても、そうだ。たしか、PHSだった。俺は仕事柄、携帯の方が便利で、変えてしまったが…もしかして、このコール…アイツがメールでも送ろうとして──?
 そんなはず、ないか。この番号、アイツが知ってるはずがないし。
「俺──もう行くわ」
 そして俺はコーヒーを飲み干して言った。
「もうですか?」
「ああ、いや、実は、このコールが気になって来ただけなんだ。他の奴らのところにもメールが来てたらしくて…それが元で、じゃあ久々に会わないかって話に、なったんだ。久しぶりに、いつもの場所で」
「──会うんですか?」
「『約束の日に、いつもの場所で』ね」
「──それでわかるんですか?」
 俺は軽く笑った。
「わかるね」
 そして言った。
「なんなら、一緒に来る?」
「はい?」
 もしかしたら、そのつもりでここに来た。のかもしれない。自分でもよくはわからないが、この場所がもしかしら、俺たちのいつもの場所かもしれないと思ったからだ。とは言っても、アイツの姿もないところを見ると、ハズレだったようだが。
「ちょ…でも私、仕事中ですから」
 彼女はちょっと困った風にして言った。「そりゃ、先輩たちとは、久しぶりに会いたいですけど…」
「あがり、何時?」
「え?」
「コーヒー一杯で閉店まで粘るのには、慣れてる」
 俺は軽く言って、再び席に座り直した。
 彼女はぽかんとしている。
 俺は笑う。懐かしい感じ。ここにアイツらがいないのが、ちょっとしゃくだ。アイツらがここにいれば、きっと彼女はそのぽかんとした顔のまま、集中攻撃をくらうんだ。そして俺たちは笑う。
 いつものこと。
「あ…ご、五時には、終わります」
 静かに言って、彼女が立ち上がる。乾いたカウベルの音が店内に響いていた。新しい客が、店内に入ってきた。
 俺はゆっくりと煙草に火をつけて、静かに、壁際のその絵を眺めていた。懐かしい絵と、そして誰もいない角の六人席を眺めていた。
 今となっては懐かしい、絵。そして、あの、絵。
 特別、綺麗な絵であるわけでもない。ただ、心が落ち着く。落ち着く?それとは、少し違うかもしれない。心が、笑う。笑って、口許を、ほころばせる。
 絵。懐かしい、絵。
 テーブルの上に置かれた携帯電話の時計が、ゆっくりと時間を進めていた。