studio Odyssey


2nd Millennium END. an epilogue.




 声が訪ねる。
「──さっきも言ったろ」
 何故と、声が訪ねる。
「理由なんか、ないよ」
 彼は真っ暗な空間の中で、軽く返す。
 命をかけてこの世界を護ろうとも、人はまた、同じ歴史を繰り返すとわかっているのにと、声が訪ねる。
 だから彼は、軽く笑う風に返す。「先のことなんか、わからないよ…」
「もしかしたら、僕の選択は、間違ってたかもしれない…けど、僕には、未来なんか見えないから──」
 彼は微笑みをたたえた口許をそのままに、言う。
「今、見える限りのものを信じて──ほんのわずかでも、希望みたいなものがあるなら──心に決めた、僕の中での正義があるなら──たとえどんな未来でも」
 声は彼の言葉を聞いている。
 ただ、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す、彼の声を聞いている。
「過去を誇りに、生き抜いて見せたいんだ」
 取り戻せない過去に、たくさんのことがあった。
 もしもあの時、走り出していれば──もしもあの時、答えを出すことができていたら──もしもあの時、あんなことを言わなければ──
 僕たちは、どれだけまっすぐに、心にまっすぐに生きてこられただろう。
 そうしたら、もしかしたら、今は、今とは違っていたかもしれない。
 でも──
「そう──」
 だったら、そのすべての過去を、今の、この世界へつながるすべてを、歴史を、忘れないようにしよう。誇りに変えて、未来につなげよう。「僕は──」
 声に向かって、静かに彼は言った。「違うかな──おまえが言っていた、滅ぶべき種──本当はみんなが──」



「その歴史の、歴戦の勇士なんだろうから」




   an epilogue.




       1

 声が、聞こえた気がした。
 誰かが、自分を呼んでいるような気がした。
 誰だろう──誰が呼んでるんだろう──
 私を呼ぶ声。
 だれ?
 誰が私を、呼んでいるの?
 誰が、私を──
 あれ──?
 聞こえなくなった…かわりに聞こえてきたこの音…何の音だろう…何かのノイズみたいな…でも、いやな音じゃない…ゆっくりと、一定のリズム──じゃない。少し揺らいで──この音、なんだっけ──
 そしてゆっくりと──私は瞳を開いた。
 ──すぐに、その音がなんなのか、わかった。
 波の音だ。
 そして目の前には、抜けるように真っ青な、夏の空。
「──あれ?」
 つぶやく。
「あ」
 声が返ってきた。
「起きた」
 夢を見ていたのかもしれない。振り向いて、軽く、いつもの感じで返した彼が、自分のことを呼んでいる夢を見ていたのかもしれない。
 いや、たぶん、夢だ。
 目の前にいる彼は、いつもと同じ調子で、「おはよう」なんて、あぐらをかいて座ったままで、軽く笑って見せていたのだから。
「…なんで?」
 思わず、私はつぶやいていた。
「ここ、どこ?」
「ここ?」
 彼は笑って、外した両手のグローブを握りしめた右手で、自分の足下をこんこんと叩いた。
 白い地面。
 叩いた彼の手元から、金属の音が響いていた。


「イーグルの上」


 そう言って、一也は笑った。
「はぁ!?」
 ばっと起きあがり、遙もまた、辺りを見回した。
 三六○度、見回しても海、海、海。
 その海に浮かぶ、白い巨体。
 七○メートルにもなろうかという巨大な飛行機の主翼の上に、ふたり。
「なんでこんなトコにいんの!?」
「いやぁ…落下点が、海でよかったねぇ…」
 繋ぎのパイロットスーツの上着から袖を抜き、Tシャツ姿になっていた一也は、笑う風にして言った。
「まぁ、死ぬかとは思ったけど」
 軽い物言いで言う彼のちょっと茶色い髪が、潮風に揺れていた。そしてその隙間からのぞいた金属の端末が、陽光に光っていた。
「あ──」
 遙は言葉をなくす。
 何を言ったらいいのかわからなくて──言っていた。
「私たち──生きてるの?」
「なにを──」
 と、一也。
「死んでるのに、こんな話してたら、お姉ちゃんなみに脳天気な…」
「──それもそうね」
 こくりとうなずいて、遙はうなった。それもそうだ。
「でも──」
 そして遙は、青い夏空を見上げて呟くようにして聞いてみた。
「あの進入角度じゃ、絶対に助からないもんだと思ったのに…」
「ああ」
 遙の見上げるのと同じ空を見上げ、一也は目を細めた。
「…超硬化薄膜を使ったんだ」
「はくまく?」
「──俺がじゃ、ないけど」
 含みを持たせるようにして言いながら、一也は夏空を見上げていた。だから、遙もそれ以上は聞かなかった。
「R‐IIとイーグル2は?」
「海の底」
 振り向いた遙に向かって、一也は笑いながら言う。
「着水の衝撃を減らそうとしてバーニヤふかしたけど、機体が持たなくて…遙、助けるだけで精一杯だった」
「BSSも沈んじゃったの?」
「まぁ…海溝にはまってる訳でもないだろうから、引き上げようと思えば、出来なくもないだろうけど」
 あぐらを掻いた姿勢のまま、一也は軽く首を傾げて目を伏せた。
「エネミーもいなくなったことだし、別に、引き上げなくてもいいんじゃないの?」
「それもそうね」
 ちょっと笑う風に口を曲げる遙。それに向かって、一也が思いだした風にして言った。「ああ、それと──」
「ん?」
「あとで何か言われるのもあれだから、先に言っとく」
「なにを?」
 一也に向かって身体ごと振り向いて、小首を傾げる遙。一也はそれを見ずに、おどけた風にして言った。
「人工呼吸しました。行きがかり上」
「──ばっ!?」
 どきっとしたのは遙だ。「なっ、何言ってんの!?」思わず口許を腕でぬぐう。それが、自分の生腕で──気づいた。「スーツは脱がすべきか迷ったけど、一応、上着だけでやめといた」言われて気づく。繋ぎのパイロットスーツの上着から袖が外され、自分もTシャツ姿になっていた。
「透けてるし!?」
「別に、見たくないよ」
「最低だ!!」
「真夏に、機能停止したパイロットスーツのままだったら、脱水症状おこして死ぬって」
 一也は苦笑する。遙はちょっと口をとがらせて、
「──ったく…」
 言ったけれど、すぐにその口許を、いつもと同じに、微笑む風に弛ませた。
 寄せては返す波の音に、彼女は大きく息を吸い込む。そして、彼女は広がる海を見回した。
 蒼い海。
 ゆっくりと、彼女はその視線をあげていく。青い空のはるか彼方──目を、細める。
 ほんの少し前まで、あの空の向こうにいた。
 そして、この大地を見つめていた。戦っていた。
 寄せては返す波が、悠久の昔から繰り返す音を、その耳に伝えている。ただふたり、何を口にするでもなく、静かに時が過ぎるのを、待っている。
「──静か」
 ぽつりと、遙は呟いた。
「いいんじゃない?」
 一也が返す。
 遙はその彼の背中に向かって、当たり前の台詞を返した。「それもそうね」
「そだ」
 そして、自分の腕に巻かれていた時計を見た。それはOMEGA speedmaster、X‐33。
 遙はそのプッシュボタンに手を伸ばし、言った。
「一也、ミッション終了ね」
「ん──?」
 一也は振り向いた。遙が自分の腕の時計に手をかけて、笑っている。
「せーので、止めよう」
「ああ」
 理解した一也は、ゆっくりと立ち上がった。
 そして彼女の隣に歩み寄って、聞いた。
「これ、止めんの?」
 腕の時計を、彼女に向かって見せる。
「──なんで?」
 遙は、首を傾げた。
「いや…」
 ぽりぽりと、一也は少し茶色い髪を掻きながら呟いた。潮風に揺れる茶色い髪を掻きながら、言いにくそうに、視線を落とす。
「いや、それ──新しい世紀へのカウントダウンって言ってたし」
「あー…そう言えば、そんなことも言ったかも」
 遙は自分の腕の時計を見た。
 MTモードのデジタル表示が、一秒、一秒、少しずつ増えていく。「でも、カウントアップよ?」「自分で言ったんだろ…」
「それに──」
 ゆっくりと息を吸うと、一也は彼女を見て、言った。「それ、全部──」
「新しい、俺たちの時間だって、言ったじゃん」


 一秒が、少しずつ過去に変わっていく。
 進み続ける秒針にあわせて、ひとつずつ増えていく時間──


「…なにそれ」
 ぽつり、遙は呟く。
「ばか?」
「最悪だ、お前…」
 一也は「あーあ」というように肩をすくめて見せた。
「自分で言ったんじゃん」
「嘘だよ、覚えてるって」
「俺は、忘れてるとでも思った?」
「思った」
「マジかよ…」
「一也がいいなら、止めないでもいいけど?」
「止めなくていい」
「じゃ、止めない」
 時計にかけていた手を、そっと彼女は下ろす。
 そして夏の陽射しを遮るようにして自分の隣に立った彼を、微笑む風にして見上げていた。
「ねぇ?」
 軽く、悪戯っぽく笑ってみせる。
「こういうのって、映画とかのラストシーンとかでは、お約束かね?」
「かも」
 笑う彼女に、彼もいつもと同じに笑う。
「そして、私はこう言うのね。『異常な状況下でむすばれた男女は、長続きしないものよ?』とか」
「SPEEDかよ…」
「2になるよ?」
「うるさいよ、Wild Cat」
 笑う彼女のその手を、彼がそっと掴んだ。
 彼女ははにかむ風に、少しうつむいて──「とうとう、生手掴まれた」「観念しろ」
 笑う彼の手を、彼女もまた、ゆっくりと握り返す。
 そして──言う。
「ばか?」
 そっと、瞳を閉じて。


 青い夏空の下、その青を映して揺れる海。
 その上に、真っ白な翼。
 その翼の上に、ふたり。
 やがて聞こえてきたヘリコプターのローター音に、ふたりはそっと離れると、閉じていた目を、どちらからと言うこともなくゆっくりと開いて、言った。
「──ね?」
「かも」
 見上げる。
 夏空の向こうから飛んでくるヘリコプター。機体の中心あたりで、何かが、陽光を反射して光っていた。
「見られたかなぁ…」
 遙が苦笑するようにして、言っていた。
「あれ──」
 一也もまた、苦笑するように口許を曲げて、言った。
「世界中に放送されてたり、しないよなぁ…」
「──どうだろう…」


       2

 一也は走っていた。
 ちらり、後ろを振り返る。まいたか?
 廊下の向こう、追いかけてくる者の姿はない。よし──こくりと頷き、階段へと向かう。
 九月──夏の残り香のする季節。だけれど、確かに傾きはじめた陽光が差す校舎には、秋の気配があった。
 制服のYシャツの裾をそのままに、一也は走る。「新学期そうそう、なんだよ…」呟く言葉を向ける相手は、無論、いない。
 北棟校舎の階段を上りきり、軽く息を整えて、一也は廊下の向こうを見た。夕暮れの近づく陽射しが、廊下を赤く照らしている。誰もいない。すこしほっとして、その先にあるドアに歩み寄った。ドアの上のプレートには、『美術室』と書かれている。
 がらりと引き戸をドアを開け、部屋の中にいるはずの親友、吉原 真一に「なんで俺が、うちの男子連中に追いかけられなきゃならないんだよ」と、ぼや──
「吉田先輩を確保!」
「拘束せよ!」
「なっ──!?」
 ドアの脇に潜んでいた一年の女子部員達に、腕を掴まれ、身体にしがみつかれ──
「吉原!?」
「すまん」
 美術室──美術部の部室でもある──の椅子に座らされていた吉原が、悪びれた様子もなく、立てた右手をびしっと突きだしていた。「裏切り者め!」「いや、俺もピンチな訳だが…」よく見れば、吉原の両脇にはTボウキを手にした女子部員がいた。
「ふっふっふ…」
 声に、一也は振り向いた。
「捕まえたぜ、一也くん!」
「な──っ」
 視線の先には、佐藤 睦美がいた。
「なんで先輩がいるんですか!?」
「いや、大学、まだ休みだし」
 さらりという睦美の後ろには彼女の親友、神部 恭子の姿もある。「こんにちわ」「あ、こんにちわ」
「睦美センパイ!捕獲した一也くんは、どうしてやりましょう!」
 言ったのは、一也たちと同学年でもある──つまり三年で、現役の中では一番の先輩となる──渡辺 恵であった。
「うーむ…どうしてやろうか…この大悪人を」
 うなり、睦美は腕を組む。
「爪の間に、針でも刺してやろうか…」
「それ、死にますよ?」
 さすがに恵もちょっと引いた。
「いや、マジ、待ってください。何がなにやら、俺には理由が──」
 眉を寄せ、一也は懇願するようにして言った。
「クラスの男子とか、他のクラスの奴らにも追いかけられるし…俺、なんかしました?」
「おおー」
 唸ったのは吉原だ。
「さすが、歴戦の勇士は言うことのスケールが違う…」
「お前、黙れ」
 きっぱり。そりゃ、あの戦いで傷ついた人がいれば、そう言うこともわかる──けれど、どう考えても、このノリで先輩達がからんでくるような事は──
「詩織ちゃん、本、いいかね?」
 睦美はくるりと振り返りながら言った。
「あ、はい。読み終わりました」
 と、詩織。手にしていた週刊誌から顔を上げて言った。ちょっと、一也をじっと睨むようにして、見て。
「──一也、大胆ね?」
「あ…あー…」
 ぽいと詩織が投げた週刊誌の開かれたページ──その写真を見て、一也は言葉を濁した。
 見開きのページ──しかも、ご丁寧にカラー写真だ──青い海が映っている。そしてその海には、一機の白い飛行機が浮いている。それだけでわかった。
 その主翼の上には、自分がいるのだろう。
「動かぬ証拠だ」
 ふんっと鼻を鳴らして、睦美。
「私らも、映像は見てたけど、あれはかなり引きだったしブレてたし、実際に二人が映ったときは、『そんなこと』してなかったから、まさかとは思ったんだがねぇ…」
「写真って、すごいわね」
 ぽつり、恭子。
「よく映ってるわ」
「…一也、手が早いな」
 呟いた吉原に、
「てめぇ、裏切り者!」
 一也は言ったけれど、
「いや、むしろ俺は先輩たちの方に付きたいくらいだがな!」
 吉原はさらり。
「村上先輩に手ぇ、出すとはな!お前との友情も、これまでだ!!」
「よし、吉原くん、間接技だ!」
「ウス!!」
「よせ!バカ!?」
 もがく一也の耳に、詩織の声が届いた。
「──フケツ」
「う──…!?」
 その隙を、吉原が見逃すはずもなかった。ぱっと一也から離れた女子部員と入れ替わりに一也の腕をとり、そして、送り襟締め。
「ナイスだ、詩織ちゃん」
 睦美が笑って言う。返すように、詩織も笑いながら、片目を伏せて見せた。
「し…死ぬ…!!」
「いや、むしろ死んどけ」


「おーい、植村ー」
 T大学、脳内情報処理研究室。
 パソコンの前で研究に没頭──先ほどくみ上げたパソコンのベンチマークを取るついでに、自分で作った円周率計算ロジックを走らせていただけだが──していた植村 雄に、大沢 一成が声をかけた。
「なんじゃ?」
「お前、ビデオテープもってねぇ?」
「あるぞ」
 こともなげに言って、座っていたスチール机の一番下を開ける植村。中には、ビデオテープがぎっしりとつまっている。
「くれ」
「好きなのもってけ」
「っていうか、なんであんたの机にはそんなモンが普通に入ってるわけよ?」
 そのやりとりを見て、研究室の紅一点、桐嶋 かなたはディスプレイから視線を外して呟いた。
「ベータもあるぞ?」
「つかわねぇよ」
「住んでるの?」
 かなたが言ったが、植村はしらんぷり。大沢がテープを手に言っていた。
「学生居室のビデオって、ちゃんと録れるよなー」
「なんか録んの?」
「あー、今日だったっけ?」
 右手のマウスを動かし、かなたは画面右端の時計の上に置いた。しばらくして現れた黄色いツールチップが、今日の日付を表示させた。
「やば、私も録画予約忘れてきた」
「なんかやんの?」
 居室へと歩いていく大沢の背中に向かって、植村。
「おうよ」
 居室に消えていく大沢の背中に、「ダビングさせてねー」と、かなたが言っていた。
「なに?」
 植村。
「ん?」
 かなたは軽く笑って、返した。
「七月二七日の、再放送」
「大沢!待て!どうせなら、PC使って、HDに録ろう!!」
 椅子から立ち上がって、植村は居室に向かって駆けだしていた。「マジか!?」「無論、非圧縮aviで!!」
 居室から聞こえる声を耳にしながら、かなたはぽつりと呟いていた。
「あー、だから教授、今日も早く帰ったのね」


 玄関のチャイムの音に、
「はーい」
 と、彼女は返した。
「大丈夫?できる?」
「う…うむ…」
 唸るように返したその声に少し苦笑はしたものの、彼女は居間から玄関に向かって小走りに急いだ。鍵を開け、チェーンロックを外し、ドアの向こうにいる人をわかって、開ける。
「ご無沙汰してます」
 ドアの前にいた元総理、村上 俊平は、すっと頭を下げた。
「いえ、こちらこそ」
 彼女──平田 明美は微笑み、彼を家へと招き入れた。「どうぞ」来客用のスリッパを置くと、「ごめんなさい、ちょっと──」と、彼女は居間の方へと小走りに戻っていく。
「あなた、代わるわ」
「う…うむ…」
 やりとりが聞こえてくる。これは面白そうだ──と、村上はそそくさと靴を脱ぐと、スリッパを引っかけて居間に急いだ。
「…これは──」
「お、村上さん、ご無沙汰してます」
「いや──なかなかレアなショットを見た気分だ」
 村上は吹き出しそうになったが、なんとかこらえて、微笑む程度にとどめた。眼前には、小さな赤子を抱いて──右手にほ乳瓶を持った──平田の姿があったのである。
「何言ってるんですか」
 明美が笑う。そして教授の腕からその赤ちゃんを取り上げた。「あなたに持たせると、不安になるわ」「うぅむ…」
 いろいろな意味でだろうか──村上は思ったが、言わないことにした。
「あ、教授、これはお祝いです」
「いやぁ、気を遣っていただかなくても」
 ぽりぽりと、教授は照れくさそうに頭を掻いた。
 それを見て、明美が笑っている。「村上さん、コーヒーでよろしかったかしら?」赤ちゃんを抱きながら、隣の部屋へと歩いていく明美の背中に向かって、「ああ、お構いなく」村上。
「明美さんも、お元気そうで」
「子どもが生まれると、元気にしてないわけにもいかなくて」
「生まれる前の三倍は元気ですよ。赤くなったのかと思うくらいです」
「通常の三倍か…」
「そうでもしないと、子どもなんて育てられません。それに、私がいなかった間に、部屋もずいぶん汚れたし、家計も赤くなったみたいだし…」
「むぅ…」
「わかりやすい権力構図ですね、教授」
「だろう」
 居間のテーブルにつきながら、二人は笑い合った。
「あ、村上さんいらしたのなら、そろそろ時間じゃないの?」
 肩に掛かるくらいの髪を後ろに束ねながら、明美がダイニングキッチンに歩いていく。
「お、もうそんな時間か」
 ぱっと壁にかけられた時計に視線を送り、「よし、ならば我が子にも、父の雄志を──」「やめなさい」
 村上は吹き出す笑いをこらえるのに必死だった。
「ビデオの予約までしてあるじゃない」
「こういうのは、リアルタイムで──」
「再放送でしょ?」
「お前だって、見てないだろう?」
「見たところで、赤ちゃんにわかるわけがないでしょ」
 戸棚の中からコーヒー豆を取り出しながら、明美は軽く言う。教授は「うぅむ…」と唸った。
 諦め、教授はテーブルにつき直すと、テレビのリモコンを取った。
「お前も、座って見なさい」
「コーヒーくらい煎れるわよ。トラジャでいいかしら?」
「ガヨマウンテンがあったろう?」
「また、珍しい豆を──」
「有機栽培の豆だから、私にもって、買ってきたんですよ」
「意外と、妻想いじゃないですか」
 笑う村上に、明美も少し小首を傾げて「どうかしら?自分が試してみたかっただけかも?」と、笑う。
「始まったら、解説してやるから」
 テレビをつけ、CMだというのに、その画面から目を離さない教授が言った。
 まるで、子どもだな──村上は口許を弛ませた。「ああ、そういえば教授」
 振り向いた教授に向かって、村上は聞いた。
「お子さんのお名前、なんでしたっけ?」
「あ、教えてませんでしたっけ?」
「教授が名前をつけたんですよね?」
 肩越し、村上は明美を見て聞く。明美はゆっくりと小さく頷いた。そのちょっとした仕草と、彼女のはにかむような表情が、村上にはとても印象的だった。
 そしてそれだけで、十分にも思えた。
「お、始まりましたよ、村上さん!」
 視線を戻すと、教授が画面の方を向いたまま、リモコンのボリュームを上げていた。


       3

「教授のジュニア?」
 手にしていたアイス缶コーヒーを差し出しながら、中野 茂は彼女に向かって言った。
「うん」
 金色の髪の大使──ベル──が、差し出されたコーヒーを受け取りながら返す。
「村上さんが、今日、会いに行ってるの」
「うわぁ、見たいなぁ」
 にやりと笑うシゲこと、中野 茂。そして彼は自分のデスクについた。
 科学技術庁出資の、共同企業ラボラトリー。ここは超過生体有機体研究科、第3分室だ。
 シゲは缶コーヒーのプルトップを開けると、それを口に近づけながら、
「名前、なんて言うの?」
 隣のデスクについていたベルに向かって聞いた。
 彼女は少し首を傾げて笑う。
「聞いたような気がするけど──わすれちゃった」
「じゃあ、ジュニアだな…」
「日本って、ジュニアってダメじゃなかったっけ?」
「当て字で」
「ダメな気がする…」
 苦笑しながら、ベルもまた缶コーヒーのプルトップを引いた。
 そして、それを口に運びながら聞く。
「怪我は、もう平気なの?」
「見る?」
「こんなところで見せないで」
 今にもシャツの裾をまくり上げそうな勢いのシゲに笑う。
 シゲはちぇっと、舌打ちをした。もちろん、軽く笑いながらだったけれど。
「ベルは、相変わらず忙しそうだけど?」
 デスクの上に置かれていた回覧をちらりと見て、山積みの資料の方にぽいと投げて──シゲ。
「うん──」
 ベルが返す。
「昨日まで、アメリカだったでしょ…来週からは、欧州会議もあるし…」
「飛び回ってるなぁ…」
「あれから一ヶ月経って──」
 缶コーヒーを口にあてながら、ベルはゆっくりと言った。
「みんな、落ち着いてきたし、大丈夫」
「そか──」
 短く、シゲは返した。彼女の微笑みが、その全てを物語っているように思えた。
「命がけでやった努力も、報われるってモンだ」
「オトコのコは、可愛いオンナのコを助けるために、命張るくらいでなきゃって?」
「もちろん」
 笑う。そして、
「そうだ」
 シゲは何かを思いだしたようにぽんと手を打った。ベルは首を傾げて、彼を見た。シゲはデスクの引き出しの一番上を開けると、中から一枚のCD‐Rを取り出した。
「これ、ベルが持ってた方がいい」
「なに?」
 差し出されたディスクを受け取り、ベルはそれを子細に眺めてみた。市販のCD‐Rのようで、特に変わったところはない。
「何が書かれてるの?」
「小沢さんが、くれたもの」
「小沢さんが?」
「正確には、あの科学者が、小沢さんに渡したものらしいけど」
 シゲのさす、『あの』が、誰なのか、ベルにもすぐにわかった。そしてこのディスクの中に入っているものも、なんとなく、想像できた。
「真実は、歴史の中に埋もれちゃったし──」
 シゲはコーヒーをすすりながら、笑う風にして言った。
「持ってると、中身、見ちゃいそうで嫌だ」
「シゲさんは、見てないの?」
「あー…正確にいうと、はじめの方の論文は読んだ。核心に迫りそうなトコで、やめた」
「あ、じゃあ、実は──」
 ベルは笑う。ディスクでその口許を隠すようにして。
「中身、本当は見たいんだ?」
「う──!?」
 シゲは図星を指されて、目を伏せた。「い、いや…決して、そんなことは…」「ホントに?」
「ほらほら」
 手にしたケースをシゲの目の前でちらつかせながら、ベルは悪戯っぽく微笑んでいる。その手に、右手を伸ばそうとして「うおおぉぅ…」シゲが唸っている。「ちょっとだけなら、見てもいいかなー?」「うぅ…いや…ああぁぁ…」「二度と見られなくなるしー?」「むおおぉぉ…」
「何してんだ、お前たち」
 後ろを通りがかった同僚の涼しい声に、はっとして、シゲとベルは正気に戻った。「あ…」と、ベルはその頬をちょっと上気させた。
 そして、こほむと咳払い。
 ディスクを、シゲのデスクに置く。
「ん?」
 デスクの上に置かれたディスクを見て、シゲ。「ベル?」
「私、もう行くね」
 ベルは立ち上がると、彼に向かってちょっと上気した頬のままで、言った。「そのディスクは、シゲさんの好きにして」
「きっと、シゲさんは、中身、見ると思うけど」
「──見ちゃうよ?」
「いいよ」
 金色の髪を揺らして、ベルは笑っていた。
「エネミーって、アインシュタインが特殊相対性理論から導き出した式と、同じようなものかなって、思うの」
「E=mc^2?」
「それを知った人類は、やがて原爆を作ったけれど──それを見つけたアインシュタインは、1953年に、プリンストン研究所で、湯川秀樹に対して、自らの責任を、涙を流しながら告白したって聞いたわ」
「…えーと」
「こら、科学者!」
 ベルは笑っていた。そして、「だからね──」
「あの人の生み出したものは、少なくとも、私たちが次の時代に進むためは、必要なものかも知れないかなって、今は思うの」
 微笑みを絶やさずに、言った。
「たとえば、この先、星の海を人類が自由に渡るためにとか──」
「それが、今は当たり前のように電気作ってるように?」
「もしも、この星の海を自由に渡る術をシゲさんが見つけたら」
 ベルは笑っていた。
 すこし上気した頬のままで、笑っていた。
「会って欲しい人も、いるしね」
「そりゃ──」
 シゲも微笑みを返す。そして、ディスクを手に取って言った。
「がんばらないとなぁ」


「サンキュ」
 エスティマのドアを開けて、小沢 直樹は言った。
「あ、あと、ビデオ、頼むよ?」
「わかってるって」
 助手席にいた新士が返した。
「お前も、がんばれよ」
 なんて、軽く笑う。
「言うな、緊張するから」
 小沢は苦笑した。
 ホテルのロータリーに止まったエスティマの運転席、片桐が笑っている。後ろの席に座っていた泉田が、ハンディカムを手にして続いた。
「なんなら、俺がビデオに収めてやろうか?」
「あ、それなら僕も喜んでカメアシしますよ?照明持ちましょう」
 と、篠塚。
 それをしそうな仲間たちに、小沢はいやそうに、
「マジ、やめてくれ」
 言う。
「あ、小沢さん!」
 ホテルの自動ドアの開く音に、小沢は振り向いた。その向こうから、吉田 香奈が小走りに駆け寄って来る。
「よかった。私たちも、ちょうど今来たところなんです」
「ちょっと遅刻したかと思ったけど、そりゃラッキーだ」
 言う小沢に、エスティマの車内にいた新士が笑った。
「遅刻で修羅場も、見たかったところだけどな」
「マジ、やめてくれ」
 新士を睨む小沢。新士は、ちょいと肩をすくめてみせた。
 車内、運転席にいた片桐が、少し上体を傾けて、車外にいる香奈に向かって言っていた。
「香奈さん、おめでとうございます」
「え──」
 香奈はちょっと顔を赤くすると、
「あは──ええと…ありがとうございます」
 ぺこりと頭を下げた。
「いや…」
 新士が言う。
「小沢が、お父さんに『娘はやれん!』と言われるオチがまだ──」
「マジ、やめてくれ」
 小沢は、本当に嫌そうな顔をして言った。
「っていうか、香奈さん」
「はい?」
「お父さんって、前、一也くん殴ったらしいけど、普段は違うよね?」
「大丈夫ですよ」
 香奈は軽く笑った。
「がんばれ、歴戦の勇士」
 新士が言う。
「早く帰れよ、お前ら」
「はいはい」
 新士はちょいと片桐に目配せした。片桐は小さく頷き、クラクションを軽く鳴らしてから、アクセルを踏み込んだ。
 ロータリーを、エスティマが滑るように抜けていく。香奈がその後ろ姿に向かって、ちょっと手を振っていた。
「さて──」
 と、小沢。
 きゅっと、スーツのネクタイを締め直す。
「ご挨拶といきますか」
「あ、小沢さん、お母さんと会うのは、はじめて?」
「──かな?」
「お母さんは、小沢さんのこと気に入ってる見たいだから、きっと平気よ」
「『は』?」
「お父さん『も』」
 香奈は笑った。
 そして二人は、ホテルのロビーへと入っていく。「そう言えば、今日は車じゃなかったの?」「ああ、連中と、ちょっと出版社に行ってたから」「出版社?」
「そそ」
 小沢は自分を見上げる香奈をちらりと見て、言った。
「もうすぐ、本も出るから」
「あ。出るんだ」
 香奈は小沢の台詞に小さく何度か頷いた。
「二年?」
「長かったかな…そうでもないか…」
「いろいろ、あったものね」
「みんなの話聞いて、許可とって──ベルさんと村上さんの許可を取るのが、一番大変だったなぁ…政治もからんでくるし」
「あと、一也?」
「一也くんはほら」
 小沢はにやりと口許を弛ませて笑った。
「身内になるわけだし、問題なし」
「あ、じゃあもしかして──」
 香奈は少し恥ずかしそうに微笑んで、聞いてみた。
「ラストシーンは、この先の未来?」
「僕が、お父さんに殴られたりする?」
「もう!」
 香奈はぷっと頬をふくらませた。
 小沢は笑う。
 ロビーのソファから、一組の夫婦が、近づく二人に気づいて立ち上がっていた。夫の方は、小沢にも面識があった。あったと言っても、少し会話をしたことがある程度で──あまりいい印象は持たれていないかもな──と、苦笑いを堪える。隣、妻の方は、はじめて会う女性だったが、どことなく面影が、今、自分の隣にいる彼女にも通じている気がした。
 立ち上がった一組の夫婦の妻の方が、彼に向かって、小さく頭を下げていた。
 小沢も、返すように小さく礼をした。
「あれが、お母さん」
 香奈が言う。
「隣は、お父さん。会ったこと、あると思うけど」
 顔を上げた小沢と彼女の父との視線があった。「ごぶさたして──」と、小沢は言おうとして、言葉を飲んだ。
 彼女の父が、ゆっくりと頭を下げていたのだった。深く、無言のままで、小沢に向かって頭を下げていたのだった。
 小沢は、背筋をただした。
 そしてその礼に応えるべく、ゆっくりと目を伏せ──深く、頭を下げた。
「…ご無沙汰しています」
 聞こえた声を、聞かない振りをして、小沢は返した。どれくらいの間そうしていたかは、わからなかった。それは、ものすごく長かったような気もしたし、そうでないような気もした。
 彼女の父が頭を上げるのを、彼は待った。
「歳をとると──」
 顔を上げた彼女の父が呟くようにして言った声を聞いて、小沢も顔を上げた。
「涙腺が、弱くなっていけませんね」
「──かも、知れませんね」
 ちらり、小沢は隣の香奈を見た。「香奈さん…」と、ちょっと苦笑しながら、彼はポケットの中のハンカチを彼女に手渡した。「何、泣いてるの」
 彼女の父もまた、苦笑している。自分も同じように、手にしたハンカチを、隣に立つ妻に手渡していたのだった。
「さて」
 小沢は軽く息を吐き出すようにして言った。
「スカイラウンジを予約してあるんで、飯でも食べながら、お話させてください」


「ああ、もう始まってるな…」
 夕暮れていく東京の街を窓の向こうに見て、男はぽつりと呟いた。
「なにがだ?」
 隣を歩く、線の細い長髪の男が返した。
 世田谷公園の向かい、防衛庁技術研究本部。その廊下を歩きながら、制服に身を包んだ男は言う。
「再放送が、やるんだそうだ」
「ああ──そういえば、そんな話があったな…」
 長髪の男は笑う。と、その後ろを歩いていたもうひとりの男──こちらは対照的に四角い顔と身体をした、がっしりとした体つきの男だ──が言った。
「大尉の発言は、問題になったそうじゃないか?」
「誰だろうな」
 ふっと、言葉を向けられた男は笑った。
 その三人の元へ、「おい!ちょっと待てよ!」と、別の男が駆け寄ってくる。
「提出した資料、間違いがあったぞ?」
 そう言いながら駆け寄ってくる男に向かって、
「おいおい、つい先日まで重傷だったやつが、走ってもいいのか?」
 三人の中のリーダー格の男が、笑いながら言う。その台詞に、長髪の男が続いた。
「また、隣の自衛隊中央病院の世話になるぞ?」
「何言ってんだよ」
 と、駆け寄ってきた男は苦笑した。
「そんなことより、ここだ。各機の解体手順のタイムスケジュール。日付が間違ってる」
 と、示された部分を三人は見た。「間違ってるといっても、一日遅れているだけか──」「問題ないだろう」「その通りだ」
「相変わらず──」
 駆け寄ってきた男は、苦笑したままで返した。
「いい加減だな」
「誰のことを言ってるんだ?」
 笑い、三人の中、リーダー格の男が他の二人に向かって言う。
「俺たちの事じゃないな」
「だな」
「その通りだ」
「さすが、歴戦の勇士たちは、言うことが違う」
「誰のことを言ってるんだ?」
 笑い、男たちは歩き出す。
 その姿を、窓から差し込む夕暮れの陽光が照らしていた。
「あの三人は、それぞれのメカと共に、安らかな眠りについたんだぜ?」
「その通り。そして、あの科学者たちもまた──ね」
「空も海も大地も、今はそこに生きる、全ての者たちに委ねられてるんだ」
 その台詞に、駆け寄ってきた男はひゅうと口を鳴らした。「さすが──」
「言うことが違うねぇ」
 そして笑う。
 先を行く三人を追いかけて──「よし、俺の全快祝いだ、飲みに行こうぜ?」「お前のおごりだろうな?」「おいおい、いくらなんでも、それは逆だろう」「なんなら、あの先生たちも呼ぶか?」
 黄昏に、歴戦の勇士たちの笑い声が吸い込まれていく。


       4

「ただいま」
 と、一也は玄関のドアを開けた。
 しんとした部屋の中に、ちりりんと、軽やかな鈴の音が響いた。
 黒猫のウィッチが、一直線に一也に向かって駆け寄ってくる。「ただいま」一也はその猫に向かって言い、ひょいと抱き上げた。
「遙?」
 そして、しんとした部屋の奥に向かって問いかける。
「いないの?」
 玄関から居間に続く、しんとした廊下。靴を脱ぎ、一也は鞄を自分の部屋の中に投げ入れて、そこを抜けていく。「電気くらい、つけろよ」呟く。
 フローリングの床を、窓から差し込む夕陽が、弱く照らしていた。
「出かけたのか?」
 腕の中であばれた気まぐれなウィッチを離してやると、彼女はたっとリビングのテーブルの下、いつものおきまりの位置に走っていった。
 しんとした静寂が、再び部屋の中に戻ってくる。ぽりぽりと、一也はちょっと茶色い髪を掻いた。
「──録画してるし…」
 ぽつり。
 リビングに置かれていたテレビ台の中に入ったビデオデッキが、静かに動いていた。
 止めてやろうかとも思ったけれど、後で文句を言われるのもしゃくなので、やめた。
 着替えるか──振り返り、リビングを後にする。通り道、点滅していた留守番電話のボタンを押した。
「2件のメッセージがあります。2件のメッセージを再生します」
 電子音の女性の声に、ウィッチがびっくりしてフローリングの床に足をすべらせた。慌てて体勢を立て直す。と、首の鈴がちりんと軽やかに鳴った。一也は笑う。
「いい加減、慣れろよ」
 その耳に、1件目のメッセージが聞こえてくる。ただの、ツーツーという無機質なトーンパルス。間違い電話か、勧誘か──一也は、気にもとめずにジーンズをはき、シャツに袖を通していた。
 一也は気づかなかった。
 その電話は、発信音に切り替わる直前、少しだけ間があった。留守電の応答が始まってすぐに切ったのなら、そうはならない。だけれど──一瞬の間。
 一也の耳に、2件目の録音メッセージが聞こえてきた。
 長い沈黙のあと──
「あー…」
 遙の声。


「留守電って、嫌いなんだよね…」
 電話の向こうの彼女が言った。
「また、切っちまったぜい」
「じゃあ、携帯にかけろよ」
 電話に向かって言いながら、一也は自分の部屋を出た。ダイニングキッチンに向かい、とりあえず冷蔵庫を開けてみる。何かつまむもの──はなくて、ミネラルウォーターだけを手にとって、閉めた。
「今日は香奈さん、小沢さんつれて、一也のご両親とお食事だって言ってたから、きっとこれ、一也が先に聞いてると思う」
「聞いてますよ」
 電話の向こうに向かって言いながら、一也はミネラルウォーターを飲んだ。
「っていうか、なんで留守電にメッセージなんかいれんだよ」
「だから──」
 遙の声が言った。
「香奈さんに、よろしくいっといて」


 受話器を握りしめて、遙は言った。
 左手に、コードをくるくると巻き付け、言葉を選ぶ。なるべく、そっけなく響くような台詞を選んで、
「私、イギリス、帰るわ。そろそろガッコも始まるしね」
 言った。
 アナウンスが聞こえてくる。
 新東京国際空港。
 電光掲示板に、ロンドン、ヒースロー空港便の搭乗手続き開始を告げる英文が流れていた。
「課題やらないと、進級できなくなる」
 笑う。
 そして、言う。
「あ、今日の再放送、ビデオ録っといたから、今度送ってよ。私、登場人物だから、当たり前だけど、見てないからさ。電話とかしてくんなよ、見る前に、内容聞いちゃうと、面白さが半減するから」


 留守番電話から聞こえてくる声を聞きながら、一也はミネラルウォーターの栓を閉めた。
 ぽりぽりと、頭を掻く。
「──勝手な奴だ」
 そして、自分の部屋に向かって歩き出す。
 声は続けている。
「──ごめん」
 小さく。
「って、何言ってんだよって感じだね。まぁでも、一也なら、私の気まぐれも、慣れてるか」
「慣れてますよ」
 呟きを返し、一也は携帯電話を取り出していた。
「いっつもそうだろ…」
「なんか、いろいろあって、一也も私も、今や時の人じゃん。なんていうか、ちょっと日本にも居づらいっていうか──その──一也と暮らしてるのも、恥ずかしいっつーか」
 ぽそぽそという彼女の声に、一也は笑った。
「ばか?」
 言ってみる。
 聞こえるわけはないのに。
 そして、携帯電話で、探し当てた番号にダイヤルする。


「ごめんね」
 遙は言った。
「なんか、逃げるみたいな感じになっちゃったけど、なんかまだ、心の整理がつかないっていうか…一ヶ月たったっていうのに、何言ってんだかって感じだけど──ちょっと、さ。今までの時間、長すぎたし」
 コードを巻き付けていた左手から、するりとそれが滑り抜けた。
 右手を少し振るわせたその衝撃に、遙はぎゅっと、受話器を握り直した。
「──ねぇ。一也?」
 ぎゅっと握り直した受話器に向かって、遙は言った。


「一也は、今、何考えてる?」


「もしもし?」
 一也は携帯電話を耳に押し当てて言った。
「ご無沙汰してます」
 その声に、電話の向こうの相手も彼をわかったのだろう。なにやら続けて話そうとしたけれど、
「あ、お願いがあるんですけど?」
 一也は電話の向こうに向かって言っていた。


「私たち、たくさんの事があったね。
 二年前から、そして、ほんの一ヶ月ちょっと前の、一週間もなかった時間──ほんと、たくさんの事があったね」


 機内アナウンスが英語で流れている。
 小さな飛行機の窓の向こう、夜空に輝く街の灯りと、滑走路の光。
 遙は、静かにそれを見つめている。
 機内の大型ディスプレイには、その番組が流れていたけれど、彼女はそれを見てはいなかった。
 誰も、彼女に気づかない。
 でも、それでいいと思った。


「いいこと、悪いこと、たくさんのことがあったよね。
 みんなには言えないような悩みとか、私にはあったけど、一也にはどう?私は、自分のせいで、たくさんの人、傷つけちゃったりもしたけど、一也はどうだった?
 って、私、そう言えば、一也にもひどいこと言ったな…ごめんね…たぶん、なんも考えてないで、ひどいこと言った。ほんと、ごめん。
 でも──」


「よーし…」
 彼は唸った。
「なに?」
 同じディスプレイに映る同じ番組を見ていた彼女が、そのにやりと笑う彼の表情に、不安を露わにして言った。
「大沢、俺のケータイ、PCに繋げ」
「今、イイトコなんだけどなぁ…」
 言い、植村はキャスターつきの椅子に座ったまま床を蹴った。椅子は植村を乗せて、UNIXマシンの前へと滑っていく。
「バカ者!!」
 植村は言った。
「その再放送のラストに、俺たちで、最後のエピソードを付け加えてやるのだ」
「おおっ!」
 研究室に響き渡るような声で、大沢が唸った。
「…何する気かしらないけど、知らないからね」
 ぽつり、かなた。
 でも止めないで、笑ってる。


「でも──」
 月明かりの差し込むのリビング。
 窓の向こうを見つめて、一也はそっと目を閉じた。
 遙の声が、しんとした部屋の空気を弱く、揺らしていた。「でも──」
「過去、もう、変えられないしさ──その──一也がもしかして、あの過去、なかったことにしたいってんなら、私もそうするし──その──ああ、何言ってんだろう。留守電なんか、嫌いだ」


「ねぇ、一也は今──」


 そっと、耳に押し当てる。
 ゆっくりと、息を吸い込む。
 そして──


「過去から繋がる今の先にある未来──」
 電子音が響いた。
 留守番電話が、メッセージを受けた時間を告げている。
 テープが、巻き戻りはじめている。
「おい、遙」
 一也は言った。
「留守電、メッセージ切れたら、続き、入れとけよ」
 笑いながら、いつもの調子で。


 はっとして、遙は聞こえた声に目を見開いた。
 機内アナウンスから、声が聞こえてくる。誰もが、何事かと、辺りを見回していた。
「あー、まずは、ロンドン行きの機内にいるみなさん、少々、お時間いただきます。ごめんなさい」
 笑うような一也の声。
「並びに、航空管制官、当機機長さん。感謝いたします」


「…よくやる」
 かなたが呟いた。
「朝飯前よ」
 ふふんと口を曲げてみせる植村に、大沢が聞いた。
「これ、放送にも乗っけるの?」
「いいんじゃね?」
 キャスター付きの椅子に座ったまま床を蹴った植村が、ディスプレイの前に戻ってきた。
 ディスプレイには、青い海が映し出されている。全国、全世界に向けて放送されていたその番組も、もう、最後のシーンになろうとしている所だった。
 青い海の向こうに、白い翼が見え始めていた。


「遙」
 一也はゆっくりと言った。「この際だから、はっきり言っとく」
「俺は、過去から繋がるこの今、後悔なんかしてないし、この先の未来も、信じてる」
 その声が、青い海に浮かぶ一翼の映像に重なっていた。
「いいこと、悪いこと。たくさんのことがあったし──戦うとか、戦わないとか──正義とか、この世界を護るとか──なんだか難しいこと、たくさん、俺にもあった。
 誰かを傷つけてしまったこともあるし、心配ばかりをかけたこともあった。
 そりゃ──たくさんの事があった。
 俺にも、遙と同じに」


「でも──」


 青い夏空の下、その青を映して揺れる海。
 その上に、真っ白な翼。
 その翼の上に、ふたり。


「遙は今も──」


 そっと、耳に押し当てる。
 ゆっくりと、息を吸い込む。
 そして──


「過去から繋がる今の先にある未来を、ちゃんと信じてる?」


 青い空。
 それを映した青い海。
 白い一翼の羽根。
「なぁ…」
 彼の声が聞こえてくる。
「新しい世紀へまで、あと何分?」
 一秒が、少しずつ過去に変わっていく。
 進み続ける秒針にあわせて、ひとつずつ──


「どうぞ」
 シートの隣へとやってきたフライトアテンダントが、ハンカチを手にした手を差し出していた。
「まもなく、離陸いたしますので、シートベルトをお絞めください」
 彼女は小さく頷いて、その差し出されたハンカチを手に取った。
「素敵な、彼ですね」
 彼女は笑う。
 だから、仕方がなくて、彼女も笑って、返した。
「ばかなんですよ」


「ノリと勢いで、何でもやって見せちゃう。その気になったら、世界だって救って見せちゃうくらいの、大ばかなだけですよ」


 夜空を抜けていくその軌跡を長めながら、一也は小さく息を吐いた。
 開け放たれた窓から吹き込む風に、秋の香りがした。
 夏の終わり。
 1999年の、夏の終わり。
 差し込む月明かりに、目を細める。
 しんとした部屋の中に、聞こえるような気がする、小さな音。
 左手。
 彼女と同じ時を重ねる、世界でただふたつの時計。
 ふたりの時間を、少しずつ重ねていく、この世界で、ただふたつだけの。






























 人類は歓喜した。
 時に西暦、1999年。
 12月31日。
 千年記が、今、まさに終わろうとしていた。終末を迎えるかと言われていた時代を越え、人類は、新たな時代に踏み出そうとしていた。
 街は、2000年という新しいミレニアムの到来に浮かれていた。はしゃいでいた。
 そして、過ぎゆく2回目のミレニアムの終わりに、哀愁と、感慨を感じていた。

 その街の喧騒から離れて──

 静かな夜空。
 冬の夜空に、星が輝いている。
 白い息が、その空にゆっくりと溶けて、消えていった。
 彼は微笑みながら、それを楽しむようにして再び息を小さく吐き出してみる。
 きんと底冷えする冬の空気。息は、すぐにその澄んだ空気の中に溶けていってしまう。
 澄んだ空気の向こう、深い黒色の夜空に、ひときわ強く輝く星がある。おおいぬ座のシリウスだ。全天で一番明るい、マイナス1.5等星の星。
 街のネオンが、海の向こうに見える。
 眺めながら、歩く。
 潮の香りが風に乗って駆け抜けていく。それは、なつかしい香り。
 伸びきった草。誰も訪れない場所。
 だけれど、約束の場所。
 彼は、腕に巻かれた時計に視線を走らせた。OMEGA speedmaster。その赤い秒針が回っている。もうじき、その全ての針が重なり、表示に0が並ぶだろう。
「まだ、来てないか…」
 世界に何百かあるうちの、たった2つの本物のひとつ。
 彼はそのスピードマスターから、そっと、視線を外して呟いた。
 『mission complete』。オメガのX−33をベースにして作られた、オリジナルのウォッチ。そのマスター。
 彼はそれに視線を落として、弱く微笑む。
 この時計は、世界に何百かあるうちの、たった2つの本物のひとつだった。そして、本物のふたつの『mission complete』は、同じ時間に動き始めて、今も、同じ時間をさしているはずなのに。
 だから、この時に、遅刻なんか、するはずもないのに。
 だけれど、
「ま、そんなモンだろうな」
 彼は微笑みと共に、ため息ともつかない息を吐き出した。
 もうじき、針が重なる。
 それを見ようとしたわけではないけれど、彼は時計をじっと見つめていた。そして結局、なんとなく、4つある機能プッシュボタンをかちかちと押して、その表示モードを変えていたのだった。
 デジタルの表示モードが変わる。TIMEモードから、グリニッジ標準時をしめすUTモード。そして、MTモードへと。
 MTモード。
 ミッション経過時間を表す、スピードマスターだからこそある、特別で、一番大切な機能だ。そして、その時間は、今もなお、回り続けていた。
 彼女が口にした、くだらない台詞を思い出す。
 そして、笑う。
 針が重なろうとしていた。


「…さむ」
「おせぇよ」
「っていうか、マジ寒いんだけど…」
「ロンドンの方が寒いだろ?」
「うん。でも、ずっと機内にいたから、この寒さはつらい」
「コートでも着ろよ」
「あら、こう言うときは、『俺が暖めてやるよ』とか言うべきじゃないの?」
「ホカロンいる?」
「──夢がないなぁ…貰うけど」
「あ…」
「お…」
 東京国際空港脇、そこは、この時計が時を刻みはじめた場所。
 今は草が伸びきって、あの頃、ここにあった建物も、すでにない。
 訪れる者も、今となっては誰もいない。
 でもふたりの、思い出の場所。
 始まりの地。そして──
 海の向こう、街のネオンの中から、いくつもの光の軌跡が夜空に向かって伸びた。
 少し遅れて──黒い夜空のキャンバスに、赤や黄色の花が咲き乱れ始めた。光の明滅と、美しい色彩の調和。そしてそれに続く心地よい爆発音に、新世紀の到来を喜ぶ人々の、拍手と歓声が続く。


 明滅する花火の光が、静かにふたりを照らし出していた。
 何か、言おうとするけれど、ふたり、言葉が見つからない。
 けれど、それもいいかと思って、遙は彼の手を、そっと掴んだ。「ホカロン、くれ」
 気づいた一也は、軽く笑う。そして彼女の手を、そっと握り返した。「やだよ、俺が寒いもん」
 夜空に輝く光。
 新しい千年記を祝う人々の歓声は、ここには届かない。
 けれど、きっとそれがこの世界中に満ちていると、ふたりは信じていた。
「ね…」
 遙が、そっと手を握りながら、言った。
「これで、私たちの時間って、どれくらいになった?」
 白い吐息が、夜空に輝く光に、恥ずかしそうに照らされていた。
「自分で見ろよ」
「やだ。ポケットから手だすと、寒い」
「贅沢な…」
 呟き、一也は時計を見た。「今──」
「ん、別に、いい」
 呟き、彼女はそっと彼に寄り添った。
「動いてるなら、それでいい」
「動いてるよ」
「それ全部──私たちが作った、私たちの新しい時間」
「ばか?」
「あ、こいつぅ…」
「いつだかの、仕返しだ」
 彼は笑って、彼女の事を見た。そしてその手を、そっと握りなおした。
 彼女も彼の視線に、軽くはにかむ。
 そして、白い吐息とともに、小さく、言う。
「いつだかと同じに、続きも、ちゃんとある?」
「ばか?」
 そっと、ふたりは瞳を閉じて寄り添った。
 夜空に輝く、新しいミレニアムを祝福する光が──生まれては消え、消えては生まれる幾千もの光が──
 ふたりを、優しく照らしていた。





[End of File]