studio Odyssey


2nd Millennium END. 第11部




 夜の帳が、横須賀の海を包み込んでいた。
 潮騒の音がかすかに聞こえる静かなハンガー。その中、その潮騒の音の紛れるようにして、植村 雄は言った。
「ファイルです」
 A4レポートをその男の前に置く。男──平田教授はコーヒーを飲む手を止めて、スチール机の上に置かれたファイルに視線を送った。
 手を伸ばす。パイプ椅子が軽くきしむ。
「何のファイルだ?」
 文字ばかりが並んだレポート。センテンスに区切られてはいるものの、ぱっと見てそれが何かは、教授にもわからなかった。植村の隣にいた大沢 一成が続く。
「後ろのほうは、イーグル2の装備変更についてになってます」
「で?」
 言葉の後ろには、「前の方は?」という台詞が隠れている。それをわかって、植村。
「今回のエネミー。あれを作り出した奴らの情報を洗っていて、見つけました」
「何を?」
「三体目の話です」
 植村と大沢の言葉が重なった。




   新世機動戦記 R‐0 2nd Millennium END.
                         第11部




       1

 夜。
 横須賀米軍基地のハンガー。
 水銀灯の光に照らし出された巨大ロボットR‐IIと、そして万能輸送機イーグル2。
 その二機の落とす影の先。ホワイトボードの前。殴り書きのように書かれた文字を眺めている姿。書かれている言葉の意味はよくわからなかったけれど、村上 遙はなんとはなしに、それを眺めていた。
「イーグル2の、装備変更点よ」
 声にはっとして振り返る。その先にいたのは、脳内情報処理研究室の紅一点、桐島 かなただった。
「あいつらの字だから、全然解読不能だと思うけど」
「変更点?」
 呟いて、再び遙はホワイトボードを見た。その遙の横へと、かなたはゆっくりと歩み寄ってくる。「万能輸送機イーグル2は──」
「この装備変更で、無重力下での航行も可能になるわ」
「無重力?」
 ホワイトボードの文字を見つめながら、遙は呟く。
「どうしてそんな必要が?」
 聞き返しておいて、それが意味するところは、なんとなくわかっていた。無重力。そして自分の知っていること。
「エネミー…」
 かなたがその言葉を口にする。
「三体目がいるのよ」
 吉田 一也は、聞こえたその声に、小さく息を吐き出した。
 潮騒の音だけがかすかに響いていたハンガーに聞こえた声。遙に向かって告げられたその言葉に、一也もまた、小さく息を吐き出していた。
 ゆっくりと目を開ける。そして身体を動かす。狭いコックピットシートに埋めていた身体を動かし、開かれたハッチの向こうへと、言葉を投げ出す。
「三体目って、どういうことですか?」
 R‐IIが落とす影の下、ふたりが顔を上げる。かなたが言う。その銀色の巨体の鎖骨の付け根辺り、コックピットのある場所の、その開けられているハッチを見上げながら。
「一也君、いるの?」
「います」
 答えて再び目を伏せる。補助モニターの上に足を投げ出して、頭の後ろで手を組んで。
 知ってた?というような視線を遙に送るかなた。遙は曖昧に笑う。
「今回のエネミーを作った奴らのことを、洗っていてね」
 近くでした声に、一也はゆっくりと片目を開けた。開かれたハッチの向こう、デッキに大沢 一成が座っている。隣にはノートパソコンをひろげている植村 雄の姿。
 植村はコネクタをR‐IIの補助モニター裏につなげながら言った。
「今、奥でその話をしてるんだよ」
「そうですか──」
 興味がないという風に、一也はまた目を閉じた。


「どうぞ」
 と、テーブルの上に吉田 香奈は麦茶を置いた。「これはどうも」と、それを出された男が軽く頭を下げる。
「こういう時、日本語では『お構いなく』と言うのでしたか?」
「いえ、そんなことないです」
 と、香奈はにっこり。聞いていた小沢 直樹はひょいと肩をすくめて隣にいた村上を見た。村上もまた、軽くおどけるように肩をすくめて見せるだけだった。
「何か私、おもしろいこと、言いましたか?」
「ぜんぜん」
 小首を傾げる香奈の手から麦茶を受け取る二人。
「それで──」
 横須賀基地のハンガー。その奥にある手狭な感のある応接室。
 ソファに腰を下ろした男の真向かい、自分も香奈の出した麦茶に手を伸ばしながらに、教授が言う。
「お話というのは?」
 わかってはいたが、一応、聞いてみた。
 男は軽く咳払いを発して、「短刀を直輸入にもうしますと──」「あぁ、単刀直入にですね」
「あなた方Necと我々とで、共に戦うという話です」
 男は言った。
「我々の持ついくつかのことをお教えします。このエネミーのこと、そして──」
 男の言葉を遮るようにして、教授は左手の人差し指をたてた。
「この空にまだいる、三体目、最後の一体を片づけるって話ですか?」
 軽く口許を曲げて、教授は笑った。
「あなた方米軍がどこまで情報を持っているか、知らないですがね。我々もまた、独自のルートでいろいろと情報を仕入れているわけですよ」
 ちらり、と視線を外す教授。男がその視線を追う。小沢は目を細めた。教授は自分のことをちらりと見やった。その視線は、小沢の知る限り、カマかけの時に見せるそれと同じ視線だった。
 小沢は視線を外して小さく息を吐く。
 男の視線は違った。自分のことを、知っているという風な、それに見えた。
「ちょっと、一服して来ますよ」
 村上に声をかけて小沢はその場を離れた。男は自分たちのことをある程度知っている。何者かはわからない。だが、確実に何かを隠している。「あ、香奈さん、ちょっといいかな?話があるんだけど…」「え…?あ。はい」香奈を連れて、小沢が出ていく。
 視線を戻す教授。弛む口許を隠して、言う。
「しかし、突然ですな」
「──なにがでしょう?」
 返す男の言葉に、教授はとぼけた風に、
「いえ、いまさら、どうして米軍が我々と共同戦線なのかなという話ですよ。スパイダーIIは名機ですよ。すでに何度かの実践で、それなりの成果を上げていますし、我々の力を借りずとも、エネミーを止められるかもしれないと、個人的には思うのですがね」
「しかし、スパイダーIIだけではエネミーを倒すには力不足でしょう。あなた方と手を組めば、世界を救うことも、よりスピーディに行うことが出来ます」
「──それだけですかね?」
 視線を外したままで、教授。なんとはなしに見つめる先には、レポートがある。
 探るように、村上は手にした麦茶を口に当てていた。
 教授は言った。
「短刀を直輸入に言うとですね」「単刀直入だろう」「いいじゃないですか、村上さん。言ってみただけですよ」「単刀直入に言って?」
「言うとですね──」
 教授は目の前にいる男をまっすぐに見て、言った。
「あなた方は、はじめから知っていらしたんじゃないですか?このエネミーは、誰かが作り出したもので、シナリオははじめからすべて決まっていたと」
「何故、そんなことを──」
「たとえば──たとえばの話ですが──」
 教授は手を伸ばす。その手に、村上は彼が見つめていたレポートを渡す。
「エネミーの細胞内にあるホメオボックスを作動させるために、奴に強烈な放射能を浴びさせるために、その細胞片を宇宙空間に放り出したりね、たとえば──たとえばですが──無人シャトルの実験失敗を装ってみたり──」
「おっしゃっていることの意味がよくわかりませんが──?」
「たとえばの話ですからね」
 ぺらりと、教授はレポートをめくった。
「そしてたとえば──それによって生み出されたエネミーが、何かの誤算で、自分たちのコントロールをはずれてしまったとか──たとえば──停止させるためのコマンドを、受け付けなくなってしまったとかですかね」
「なるほど、それは焦るな」
 村上。
「飼い犬に手をかまれるような話だ」
「おっしゃっていることが、よくわからないのですが──?」
「結構」
「でしょうな」
 村上とそして教授は軽く言って、同じタイミングにこくりとうなずいた。
「差し上げますよ」
 教授は手にしていたレポートを投げた。テーブルの上を滑って、それは男の前でぴたりと静止した。「それと、残念ですが、私らには、ポリシーがありましてね」
「マッドサイエンティストって人種は、軍だの政府だのと組んでやったりはせんのですよ」
 教授の言葉に、村上は目を伏せて口許を曲げた。
 男の方は、その答えにいぶかしそうに眉を寄せていた。
 教授はそれをわかって、最後に言った。
「私らは主役ですからね、人に利用されるのなんか、まっぴらですよ。だけれどご心配はなく。シナリオはすべて修正されて、できあがってますからね」
 にやりと笑って。
「この私の頭の中でですがね」
「──それは不安だな」
 ぽつりと村上が言ったが、教授の耳には届かなかった。


       2

 男は軽い舌打ちをした。
 水銀灯の青い灯りの中、照らし出された巨大ロボットの装甲板に向かって。憎々しげに。
 その舌打ちに、軽くため息。そして、言う。
「三体目がいるそうで」
 流暢な英語の響きに振り返る。男の視界に、少し茶色い髪の彼の姿が映る。男はその彼の姿に、自嘲に似た笑みを口許に浮かべた。
「これは…歴戦の勇士」
「シナリオは、すべて決まっているという話だったんじゃないんですか?」
 一也の言葉に男は答えない。答えずに、その胸元に手を入れて──
「ここは残念ながら、禁煙なんですよ。Smorker」
 一也がその手を言葉で止めさせた。そして、言う。「聞いた話じゃ、この──」人差し指をたてて、遥かな上空、天井よりも向こう、空に浮かぶ雲よりも向こう。
「宇宙に、あなたたちが打ち上げた最後の一体が、いるという話らしいですけれど?」
「どこから仕入れた情報だか、知らないがね」
 男は気分を害したという風に、投げつけるようにして返す。
「事実、この宇宙に最後の一体が浮かんでいる。君らの情報がどこから来たものか知らないがね」
「どうするつもりなんですか?」
 ため息のようにして一也。聞く必要なんか、なかった。自分はきっと、戦うだろう。今ここで、この男の答えを聞く必要なんか、なかった。それでも聞いていた。もしかしたら──そう思って。
 しかし、男は言う。
「以前も言ったが──」
 男は言う。
「奴を生み出したのは、我々だ。そして我々は、そのすべてのシナリオを操作している。君がどうこうと言うことではないよ」
「じゃあ、何故、ここにあなたは来たんですか?」
 その言葉を発したのは、一也ではなかった。


「三体目──」
 ぽつりと呟いたのは小沢。呟いた言葉の後ろに、煙草の煙が続く。
 潮騒の音とそして夏の夜空。ハンガーの外の喫煙所。聞こえる声に、小沢も小さく息を吐いた。
「それが、この宇宙に?」
 ちらりと声の方を見やる。視界の端に入ってくる、その声の主、香奈の姿。
 小沢は煙草をゆっくりと吸いながら、
「うん。研究室の子たちが洗い出したデータを信用して言うのなら、五月のシャトル事故のとき、宇宙に運ばれたエネミーのコア細胞は、三つ」
「シャトル事故?」
「覚えてないかな?」
 小沢は煙草をくわえたまま、頭をぽりぽりと掻いた。
「もっとも、誰も乗っていたわけでなくて、人死にもなくて、大きなニュースにはならなかったんだけど──いや、アメリカ初の無人スペースシャトル計画で、その失敗を受けて、アメリカは無人シャトルの計画を三年延長したって話くらいはニュースになったっけ…」
「…三体目が宇宙に居るってことは、じゃあ」
 香奈は静かに呟く。呟きながら、その、夜空を見上げて。
「いつか、それがここに降りてくる?」
「…いや」
 小沢もまたその夜空を見上げて、右手に持っていた煙草を夜空にかざしてみた。そして軽く息を吹きかけて、その赤い光をすこしだけ強くしてみた。
 曖昧に、笑う。
「そいつがここに降りてくる時は、終末のときになる」


 男は声のした方へと振り向く。
「これは…」
 そして、鼻を鳴らすようにして笑った。
「役者がそろったようだ」
 一也もまた、その視線を追った。少し聞き取りにくい、西海岸特有の早口の英語。
「じゃあ、何故、あなたはここに来たんですか?」
 一也は、彼女が話すその言葉を聞くのは初めてだった。少なくとも、自分が理解出来るという意味では。
 いつもの声。遙の、すこし舌っ足らずな感じのある、いつもの声。だけれど、初めて聞く彼女の言葉。
 遙は言う。男を見つめたままで。その言葉で。
「本当は、あなたも気づいてる」
「何に?」
「ただ、認めたくないだけ」
「レディ、言葉の意味が理解できないが?」
 静かに目を伏せ、遙。
「スティーブン・ハングと会ったわ」
 言う。
 男が身をこわばらせたのが、一也にもわかった。その人の名は知らない。けれど、その遙が発した人の名に、男は明らかに反応していた。
 遙は続ける。それは、その言葉でではあったけれど、男の方に向かってではあったけれど、もう一人に向けて。
「あなたたちと一緒になって、このエネミーを創りだした男。そして、それで正義を行おうとした男」
「──奴は、今どこにいる?」
 声を落として男。遙は口許を弛ませて返す。「さぁ?」
「あなたたちのシナリオの通りじゃ、ないの?」
 男は何も言わない。言えない。
「あなたたちも、気づいてる。ただ、認めたくないだけ。スティーブもそう。そして、あなたもそう」
 遙は続けた。
「あなたたちの正義じゃ、この世界は護れない。ううん──そうじゃない。あなた達の語る正義は、そもそも正義なんかじゃない」


「アメリカ初の無人スペースシャトルのプログラムをね、植村が持っていたんだ」
 中野 茂──通称シゲ──は言う。防波堤の上。打ち付ける波の音に紛れるように、ハンガーから漏れてくる光に照らされた、隣に座る金色の髪の大使、ベルをちらりと見て。
「卒業研究を、それで終わりにしようとしていたらしい」
 ベルは笑う。
「でも、それが世界を救うことになった?」
「かもしれない」
 シゲも笑う。そして続ける。
「で、そのソースを追っていたんだ。イーグル2に移植しようとしてね。だけど、その中であいつは大変なものを見つけてしまった。はじめは、奴も目を疑ったらしいよ。あいつが言うんだから、よほどだ」
 ベルは曖昧にうなずいた。そして手の中にあったそのレポートに視線を止めた。
 ぽつりと、呟く。
「──事故は、仕組まれて?」
「無人のシャトルを打ち上げたのは、きっとそのためなんだ。エネミーを作り出した奴らには、エネミーを宇宙に送り出す必要があったんだ」
「二年前のエネミーと同じと思わせるため?」
「かもしれないし、そうでないかもしれない」
 小さくため息を吐きだすシゲ。「これはあくまで想像だけど──」
「五月の打ち上げがあってエネミーが降下してきたのはこの七月」
「二ヶ月?」
「これはあくまで想像でしかないけれど、奴らははじめから、自分たちの力だけでエネミーを創り出すことは出来なかったのかもしれない」
 ゆっくりとシゲは夜空を見上げた。
「エネミーのホメオボックスを作動させるキーが、宇宙にあったとして、そのために、奴らは無人シャトルを使って、エネミーのコアを宇宙に送り出した──」
「そして、エネミーが生まれて──」
 呟くベル。彼女もまた、夜空を見上げている。
 シゲが呟く。
「言うなれば、進化」
「それが──進化?」
「次の時代に進むために、エネミーの研究は、大切なことだと思う」
 シゲはベルの手の中からレポートを受け取りながらに呟いた。「僕も、エネミー──超過生体有機体の研究をする一人としてね。その力、人を越えた能力、すべては次の時代に必要な進化だと思う」
「でも──」
 言葉を濁すベル。この星にエネミーをもたらしたのは、自分たちだ。そしてそれによって生まれたものを修復して、新しい時代に──そのために自分たちはここまでがんばってきたのに──
 うつむくベル。「でも──」その後に続けたい言葉はたくさんあるのに、何一つとして、言えない。
 シゲは、そのうつむく彼女の金色の髪を見つめていた。
「植村たちが、エネミーの体内に構築されているナノシステムのプログラムを解析したんだ」
 レポートをめくるシゲ。ベルはその手元を追う。
「これも、奴らの推測なんだけどね。奴らには、ひとつの目的があって、行動してると考えられる」
「──二年前のエネミーが、都市に向かって侵攻するようにプログラムされていたように?」
「そんなとこ」
 目当てのページを見つけ、シゲは手を止めた。「それが、これを作り出した奴らの、正義なんだ」
「このエネミーは、この世界を護ること、ただそれだけがプログラムされている」


「正義ってな、何でしたかね?」
 ハンガーの奥の部屋。
 蛍光灯の明かりの下、教授は窓から見える夜の海に、映るの自分の姿に、呟く。
 言葉の先にいた村上が、目を伏せて首を傾げている。
「さぁ?」
 笑う教授。
「村上さんの、あの最後の演説は、今も伝説として語り継がれているんじゃないんですか?」
「昔の話だよ」
 村上も軽く笑った。「もう、覚えている奴らがいるかどうか」
「いますよ」
 教授。
「すくなくとも、我々は覚えてます」
「そりゃ、どうも」
 村上は、ただそういって口許を曲げて笑っていた。
 窓の向こうを見つめて、教授は小さくうなずく。「覚えてますよ」


「終末?」
 夜空から視線を外して、香奈。少し見上げる風な位置になる横顔に聞く。
 横顔が、返す。
「宇宙にいるエネミー甲殻卵体──卵の軌道を、大沢くんが計算してくれてね。わかったんだ」
「降下してくるんですか?」
「いや」
 煙草をゆっくりと吸って、吐く。言葉を選ぶような時間。香奈は横顔を見つめている。小沢はただ、夜空を見上げている。
「奴が降下するときは、終末とイコールになる」
 横顔を見つめていた香奈は、その小沢の言葉に視線を外した。視線を外したくなるような響きの、その声。いつもとは違う声。自分で気づいてはいないようだけれど、香奈にはわかる、その声。
 うつむく香奈の耳に、小沢の声。
「エネミー甲殻卵体の軌道と、ある探査機の軌道とが、交錯するポイントがあるんだ。もしも、そのポイントで二つが衝突すれば──」
「その時が、終末──?」
 香奈にはよく、理解出来なかった。もしも衝突があったとして、どうして?
 小沢がそれをわかって、言う。
「相手は、木星探査機カッシーニ」
 すうと、小沢は煙草を吸った。
「NASA史上最大の惑星探査機。その中には、二十億人分の致死量に相当するプルトニウムが積まれている。地球の重力で加速するための軌道上に、エネミーの軌道がある。もしも二つが衝突すれば──」
「大丈夫です」
 小沢の言葉を、香奈は薄く微笑みながらに止めた。「言わなくても、大丈夫です。言っちゃうと、不安になっちゃいます。大丈夫」
 小沢は彼女のその言葉に、ゆっくりと息を吐いた。笑う風に。
「だって、私たちはそのために今、ここにいるんですよ?」
 そして香奈は小沢の手を取った。
「終末なんか、きっと来ないです」
 夜空を見上げ、香奈は言う。
 答えを返す代わりに、小沢はその手に、すこし力を込めた。


「この星は、護るべき価値があるか」
 夜空を見上げて、シゲは笑った。
「奴らが出した答えって、なんだったんだろ」
「奴らって──エネミー?」
 ベルはシゲの言葉に首を傾げた。「エネミーには、そこまでの知力はないんじゃ──」
「相手は、超過生体有機体だからね」
 真面目な顔をして言うが、むしろそれが逆効果で、ベルは思わず吹き出した。
「シゲさん、どうしたの?」
「いや、ただ、気になっただけで」
 夜空を見上げる。
 潮騒の音が響いている。ベルはシゲの言葉を待っている。
 シゲは、ゆっくりとそっと、言った。
「奴らの中の正義──そしてその答え──一也くんや、遙ちゃん、そしてベルや、僕たちみたいに──奴らもって──」
 潮騒の音。消えていく、声。
 沈黙。
 夜空に瞬く夏の星座に、ベル。
「──だとしたら、悲しいですね」
 生まれた声は、やがて静かに消えていく。
「──うん」
 防波堤の上。打ち付ける波の音に紛れるように。
 ハンガーから漏れてくる光に照らされた金色の髪が、そっとその腕に寄り添う。コンクリートの上の手と手が、そして重なる。
「でも、奴らは、正義なんかじゃない」
 小さく、シゲ。だけれどしっかりと、はっきりと。
 ベルは静かに目を伏せた。「シゲさんの正義は、オトコのコは、可愛いオンナのコを助けるために、命張るくらいでなきゃって?」
 言葉の後ろの方は笑っていた。だから、シゲも笑って、返した。
「そう」


 水銀灯の光。
 男はすでに消えていた。
 ハンガーの中。
 一也は男の出ていった先を見つめていた。そして遙もまた、その向こうを見つめていた。
 言葉を探すけれど、何を言ったらいいのかわからなくて、一也は深く呼吸をした。
 そしてゆっくりと遙から離れていく。
 聞きたいことは、たくさんあった。
 ふたり、それぞれに聞きたいことは、たくさんあった。だけれど、何も言わなかった。一也も、そして、遙も。
 離れていく一也の背中から、遙は視線を外す。
 そして歩き出す。
 水銀灯の青い光に、R‐IIとそしてイーグル2が照らし出されていた。


       3

 七月二六日。
 窓から差し込む朝日に、一也は目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしい。ゆっくりと身体を起こして部屋の中を見回す。白を基調とした、ホテルの部屋。
 髪をかき上げ、寝癖に気づく。
 夕べはなかなか眠れなかった。考えることが多すぎて。
 何を考えていたか、一夜明けて、よくは思い出せなかった。昨日一日、たったの二四時間だったけれど、たくさんのことがあった。ありすぎた。
 それを考えていたような、そんな気がする。
 まだ寝ぼけ気味な頭を掻きながら、一也はバスルームへと向かった。シャワーを浴びようと、途中でバスタオルと服を引っかけていく。
 インターホンが鳴った。
「──誰?」
 呟きながらも、なんとなくわかっていた。
 ドアの向こうにいるであろう人をわかって、一也は寝癖にはねた頭を押さえつけながらドアを開ける。ドアの向こうには、案の定、思った通りの人物がいた。
「おはよう」
 笑って言う、遙。
「ああ」
 素っ気なく一也は返す。「何?」
「ほい」
 と、遙。自分の耳に当てていた携帯電話を一也に押しつける。
「出撃」
「エネミー?」
 眉を寄せ、ぱっとそれを受け取る一也。服とバスタオルを部屋の中に投げ戻し、耳に押し当てて言う。
「もしもし?」
「しゅっつげきー!」
 電話の向こうで、その相手は笑いながらに言った。
 耳元での大声に、一也は目を伏せて携帯電話を咄嗟に離す。「なに?」言う一也の向こう、遙は笑っていた。よく見れば、その服はすぐにでも出かけられる格好に見えて、手にはテンガロンハットを持っていた。
「なんスか?」
 電話の向こうに向かって、一也は聞き返した。電話の向こうの相手、佐藤 睦美の声がけらけらと楽しそうに笑いながら返す。
「あっそびに行こうぜー!暇でしょ?」
「暇って…」
 遙を睨んで、
「俺、いちおう受験生なんスけど?」
 言う。が、睦美は軽々。
「私が受験生の時の夏は全力で遊んでた」
「たしかに」
 睦美が受験生の時の夏は二年前。自分が高校の一年生の時。
「一緒に、夏祭りも行ったじゃん。一也くん、遙とプールも行ったんでしょ?」
「行きましたけど…でも、今はあのときと違うでしょ。世界は、非常事態ですよ?」
「自衛隊の駐屯地で一晩も明かした」
「…そうすけど」
「同じじゃん」
 言われてみれば、
「──そうですけど」
 呟く一也に、睦美は続けた。
「遙もせっかく帰ってきたしさ、みんなで、また遊びに行こうよ。恭子も吉原くんも、詩織ちゃんも誘ったぜぃ」
 軽く笑いながら言うその言葉に、一也は一瞬、どきりとした。眼前で笑っている遙に背を向け、少し声の調子を落として聞き返す。
「──それで…?」
「当然、来るってよ。一也くん、ここんところ、詩織ちゃんと会ってないべー。なんか寂しそうだったぞ」
「あ…」
 何かを言おうとして、やめた。背中の向こうの遙が、軽く笑いながら言っていた。
「私、こっち戻ってきてから、どこも行ってないんだよね」
「だから?」
「天気もいいし、お台場行こう」
 言ったのは電話の向こうの睦美だ。
「パレットタウンのサンウォークもさ、オープンしたじゃん」
 目の前の遙もまた、笑っている。
 そして遙は、手にしていたテンガロンハットをひょいとかぶった。
 一也は小さく息を吐いて、遙に手にしていた携帯電話を戻した。「とりあえず、シャワーは浴びたいんだけど?」
「どうぞ」
 短く答えて、遙は携帯を耳に押し当てた。
「で、何時にどこにしよっか?」
 窓の外には、夏の空が広がっていた。
「──夏だしな」
 小さく、一也は呟いた。


 エキゾーストノートと吹き抜ける心地よい風に、遙はちらりと助手席を見やった。
 けれど、そこあった横顔に、
「なぁに、私とじゃ、フマンなわけ?」
 唇をとがらせて言う。
「別に」
 短く返すのは一也。
 赤いオープンカー。フィアット、バルケッタ。左ハンドルの運転席から、助手席の一也に向かって、
「なんか、こーんなに可愛い子が運転してる車に乗ってるってのに、楽しそうじゃない」
 遙。
 一也は小さくため息を吐いた。
「俺は、車よりバイクの方が好きだからね」
 一也はバイクで出かけようとしたのだが、遙に押し切られたのである。「運転してあげるから、車」「いいよ、俺はバイクで行くから」「なんでそういう、面倒くさいことするの?」「じゃあ、後ろに乗ればいいだろ」「私、今日スカート」「知るかよ!」
 結局、一也が譲ったのだった。
 不満気味な横顔に向かって、遙は言う。
「車嫌いって、免許持ってないからでしょ?」
「車くらい、乗れる。巨大ロボットに乗るより簡単」
「そりゃそうだ」
 遙はうんうんとうなずいた。車はレインボーブリッジにさしかかる。視界の向こうにフジテレビ本社、その向こうの大観覧車、有明フロンティアビルが映った。
 遙は感嘆のような息を吐きだし、聞く。
「ビル、増えた?」
「いくつか」
 短く返す一也。
「二年前の面影なんか、ないよ」
「ああ、そういえば、あそこにイーグル着陸させたことあったね」
 遙が見る先は、お台場海浜公園の海岸だ。「そんなことも、あったっけ」一也は素っ気ない。
「あった」
「そっか」
「あったんだよ」
「じゃあ、あったかもしれない」
「──不満?」
「そんなんじゃないよ」
「みんなと会うことが」
 ハンドルを握ってまっすぐに前を向いたままの遙の言葉に、一也はどきりとした。けれど、それを悟られまいと、「なんでよ」短く言って、流れていく景色から視線を外すまいとしていた。
 遙は、一瞬だけその横顔を見て続ける。
「乗り気じゃないのかなぁって感じ」
「そんなこと、ないよ」
 本当はあまり乗り気でもない。
 詩織も来るのだと聞いた。本当の事を言えば、会いたくはない。けれど、彼女は自分から行くと言い出したらしい。何故だろう──その方が気になった。断れないことじゃないのに。そして自分もまた。
「なんでもいいけどね」
 遙が小さく呟いた。
「これがもしかして、地上での最後の想い出になっちゃったりするかもしれないんだし」
 フィアットはレインボーブリッジを抜けて行く。
 見上げる空は、果てしなく青い空。


       4

 夏の近づく空から降り注ぐ陽射しに、一也は目を細めた。
 小走りに遙が先をいく。台場駅を右手に、来年の春には完成予定のアクアシティを左手に、ゆりかもめのガード下を抜けて、フジテレビ社屋の階段前。
 待ち合わせの場所へと、遙は小走りに急いでいく。
 タイル張りのシンボルプロムナードを行くと、その先にみんなの姿があった。
「道、込んでたんだよ」
 開口一番、遙は言う。
「そんなの知らない」
 返したのは睦美だ。腰に手を当てて、ちょっと怒り気味に言う。その隣では彼女の高校時代からの親友、神部 恭子が笑ってる。「まぁまぁ」「遅刻は一分につき百円の約束だ」「マジで!?」「おおマジ」
「よ」
 少し離れたところに立っていた吉原 真一が、軽い挨拶に一也に向かって手を挙げた。一也も軽く片手で返す。「なんだ、思ったより元気そうじゃねぇか」「なんだよそれ」
 彼の隣には、詩織が立って笑ってる。まるでいつもと同じように。
 だから、一也は吉原と笑いながら話す。いつもと同じ風に。
「お前、この前、テレビ見たぞ?」
「何をよ?」
「イーグル2。先輩、怪我したそうじゃねーか。お前、その時、まぁたサボってたんだって?」
「サボってたワケじゃないっての」
 一也は苦笑いを返した。吉原に言われる感じは、悪い感じじゃない。軽い物言いと、そしてずっと、あの頃からの親友だからというのも、あるのかもしれない。お互い、なんとなく分かり合ってる。そんな気がした。
「まぁ、お前も先輩も、もしもいなくなったりしたら、静かになって寂しくなるのは、確かだけどな」
 ぽつっと言って、ジーンズのポケットに手を突っ込みながら、吉原は歩き出した遙たちの後について、シンボルプロムナードをセンタープロムナードの方へと向かって下り始める。
「縁起でもないこと言うなよ」
 その背中に向かって、笑いながら言う。吉原はおどける風に肩をすくめて見せていた。
 少し、ほっとした。久しぶりにあったけれど、何も変わらない。このしばらくの間に、たくさんのことがあったけれど、別に何も──
「おはよう」
 別に、何も──
「…おはよう」
「って時間でも、ないか」
 小さく笑って、詩織は腕時計を見た。
 その感じは、まるでいつもと同じ。別に何も変わっていないように思えて──詩織は少し口許を弛ませて、言った。「来ないかと、思ってた」
「本当は私も、来るべきじゃないのかな?って思った」
「あ…と…」
 返すべき言葉を探すけれど、その言葉が出てこない。何を言ったらいいかわからなくて、詩織が何を言おうとしているのかわからなくて──
「あの…ひとつだけ、お願い事があって、今日はきたの」
 詩織はまっすぐに一也を見て、言った。
 一也は困惑したように視線を外して、灰色のタイル張りのプロムナードを見た。「あっ、違う。そうじゃないから」咄嗟、詩織。「違うんだ…」
 ぽつりと呟いた詩織の声は、遠くから聞こえた彼女たちの声にかき消された。
「おーい!なにしてんのー!」
「ひさびさ会って、らぶらぶー?」
 遠くから冷やかす声。「うせるぇよ!」一也は苦笑気味に、投げつけるようにして返す。
「なんなら、オバさんたちは勝手に楽しむんで、若い二人は、若い二人で…」
「きゃぁー!」
「ねぇ。でも、自分で自分たちのことオバさんていうと、少し寂しくならない?」
「なる」
「あ…なる」
「何の話してんスか…」
 遠くでのやりとりに少し笑って、「いこっ」詩織は一也の隣をすり抜けて、小走りに進んだ。「あ…うん」
 その後ろを一也は追う。程なく追いついて、自然とその隣に並んで──「同じ、傷つくならって、一也、言ったよね?」
 隣の詩織が小さく呟いた。
 視線を送る自分を見ずに、まっすぐに前を向いたままで、そっと、だけれどしっかりと。
「その言葉、ずっと、考えてた。考えて、考えて、それで、一也にもいろんなことあったんだろうなって考えて、それで昨日──」
 センタープロムナードへと続く坂の途中、
「だからね、私も、その言葉のこと、ずっと考えてた」
 詩織は静かに言う。「だから、一晩考えて──私の中での答え。気持ち。大丈夫。だから今日は」
「ちゃんと聞くから、ちゃんと言って」
 少し早口に言って、詩織はプロムナードで待つ皆のところへと駆け寄った。「置いていかないでくださいよー」「ええっ。本当は二人っきりになりたいくせにー」「オネーさんたち、気ィきかせたげましょっか?」「なんでですかぁー」「ってか、先輩。何げに今度はオネーさんにしましたね?」「くだらないツッコミすんな」
 笑いながら歩いていくその背中を眺めながら、一也は小さく息を吐いた。「ちゃんと聞くから──」その言葉に、静かに目を伏せる。
「おい、待てって!」
 駆け出して、軽く笑う風にして後を追う。
 変えられない過去から、未来へ。


   5

「あれ?」
 横須賀。
 米軍基地内のハンガーに顔を出して、小沢は首を傾げた。
「何かあったの?」
 と、巨大ロボットの足下を小走りに抜けて行こうとしていた植村を呼び止める。「ああ、小沢さん」立ち止まり、植村。
「香奈さんなら、奥にいましたよ」
「俺がここに顔を出す用事はそれだけじゃないでしょう」
「でも、それがほとんどでしょう」
 あながち──と思いつつ、視線を外す。外した先、サーフェイサーのかけ終わった巨大ロボット、R‐IIのバックパックに、飛行装備が取り付けられていた。
「エネミー?」
「だったら、もっと慌ててますよ」
 笑い、植村は近くにいた整備員に「ユニットの接続が終わったら、プログラム3のチェックをしてください!」と声をかけている。
「次の作戦行動のために、移動です」
「移動?」
 眉を寄せて小沢は聞いたが、植村はにやりと笑うだけで、「じゃ、そゆことで」と離れていく。「大沢っ、取り付けられるバーニヤは先に付けて!」
 ハンガーの奥に消えていく背中に、小沢は頭をかいた。
「また、何かやろうって事かな?」
 小首を傾げて呟き、ハンガーの奥に向かって歩き出す。
 ハンガーの奥には、教授たちの陣取る作戦会議室──名は豪華だが、ようは応接室──があった。何の悪巧みをしているのかは知らないが、きっと教授たちはそこにいるのだろう。植村情報によれば、香奈もそこにいるという話で、
「あ、小沢さん」
 ドアノブに手をかけようとしたところを、小沢は彼女に呼び止められた。
「あ、おはよう…って時間でもないか」
「もうお昼ですからね」
 応接室の脇にある給湯室から、香奈がちょうどお盆を両手に持って現れたところだった。香奈は軽く微笑みながら、続ける。
「小沢さんも麦茶、飲みます?」
 両手にしたお盆をちょいと掲げてみせる。涼しげに水滴の付いたグラスがふたつ、その上に乗っていた。「もらおうかな」「じゃ、今入れますね」
「教授と…村上さん?」
 ふたつのグラスに、小沢は聞いた。香奈はこくりと頷いて返す。
「なんかの、悪巧みみたいです」
「だろうね」
 笑って、小沢はノックもなしにドアを開けた。
 突然に開いたドアに、中にいたふたりがはっとして顔を上げる。けれど、そこにあった顔に、安堵のようなため息を吐いた。それをわかって、小沢。
「何の悪巧みですか」
「失敬だな」
 むすっとして教授は返す。
「そんなことはしていない」
「ですか?でも、悪巧みしてましたって顔でしたよ」
 笑いながら、小沢はお盆を手にした香奈を部屋の中へ通してやる。「植村くんなんかにも、R‐IIをいじらせているみたいですしね」
「ここにいると、我々の動向が米軍に筒抜けだからな」
 悪巧みの輪の中にいた村上が、手元の書類に判子を押しながらに返した。「今となっては、敵も味方もない状態だ」
「少なくとも、一部は味方じゃない──ですしね」
「その通り。と。これで、書類は全部だな」
「確認しましょう」
 右手で香奈からの麦茶、左手で書類を受け取る教授。小沢はその書類を見つめながら、聞いた。
「なんです?」
「Necの、完全復活と言ったところか」
 返したのは教授ではなく、村上。村上もまた香奈から麦茶を受け取って、腰を落ち着けていたソファから立ち上がった。
「次の作戦を成功させるためには、この場所と今の装備では、どうすることもできないからね」
「移動──って話らしいですが?」
「Necの復活と言ったら、この場所ではかなうまい?」
 書類に目を通しながら教授は言った。
「それに、次は『そら』だ」
「『そら』?」
 聞き返す小沢に、村上。
「宇宙と書いて、『そら』と読ますか」
 応接室の窓から、夏の空を見つめて笑う。「21世紀──新しい、時代か」
 教授も目を伏せて口許を弛ませながら、「そのための『翼』です」 手にしていた書類を小沢に手渡し、言う。
「今、目の前にある壁を越えるための。ですかね」
 小沢は手にしていたグラスをテーブルに置きながらそれを受け取り、そこに書かれていた申請書の文面に目を丸くした。
「『E』タイプ!?」
「すでに、シゲが取りに行ってるよ」
 教授はさらり。
「あとは、あれを整備する整備員たちと、その場所だがね。二枚目がそれだ」
 小沢はページを繰って二ページ目に目を通す。確かにそこに書かれた文面はその通りで──「Nec、完全復活と言ったところか」村上は笑っていた。
「歴戦の、勇士だからな」
 何かを言おうとして顔を上げた小沢に、教授も軽く口許を弛ませて返した。


       6

 午後の陽光が振り注ぐ八月の風の中を抜けて、一也たちはプロムナードを歩いていた。
 パレットタウン内にオープンしたばかりのショッピングモール、サンウォークの店々をのぞき見て周り、MEGA WEBをくるりと抜けてブルーヘブンでちょっと遅めの昼食を取って──一也と吉原のビリヤード一騎打ちに笑い、負けた吉原は次に行ったネオジオワールドのバクテンでリベンジを挑み、お陰でふたりのペアにされた遙と詩織は大絶叫。睦美と恭子はただお腹を押さえて笑い続け、そして──八月の長い午後のプロムナード。
 隣を歩く詩織。
 ちらりとその横顔を見て、「なぁに?」問いかけられる言葉に、「いや、なんでも…」一也はまた前を向く。
 詩織は少しだけうつむいて、
「みんな、待ってるかな?」
 呟く。
 レンガ張りプロムナードをまっすぐに行けば、潮風公園の噴水広場がある。睦美、恭子、吉原、そして遙は先にその場所で待っているはずだった。
「…どうだろ」
 素っ気なくという風に、一也は言う。
 ミュージアムからの帰り道。
 眼前に広がる東京湾の輝く水面と、かすかな水の音。噴水広場の石段に座る、皆の影。それを目に留めた詩織が言う。
「いた…」
 笑う。
「さ、行こう?みんな待ってる」
 小走りに走り出すその背中を追いかけるように聞こえてきたジェットエンジンの音に、一也はゆっくりと夏の空を見上げてみた。


「呼び出してごめん!」
 パレットタウンを出た一也の携帯電話が鳴ったのは、その三○分ほど前の話だった。
「いえ、別にいいですけど」
 東京都港区台場。
 そのミュージアムの広大な駐車場に止まっていたS2000に駆け寄りながら一也。S2000の脇で待っていた男は軽く、悪びれた風でもなく、返す。
「悪いねぇ、デートの最中だったね?」
「そんなんじゃないですよ」
 一也は苦笑した。後ろには、パレットタウンから着いてきた詩織がいたのである。本当は、その場所には詩織ではなくて、遙がいるはずだったのだが、面倒くさがって詩織にタッチしたのである。「二人きりになるチャンスだ!」「ええっ、そんな…」「先輩の好意を受けとっておけっ!」「好意かぁ?」
 ともかくも、
「おひさしぶりです」
 詩織はその車の脇に立っていた人に向かって、ちょいと頭を下げた。
「こちらこそ。詩織ちゃんも、元気そうで」
 と、中野 茂──通称シゲ──は笑う。が、
「でも、そういうシゲさんこそ、デートだったんじゃないんですか?」
 詩織に言われて、笑顔をこわばらせる。そのシゲの立つ車の反対側で、金色の髪を揺らしてベルがおかしそうに笑っていた。
「仕事だよ」
 きっぱりとシゲ。「笑いすぎ」笑っているベルに向かって言って、
「昨日話していた奴。今から移動するから」
 そのミュージアムの入り口を指さした。
 東京都港区台場。
 その場所に立てられたミュージアム。
 特務機関、Necの名を継ぎ、その装備を納めた歴史の語り部としての場所。
 シゲとベル。その後ろに続いて、一也と詩織。
 十数段の階段をゆっくりと上がり、四人は回転扉から中に入った。
「移動って?」
 詩織が小声で聞く。シゲは受付にいた女性になにやら書類を見せて、誰かを呼びだしていた。
「ここにあるイーグルを使うことになったんだ」
 それを見ながら一也。詩織も視線を追って続く。
「イーグルって──先輩が乗ってた、飛行機?」
「そう」
「どうして?」
「──話すと、長くなるかな…」
 呟きながら、一也はシゲとベルの方の様子をうかがってみた。書類を渡しはしたものの、向こうも少しとまどっている風だった。受付にいた女性が内線を使って呼び出しをかけているようだったが、受話器に向かって話すその表情から察するに、あまりうまく──「シゲさん」
「あ?」
 一也は入り口から伸びる道を指さして、言った。
「ちょっと奥、行ってていいですか?R‐0、見てきたいんで」
「あ?ああ、いいよ」
「──歩きながら話すよ」
 何度来たか知れないミュージアムのその場所への順路を、迷うことなく一也は歩き出した。
 後ろに「うん」と小さく頷いて、詩織も続いた。


「ね」
 詩織は言う。
 その場所への道を辿りながら。
「ん?」
「今日、会ってすぐにした話、覚えてる?」
「…なんだっけ?」
「嘘つき」
「なんでよ」
「ひとつだけの、お願い事って話」
「──ああ…覚えてる」
「ちゃんと聞くから、ちゃんと、言ってね」
「──何を?」
「でもその前に、一也の話。先輩の飛行機を持ってくって?」
「ああ──えぇっと…」


「宇宙に行くんだ」
「え?」


「いや、宇宙」
「宇宙って、宇宙?あの、宇宙?」
「その宇宙」
「どうして?」
「地球を護るため」
「また、そうやってはぐらかそうとしてるでしょ。許さないよ?」
「してないよ」
「ちゃんと言って」
「──宇宙に、三体目のエネミーがいるんだ。それで、そのエネミーがね、ちょっとまずいんだ。カッシーニっていうプルトニウムをたくさん積んだ衛生と、ある地点で衝突しちゃう」
「──プルトニウムって、核爆弾に使ってるやつ?」
「そう。だから、僕はその前にエネミーを倒さなきゃならない」
「そう──」
「うん──それで、大気圏から離脱するのに、どうしてもイーグルが必要なんだ。イーグル2とイーグルをドッキングさせて、イーグルの最高高度でイーグル2を射出して──」
「そう…」
 小さく、詩織は呟いた。
 その声が小さすぎて、その声を耳にしてしまった一也は、もうそれ以上、何も言えなくなった。
 ふたりはその場所へと向かって、ゆっくりと歩いていく。
「あの…わかって、欲しいんだ」
 生まれてしまった沈黙を破るようにして、小さく一也。
「何を?」
 返す詩織に、そっと、言う。
 青い水銀灯の明かりの差し込む入り口。その中へ、ゆっくりと足を踏み入れながら。
「僕は──やっばり、R‐0のパイロットなんだよ」
 青い水銀灯の明かりの下、その白い巨体はそこにあった。
 優しく照らされる光の中、雄々しく立ち、歴史を静かにまっすぐに見つめて、そこにあった。
「世界中で、ただひとりの、パイロット。歴戦の勇士。その過去を持って、今、生きてる。だから──」
「やり直し」
 不意に言って、詩織はそっと息を吸い込んだ。
「じゃ、やり直し」
 言葉を途切れさせて、一也は詩織を見た。詩織は小さく笑って、一也の脇を小走りに抜けていく。R‐0の足下へ。その水銀灯の照らす、明かりの下へ。
「昨日、同じ会話、したよね?」
 立ち止まり、振り返る。
「やり直し」


 一也は何かを言おうとして、だけれど言葉が出てこなかった。詩織が言う。
「その後、一也はこう言ったんだよ?『だから、僕はきっと──どこにいても。世界中、どこにいても──変えられない過去から繋がる今を生きてる。だから僕は、このままじゃいられない。どこにいても、同じ』って」
 青い光の中で笑う詩織の姿に、一也は目を細めた。そして、
「言った」
 詩織からは見えないところで強く右手を握って、言った。
「だから僕は──」
 詩織は細く、微笑む。その声に。
「このままじゃいられない。どこにいても、同じ」
「一也──傷つくよ。傷ついて、死んじゃうかもしれない」
「うん──でも、同じ傷つくなら──」
「わたしも、一緒」
 青い光の中、詩織は息を大きく吸う。照らし出された栗色の髪が、ふわりと輝きの中に舞った。
「きっと、みんな一緒。私も一也も、きっとみんなも、一緒」
 今度は、ちゃんというから──
「──うん」
 今度こそ、ちゃというから──
「私は、一也のことが好き。だから、それを確かめたかったの。傷ついてもいい。好き。それを確かめたかったの。それで、確かめて、やっぱり、『好き』」
「うん──」
 小さく喉を鳴らすようにして返して、まっすぐに自分を見つめる一也に、こらえきれなくて、詩織はうつむいた。うつむいて、だけれど、言う。
「答えてよ」
 青い光の中を見つめて、一也は小さく返した。
 その、小さな声に。
「好きだよ、一也」


「ごめん」


「その言葉には、もう、答えられない」


「──ん」
 青い光の中で、詩織は不器用にはにかみながら、顔をうつむかせた。
「じゃ、じゃぁ…最後にひとつだけ、お願い…いいかな?もう、恋人とか、そんなんじゃなくて、ただ、友達として、これからも一緒にいたいから…最後にひとつだけ──こっち、来てくれる?」
 そして、かすかな言葉たちが空気の中に消えていく。
「…ごめん。私、やっぱり…わがまま」
 小さな詩織の声。
 一也も小さく返す。「いいよ──」
 そっと近づいて、そして、沈黙。
 ゆっくりと一也の背中に腕をまわす詩織。小さな頭をその胸に触れさせて瞳を閉じる。
 だから、一也も詩織の背中にまわした腕を、そっと引き寄せた。強く埋めた体が震えてるのに気づかないふりをして、感じる吐息と、背中にまわされた震える腕に、気づかないふりをして──一也も目をふせた。
 そして、静かに流れていく時間──




「一也くん!」
 ハンガーの中に、シゲの声が届いた。
「イーグルの譲渡手続きが終わったよ!イーグルを出す!」
「あ、はい!」
 答えて、そっと一也は腕をほどく。
 静かに、腕の中にあった栗色の髪が揺れた。
 彼女が、そっと、離れる。
 何かを言おうとして口を動かすけれど、言葉が出てこなくて──「ねぇ、一也」
 静かに、詩織が言った。
「いっこ、約束させて」
「なに?」
「うん──」


「もしも、もしもね──」


「もしも世界中が敵に回っても、私は味方でいてあげるから。傷ついて、戦いたくなくなって、辛くなってしまっても、私は味方でいてあげるから。背中を押してくれる人がほしいなら、私が押してあげるから」
 そして詩織は、ゆっくりとはにかんだ。
「あなたがほしい言葉、私もかけてあげるから」
「うん──」


「さ、行こう?みんな待ってる」


 夏の午後の風が吹き抜けていくプロムナード。
 小走りに走り出すその背中を追いかけるように聞こえてきたジェットエンジンの音に、一也はゆっくりと夏の空を見上げてみた。
 白い巨大な機体が、その大空を抜けていく。


       7

 傾き始めた陽を左手にしながら、レインボーブリッジの上を赤いフィアット、バルケッタが抜けていく。
 助手席にちらりと視線を送って、ハンドルを握る遙は言う。オープンカーのシートを抜けていく風に揺れる髪を軽く押さえつけて。
「楽しかった?」
 問われて、一也は一瞬だけ夕陽に視線を送って返した。
「普通」
「なんでそういうこと言うかねぇ?」
 そんなことなかったろうという風に、遙は笑った。「詩織ちゃんと、デート出来たんだべ?」
「もう、そういう仲じゃないの」
 軽く言う。
「またまた」
 遙も軽く返す。あんまり、台詞の意味を考えずに。だから、軽く返した遙の物言いに、一也はシートに座り直した。すこし伸びをするようにして、首の当たりをさすりながら。
 そして息を吸い込んで、何も言わない。
 そんな一也を見て、遙は続けようとした軽口をやめる。聞こえる単調なエンジン音と、シートに座り直して目を伏せた一也が、すごく退屈そうで──
「じゃ、退屈しのぎに、ドライヴ」
 アクセルを思い切りに踏み込んだ。
「おぉっ!?」
 突然身体を襲ったGに、一也がはっと目を開く。
 遙は笑う。「しっかり捕まってなくっちゃ!」「おい、バカ!?」
 巻き起こった風に飛びそうになった遙のテンガロンハットを慌てて押さえつける一也に、遙は笑う。
「地球最後の思いでにでも♪」
 暮れ始めた西の空には、一筋の飛行機雲。
 遙はそれを追いかけて、走りながら、笑う。
 仕方なくて、一也も苦笑する。


 そして街を走り抜けて、二人はその場所へとやってきた。
 うっそうと茂った草むらに車を止めて、遙はその場所へと飛び降りる。飛行機雲の終わり、懐かしい場所。
 潮の香りのする風の中に遙は腕を広げると、大きく伸びをした。その頭に、一也はぽんとテンガロンハットを乗せてやる。
「Thanks」
 かぶりなおす遙にちょいと肩をすくめて、
「すげぇ久しぶりに来た」
 言って、見上げる。
 東京国際空港、その片隅にある、今は使われなくなったハンガー。
 あの頃は毎日のように眺めていたはずのその場所、Nec本部。
 見上げている二人。「──もう一度」
 ぽつりと、遙は呟いた。
「あの頃みたいにって、ここんトコ、よく思ってた」
 短く言って草の覆い茂る方へと遙は背を向けて歩いていく。
「あの夏の頃みたいにって、ここんトコ、よく思ってた」
「ふぅん…」
 気のない風に返して、その遙の後に一也は続く。遙は車から少し離れた草むらの上に、そっと腰を下ろした。あのハンガーの方を向いて、屋根の上に止まっていた海鳥を見つめるように。
「でも、無理な話だよねぇ」
「そっか?」
 隣に一也も腰を下ろす。
「そうでしょ」
 笑って、続ける。
「あれから、二年。私も一也もみんなも変わったし、世界も変わったし、次の時代は新世紀。世界も変わったし、いろんなものが変わってる」
「今じゃ、俺の方が背が高いしね」
「そう。一也、自分のこと、俺っていうし」
「前からそうだろ?」
「違う。昔は違った」
「そんなの忘れた」
「忘れっぽくもなった」
「なんだよ、それ…」
「食べる?」
 ふと見ると、遙は持っていたバッグの中から、パレットタウンでおみやげに買ったはずのクッキー缶を開けて、ひとつつまんでいる。「お姉ちゃんにおみやげって──?」「もう開けちゃったし」と、口の中に放り込む。
「もらうわ」
 ひとつつまむ一也。その一也を見ずに、ハンガーの屋根の上から飛び立った海鳥を追いかけながら、遙。
「過去は、取り戻せないよねぇ」
「はぁ?」
「やり直したいこととか、あの時ああしていればって、思ったこと、ない?」
「──ないやつがいたら、見てみたい」
「同感。一也なんか、つい最近、そうだったんじゃない?『あの時俺が戦っていれば、愛しい遙が怪我することもなく!』みたいな」
「そんなことは思った記憶が、いっさい、ない」
「むかつく」
 遙は手にしていたクッキーを前歯で小気味よく砕いて笑った。
「今の私たちは、正しいかなあって、思う。あの夏の頃の自分たちがぜったいに正しいって自信、なんとなくあるけど、今の私たちは正しいかなぁって、思う。だから、正しいかどうか、確かめたくて、あの頃に戻りたいなって、思ったりした」
「でも、過去は取り戻せないでしょ?」
「そう」
「さっきの話、少し嘘」
 言いながら、一也は草むらの上に寝そべった。暮れゆく西の空に、赤から宇宙の色へと続くグラデーション。
「なにが?」
 遙が聞く。
「『あの時俺が戦っておけば』」
「マジで?ちょっと嬉しいなぁ」
「違う」
「なんだよ」
「ゴッデススリーがエネミーにやられたとき。R‐1がやられたとき」
 そっと、遙もまた、一也の隣に寝そべった。間に置いたクッキー缶に、一也は手を伸ばして、空を見つめながら続ける。
「その後、すげー考えて、考えて、教授に言われたんだ」
「R‐IIに乗る前?」
「そう──教授に、言われたんだ。『未来なんか、誰にも見えない』」
「…そうだねぇ」
「見えないから、その先がどうなっているか、正直、わからない。この先はどうなっているか──もしかしたら、先なんか、ないのかもしれなくて、だけど、見えないから、今見える限りのものを信じて進むしか、ないんじゃないか──この先に待つのは栄光か破滅か──」
「今の私たち?」
 笑った遙に、一也も笑った。
「ただ、どちらにしても──決めることが出来るのは今の自分だけ」
 ゆっくりと、一也は目を伏せた。
「その先に未来があるとして、それを見ることが出来るのは、過去の自分が選んだ今だけ」


「もしも未来なんかなくて」
 遙は少し笑う風にして言った。
「明日、世界が滅びちゃうとしたら──一也はどこで何をしてる?」
 一也は笑った。
「そんな話、この前したな」
「した。けど、答え、聞いてない」
 遙はクッキーを手にして、それをまじまじと意味もなく見つめながらに聞いていた。薄目でその横顔をちらりと見て、一也は返す。「──今なら、なんとなく、言える気がする」「どこで何してる?」「きっと──」
「R‐0の、コックピットにいると思う」
「…サイテー」
「でも、たぶんそうだと思うよ」
 一也は口許を弛ませたまま、隣に寝ころぶ遙の表情を想像していた。「遙は?」
「遙はどこで、何してる?」
 聞き返す一也に、遙は軽く言ってのけた。
「あんたがコックピットにいるなら、私もコックピットにいるでしょうよ」
「それもそうか」
 それがなんとなく普通に想像できて──ふたり、思わず吹き出した。


「でも、世界は滅びないでしょ?」
 遙は言う。
「さぁ?」
 目を閉じたまま、一也は笑う。
「正義の味方の一也くんが戦ってくれるから、未来はいつか、今になるでしょ?」
 仕方がなくて、一也は少し茶色いその髪を掻いた。ふと、夕焼けの柔らかな光の中にこめかみが覗いけれど、すぐにその銀色の端末は髪の奥に姿を消した。
 遙も目を伏せる。伏せて、言う。
「新しい世紀は、きっと来るでしょ?」
「──たぶん、ね」
「じゃ、今からカウントダウン」
「なにが?」
「新しい、世紀へ」
 遙が動く気配を感じて、一也は薄く目を開けた。
「何してんの?」
「んー?」
 寝そべった遙の手の中に、ふたつの時計。ひとつはブレスレットタイプのもので、もう一つは赤いストラップタイプのもの。ふたつはそこが違うだけで、他の部分は同じ──遙は少し悩んで、そのブレスレットタイプの方を一也に手渡した。
「はい、じゃ、こっち」
「そっちの赤い方がいい」
「女の子がブレスレットの方にしたら、ごついでしょうが」
「はいはい」
 苦笑混じりにその時計を受けとって、一也は小さく声を上げた。「お…これ…」
「私からの、プレゼント」
「って、こんな高いモノ──」
「宇宙行くってったら、これかなーって」
 軽く笑いながら、遙は左腕にしていた腕時計を外し、そのスピードマスターを腕に巻いた。「どう?」なんて言って、一也に見せつけてみる。「似合う?」
「似合う──って」
 言葉を濁して、一也は自分の手の中の時計を見た。フェイスにはしっかりと、OMEGA speedmasterの文字。そしてアナログ針の奥にデジタルの表示。それはまさに1965年6月にNASAに正式採用されて以来、脈々と受け継がれてきたスペースウォッチの最新版、X‐33に間違いなかった。
「こんな高い物、もらえないよ」
「どうせ、経費で落とす」
 言いながら、遙はプッシュボタンを押して画面表示を切り替えている。
「それもどうかと思うけど──」
 眉を寄せながらも、とりあえず一也もそれを腕にはめた。「知ってる?」「何を?」腕にはめた時計を、一也は空にかざしてみた。
「X‐33は、新しい時代のスペースウォッチってコンセプトで作られていて、昔からのスピードマスターを『ムーンウォッチ』、そしてこれを『マースウォッチ』って言うんだ」
「んなら、なおさら私たちにぴったりじゃん」
 そして、遙は笑った。
「MTモードにしてよ」
「どうするの?」
「ここ」
 遙が一也の腕の時計を操作すると、そのデジタル表示にMTと表示された。
 指し示される時間は、00:00:00。
「これは、いわゆるストップウォッチみたいな機能」
「知ってる。宇宙飛行士たちが、ミッションの経過時間を確認するやつだろ?」
「じゃ、今から始めましょ」
「何を?」
 軽く遙は笑うと、そっと自分の時計に手をかけた。
「新世紀への、カウントダウン。最後の、ミッション」
 返すように、一也も笑う。
「悪くないね」
 そしてそっと、手をかけた。
「じゃ──」
 ふたりして。
「せーの…」


 一秒が、少しずつ過去に変わっていく。
 進み続ける秒針にあわせて、ひとつずつ増えていく時間を、ふたり、少しの間眺めていて──
「ね──」
「ん?」
「これ、全部──」
 遙は静かに目を伏せて呟いた。
「新しい、私たちの時間」




「ね」
 沈む夕陽とその風景。
 潮騒と、流れていく風に揺れる草の音に紛れるように、遙はぽつりと呟いた。
「一也、ARMAGEDDONって、信じる?」
「映画は見た」
「違うでしょ」
「まぁ、ね」
「んでも、あの映画の人たちも、こんな気持ちだったのかな?」
「人類は今、未曾有の危機に直面しているって?」
「そう」
 少し、笑う。
 だから、一也は少し笑ったまま、そこにあったクッキーを手に取った。遙は軽く笑う。「違うでしょ」「違うけどね」
 そして、そっと寝そべる遙の隣へと寄り添って、言った。「You know what I was thinking?」
「What?」
 軽く、笑う。
「I...」
 少し思い出すようにして、一也は手の中のクッキーを見せながら、続けた。
「I really don't think that the Animal cracker qualifies as a Cracker」
「Why?」
「well...'cuz it's sweet, which is to me suggests cookies. And you know, by putting cheese on something is sort a defining characteristic of what makes a character a character. I don't know why I thought...I just, Uh...」
「Baby...」
 そっと、遙もまた、目を細めて笑う。
「You have such sweet pillow talk」
 だから、思わず一也は吹き出した。「ダメ、限界」「なによー」不機嫌そうに、遙。
「私がリブ・タイラーじゃ、フマンなわけ?」
「俺は、ベン・アフレック?」
「あ、それはミスキャストか…」
「なんでだよ」
 笑って、一也は手にしていたクッキーを口の中に放り込もうとしたけれど、その手を遙がそっと押さえた。
「まだ、このシーンは終わってないでしょ、AJ?」
 自分の腕の下、草むらの上に寝そべったまま悪戯っぽく笑う遙に、一也はどきっとする風に目を丸くして、「…グレース?」
 聞こえない風に、遙は目を伏せると、押さえた一也の手を、そっと自分の身体に触れさせた。そして、少し舌足らずな早口に、言った。
「You have like a little Animal cracker discover channel thing Watch the gazelle as he grazes through the open plains」
 ゆっくりと目を開ける。悪戯っぽく微笑んだまま、一也の手を押さえた自分の手の近くへ、もう片方の手をそっと寄せていく。手の中には、缶の中から取りだしたクッキーがひとつ。
「No look as the cheetah approaches. Watch as he stalks his prey」
 両手をそっとそえて、
「Now the gazelle looks spooked」
 まっすぐに見つめたままで、一也に向かって笑いかける。きっとこのシーンのことを一也も知っているとわかって、静かに、つかんだ一也の手を胸の方へと引き上げながら。
「He could head north to the two mountainous peaks above」
 そして、やっぱりその先の台詞を知っていて、思わず目をそらす一也に、遙は笑いながら台詞通りに一也の手をゆっくりと下げさせた。お腹を通って、ゆっくりと、下へ。
「He could go south」
 遙は悪戯っぽく、笑う。
「The gazelle now faces man's most perilous question...North of South?」
 だけれどそこまでで、遙は真っ直ぐに一也を見つめたまま、台詞を止めた。
 そしてそっと、両手を握りしめた。
 一也は返すように遙を見つめ、そして、少しだけ握りしめられた手に力をいれて握り返して、
「Why down...」
 口許を軽く笑わせて、言った。
「Tune next week...」
 映画と同じ台詞を吐き、手を握り返してくるだけの一也に、遙も微笑みながら同じ台詞で返した。
「...baby, Do you think it's possible that anyone else in the world is doing this very same thing at this very same moment.」
 水平線の向こうに沈む夕陽の色。
 かすかな潮の香りと聞こえてくる潮騒の音。
 その中、一也は静かに、だけれどしっかりと、言った。
「I hope so」


「Otherwise what the hell are we trying to save?」


                                   つづく


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