studio Odyssey


2nd Millennium END. 第10部




 静かにたたずむ巨大なロボット──R‐IIを、静かにたたずみ一也は見つめている。
 物言わぬ鋼鉄の巨人。ただ静かに、何かを見つめている。


「何のつもりだ…」
 吐き捨てるようにして、男は言った。
 午後の陽光の差し込まない部屋。窓ひとつな部屋に、静かにコンピューターファンの音が響いている。しかし、その情報を伝えるためのモニターは、主のない机の下に落ちて砕けていた。
「奴め…どう、このシナリオの結末をつける気だ…」
 机の上に置かれていた別の液晶画面は、男が最後に見たノートパソコンの画面と同じものを映していた。跳ね上がったグラフ。情報を発信すてしたシステムが停止した事をづける英文。それらがただ、静かに映っていた。
 軽く鼻を鳴らし、そして部屋へと踏み込み、スーツの内ポケットから煙草を取り出す。くわえた煙草へとジッポーを近づけ、火をつける。響いたフリントの音が、暗い部屋に響いた。
 ゆっくりと息を吸いこみ、静かに吐き出す。
 風のない部屋に、煙草の煙が静かにたなびいていた。
「馬鹿な!!」
 男は腕を振るった。机の上の液晶モニターが飛んだ。飛んで、床に落ちた。激しい音とともに落ちて、響いたプラスチックの音と弾けた火花に、その画面の半分が消えた。
「奴らが自我を持つなど、ありえん!!」
 男は消えたその画面に向かい、言う。
「我々が作り出した奴らが、自我を持つなどという馬鹿げた話が、あるわけがない!!」
 人間だけがもつ、高い自我。それを、下等な、生物と呼べるかどうかすらも怪しい奴らが、持つことなど出来るわけがない。もしも奴らが本当に自我を得たのだとすれば、それを与えたのは──
「スティーブ…貴様──」
 主のいない部屋。
 男の声が、コンピューターファンの音に紛れて響く。
「この結末を、神にゆだねるなどと言うつもりではあるまいな」




   新世機動戦記 R‐0 2nd Millennium END.
                         第10部




「いやぁ、久しぶりに来ました」
 笑いながら、平田教授。
 隣にいた中野 茂──通称シゲ──も、仕方がなくて笑っていた。
 言葉の先にいた道徳寺 兼康が、軽く鼻を鳴らす。
「お前は、いつもそうだからな」
「何がです?」
「儂らが丹誠込めて、じっくり料理して料理して、そろそろだろう、いや、まだだ。なんてやって、さあ食うかという時に、隣から箸を出して盗んでいく」
「なんか、えらいひどい事を言われているような気がしますが──」
「事実だろう」
 返したのは春日井 秀樹。そして春日井はその中へと入っていった。
「まぁ…」
 言葉を濁すようにして返して、
「行くぞ」
「行きましょうか」
 先を行く道徳寺の後をついて、教授もまたその中に入っていった。
 総理官邸。
 その中へ。
「香奈ちゃん、教授行っちゃったよ」
「あ、はい」
 入っていく教授の後ろを続くシゲに言われて、官邸を見上げて言葉をなくしていた吉田 香奈も、小走りにその後に続いた。


 そっと遙はハンガーを覗く。
 気づいた桐嶋 かなたが、
「あれ?」
 彼女に向かって小走りに駆け寄って来て言った。
「もう平気なの?」
「若いですから」
 言って、頭を掻く。けれど、その頭には包帯が巻かれている。「それじゃ、まるで私が若くないみたいな」と、かなた。かなたはそれでも、T大学、脳内情報処理研究室の四年生なので、遙とたいして歳は変わらない。「いえ、そう言う意味では、なくて」
 遙はちょっと苦笑いを浮かべながら聞いてみた。
「イーグル2、どうですか?」
 ハンガーの奥。午後の陽光に照らし出された巨大な飛行機の姿。
「まぁ、問題ないでしょ」
 かなたも遙の見つめるのと同じところを見つめながら、腕を組んだ。イーグル2のコックピット前、同じ研究生の大沢 一成と植村 雄がパソコンの画面を覗き込みながら、なにやら言い合っている。大声で。
「だーかーら!イーグル2のメインエンジンはサイクルバーナージェットエンジンとラムジェットのハイブリッドなんだから、サブエンジンも両方をつけるんだって!!」
「その制御スクリプトを書くのが誰かわかっていってんの?」
「地球が滅ぶまでの時間に比べれば、一瞬だろう?」
「EVR−0システムは俺が書いたスクリプトじゃないー」
「そんなの知るか」
「マジで!?」
「問題ないわ」
 かなたは軽く笑って見せた。
「ただ、できあがってくるモノが、どうなっているかは責任持てないけど」
 視線の先、大沢と植村はなにやらひとつの結論で一致したらしく、ふたり、がしと手を取り合っていた。何が決まったんだろう──遙は少し気になったが、苦笑いだけで、聞くことはしなかった。
 代わりに、
「あ…」
 そのふたりを見つめているかなたに聞く。
「一也、どこに行ったか知りません?」
「一也くん?」
 かなたは小首を傾げて返した。
「さっきまでそこにいたと思ったけど…あれ?どこに行ったんだろう?」


「エネミーを作った奴ら?」
 静かに、小沢 直樹は言った。
 そのハンガーの裏手。スタンド灰皿がおかれた、即席の喫煙所。彼とスタンド灰皿のその向こうには、元総理、村上 俊平の姿。
 ふたり、静かに煙草を飲む。彼女──金色の髪の大使、ベルの言葉を待って。
「一也くんは、よく知っているみたいです」
 うつむきがちに、ベル。少し離れたところから、二人に向かって続ける
「英語圏の、人だと思います。私たちが見ていた映像から察すれば、スパイダー大隊と関わりのある──」
「なるほど」
 ベルの答えをわかって、小沢は煙を夏の空に向かって吐き出した。
「シゲ君の言ったように、このエネミーが地球製であるというなら、それをできる科学者と、どっかの国家と──」
「──国際問題だな」
 笑うのは村上。
「どうも、スケールが大きくなりすぎだ」
「私──どうすれば──」
「さてね?」
 静かに、事も無げという風に小沢は呟いて、手にしていた煙草を灰皿にもみ消した。
「『告発』なんていう、映画がありましたっけ?」
「だが──」
 静かに、村上は言った。
 夏の空に向かって、煙を吐き出しながら。
「それが正義か──」


 首相官邸のちょうど中心あたり。階段を挟んで両側に、吹き抜けとなっている中庭がある。
「吉田…香奈さん?」
 吹き抜けの上には、夏の空と白い雲。
 それを見つめていた香奈は、かけられた声にそっと振り向いた。風のない中庭に、静かに彼女の髪が舞う。
「え…はい…」
 言葉を返す先。見知らぬ老人の姿。
「そうですけど…」
 記憶の糸をたどる。かすれた記憶から、ずっとずっと昔の記憶まで。だけれど、
「すみません…あなたは?」
 香奈はその老人の顔を思い当たらずに、聞いた。
「失礼」
 上質なスーツを身に纏った老人は、軽く笑う風にして返した。
「あなたが、私を知るはずはないですね」
「…すみません」
「謝ることは、ないですよ」
 老人は優しく笑いながら、香奈の近くにまで歩み寄ってきた。少し足が悪いのだろう。左足をかばうようなその歩き方に、香奈は自分の方から老人の方へと二、三歩、歩み寄った。
「あなたも、総理に呼ばれて?」
 老人が軽く笑って聞く。
「え…あ、はい」
「あの機体…たしかR‐IIと…」
「えっと…」
「そうか。やはりあれも、BSSで動いているんだね」
 静かに淡々と話すその老人に、香奈は言葉を飲んだ。「私も、それで呼ばれたのだよ」
「あなたは…?」
「名乗るほどの者では、ないですがね」
 微かに笑い、老人は吹き抜けの向こうに見える夏の空を見上げていた。
「平田と会うのも、気が引けたのでね。こうして、逃げて来たんだよ」
「あ…」
「石野と呼んでくれてかまわないよ」
 眩しさに目を細めて、老人は夏の空を見上げていた。
「石野さん…って…BSSの…」
「たぶん、あなたの言っている人と同一人物だよ。平田には、内緒にしてくれよ」
「あ…えっと…」


       1

 使い慣れた階段を、ゆっくりと降りていく。ジーンズのポケットに手を突っ込んだまま、ただ無言で。
 そして階段をおりきって、一也は目を細めた。眩しい夏の陽射し。駅の構内から出てきた目に、その光はすこし眩しかった。
 立ち止まって顔をしかめ、溢れる光に目を静かに開けていく。
 そしてゆっくりと息を吸い込んで、彼はその場所へと向かって歩き出した。
 川沿いの遊歩道に向かって、歩き出す。
 遠くの方から、チャイムの音が聞こえたような気がした。
 一也は静かに、歩いていく。
「今はまだ答えられない」
 そんな台詞が、頭の隅をかすめていったような気がした。


       2

「再び現れたエネミーを前に、再び集まってくださった歴戦の勇士たちに、心から感謝いたします」
 会議室の長机の上座に座った男が言う。この国の現総理、小渕沢首相である。
「この国、そしてこの世界の未来は、今、あなた方の手に、委ねられています」
 言葉の先にいるのは道徳寺 兼康を初めとする、この国のトップ──マッド──サイエンティスト三人と、その教え子であった。
「ふん…」
 軽く鼻を鳴らすのは道徳寺。
「世界の平和を護ることこそが、儂ら科学者にかせられた使命に相違ない」
「センセイ…さすがです」
 とは、教授。
「大見得きれるところが、また」
「教授、そういう事言っていいんですか?」
 苦笑いはその教授の教え子、シゲ。
 道徳寺は息巻いて反論した。
「貴様、儂のゴッデススリーがやられて、実は影でほくそ笑んでいたろう!?」
 すこし、ずれてはいたけれど。
「まさか。あの時は、ちょうどこちらも大変な時期だったんですよ。そんな余裕は、ありませんでしたって」
 と言うその顔は、笑いを堪えるような表情だった。ので、説得力はあまりなかった。「ふん」と、春日井が軽く鼻を鳴らしていた。「まぁ、そう言っていられるのも、今のうちだけだ」
「何がです?」
「現在の、エネミーと我々の状況を、まとめてみました」
 勝手に話をし続けるマッドサイエンティストたちにしびれを切らし、総理にもっとも近い席に座っていた統幕議長の男がA4のレポートを取りだして言う。
「みなさんの手元にも、配布されているものです」
 と、皆にそのレポートを見るように促す。けれど、それを開いたのは総理とその側近、統幕議長のその男だけであった。つまり、マッドサイエンティストたちは誰一人としてそれに手をつけようともしなかったのである。
「みなさん、レポートをご覧下さい」
 威圧するようにして、統幕議長。ただでさえ、予定よりふたり少ない。一人は自分も知っている、あの変な老人だ。そしてもう一人は過去のR‐0と、そして今のR‐IIに深く関わる人物という事だったが──こいつら、何を考えているんだ…遊びで日本を護っているんじゃなかろうな。
「くだらん」
 ぺらぺらとレポートをめくるだけめくり、道徳寺は呟いた。
「こんなモンを作っとる暇があったら、ボルトの一本でも締めていた方が、まだマシだ」
「──貴様…ッ!?」
 思わず統幕議長は思い切りに机を拳で打ち、道徳寺に詰め寄った。けれど老齢という頃を過ぎた道徳寺には、そんなものは何の威圧にもならなかった。
「言われんでもわかっとる。現在、あのエネミーに対抗しうる力を持ったものは、自衛隊には存在しない。そして、世界中にも、ただ一体しか、存在しない」
 言い、道徳寺は眼前にいた教え子を見た。
 教授、軽く口許を曲げて笑ってみせる。
「R‐IIをおいて、他には」


「BSSというのを、ご存じだろう?」
 夏空を見上げたままで、石野は呟くようにして言う。言葉の先にいた香奈は、小さく頷いて返す。
「私たちが、作りました。FESシステムの、究極の形として」
「そうか」
 静かに視線を落とし、石野は香奈を眩しそうに見つめていた。そして、軽く口許を弛ませた。
「しかし、あの巨大ロボットを動かしているシステムは、それだろう?」
 答えにつまる。確かにそう。それは、確かにそうで、自分が望んだものではなく──
「そうです」
 ゆっくりと答えて、香奈は老人の目を真っ直ぐに見つめ返していた。
「でも、そのために作られたんじゃ、ないんです」
「じゃ、何のために?」
「うまく、言えるかどうかわからないんですけど」
 言葉を選ぶようにして、香奈は何度か小さく頷いた。「でも、私の出した答えという意味でいえば──」
「たとえば、BSSが多くの傷ついた人たちを助けるために作られたのだとしたら、やっぱり、BSSは、多くの傷ついた人たちを生まないためにも、使わなきゃいけないと思うんです。だから──」
「だから、R‐0に乗せて、あの時に戦った?」
「その時は──そこまで考えてはいなかったですけど」
「でも、君があれに乗ったときは、君は、少なくともそう考えていた?」
 香奈は少し驚いて、はっとした。はっとして、こめかみを隠すようにして手を添えた。そこにある金属の端末、もしかしてそれが見えて──だけれど、その手には自分の髪の毛の感覚しか感じられなかった。冷たい金属の感覚は、その手のひらに伝わっては来なかった。
 見えていない。この場所にある、その金属の端末が見えているはずはなく──静かに香奈は手を下げた。
「よく、ご存じですね」
「君たちの事は、よく知っている。君たちが私のことを知らなくてもね」
 石野は少し吹き出すようにして笑った。「君の彼だったか、小沢くんと一緒に酒をかわした事もあるよ」
「えっ!?」
 突然言われて、思わず顔を赤くする香奈。石野は、それが本当におかしくて、笑う。
「君たちには、悲壮感がないな」
「…す、すみません」
「いや、怒っているんじゃないよ。もしかしたら、それが正しいのかも、しれんしなぁ」
 ゆっくりと石野は視線の夏の空に戻した。流れていく白い雲が、その向こうに見えていた。


「真実ってのは、時に、残酷なモンだと思うんですよ」
 うつろがちに目を細め、あらぬところをただ見つめている小沢。口にくわえた煙草の灰が、今にも落ちそうになっていて──落ちた。「あ…」呟いて、股の上に落ちた灰を急いで払う。「あぁ、このスーツ、高いんですけどね」
「だが、もしも──だ」
 村上は呟いた。
「それが本当に真実だとして、与える影響を考えたとき、それが正義か──」
「さあ?」
 小沢は軽く笑った。どこか、不安にも似た風に。
「難しいことは、あの頃から、考えるのが面倒くさくなったんで」
 ハンガー。
 場所は違うし、形も違えど、中には同じものが静かにたたずむハンガー。小沢はそれを見上げて、苦笑するように口許を弛ませていた。
「昔は──」
 ゆっくりと言う。
「自分のしていたことに、躊躇なんかなかったんですけどね。人を騙すとか、利用するとか──目的のためには別段気にはしなかったし、仕事だと割り切れば、政治家や企業の情報を盗むことも、自分とは違う世界に住む人間達が困るだけの事って、割り切れたんですが」
「今は、割り切れないか?」
「どうでしょう」
 再び、煙草に火をつける。そして、ゆっくりと大きく吸う。
「ただ、ちょっと考え方が変わってしまったと言うだけのことだと思いますよ」
 ハンガーの中から、金色の髪の大使が、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきていた。出かける準備は整ったらしい。小沢は煙草を口にくわえたまま、停めてあったGTOのエンジンをかけた。太く低い音が、夏の午後の空に吸い込まれていく。
「二年も経てば、人も変わる…」
 エキゾーストノートに紛れるように、村上が呟く。
「変わります」
 小沢。
「だけど、変わらないで欲しいものも、あります。僕は、それだけは、いつまでも変わらないでいて欲しい。だから、難しいことを考えるのは、もう、やめることにしたんですよ」
 煙草をくわえたまま、煙に言葉を紛らわせるように、小沢は言う。それは言葉にすれば、軽くなって、どんどん、その力が失われてしまうような気がしたからだ。
 だから、軽く、言葉の重みよりもずっとずっと軽く、小沢は言った。
「変わらないでいたいんですよ。自分の中で信じた正義ってやつだけは」


 病室のドアを開けて、ふと、彼女はそこで立ち止まった。
 佐藤 睦美の目の前には、その部屋にいるはずの彼女の姿はなかった。変わりに、すらりと背の高い、厚い眼鏡をかけた男がいたのであった。
「あ…間違えました」
 と、言ってドアの脇にある部屋の番号を確認する。後ろにいた神部 恭子が少しだけ首を傾げていた。「間違ってないよ?」
「えっと…」
 睦美はその男に向かって、聞く。
「ここって、村上 遙の病室じゃ?」
「一足違いだったようだ」
 男は笑って返した。流暢な日本語だった。睦美は少しほっとした。どう見ても外国人で、自分の言葉が通じないんじゃないかと思っていたからだ。
 男は続ける。
「ハルカは、同じ場所にずっといられるタイプじゃないだろう?どうやら、どこかに行ってしまったたあとらしい」
「確かに」
 うむと、睦美は腕組みに頷く。そして聞く。彼女たちの脇を抜けて、病室の外へ出ていこうとしたその男に向かって。
「どこに行ったかは…?」
 男は立ち止まった。そして睦美たちを見た。推し量るようにして。
「君たちは…?」
「あ…えっと。遙の高校の時の友達です。あの…あなたは…?」
「ハルカがどこに行ったかは、私にはわからない。私は、仕事があるので、これで失礼する」
 早口に返す。そして、男は行く。眼鏡の奥の瞳を見て、睦美はすこし訝しげに眉を寄せていた。あんまり、好きなタイプじゃない。見た目は何かの映画に出てきてもおかしくないような男だったけれど、もしも出てくるとすれば、自分たちの向こう側として登場しそうな印象だった。
 背中を見送っていた睦美と恭子に、男は立ち止まった。
「そうだ…」
 そして静かに、二人に向かって言った。
「もしもハルカにあったら、伝えてくれないか。ハングの父が日本に来て、あなたにあいたがっていると」
「ハング?」
 睦美は眉を寄せた。聞いたことがない名前だ。遙のことはよく知ってはいるけれど、聞いたことのない名前。きっと、遙がニューヨークにいた頃の──
「あ…!」
 行き着いた答えを彼女が聞こうとした頃には、男はすでに睦美たちの視界から消えていた。
「睦美?」
 その横顔に、恭子。
「どうしたの?」
「──なんでもない」
 睦美は返した。
 病室の窓の向こう、抜けるような青い夏の空。


 スニーカーが、レンガタイルの足下を軽く打って進んでいく。
 足取りは軽くない。けれど、しっかりと。
 眩しさに目を細めて、一也はそのコンクリートの建物を見上げた。見慣れた建物。高校の、昇降口の前。
 夏休みの学校を包む、閑散とした空気。部活動をする生徒たちの姿もない。ニュースで聞いて、知ってはいた。首都圏に住む人の半分以上は、もうすでにこの休みを利用して、疎開をはじめたとの事だった。
 だから──
 一也は昇降口を小走りにあがる。
 しんとした廊下。
 きっといるわけがない──


       3

「そろそろ、時間ですね」
 腕時計を見て、シゲが言う。教授も言われて、彼の腕を覗き込んだ。時計など、持っていないのである。
「お、もうそんな時間か」
「何が始まるんだ?」
 退屈で死にそうだという風に、道徳寺。統幕議長の話は続いていたが、聞いちゃいなかったのである。
「面白いことですよ」
 と、教授は軽く笑い、そして、
「総理、そこのテレビというのは、映るのですか?」
「あ、ああ。映りますが」
 会議室の隅に置かれた、木目調のテレビを指さす教授に答える小渕沢首相。「それが何か?」
「見たい番組があるんですが…いえ、ビデオの予約を忘れまして」
「ふざけているのかねッ!!」
 統幕議長は怒鳴ったが、耳を押さえたのはシゲと小渕沢首相だけだった。
「ケーブルはみれんと思うがな」
 と、道徳寺。
「なんです?」
「再放送は、みれんだろう。愚かだな。ビデオは常に二台以上で予約しておくものだ」
「何の話ですか」
 苦笑いを返し、教授はシゲをつついた。「つけてくれ」シゲがそのスイッチを入れる。そして、チャンネルをまわす。
「ワイドショーですけどね」
 教授は軽く、口許を弛ませた。
 スピーカーから声が聞こえてきて、続いてそこに映像が映し出された。


「わかりません──」
 そっと、金色の髪の下の目を細めて、ベルは呟いた。
「何が?」
 隣に立っていた小沢が返す。
「私たち、間違っていませんか?これは、本当に、正しいことだと、思いますか?」
「真実を皆にづけることが?」
「──嘘をつくことが、正しいことって──ないですか?」
「あると思うよ」
「じゃあ…」
「でも、僕は今はそうは思わないな」
 言って、小沢は真っ直ぐに前を見た。眩しいくらいの照明が、自分たちの眼前を照らしている。そして、そこにいる何人もの男女を、無数のレンズが見つめている。
 ADの声が響くスタジオの中──「CM入りました。190秒です!」──小沢と、そしてその隣にベル。
「過去は、リセット出来ない」
 そっと小沢は言う。
「歴史って、過去から、ずっと続いているものだからね」
「でも、未来は──?」
「いや、かわんないかも知れない。ある国のある科学者が、神が作り出したのではないかという、未知なる卵を手に入れた。多くの人はにとっては、それはそれだけの意味しかなった。だけど、その科学者は、その卵をふ化させた。その時、科学者は何を考えていたか──」
「卵──エネミーの細胞ですか?」
「でもいいし、そうでなくてもいい。ベルは知らないと思うけど、この星ではね、ベルたちが手に入れたエネミーと同じように、それに類する卵──ニュートン力学とマクスウェルの方程式から、特殊相対性理論っていうのを見つけた科学者がいたんだ」
 ベルは少し首を傾げた。小沢は言うことは、よくわからなかった。それでも小沢は少し笑っていた。わからなくてもいいやという風に。それでいて、続ける。
「エネミーと同じだよ、結局は。それが何を意味するのかなんて、多くの人はわからなかった。だけど、それをが導いた式の意味から、禁断の箱を開けた科学者がいた。そう言うこと」
 小沢は真っ直ぐに前を見つめていた目を細めた。「科学者の良心とか倫理とか、そういうのは僕にはわからないけど」
「アインシュタインは1953年に、プリンストン研究所で、湯川秀樹という人の前で自分の責任を告白したっていうんだ。そして、57年にはパグウォッシュで──って、わかんないか。そんな話」
 笑う。そしてやめる。
 時間だ──
「ただ、俺は思う」
 みっつ立てられていた指が、折られていく。三、二、そして一。
 映像が世界中へと流れていく。


 石野は中庭から夏空を見上げながら、ゆっくりと間延びした風に言う。
「弟さん──一也くんは?」
「元気です」
 普通に返す香奈に、石野は思わず笑う。
「そうかそうか。それで、彼も再び、この国は護るべき価値があるかどうか、見いだせたんだろうなぁ。だからきっと、再び戻ってきた」
「それは──わかりませんけど」
 静かに返して、香奈はうつむいた。本当のところは、よく、わからない──
「本当は、一也にもいろいろ悩むことがあって、それで、いろいろ辛いと思うんですけど、私、お姉ちゃんなのに、何の力にもなってあげられてなくて」
「そうか──」
 少し軽く返して、石野は香奈を見た。香奈はうつむいていて、視線をあわせようとしない。
「だが、香奈さん」
「はい?」
「世の中には、自分で決めなきゃならないことっていうのも、私はあると思うんだよ。たとえば、自分の未来。たとえば、自分が正しいと思うこと。私は、そう思う」
「──はい」
「香奈さんは、R‐0に乗って戦ったことがあるんだろう?」
「えっと…私が乗ったのはR‐1って言って…」
「ああ、そうだったか。でも、香奈さんは、どうしてR‐1に乗って、戦った?怖かっただろう?もしかしたら、死んでしまうかもしれなかった。だけれど、乗って戦った。それは、どうしてだった?」
「どうして──」
 目を伏せて、香奈は少し考えてみた。どうしてあの時、戦ったか。
 記憶が頭の中に鮮明に蘇ってくる。倒れた一也。閉じたきりの目。その隣に立つ遙ちゃんの姿。教授の本当か嘘かわからない真面目な顔。明美さんの心配したようなはにかみ顔。シゲさんの、傷だらけだったけど、起動ディスクを手に笑う顔。そして、小沢さんの優しい目。
「たぶん──」
 静かに、香奈は返した。「護りたかったんです。みんな」
「それで、たぶん私、自分を確かめたかった」
 石野は静かに頷きを返す。彼女の言葉を、続けさせるように。だから香奈もまた、小さく頷いて続けた。
「私──自分が生み出すきっかけを作ったBSSが、本当にみんなを救えるものなのかどうか、誰かを傷つけて、悲しませてしまうものなんかじゃなくて、誰かのことを助けられるもので──自分の傲慢な考えなんかじゃなくて、戦争としての道具なんかじゃなくて、それで傷ついた人たちのためのものだって、確かめたくて──そして、護りたかったんだと思うんです」
 そして香奈は、静かにそのはにかむ老人の姿を見た。
 だから、言った。
「守り抜いて、確かめたかったんです。それを生みだした、私の倫理と、私の信じるいろんなものを」
「そうか」
 そっと、その香奈の頭に石野は手を置いた。「そうか」
 香奈は少し笑った。別に、嫌じゃなかった。「はい」
 不思議な感じに、香奈は少し口許を弛ませた。笑う。嫌じゃない感じ。だから、言う。
「石野さん、変なこと、聞いていいですか?」
「なんだい?」
「私、たぶん、石野さんとあったことがある気がするんです。本や、文献では何度もお名前を拝見してらしたから、もしかしたら、気のせいかなって、思ったんですけど、やっぱり」
「──もしかしたら、そうかもしれないなぁ」
 小さく、石野は呟く。
「私も、香奈さんには、どこかであったことがあるような気がしていたんだ。いや、もしかすると、私と香奈さんと、同じことを考えていたからかもしれないが──」
「同じこと?」
「科学者の良心──倫理──私も、わからないがね。だが、私も、それを確かめたかった。確かめたくて、この国を離れたこともある」
 夏の空に、静かに白い雲が流れていく。
「結局、見つけられた答えも、あまりたいしたものじゃ、なかったが」
「──」
 聞くべきか、香奈は少しまよっていた。見つけだした答えを、知りたかった。それが、自分の答えと同じなのか。そして、それが正しいことなのか。聞いてみたかった。
「だからこそ、私もまた、戻ってきたのだれどなぁ」
 静かに老人が言う。
 顔を上げ、その老人の横顔を見上げる香奈。老人が、彼女の頭に乗せていた手に、すこし力を込めた。長い髪が、少し、くしゃりと握られた。けれど、別に、嫌じゃなかった。
「正義を行うことは、難しい。本当に、難しい」
「はい」
 小さく頷いて、香奈は返した。
「でも、だからこそ、私たち──」


「本日は、予定を変更して、再び現れたエネミーについて、最新の情報をお伝えいたします」
 ブラウン管の向こう──男が言う。
「それでは、お願いいたします」
 画面が切り替わった。そこには、神妙な顔をして頷く、新士 哲平の姿があった。静かに新士は自分をとらえるテレビカメラを見た。より正確には、その向こうにいる仲間と、そしてその隣に立つ、金色の髪の大使を見つめていた。
「──まずはじめに、お断りしておかなければなりません」
 この電波が、はたしてどれだけの人に届くだろう。どれだけの人が、真実を知るのだろう。そして、どれだけの人が傷つくのだろう。
「これが、真実のすべてでは、ないかもしれません」
 そんなことは、わからなかった。
 だけれど、新士は静かに言った。
「しかし、我々はそれが正義と、信じているからこそ、報道するのです。形は違えど、我々もまた、エネミーと戦うものたちだと思うからこそ、ここにいるのです」


 横須賀。
 車が三台は並んで走れそうな、基地敷地内の広い道。
 両脇に植えられた緑の並木が、眩しく夏の陽光に輝いている。それを見つめながら、歩く遙。──病室、もどらないと──
 優しく吹き抜けていく風。長い髪を揺らす風。
 その風の向こう、広く真っ直ぐな道の向こう、立ち止まって自分を待つ人影に、気づかない──ふりをして歩く。緑の木々を見つめながら。
 きっと、幻。きっとそう。
 まだ、忘れられないから?それとも、まだ、傷が癒えていないから?それとも再び現れたエネミーに、その傷口が開いてしまったから?
 何も思わず──そう思い込んで──ゆっくり遙はその脇を抜けていく。
「ハルカ──?」
 男の声に、遙は目を伏せた。そして、立ち止まった。
「どうして?」
「忘れられているかと、思ったよ」
「忘れていましたよ。少なくとも、数日前までは」
「…怪我をしたと、聞いたんだ」
「ちょっと、ミスって…」
「エネミーと、戦って?」
「──そう」
「どうしてハルカは、まだエネミーと戦う?」
「理由なんて、ありません」
「なくは、ないだろう?」
「ハングは関係ありません」
 言って、言ってしまって、遙は目を伏せた。
 そして、沈黙。
 小さく、ため息。そのため息を、風が運んでいく。


「再び現れたエネミーは、いえ、再び現れたエネミーの形をしたものは、エネミーではありません」
 新士の言葉が、静かなスタジオに響いていく。
「エネミーが、我々の敵、あの、二年前の戦いの時のものを指すのであれば、このエネミーは、エネミーではありません。ここに、今回のエネミーの体細胞の分析結果があります。ご覧ください」


「すでに、ある程度はご存じかと思いますが──」
 テレビからの声を耳にしながら、教授は皆に向かって言う。
「この体細胞の分析結果からも、確認されています。今回のエネミーは、今までのものとは違う。きっぱり、地球製なんです」
「何を根拠に」
 鼻を鳴らして返すのは統幕議長の男。「そんな報告は受けていない」
「でしょうねぇ」
 返したのは、テレビに肘をついて立っていたシゲだ。
「していないですもの」
「なんだと──!?」
「根拠はなんだ?」
 統幕議長が立ち上がりかけたのを横目でとらえて言うのは春日井。「根拠もなしに、お前たちがここまでのことはしまい」
「するかもしれませんが」
 軽く笑って、シゲ。
「体細胞の中に、ナノシステムが構築されています。驚きなことに、それとまったく同じ設計図を、とある機関が、もっていた訳です」
「──面白い話だ」
 ふんと、道徳寺。鼻を鳴らしてなにやら満足そう。
「つまるところ、我々人類の敵は、人類が生みだした、神の力を持ちし生命体だった──と」
「燃えるでしょう?」
 教授もまた、軽く笑っていた。
「これがもしも聖書に記されたアルマゲドンとすれば──」
 テレビ画面の向こう、ふたつの画像が列べられている。ひとつは、大島で採取したエネミーの体細胞の電子顕微鏡による拡大写真と、DNAの塩基配列にナノシステムの基盤写真。
 そしてもうひとつは、某機関より入手したとされている、その設計図。


「つまり、これがもしも様々な場所で言われているように、聖書に記されたアルマゲドンとすれば、そのトリガーを引いたのは、つまり──」


「ハルカ──」
 その男は静かに厚い眼鏡をあげて、言った。
「君が戦う必要は、なかったんだ」
 遙はその言葉にはっとした。そして、聞き返した。
 聞き返していた。
「──どうして、そんなことを言うんですか?」
 どうして言ってしまったのだろう。自分でも、不思議だった。言わなければよかった。
「あのエネミーは、君が戦うべき、敵ではない」
 聞かなければよかった。
 戦いになんて、来なければよかった。あのまま、忘れていればよかった。それでよかったはず。そうすれば、もしかしたら、私たち、こんな風にはならなくて──
 そして、スティーブン・ハングは静かに遙の問いに答えた。
「あれは──私たちが作り出したものだからだ」


 一也は静かにそのドアを開けた。
 きっと誰もいない。そう思って、そのドアを開けた。静かに。
 見慣れた景色が飛び込んでくる。
 夏の陽射しの差し込む美術室。
 閑散とした空気。
 ただ、ゆっくりと流れる時間の中にある空間。
 その中に、静かに彼女が座っていた。
 おおきなキャンバスに向かって。
 彼女が気づく。そして、微かに微笑む。
「おはよう」
 言う。
 そして返す。
「おはよう」


       4

「言うなれば──」
 新士は静かに言葉を続けていた。
「この戦いは、愚かなものです。
 歴戦の勇士である、吉田一也くんのように、もしかしたら、戦わないでいることこそが、正義だったのかも、しれません」


 夏の風が潮騒の音とその香りを乗せて抜けていく。
「──作った?」
 肩越し、遙は聞き返した。
 このエネミーが作られたものだと言うことは聞いていた。聞いていたけれど、
「あなたが?」
 そんな馬鹿な話があるわけがないと、遙は思った。
 スティーブは小さくため息を吐く。
「君は二年前──夏が始まる前には、もう私たちの前から消えていたし、連絡を取ることも出来ずにいたから、突然そんなことを言われても、という所だとは思うが」
 言った。
「当時の我々には、エネミーに対抗する術がなかった。なかったからこそ、我々には、エネミーに対抗する兵器の開発が急務だった。政府は多くの科学者達に開発支援をし、いくつかの研究所では、その成果を上げた。スパイダー、対エネミー用ミサイル──すべては、二年前のあの悲劇を繰り返さないために」
 二年前のあの悲劇という言葉に、遙は眉を寄せた。
 世界で最初にエネミーの襲撃を受けた街。ニューヨーク。その悲劇──
「そして私も、君と同じ思いだった」
 振り向かずに、スティーブは言う。
「エネミーが憎い。そして、その前に無力だった、自分が憎い」
「私は──」
 小さく、遙は返す。
「私は、エネミーが憎いなんて、思ったことはないです」
「それは多分、君が二年前のあの時に、立ち止まったままでいるからだ」
 目を伏せる。
 小さく、自分の手が、震えているような気がした。
「私もそうだった。無力な自分に、絶望した。国を、この世界を護るために、軍の研究所に勤務していたはずの私が──誰一人──自分の息子すらも護れなかった」
 ゆっくりとスティーブは振り向いた。
「だが、ハルカ。私は二年前のあの時から、進むことが出来た。あの悲劇があったからこそ──」
「──やめてください」
 遙は頭を振った。聞きたくない。
 思い出したくなんて、ない──エネミー。その、エネミーの姿。そしてそれを目の当たりにした自分たち。誰かの声。誰かが手を引く。手首の感覚。目に映る光景。
 静かに遙は頭を振った。
「ハルカ…」
 スティーブが言う。
「私は、もう、あの時の君のように悲しむ人の姿を見たくないと心に誓ったからこそ、進めたんだ」


「どうして」
 風が吹き抜けていく。遙の長い髪を静かに揺らして。
 青い空が広がっている。
 緑の芝生の上、青い空。
 ぽつりぽつりと並んだ、十字の石碑。
 黒いワンピース姿の自分。
 手には花。
 涙は出ない。
 泣き崩れている女性の姿がある。その隣、聖書を手にした牧師の姿。
 生き残った友達。みんな、同じ石碑を見つめている。涙は出ない。
 そっと右手に左手を触れる。最後に彼が掴んだもの。私の右手。何かを叫んで、私の手を引いたその手の感触が思い出せなくて──涙も出ない。
「それならどうして、エネミーなんか」
 振り返る。
 青い空がずっとずっと向こうにまで広がっている。
 つい先日まで、そこにあったはずの高層ビルの姿はひとつもなくて、青い空がずっとずっと向こうにまで繋がっている。ぽっかりと空いた空。涙は、出てくれない。
 声をかけられて、その石碑の前まで歩き出す。
 そっと、しゃがみ込む。手にしていた花を、その石碑の前に置いた。
 聞きたかった言葉があった。聞けずにいた言葉があった。いつか、聞こうと思っていた。簡単に、笑いながら言ってのける彼に、いつか聞こうと思っていた事があった。
 けれど、それはもう叶わない。彼はもう、答えてはくれない。きっと私はだから、その答えがずっとわからない。右手。握りしめる。言葉もなくて、目を伏せる。
 聞こえたのは、天を突き落とすような、激しい咆哮。彼の声じゃない。私の質問に答えてくれるはずだった、彼の声じゃない。
 何かが崩れて、そして、私の目の前に落ちてきた。
 思い出せない、彼の手のぬくもり。思い出せるのは、激しい地響きとそして、私の目の前から突然に消えたその姿。もうもうと舞う、砕け散ったコンクリートが生んだ煙たち。どこかで誰かが叫んでる声。誰かが、立ちすくんでいたその手を引くいて、転びそうになりながら、その場所を離れた自分。
「もう、あの時のように悲しむ人の姿を見たくなかったって言うなら」
 涙もでない。
 ふせたその目を、強く押さえつけて立ち上がる。
 振り向く。
 青い空がずっとずっと向こうにまで広がっている。
 つい先日まで、そこにあったはずの高層ビルの姿はひとつもなくて、青い空がずっとずっと向こうにまで繋がっている。
「どうして、エネミーなんか」
 街はもう、跡形もなかった。軍は、街の半分以上を焦土と化して、それで、やっとの事で奴の動きを止める事に成功した。成功──成功なんかじゃない。
 多くの人が命を落とした。行方不明のままの人もいる。そして今も、立ち入り禁止になったその街の周りには、行方不明になった家族や友人を探して、多くの人たちが集まっている。
 私は知っている。
 その中にいた、私たちは知っている。
 その悲しい結末を目の当たりにした、私は知っている。
「それが、本当に正しいと思って──!?」
 振り向いた遙の視線と、スティーブの視線とがあう。遙は微かに眉を寄せて、そして、言葉を続けようとして──やめた。


「さて、香奈さん」
「はい?」
 青い夏の空を見上げていた石野は、小さく言った。
「そろそろ、行こう」
「はい」
 静かに吹いた風が、彼女の長い髪を揺らした。そして、そのこめかみにある銀色の金属端末を、優しく照らし出した。
「はい」
 もう一度強く、香奈は返した。


「私がこの戦い、初めの頃に戦うことをしなかった理由ですが」
 教授はそのブラウン管を見つめながらに言う。
「私自身の戦いは、あの時に、すでに終わっていたというのも、あるのだと思うのですよ」
「二年前ということか?」
 道徳寺。皆と同じように、テレビから視線を外さずに聞く。
「ですが、本当のところ、終わってはいなかった──と。あのエネミーから、再び、新たな戦いが生まれ、そして再び世界が危機に瀕し、そして世紀末に人類の終焉──」
「過去は、リセット出来ないんですよ」
 シゲ。軽く続ける。
「誰かが、それを覚えている限り。だからこそ──」
「さて、じゃ、私はそろそろ失礼しますよ」
 シゲの言葉を遮るようにして、教授は立ち上がった。シゲは軽く苦笑いをその顔にうかべてぼやく。「あ、教授。今、僕の一番のシーン、食ってきましたねっ」「なんの話だ?」
「R‐IIは、戦いますよ」
 教授はにやりと口許を曲げて言った。
「だからこそ、我々は示さねばならんのです。未来を。いつか過去となる、今に。すべての終わりのために」
 言って、笑う。息巻いて続いた、シゲの台詞にも。
「あ!教授、僕の台詞、盗らないでくださいよっ!!」
「なんの話だ?」
 そう言って教授はその会議室のドアを開けて出ていった。背中の向こう、皆に軽く手を振るって。


「終わったのか?」
 局内の廊下。大きな窓から東京湾が見渡せる見晴らしのいい廊下に、村上は立っていた。
 灰皿の置かれた三人掛けのベンチ。小沢はゆっくりとその場所へと歩み寄って行く。その後ろには、金色の髪の大使、ベルの姿もあった。
 椅子に腰をおろし、小沢はポケットから取りだしたバンジョーで、煙草に火をつけた。無言にそれを飲み、そして煙を吐き出す。
「結局、正義って、なんなんでしょうね」
 呟く。
「お前が、一番よくわかっているのかと思ったがな」
 返す村上に、小沢は笑う風に続く。「僕は、村上さんが一番わかっているのかと思ってました」
「私にも、わからないさ」
 同じ風に返して、村上は窓の外を見つていた。
「それはきっと、歴史が決めてくれる事だろうさ」
「心にもないことを」
 吐き出された煙草の煙が軽く踊る。おかしそうに。肩をすくめて見せる村上と小沢の間に。
 静かに、ベル。
「あの──それで、私たちはこれから──」
「これから?」
「これから──か」
 軽く笑う二人。二人、ベルの言いたいことはわかっていた。真実は正義とイコールじゃない。このエネミーは、エネミーじゃない。愚かな戦い。
 誰かが作ったシナリオに流れて、たくさんのものが壊れて、たくさんの人たちが傷ついて。もしかすると、戦わないでいることが正義かもしれなくて、たくさんの事があって、そして今、真実を皆に告げて──
「それで、私たちはこれから──」
 ベルは、小さくその二人に向かって聞いた。
「これから、どうするんですか?」
「決まってる」
 振り向きもせずに返す小沢。振り向かなくても、わかる。村上も軽く頷いている。
「決まってる」
 そして小沢は煙草を灰皿に押しつけた。まだまだ、それは十分に長かった。けれど、小沢はそれを灰皿に押しつぶして、立ち上がった。「決まってる」
 笑う風に。
「まだ、戦うさ」


「ハルカ」
 静かに、スティーブ。
「私は、自分が間違ったことをしたとは、今でも思っていない」
 遙はそっと視線を外す。話すことはない。ただ、聞く。
「人類が新しい時代に進むために、それは、手に入れなければならない力だったんだ。そう、それは核と同じだよ。次の世紀を向かえるために、必要な進化。わかるだろう」
「わかります」
 そっと、言う。
 小さく弱く、ため息のように。
「でも、どうしてあなたがそんな話をするのかは、わかりません」
「──君を巻き込む気は、なかったんだ」
「あなたは多分──」
 言って、遙は彼のことを真っ直ぐに見た。
「自分に嘘をついてる」


「ずいぶん──」
 彼女は細く微笑んで言う。
「ひさしぶりな気がするね」
「うん」
 一也は返す。美術室の中。たったひとりの彼女に向かって。
「今日も来てるなんて、思わなかった」
「家にいたくないから」
 静かに、詩織は返した。「家にいると、不安なことばかり考えちゃうし、それに、家族とも、喧嘩したっきりなんだ」
「家にいるとね、テレビ、あるでしょ。どうしてもテレビ、気になってつけちゃうの。だけど、お父さん、怒るんだ。私がね、一也のこと気にして、テレビ、見てたりすると」
 絵筆を走らせながら、小さく弱く。
 軽く、笑う。
 そして絵筆を、詩織は水の入ったバケツの中に静かに沈めていった。溶けた絵の具が、その水の色を静かに変えていく。
「朝帰り、したでしょ。あの日以来ね」
 静かに目を伏せる一也。
 詩織は少しだけ、笑っていた。
「へへ…そりゃ、お父さんも怒るよね。こんな時に、そんな、さ。渦中の人とさ」
「──ごめん」
「どうして、そういうこと言うの」
 微笑みを絶やさずに、詩織は言う。
「でも、私たち、何も悪いことなんかしてないでしょ」


       5

「あなたは多分、自分に嘘をついてる」
 遙は言う。まっすぐに男を見つめて、ゆっくりと。
「だから、私にそんなことを言うんです。正しいとか間違ってるとか、私にはよくはわからないけど、でも、あなたの中にもきっと、正義ってある。私の中にあるのと同じように」
 スティーブは言葉を返さない。
 静かに、風の中にその長い髪を揺らしながら言う、彼女の事を見つめている。
 風の中──遙が言う。
「誰の心の中にも、きっとある。それは具体的ではなくて、すぐに変わってしまったりするのかも知れないけれど、きっと、誰の心の中にも、正義って、ある。あなたの中にも、ある。二年前と今とで、それは変わってしまったかもしれないけれど、私たちと同じように、二年前と今とで、変わってしまっているのかもしれないけれど、それでもきっと、ある」
 青い空が広がっている。
 緑の芝生の上、青い空。
 握りしめられた、小さな手。少しだけ震えた、その手。
 遙が、言う。
「あなたは多分、その自分の心に嘘をついてる」
 いつか見た、彼女の姿にそれが繋がったような気がして、
「ハルカ…」
 スティーブは静かに息を吸い込んで、細く微笑んだ。
 そして、言った。
 二年前に、自分たちの前から、逃げるようにして消えた、彼女の姿に。
「君は、二年前のあの時に、立ち止まったままの存在じゃなかったんだね」
 スティーブは少し笑うようにして、口許を緩ませていた。
「立ち止まったままだったのは──」
 その口許が、遙には自嘲のそれのように見えた。
「立ち止まったままだったのは、私の方だったと、君にあって、確かめられた気がするよ」
 だから、言葉を続けさせまいとして、遙は何かを言おうとした。言おうとしたけれど、何を言えばいいのかわからなくて、
「すまない」
 スティーブが呟く。
「ハングの事は、忘れてくれてかまわないんだ」
 視線をはずして、スティーブは呟いた。
「ただ、私は、忘れられない」


「ああ」
 教授はふと思い出したようにして肩越しに振り向いた。振り向いた先、シゲが口を曲げて返す。
「どうしました?」
「用事を思い出した」
「用事?」
 続いたのは香奈。香奈もまた、小首を傾げて聞き返す。
 首相官邸。その前。
「お買い物かなにかですか?だったら、私が──」
「いや、違うよ。もう少し、込み入った用事だ」
「また、僕らに内緒で、なんかしようって魂胆でしょう」
「正解だ」
 軽く教授は笑った。
「すまんが、先に帰っていてくれ。用事をすませてから帰る」
 そして片手をあげてひとり、歩き出す。取り残されたシゲ、香奈は顔を見合わせていた。シゲは軽く、肩をすくめて見せた。
 夏空の青い空を見上げて、教授は歩く。
 行き交う車の騒音と排気ガスが、暑く騒がしい夏をさらに厳しいものとしている気がした。額に、少し汗が浮かぶ。八月が近づいている。本格的な夏まで、後少し。
 ふと、考える。
 ──そうだ。忘れていた。
 一件の喫茶店の前で立ち止まる。そしてそのドアを、ゆっくりと開ける。子どもの名前も考えなきゃいかんな。
 涼しい店内に差し込む夏の日差し。その日差しの中にいた男が彼に振り向いた。
「お待たせしましたか?」
「いえ、自分も今しがた、来たところです」
 そして教授はカウンターに座っていたその男の隣に、自分も腰を下ろした。


 静かに、腰を下ろす。
 美術室の長机。黒色のひんやりとしたその机に手をついて、木製の背もたれのない椅子に、一也はゆっくりと腰を下ろした。
「他のみんなは?」
 聞く。眼前、キャンバスに向かって絵筆を走らせている詩織に。
「お休み。部活もね、今はこられる人だけってことになってるの。田舎にみんな帰っちゃったりしてるし」
「そう」
「寂しい夏休みね」
 言っておきながら、詩織は自分で笑った。
「私たちが言えたもんじゃないね。受験生なのにね。予備校でも行って、勉強してるのが正しい受験生かな」
「だろうね」
 一也も笑って返す。「志望校、絞らなきゃ」
「それどころじゃ、ないけどね」
 笑ったままの詩織。絵筆を走らせながら、軽く言う。
「もしかしたら、私たち、明日は死んじゃってるかもしれないし」
 何も言葉を返せなくて、一也はゆっくりと瞬きをした。
「それで?」
 詩織が言う。
「今日はどうしたの?」
 言う言葉。いつか自分が言葉が言った言葉が、頭の中にふと思い浮かぶ。
 詩織は絵筆をそっと、水の入ったバケツにつけた。
 にじんでいく色に、少しだけ眉をよせる。だからきっと──
 私たち、このままじゃいられない──
「うん──」
 そっと、一也が言う。


「ハルカ」
 静かにつぶやき、視線を戻しながら、スティーブは言った。
「君が戦うことはない。君と同じで、私の中にも正義はある。そして、この戦いはそれを確かめるためのものだったんだ。正義とは、何か。この世界は、護るべき価値があるか。我々には、あの悲劇を繰り返させないだけの力があるか」
 風の中、長い髪を静かに揺らして、遙はそれを聞いている。
「そしてそれは、奴が答えてくれた」
「エネミーが?」
「エネミーじゃないよ。超過生体有機体だ。人間を越えた、生命体だ」
「エネミーですよ。エネミーはエネミーで、神じゃない」
 言って、遙は振り向いた。歩き出す。このまま話していてはいけない。聞いてはいけない。その先にある、彼の父親の台詞を。「神様なんて、この世界にはいない」
 吹き抜けていく風に揺れる長い髪。
 その背中を見送るスティーブ。言葉を探す。
「ハルカ…君は、ハングが死んだ日のことを、まだ鮮明に覚えているのかい?」
「──覚えてません」
「私は覚えている。今でも、鮮明に。一輪の花を静かに献花した君の姿が、今でも鮮明に思い出せる」
 立ち止まらない遙。その背中に向かって、スティーブは続ける。
「もう二度と、見たくはない」
「でもあれは──」
 立ち止まらずに、遙は返した。
「でもあれは、エネミーです。あなたの言っていることは、矛盾してる」
「奴らはエネミーじゃない。奴らには、明確な『目的』がある」
 その背中に向かって、スティーブは返す。
「二年前のエネミーが、ベーシックな目的──都市を破壊するという目的を持っていたように、奴らにも、我々が与えることの出来る目的以外に、ベーシックな『目的』がある。そしてそれがある限り、奴らはエネミーじゃ
ない。そしてその、彼らのベーシックな目的こそが、君が、そして我々が知りたかった答えだ」
 立ち止まった。
「答え?」
 聞き返すために、遙は立ち止まった。
 スティーブが静かに言葉を結ぶ。
「彼らは、君の制止を振り切って、再び動き出した。あれは我々の意志ではない。彼らの意志だ。そしてそれは、とりもなおさず、そのベーシックな『目的』に対する答えだと、私は思っている」
「奴らの目的って、なんなんですか?」
「この戦いは、もうすぐ終わる」
 スティーブは細く微笑みながら、告げた。
「彼らが成そうとしているのは、この世界を護るために出来ること、ただそれだけだ。それが彼らのベーシックな目的。そして彼らは、そのために出来ることは、戦うことだと、我々に答えてみせた。君の制止を、自らの意志で振り切って」
「それが…」
 小さく呟いて、遙は返した。
 悲しげに。
「あなたの出した答えで、彼らの答えなんですか?」
「この世界は、戦わずに護ることは出来ない。それが答え。そして彼らはたぶん、人類を終焉に導くこうとするだろう。この世界を護るために」
「そうですか」
 呟いて、遙は再び振り向いて歩き出した。
 スティーブが呼び止めようと、一歩を踏み出そうとした時、遙は風の中に向かって言った。「それが答えなら──」
「私も、戦います」
「何故!?」
 強く発せられた言葉が、背中を突く。
「君が戦う事はないと──!!」
 だから遙は、それに負けないように、確かに返した。
「それが、私たちの選んだ正義だから」
「彼らは、自らの意志で進化をし、人類を越える事も出来る生命体なんだ!その彼らが導き出した答えに、作り出したシナリオに、どうあがいても敵うわけがない!!」
 スティーブは続けた。
「この戦いは、彼らのもたらす結末に終わる。最後の一体が地球に降り立った時、その時に、それですべては終わるんだ。どうあがいてもこの結末は回避できない。それでもハルカ、君は戦うというのかい?」
 そして遙は立ち止まった。
「最後の一体?」
 小さく、吹き抜けていった夏の風の中につぶやいて。


 クーラーのきいた店内。
 教授はアイスコーヒーにストローを刺しながら言う。
「コーヒーはホットでないとという輩が、いますけどね」
 隣に座った男に向かって。
「香りが楽しめないとか連中は言いますが、まぁ、まともなアイスコーヒーを飲んだことがないとでも言うべきですか。本来のアイスコーヒーというものは、ホットのコーヒーに比べると、豆の時点で──」
「そんな話をするために、ここであおうと?」
「いいえ」
 軽く返して、教授はコーヒーをすすった。
「そんな話をするためにあなたを捜してくれなんて彼に言ったら、私がどうなるか」
「彼──?」
「ああ」
 ストローに口をつけたまま、教授はちらりと隣に座る男、一也の父、拓也を見て言った。
「あなたの泊まっていたホテルに迎えに行った、うちの若いのです。小沢って言うんですけどね」
「ああ…」
 拓也は呟く。「彼が、小沢くんですか」「なかなか、いい男でしょう?」「あ、今泊まっているホテルの代金ですが──」「ああ、経費で落としますので、ご心配なく」「いいのですか?」
「小沢っていうのは、ああ見えて、なかなか度胸のある、気っ風のいい男でしてね」
 教授は笑う。
「正直、あなたが私とまたあってくれるとは、思いませんでしたよ」
「私も、正直、あなたともう一度お話することになるとは思いませんでした」
 拓也は、苦笑するようにして言った。
「彼に、どうしてもと頼まれましてね。なかなかの好青年だとは思いましたが、彼が、どうしてそこまでして、あなたの肩を持つのか、正直、気になったというのも事実です」
「娘の彼氏の頼みですしね」
「…」
 しばしの無言があって──ちらり、教授は拓也を盗み見た。「それはとりあえず置いておいて」と呟き、拓也は聞いた。
「お話とは?」
「一也君のことですよ」
 教授はストローから口を話すと、拓也に向かって続けた。
「あれから、しばらく考えたんですけどね──」
「この戦争のことをですか?」
「それと、一也君自身のこと、ですが…」
 弱くなっていく語尾に、教授の手の中のアイスコーヒーの氷が、軽く鳴った。拓也はそれを、なんとはなしに見つめていた。
「まぁ…乗り越えなきゃならん、壁みたいなモンだと思うのですよ」
「一也の持つ、過去がですか?」
「も、あるでしょうが、我々自身の記憶にあるものも、ですかね」
 言いながら、片手でミルクポットを手にする。そしてゆっくりとグラスの中に注ぐ。「コーヒーを二度楽しむ、秘訣です」「そうですか」
「私はね、平田さん。多くの子どもを持つ親と同じですよ。戦争に子どもをやりたくなんかないし、そして、その場所で死ぬかもしれないとわかっていて、送り出せたりはしませんよ」
「旧日本軍ならともかくも──みたいな話ですか」
「息子をとられるくらいなら、自分の手でとすら、思います」
「悲しい話ですな」
 ストローでアイスコーヒーをかき混ぜる教授。からからという軽い音が、静かな店内に響く。
「でも、そうもいかないのが、現状ですかね」
「一也は、本当のところ、何を思っているのでしょうか」
 拓也は小さくつぶやく。
「あいつは、戦いたくなんてないと言っていたでしょう?それなのに、昨日は、どこか違っていた。戦いたくないのなら、私と一緒に京都に戻ればいいことなのに」
「彼なりに、いろいろと考えてのことでしょうけれどね」
 教授は再びアイスコーヒーをすすった。「うん、いい味だ」
「お父さんは、ヒーローになりたいと思ったことはありませんか?」
「は?」
「まぁ、巨大ロボットに乗りたいと思ったこと、と訳してもかまいませんし、仮面ライダーになりたいと思ったことと訳してもかまいませんが」
「はぁ──」
「ヒーローは、常に悩むものです。お約束とでも言いましょうか」
「いや、平田さん──言っていることが、よく──」
「話を変えましょう」
 言って、また教授は聞いた。
「正義って、なんでしょうな」
「正義──ですか?」
「正しいと思うこと、と訳してもかまいませんが」
「正しいと思うこと──ですか?」
「たとえば──愛する人を護るために戦うってのは、正しいことでしょうかね。愛する、という意味が、好きな人というだけでなくて、たとえば家族のためにだとか、親友のためにだとか」
「はあ──」
「それは、きっと正義なんですよ。一也君も気づいてる。だからきっと、いろいろと考えることが出来てしまうのだと思うのです」
 アイスコーヒーをすする。もう、残りはほとんどない。ずずっという少し汚い音をたてて、教授は笑った。
「お父さんのしたことも、正義ですよ。正しい。間違ってなんか、ない。子を思う親の気持ちを、全くわからない訳じゃないですしね」
「お子さんが生まれると──」
「ええ、きっと、八月でしょうな。夏の、暑いころに生まれてきますよ。男の子か、女の子か、わかりませんけれど」
「おめでとうございます」
「どうも。でも、どうでしょう。その子は、この世界に本当に生まれてきたいと願っているでしょうかね。世紀末の、この世界に。私はね、少しばかり、不安なんですよ」
 空になったグラスを押しやり、教授はそのストローの先をはじいた。くるりと回って、ストローは氷を軽く鳴らして、元の位置におさまる。
「だから、私は、それを自分でしめしてやらなゃならんと、今は使命に燃えている訳ですよ。一也君も、もしかしたら、そうなのかもしれません」
「歴戦の勇士ですか──うちの息子がね」
「です」
「平田さん、あいつの中の正義って、なんでしょう?あいつはそれを、すごく気にしていたと思うのですよ。それで、あいつの中の正義って、じゃあ、結局、なんなのでしょう」
「わかりません」
 言って、伝表をぴらりと教授は見た。見ながらに、言う。
「誰の中にも、正義ってモンはあるのだと思いますよ。私の中にも、ある。あなたの中にも、ある。もちろん、香奈君の中にもあるでしょうし、うちの他の連中、そして、エネミーを作り出した連中、一也君の中にも、ある。でもそれは、誰にも見えんのです」
 財布を取り出しながら、教授は拓也を見た。「あ、自分の分は、払いますよ」「いえいえ、奢らせてもらいます。どうせ、国家予算から出るんです」「元をたどれば、我々の税金ですが──」「大丈夫ですよ。私も払ってますから」
「ま、でもそれは、結局は、誰にも見えんのです。もしかしたら、自分でも、見えないかもしれんのです」
 拓也に向かって、教授は少し首を捻るようにして言った。
「だからこそ、我々は示さねばならんのです。我々自身も見えていなくとも、今、見える限りのものを信じて」
 笑って、言う。「私の言葉じゃ、ないですが」
「この戦いは、もうすぐ終わります」
「本当ですか──?」
「一也君も、きっと、答えを見つけだして、あなたと向き合う時がくると思いますよ。いや、もしかしたらもう、答えは出ているのかもしれませんが」
 渡した札におつりを受け取りながら、「あ、領収書もお願いします」と、教授。拓也に向かって、静かに、それまでとは違う風に、最後に告げた。
「私は、ロボットアニメが好きなんですがね」
「はあ──」
「ハッピーエンド以外の結末は、嫌いな質なんですよ」
 そして教授は、静かに、それまでとは違う風に、最後に告げた。
「ですから、必ず──」
 そして軽く会釈を残し、教授は店のドアを開けた。
 夏空からの強い日差しに、少しだけ目を細めて。
「──もうじき、本格的な夏だな」


       6

「この夏に、すべては終わる」
 スティーブが言う。
「君は、変われたかも知れない。けれど、誰もが君と同じようには出来ないんだ」
 ずきりと、胸が痛んだような気がして、立ち止まった遙は、肩越しにその声に耳を傾けた。
「そして人は、それが大多数なんだ。変われない。変わろうとしても、変われない。だとしたら、私はやはり、私たちが感じたのと同じ思いを、もう、誰にも味あわせたくはない」
「私は──」
 何かを言おうとして、遙は口をつぐんだ。スティーブが続けていたから、口をつぐんだ。彼の台詞が正しくないと、そう思ったからではなくて。
「この夏に、すべては終わる」
 スティーブは言った。
「すべての悲しみも、何もかもが、この世紀末、旧約聖書に記されたように、アルマゲドンによって、すべての終わりによって──」
 呟こうとしても、喉から、声のひとつも漏れてこなかった。
「君は、馬鹿げていると言うだろう」
 呟き、スティーブもまた歩き出す。彼女に背を向けたまま、別の方向へと。「私も、同じ思いだよ。人類は、愚かだと思う」
「過去にとらわれ、今を見失い、見つめるべき未来から目をそらしている。正義という言葉を口にしながらも、何の力も持たず、ただ、悲しみの記憶を繰り返す。君が感じたのと同じことを、私が感じたのと同じことを、また、繰り返す。繰り返しの輪廻を止めることが出来るとすれば、それが今だよ。この世紀末の、今」
「──違う」
 ただ小さく、遙は呟いた。彼が言うだろうと言った言葉と、同じ意味の言葉を。
 けれど、それはスティーブの耳には届かなかった。
「力無き正義は、無意味だ。そして、そのものたちが語る正義なんてものに、答えはない。もしも答えがあるとすれば、この夏の終わりに、きっとある」
 夏の風に揺れる髪を静かに押さえつけて、遙は目を伏せた。
「嘘よ──」
 そして、小さく呟いた。
 その言葉を受け止める相手の姿は、もう、その場所にはなかったけれど。
「嘘よ。あなたも、きっと気づいてる。あなたはそうして与えられる答えが、あってるって、自分で思いこもうとしてるだけじゃないの?」
 そっと、遙は目を開けた。
「私にも、わからないことはたくさんあるわ。本当のことを言えば、自分の信じることなんてものも、わからないかもしれない。どうして戦うのかなんて、わからない。でも、譲れないものはあって、それがきっと正しくて、他の人たちが違うって言っても、それが自分で出した答えなら、きっと他の誰が何を言っても、正しいと思う」
 迫る夕暮れに風向きを変えた夏の風の中で、遙はその長い茶色の髪を静かに押さえつけた。
「あなたもきっと、気づいてる」
 歩き出す。
「きっと、誰もがみんな気づいてる」
 夏の風の中に向かって、まっすぐに歩き出す。
「そうでしょ?」
 その風に向かって聞く。
 今という時が、過去になって、未来という時が、望まなくてもすぐに今になるなら。
 未来がもしもなくても、その先に、答えなんかなくても、私たちは、それでも、愚かでも、何もわからなくても、見えなくても、今、見えているものを信じて、その先なんかなくて、暗闇の向こうには道はなくても、それでも、その答えに向かって──
 遙はそっと息を吸い込んで、立ち止まった。
 もしも明日世界が滅びるとして──
 今、私は──
 それがどうしてかわからなかったけれど、自分でもわからなかったけれど、走り出した。長い髪を揺らして、息を切らして、ただ、少しでも未来に近づくためみたいに。


「夏のにおい」
 静かに呟いた彼女の言葉に、一也は顔を上げた。
 風向きを変えて美術室に吹き込んできた風に、詩織は絵筆を止めて言う。
「夏のにおいがするね。風に」
 かすかに笑う風にして呟く彼女の言葉に、一也も窓の向こうを見た。吹き込む風に、少しだけ潮の香りがする。夏の香り。詩織が言ったそれ。
「なんか、なつかしい感じ」
「──うん」
 肯定でも否定でもなくて、返す。
「一也は」
 詩織は絵筆を止めたまま、窓の向こうを見つめながら、続けた。
「あの夏を忘れてない?」
「いつの?」
 聞き返した言葉に、意味なんかないと自分でもわかっていた。二年前の夏だ。たくさんのことがあった夏。たったヒトツの、夏。今はもう過去の記憶。
「あの夏を忘れていないから、今も、一也は」
「たくさん、考えたんだ」
 ゆっくりと一也は返した。
 言うべきことを、考える。考えて、うつむく。視界の中の自分の手を見つめて、小さく息を吹きかける。自分の手を握りしめた自分の手。
「俺が戦う理由とか、正義とか、いろいろ」
「──そう」
 そっけなく。
「それで?」
「それで…」
「答えが、見つかったの?」
 わずかな会話。
 だけれど、その間にたくさんの時間が流れていった。小さな一也の声。返す詩織の小さな声。
 吹き込む夏の風。
 傾きを始めた陽射し。リノリウムの床を照らす夏の陽射しが、少しずつ、色を帯びていく。
 流れていく、時間。同じ夏の時間。
「私はね」
 その、色味を帯び始めた床を見つめながら、詩織はゆっくりと言った。
「一也には、戦ってほしくなんか、ないよ。死んじゃうかもしれないのに、戦ってほしくなんか、ないよ。正義なんかどうでもいいよ。世界中でたった一人しかいないR‐0のパイロットだからって、自分を犠牲にするみたいに、戦ってほしくなんかないよ」
 足下の水彩バケツ。さした絵筆からにじみ出た色が、その水の色を変えて、照らし出す陽光に影を落としている。一也は背もたれのない木の椅子に座って、しんとした校舎に響く彼女の声をただ聞いていた。その影を、なんとなく、見つめながら。
「私はね」
 詩織はすこしだけ微笑んで、続けた。
「一也と私はね、ただの高校生。世界のこととか、この星の未来とか、そんなことはどうでもよくて、ただのふつうの高校生でいたいと思うの。ただの、ふつうの高校生の、恋人同士」
 キャンバスの向こうのその姿を見つめて、彼女は静かに言う。
「毎日、学校に一緒に来て、授業中にはぼぅっと、今、何してるかな?とか考えて、一緒にお昼ご飯食べて、同じ部活で笑って、次のデートの約束はどうしようとか、日曜は天気がよければバイクの後ろに乗せてもらってツーリングにでも行こうかとか、それで、帰り道で隠れてキスしてみたり、他の子たちに内緒でちょっと冒険してみたり、そんなね…ふつうの高校生の恋人同士でいたいと思うよ」
 潮の香りを乗せた風が、少しだけ強く吹き込んで来た。
 一也は風に目を細めた。まっすぐに自分を見つめる彼女の長い髪が、その風の中で揺れていて、一也は風に目を細めた。
「だから──」
 そうして続けようとした彼女の言葉を、彼は止めた。
 彼女は言葉を止める。そして彼のことを、まっすぐに見る。
「言わないで」
 少し、声が震えたような気がした。
「──何を?」
 呟くようにして、聞く。まっすぐ、見つめて。
 同じ光景。
 差し込む色づいた陽光。それに照らされた、彼女の栗色に輝く髪。当たり前の風にして、手を伸ばせばきっと触れられる。抱きしめることも出来る。キスをすることも出来る。
 一也はその彼女に向かって、ゆっくりと、言った。
「本当は、居なければいいと思って、来た」
「どうして?」
 わかっていたけれど。
 わかっていて、言いたいこともわかったけれど、詩織はそれだけを小さく言って、また考える風にして黙り込んだ彼のことを、見つめていた。
 言葉を探す。
 言葉を探す。
 外しあう視線の間を、静かに夏の風が抜けていく。
「僕は──それでもやっばり、R‐0のパイロットなんだよ」
 そっと、一也は言った。
「世界中で、ただひとりの、パイロット。歴戦の勇士。その過去を持って、今、生きてる」
 詩織は何かを言おうとして、やめた。言いたいことはたくさん。だけれど、言えない。一也が続けた言葉が、自分の聞いた答えの言葉と同じで、変わっていなかったから。だから、言えない。
「だから、僕はきっと──どこにいても。世界中、どこにいても──変えられない過去から繋がる今を生きてる。だから僕は、このままじゃいられない。どこにいても、同じ」
 言葉の意味が理解できて、詩織は目をそらした。ただ、ぽつりと小さく、言う。
 同じ風に。
「一也──傷つくよ。傷ついて、死んじゃうかもしれない」
「うん──」
 詩織の言葉の意味をわかって、一也は小さくうなずきながら、落とした視線の先で彼女の絵筆を見つめていた。握りしめた自分の手。少し、ふるえているような気がした。
「でも、同じ傷つくなら──」
 言う。
 その台詞を聞いて、彼女は何も返せない。
 同じで、きっと同じで。認めたくなんてないけど、きっと同じ気持ちを持っていて、自分にはもしかしたらわからない気持ちを、ふたり、通わせていて、何も言えない。
「いろいろ、考えたんだ…」
 一也が言う。
 夕日の照らされた美術室の中。ゆっくりと大きく息を吸い込んで、一也が言う。
「もしも、明日世界が滅びるとして──」
「どうして、そんなこと言うの?」
「もしも、明日世界が滅びるとして、僕はどこで何をしてるだろう。誰と、どこにいたいだろうって」
 夕日の中、詩織は息を大きく吸う。照らし出された栗色の髪が、ふわりと夏の風に舞う。
「──答えは?」
「うん──」
「私は、一也といたいよ。その瞬間、一也と、手をつないでいたいよ。ずっと、ずっと、もしもその瞬間で世界が終わったとしても、その先もずっと」
「うん──」
「だから…一也は?」
 言葉を返さないけれど、でも、あの時とは違ってまっすぐに自分を見つめる一也に、こらえきれなくて、詩織はうつむいた。そしてキャンバスの影に、その顔を隠した。
「答えてよ」
 夕日に照らされたその空間を見つめて、一也はゆっくりと、言った。
「ごめん」


「正直──答えはまだ出てない」
 そっと、立ち上がる。
「ごめん──こんな言い方は、すっごい卑怯だと思うし、サイテーだと思うし、今までの年月、全部否定するみたいな感じだけど──」
 言葉を紡ぐ。ゆっくりと、一言一言を。「ずっと、一度も答えなかったことを──」


「言わなくていい」
 キャンバスの向こう、夕日に染まる髪。うつむくその顔は、長い髪に隠れて、誰にも見えなかった。「もう、言わなくていい。いいから──」
「はやく、どっか行ってよ」
 気づかない風にと思っても、わかる。それくらい、わかる。
 二年は決して長くはないけれど、短くはなくて、それくらい、目を閉じていてもわかる。耳に届く言葉。震える声。
 その理由。
 抱えるふたりの、理由。


 しんとした校舎。
 その、美術室。変わらない風景。夕日の差し込む教室。
 静かに一也は言う。告げる。
 そして、歩き出す。
「ごめん…」


 足音が遠ざかって、消えていく。
 それでも、顔を上げることが出来なくて、長い髪の奥、詩織はすうと息を吸い込んだ。
 そして、呟いた。
「…一也の、ばか」
 差し込む夕日の落とす影の中、言葉にならない声で、ただ、小さく呟いた。
 キャンバスに額を寄せる。長い髪に包まれたまま、ただ呼吸を続けることだけを、不器用に考えながら。しんとしたその教室の中で。


 夕焼けの中を抜けていく風。
 川沿いの遊歩道。
 風に踊る少し茶色い髪をかき上げて、一也は目を細めた。
 何かを考えていた風で、何も考えていなくて、何か言葉を見つけたはずなのに、それが何かわからなくて、ただ、ゆっくりと息を吸う。
 今という過去を見つめる未来の自分は、今の自分をどう思うだろう。正しいこと。僕の求めているもの。それって──
 潮の香りを乗せた風が、強く吹いた。
 少し茶色い髪が、その風に舞う。こめかみにある銀色の端末。一也は大きく息を再び吸い込んだ。
 もしも明日世界が滅びるとして──
 だから──
 それがどうしてかわからなかったけれど、自分でもわからなかったけれど、走り出した。その髪を揺らして、息を切らして、ただ、少しでも未来に近づくためみたいに。


                                   つづく


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