studio Odyssey


2nd Millennium END. 第9部




 七月二五日。
 吉田 一也はホテルの部屋で、チャイムの音に目を覚ました。
 けたたましく鳴らされ続ける音。響く頭痛に顔をしかめさせて、のそりと一也は起きあがった。「誰だよ…」
 小さく呟いて、一也はそのドアをゆっくりと押し開ける。通り抜ける途中、別の部屋の中で、姉、吉田 香奈はその音に気づきもしないでぐっすりと眠っていた。
「はい…?」
「エネミーが現れたわ」
 ドアの向こうに、脳内情報処理研究室の研究生、桐嶋 かなたがいた。
 かなたは矢継ぎ早に言う。
「一也くんが昨日戦った、あの、ゴジラなエネミー。また、東京湾を北上し始めたわ」
「エネミー?」
 小さく返す一也。
 「エネミーではない」男の台詞が、すぐさま頭を駆け抜けていった。「これはすべて、私の作ったシナリオだ」
「いける?」
 かなたが言う。
「待って下さい」
 一也は返した。
「着替えます」




   新世機動戦記 R‐0 2nd Millennium END.
                         第9部




       1

 携帯電話の着信音が響く。
「もしもし?」
 彼はそのコールに応えた。
「私だ」
 と、電話の向こうからの平田教授の声。電話を持っていた、教授の持つ研究室、脳内情報処理研究室の研究生、大沢 一成はにやりと口許を曲げて返した。
「おはようございます」
「その口振りじゃ、すでに情報は行っているな?」
「来てます」
 言いながら、大沢は横須賀基地のハンガーにある巨大ロボットを見た。昨日の晩までは銀色一色だったその巨大ロボットが、今は艶消しの灰色に塗り替えられている。
「整備は、あがってます。出られますよ」
「頼もしいな」
「ただ、ひとつ言わしてもらっていいですか?」
「なんだ?」
 大沢は言った。
「サーフェイサーが乾いていません」
 灰色のその色は、下地となるべきコーティングだったのである。さらに大沢は続ける。
「しかも、サーフェイサーかけたら、昨日の戦闘でできた凹凸がはっきりしすぎてイヤイヤです。こんなモンじゃ、全国のモデラーのみなさんに見せたくないです」
「この非常事態に何を言ってる!!」
 電話の向こう、教授が怒鳴った。
「そんなものは、巨大ロボットの宿命だ!!」
「でーすよねぇー」
 苦笑いの大沢の耳に、教授が勢いよく電話を切る音が届いた。
 大沢は軽くため息を吐いて、そして、言った。ハンガー中に届くような、しっかりとした声で。
「R‐IIを出すぞ!起動準備開始っ!!」
 ハンガーに整備員たちの声が響く。


「遅れました」
 かなたの手によって引き開けられたドアを抜け、一也は部屋の中へと入っていった。
 ホテルの大きな一室。中には電話をちょうど切ったところの教授。そして元総理、村上 俊平。金色の髪の大使、ベル。眠っているのか、眼を閉じたまま椅子に座っている小沢 直樹。
 そして茶がかかった長い髪を後ろで束ねている途中の、村上 遙がいた。
「おはよう」
 軽く、遙。
「おはよう」
 一也も軽く返す。
「それで?」
 一也は教授を見た。
「うむ」
 教授は小さく頷き、部屋の真ん中にあった巨大なテーブルの上に地図を広げはじめた。ふと眼を開けた小沢が、それを手伝う。「香奈さんは?」「まだ寝てます」「やっぱり?」
 広げられた地図は、東京湾から相模湾にかけての、十万分の一の地図であった。
「エネミーは、大島に展開している海自がソナーで発見した。微速でだが、北上している。おそらくは、また浦賀水道を抜けて、上陸するつもりでいるんだろう」
 言いながら、大島、そして相模湾から東京湾にかけての浦賀水道をマーカーペンでなぞる教授。遙が束ねた髪を肩の後ろに追いやって、それを覗き込む。
「エネミーの速度は、現在、時速20km前後と推定される」
 教授の言葉に、遙は手を伸ばして地図の下にあった縮尺に指をあわせた。そして、大島から東京湾へと向けて、幅をとる。
「三時間、ないくらい?」
「そのままの速度で進行すれば、の話だがな」
「途中で、寄り道されちゃうかもしれない」
 小沢。
「最も、イーグル2なら、ベイエリアのどこに来られても、たいした問題にはならないだろうけど」
「出動の許可は、内閣総理大臣からも受けてある」
 村上。一也の事、そして遙の事を真っ直ぐに見つめながらに、言う。
「準備は、整えてある」
 それに、教授が続いた。
「いけるかね?」
 答えず、遙は一也に視線を送った。教授、そして村上。小沢もベルも、続いて彼の事を見た。
「一也?」
 小さく呟く遙。夏向けのオレンジのフレンチ袖のTシャツに、デニムスカート。思わず、一也は自分のことを真っ直ぐに見る彼女に、軽く、笑った。
 そして言った。
「やるしかないんでしょ?」


「何か、あったの?」
 ホテルの廊下を行く一也の後ろから、彼女が声をかけた。
 立ち止まり、一也は振り返る。金色の髪を揺らしながら、ベルが小走りに一也の隣にまで駆け寄ってきた。
「昨日は、こめんなさい」
 と、ベル。
「私、一也くんのこと、あんまり考えないで、いろんな事言ったかもしれない」
「いいですよ」
「私、せっかくこの二年間頑張ってきて、それで、やっとのことで──」
「いいですよ」
 軽く笑う風にして言って、再び一也は歩き出した。「あ」と小さくベルが言葉を発して、彼のあとを追う。
「正直──」
 再び自分の後ろにまで駆け寄って来たベルを見ずに、一也は呟いた。
「戦うことは、辛いです。今でも。今、こうして歩いている時でも。この一歩一歩が、もしかしたら、死に近づいているのかななんて考えると、正直、辛いです」
「──何か、あったの?」
 いつの間にか自分よりもずっとずっと大きくなった背中を見つめながら、ベルは言う。言って、すこしうつむく。
「それでも──一也くんが、こんな愚かな戦いをもう一度──と思うような何かが、あったの?」
「ありません」
 軽く、一也は言った。
「そんなの、ないですよ。ただ、ちょっと気になったんです」
「なにが?」
「ベルさんは──」
 ゆっくりと立ち止まり、一也は窓から朝の街並みに視線を送った。青い夏の空から、燦々と陽射しが降り注いでいる。少し眼を細めて、
「ベルさんは、もしも明日世界が滅びるとして、その時、何処で何をしていますか?」
「え──?」
「もしもこのエネミーによって、明日、世界が滅びるとして、誰と、何処にいたいですか?」
「そんなこと──」
 静かに、ベルはうつむいた。
「よくは──わからないけど」
 一也は少しだけ笑う。ベルの「よくはわからない」というその台詞が、たぶん、言いにくいだけで、答えがその胸の内にあるものだと、なんとなくわかったからだ。
 そして一也には、なんとなくベルとその隣で手を繋いでいる人の姿が、想像できたから。
 夏の陽射しに眼を細めて、一也は言う。
「だから」
 一也のポケットの中で、携帯電話の着信音がした。


「Good morning, KAZUYA」
 番号非通知の声が言う。
 一也は眉を寄せた。そして、ゆっくりと返した。窓の向こうを探るようにして眺めながら。そこに声の主がいるとは、思わなかったけれど。
「…Smoker?」
 電話の向こうの男が笑う。吹き出すように。
「I'm Smoker」
 一也は矢継ぎ早に続けた。
「どこでこの番号を?」
「君の携帯電話の番号なら、君が携帯を購入した時から知っているよ。こうして、電話越しで話すことになるとは、思わなかったがね」
「誰?」
 小さなベルの声。一也は目配せだけで答えて、電話の向こうに返す。
「何の用だ」
「君に、出演を拒否されては困るのでね」
 男は笑う。そして言う。
「Smokerからの忠告だ」
 その、一也が咄嗟に付けたあだ名の由来を知っていて、男は笑いながら続けた。
「君も、ある程度は知っているだろうが、奴らには、知性と呼べるレベルのものはない。が、『目的』を与える事はできる」
「目的?」
「行動コマンドとでも言った方がいいか──二年前のエネミーは、『都市を破壊する』というベーシックなコマンドしか与えられていなかったが、我々のあれは、我々で自由にコマンドを送る事が出来るように改良されている」
「何が言いたいんだ」
 短く言って、一也は廊下の左右へと振り返った。ベルと自分以外の姿はない。窓の外、高層ビル群が立ち並んでいる。──何処にいるわけでもない。そんな事は、百も承知していたけれど──
「お前、奴らに、何をさせるつもりなんだ?」
「昨日、君にはちゃんと話したつもりだったが?」
 男は笑う。
「R‐IIと戦いたい──それだけなのか?」
 窓に手をつき、その向こうを見据えながら一也は言った。その背中を、ベルはただ、眉を寄せて見つめていた。「だったら──」
「取引をしよう」
「ほう…」
 電話の向こう、男が笑ったのがわかった。
「君の口から、そんなことを聞くことになるとは、思わなかったな」
 一也は窓に映る自分の目を真っ直ぐに見つめながら、言った。
「会おう」
 静かに、ベルが息を飲んだ。


       2

「俺」
 電話の向こうに、一也は言う。
「どうしたの?」
 電話の向こうの聞き慣れた声が返す。
「少し、遅れるかもしれない」
「はぁ?一也、何言ってんの?」
「少し、遅れるかもしれない」
 見上げる。
 青い夏の空。
「少し遅れるかもしれないけど、俺は必ず行くから」
 そうして、一也は通話を切った。
 そびえるホテルの影から視線を外し、自分の前へとゆっくりと滑り込んできた黒塗りの外車に視線を戻す。
 助手席から降りてきた男が、彼を促すようにして、その後部座席のドアを引き開けた。「Thanks」小さく言って、一也はその中へと頭を突っ込んで、聞いた。
「一人増えたけれど、問題は?」
「人による」
 後部座席に座った男は、煙草をゆっくりとふかしながら、彼の事を見ずに返した。
「もしも俺がお前の提案を拒んだ時、人質とするなら、お前たちにとって、これ以上とない人だ」
 そして、一也はその後部座席へと身を滑り込ませた。男は答えない。一也はそれを答えと受け取って、外にいた彼女に声をかけた。
「ベルさん、乗って下さい」
 そして彼女もまた、ゆっくりとその後部座席に身を滑り込ませた。
 ドアの脇に控えていた男が、そっと、そのドアを閉めた。


「一也くんが?」
 遙の台詞に、小沢は飲みかけのコーヒーをソーサーの上に置いた。
「『少し遅れるかもしれない』って」
 通話を切った携帯を、首を傾げながら遙はポケットの中に押し込む。そして自分も飲みかけのコーヒーに手を伸ばした。
 それを両手で包み込むようにして持ちながら、
「でも、『行くから』って」
「なんだ?」
「小沢さん、何か心当たりあります?」
「ない──よなぁ?」
「私に聞かれても困ります」
 真っ直ぐに小沢を見つめ、遙はきっぱり。小沢も小沢で、軽く口許を弛ませて頭を掻くだけ。
「お車の準備ができました」
 ふいに、近づいてきたボーイが言った。ロビーのウェイティングスペース。「あ。ありがとうございます」遙は微笑みながら返す。
「小沢さん、車の準備ができたって」
「あ、ああ──」
 小沢は自分の携帯を耳に当てながらコーヒーを飲み干した。「あ、新士さん?」そして立ち上がる。
「教授、車の準備ができたって」
「ああ」
 少し離れたソファに座って待っていた教授が、手元のA4レポートを見つめながら返す。向かいにいた村上も、ゆっくりと立ち上がっていた。
「香奈さん、呼んでこないと、後で怒りますかね?」
「──そうです。一也くん。片桐か篠塚でも使って──お願いします。何?」
 携帯を耳から下げて小沢。
「香奈さん」
 遙は言う。
「起こしに行ったけど、まだ来ていないから」
「僕に、起こしにいけっての?」
 スーツの内ポケットに小沢は携帯と一緒にテーブルの上にあった煙草を押し込みつつ、笑う。
「別に、いいけど」
 その答えに、遙は目を細めて返した。
「でも、小沢さんが起こしに行ったら、あと2時間かかりますか」
「なんだよそれ」
「優しく起こすから」
 言って、
「私、行ってきます。ちょっと待っててもらえます?」
 小走りに遙は駆け出した。「なにが言いたいんだよ」という風に、小沢は口許を曲げて笑っていた。
「ベルもいないな」
 呟いたのは村上だ。
「一也くんと出ていきましたからね。一緒でしょう」
 言い、教授と村上の方へと歩みよりながら、小沢はついさっきしまった煙草とライターを再び取りだした。そしてそれを口にくわえて──どうしようかと一瞬考えて──結局火をつけた。まぁ、十分は余裕でかかるだろうし…
「シゲさんも、いませんしね」
 と、小沢。灰皿の近くで立ち止まって、ぽつり。
 教授が返す。
「シゲはR‐IIの整備とイーグル2の整備、それから、今回のエネミーの体細胞を分析している」
 そして教授は手の中にあったレポートを小沢へと突き出した。
「面白いデータが手に入ったらしい」
 小沢は煙草を口の端にくわえて、それを手に取った。


「──可能…ですね」
 21インチディスプレイを見つめながら、植村 雄は小さく唸った。
「たしかに、同一だと思います」
 同じディスプレイを見つめていたシゲ──中野 茂──もまた、小さく唸った。植村は肩越しにディスプレイを見つめるシゲを見上げる。「どうしますか?」
「植村、これ、何処で手に入れた?」
 米軍、横須賀基地。
 そのハンガーに隣接した電算室に植村とシゲ。二人はオンラインで繋がったそのUNIXマシンのディスプレイを、ただ、じっと見つめていた。
 ディスプレイには、シゲにはよく理解できない英語が羅列されている。けれど、シゲには見たことのある螺旋も表示されている。無論、植村はその螺旋など、見たことはない。初めは、それが何を意味しているのか、全くわからないくらいだった。
 ただ、今、机の上に置かれているそのレポートの螺旋と、そのディスプレイに映し出されている螺旋とが、ほとんど同じものであるとは、いくら彼が生物に疎いとは言っても、理解できた。
「植村、お前、これ、何処で手に入れた?」
 シゲが聞く。
 イーグル2の整備中、植村が突然に言いだしたのである。「あ、俺、EVR−0システムのバグ取り版、持ってますよ」
「バグ取り版?」
「あれ?あれ、シゲさんが作ったんじゃないんですか?」
 そしてそのシステムプログラムを探している間に、シゲがそれを見つけだしたのであった。
 タイムスタンプは1999/04/15。テンポラリとして植村が作ったディスク領域の中に、それはあった。
「四月…」
 植村は小さく言う。
「真面目な話、していいですか?」
「なに?」
「このシステムプログラム、NASAのデータベースから、拝借しました」
 植村はキーボードを叩く。オンラインになったUNIXが、厚木市にある研究室のUNIXマシンに、新しいファイルの取得要求を出す。
「研究室に入り立てのころ、あのマシンを使って、世界中からいろいろと…」
「──クラッカー研究生」
 そのシゲの台詞に、大真面目に植村は返した。
「ハッカー研究生にしてもらえます?」
「だけど──」
 携帯を耳に当てながら、シゲはごくりと唾を飲んで言った。
「そのハッカーが、世界を救うことになるかもしれないな」
 意味深に、にやりと口許を曲げて笑う。
 ディスプレイには、塩基配列の螺旋構造とそして、ナノメートル単位の微少無機物の設計図が映し出されている。
 机の上には、それと同じ写真の張り付けられたレポート。
 そしてそのレポートのタイトルは、『大島で採取された、新型エネミーの体細胞分析結果』


「植村──」
 呼び出し音を耳にしながら、シゲが言う。
「それをコントロールするプログラムを作れって言ったら、どれだけかかる?」
「愚問ですね」
 植村は軽く返した。
「世界が滅びるまでの時間と比べれば、一瞬ですよ」


「香奈さーん?」
 チャイムを鳴らすのをあきらめて、遙はどんどんとドアを叩いていた。
「起きてくれないと、出かけちゃいますよー」
 言って、遙はドアに耳を押しあてた。片目を閉じて、部屋の中の音を聞く。「あ、起きたかな?」
 そっとドアから離れる。
「かーなさ…」
 もう一度ドアを叩こうと手を伸ばすと、ぎぃっとゆっくりと──ではなく、勢いよくドアが開いた。
 はっと目を見開く。けれど、時すでに遅し。遙の右手に、開かれた金属のドアが、勢いよくぶつかってきた。鈍い音が響く。と同時に、右手がぎんっとしびれた。
「…Jesus」
 うずくまり、右手首を押さえつつ呻く遙。「凶器だよ、ドア…」
「大変!遙ちゃん!!」
「何がですか…」
 「私の方が大変です」と言いたいのを何とか堪えて、遙はドアから顔を出した香奈を見上げた。寝起きだからだろう。頭のてっぺんの髪の毛がぴょんと立っている。しかも、シャツ一枚の姿。
「香奈さん、服くらい来てから出てきた方がいいですよ。日本じゃそうでもないですけど、ホテルの廊下っていうのは、パブリックスペースで──」
「それどころじゃないわ!」
 と、香奈は遙の事を真っ直ぐに見て言った。
「一也がいないの!!また!!」
「いや、そりゃそうでしょう」
「え?」
 近くにいた従業員が、二人に気づいて振り返っていた。
「あ」
 咄嗟、遙は立ち上がり、
「お騒がせしてますー」
 笑いながら、「ちょっ…ちょっと遙ちゃん!」という香奈を、「シャツ一枚で、年頃の女性が出てきてどうするんですか!」なんて言いながら、部屋の中へと押し込んだ。
「説明しますから、着替えながら聞いてください!」


「エネミーをコントロールする?」
 レポートをめくる手を止めて、小沢は教授の台詞に聞き返した。
「できるんですか?」
「おそらく、な」
 不敵に口許を弛ませて、教授はゆっくりと続けた。
「シゲたちの手に入れたデータが本物ならば、可能だ。今回のエネミーを作り出したものたちが、これによって『誰』と特定されるかどうかは、また別問題だが」
 村上が小さく頷く。そして、
「どちらにしても、エネミーをコントロールすることができるかもしれない」
 レポートを手にした小沢を見て言った。
「具体的には、どうやって?」
 煙草を灰皿に押しつけ、小沢はレポートを差し戻す。教授がその小沢をちらりと見やり、
「シゲたちが、今回のエネミーの細胞変異を操作するベクターを見つけた。それがなんだか、知りたいかね?」
 差し出されたレポートに手を伸ばした。
「ベクター…なんです?」
 教授はレポートを手に、そっと大きく息を吸い込んだ。
 吸い込んで、言った。「ナノマシンだ。きっぱり、地球製のな」
「そしてそれは、今でもエネミーの体内で各細胞たちと密接にリンクを取り合っている。コマンドさえわかれば、このエネミー、操作することが可能となるに違いない」
「エネミーを、操る…?」
 教授が受け取ったレポートから手を離せずに、小沢は呟いた。
 人が、エネミーを操る?


       3

「ベルさんには、なんと紹介すればいいですかね?」
 都心を走り抜ける車の中、わざとらしく笑いながら、一也は男を見た。
 男は男で、答えない。ただ、ゆっくりと手にした煙草を飲んでいるばかり。
「ベルさん…」
 一也はその男を見つめたままで、言った。
「今、地球にいるエネミー。それを作った人です」
「作った──?」
 ベルは言葉を飲み込んで、男の横顔をじっと見据えた。
 「今度のエネミーは、今までのエネミーとは違う」それはシゲからも教えられていた。だけれど、それがまさかこの星で生まれたものだったなんて──信じたくなんて、なかったのに──
「どうしてそんなことをしたんですか!?」
 シートから腰を浮かせ、詰め寄る風にしてベルが言う。けれど、男とベルの間には一也がいる。
「ベルさん」
 一也はそっと、ベルの肩に手をかけて、彼女をシートに落ち着かせた。
「一也くん…」
「それが、正義だからでしょう?」
 ベルの言葉を受けて、一也。男を真っ直ぐに見る。男はただ無言で、ゆっくりと手にしていた煙草を後部座席の灰皿に押しつけた。
「再び、エネミーのようなものがこの星を襲ったとして、それに対抗する術として、同じ力で対抗する。つまり、そういうことでしょう?」
「同じ──ではないな」
 男は軽く笑いながら言った。自分を見つめる一也と、そしてベルを見ずに。
「あれは、enemyではない。Overed Human Organismだ」
「同じですよ」
「いや、違う」
 咄嗟、返したのはベルだ。
「どこが!?」
 ベルは男に向かって、真っ直ぐに言う。
「どこが違うって言うんですか!?同じです!たくさんの人を傷つけて、たくさんの人たちを悲しませて、同じ。何も変わらない!!」
「じゃあ、君らのやっていることはどうだ?」
 男は再び前を見つめたままで、言った。
「君らは、誰も傷つけずに戦ったか?戦っているか?我々とは、違うか?
 使っているモノが違うことは認めよう。だが、やっていることは、同じだ。やろうとしていることも、同じだ。
 同じだ。何も、変わらない」


「エネミー?」
 着替えの手を止めて、香奈はベッドの上に座っていた遙に向かって聞いた。
「昨日の今日で?」
「そうです」
 遙はこくりと頷いて返す。
「昨日のエネミーが、また、浦賀水道に向かって北上をはじめたんです。だから、それを迎え撃ちます」
「一也…それでなんて?」
「なんとも」
 ひょいと、遙は肩をすくめてみせた。
「戦うつもりはあるみたいですけど…なんとも──」
 そのあとに、「なんか、しかも、またどっかいっちゃったみたいで」と続けようとして、遙はやめた。「少し遅れるかもしれないけど、俺は必ず行くから」そう言っていた。だから、やめた。
 すうと、遙はゆっくりと息を吸い込んだ。香奈が、ちょうどスカートを履き終えて、ノースリーブのトップスを着ようとしていた。
「あのー、香奈さん?」
 ちょっと小首を傾げて見せながら、聞く。その仕草は、だけれど、わざと。
「なに?」
 だから軽く香奈は返した。「あ、遙ちゃん、悪いんだけど、後ろのファスナー、しめてくれない?」「はいはい」
 立ち上がり、長い髪を両手で持ち上げた香奈の後ろに遙は立った。そして彼女の背中のファスナーに手をかけながら、言った。
「一也に昨日、『どうして戦うの?』って聞いたんですよ」
「──うん」
「昨日…一也のお父さん来てて、一也──香奈さんもだけど──私、京都に帰っちゃうかなって、思ったんですよ。常識で考えれば、やっぱり、お父さんお母さん、心配するだろうし、その心配、一也も香奈さんもわかるだろうし、だったら、たぶん、帰っちゃうんだろうなって。一也、もともと戦いたくなんかなかったみたいだし」
「…そうね」
「でも、一也、そうしなかった」
「そうね」
 軽く、香奈は笑った。
「ちょっと、びっくりしちゃった…」


「あんたの言ってる事は、間違ってない」
 ゆっくりと、一也は言った。「本当に、誰も傷つけずに戦うことなんて、できないのかも知れない」
「それは、多分、間違ってない」


「どこまで行けば、その答えが見つかる?どこまで戻れば、僕は思い出せる?」
 まっすぐに自分を見つめて言う息子、一也に、拓也は言葉を返せない。
 わからないから。
 一也でない自分には、その答えなど、わかるわけがないから。
「それで──」
 父、吉田 拓也は感情を押さえた声でゆっくりと言った。息子の問いには答えられない。答えられないから、聞く。
「お前は、どうするんだ?」
 ホテルのロビー。
 一也の目の前に、拓也。その後ろに香奈。ソファに寄りかかった格好で、三人を見つめている教授。そして、その四人を遠くで見ている──一也だけが気づいている──遙。
 ほんの、半日くらい前の風景。
 父が、真っ直ぐに息子を見つめて、聞く。
「お前の言いたい事は、わかった。お前はそれで、お父さんたちの気持ちは、わかっているのか?」
 一也は眉を寄せて返した。
「わかるよ。わかる。痛いくらい、わかる。だけど──」
「だけど、何だ?」
 ゆっくりと、続ける。
「だけど、何だ?言ってみろ」
「だけど──」
 だけど──なんだろう…
 一也は答えない。答え、られない。
 突然、ロビーの床をうつスーツケースの音が一也に耳に届いた。と同時に、その身体がぐらりと揺れた。はっと目を見開く。自分のシャツの襟首を掴んで、ちいさく震えている手が、その視界に入った。
 父の手。大きかった、手。
 小さく震えている。
 その手が、自分の身体をぐいと引っ張った。
 息子を身体ごと自分の方へと近づけて、父が言う。
「答えられないのか?答えられない程度の、ことなのか?」
「程度──」
 強く、一也は奥歯を噛み締めた。程度──所詮は、誰かの作ったシナリオ──
 そんなこと──強く、一也は奥歯を噛み締めた。
「だったら」
 父が続ける。振るえる腕で、自分を引き寄せたまま、続ける。
「だったら、どうしてみんなを不安にさせる?苦しませる?悲しませる?お前は、お前一人のことしか見えてないのか?御託を列べて、結局、自分一人のことしか見えてないのか?」
 強いその口調に、
「僕は──」
 強く、一也は奥歯を噛み締めた。
「どうなんだ?」
 視線をはずした息子の身体を、拓也は揺すった。少し茶色い前髪が、その振動の中で揺れて──その隙間から、一也は父の姿を見た。
 僕は──
 握られた手に手をかけて振りほどこうとして、やめる。きっと、たぶん、それは簡単にできてしまうだろうから。だから──視線をはずす。
「どうなんだ!?」
 再び、激しく、自分の身体が揺らされた。わかってる──わかってるんだ。誰よりもたぶん、一番──
「お父さん、やめて!」
 姉の声が耳に届いた。はっとして、一也は視線を戻した。
 父の手を押さえた姉の手を、父は、弾くようにして振りほどいた。一也は目を見開く。考えるより早く、身体が動いてた。
 手首に走る強い衝撃。父が目を見開く。鈍い音。それは決して、ロビーに響くような音ではなかったのに、一也の耳には、どんな音よりも強く届いた気がした。
「あ…」
 小さく、呟く。
 宙に浮いたままの父の手。
 軽く、震えている。
「──…」
 なんとか、一也は言葉を飲み込んだ。
 それは、簡単に出来る事だろうとは思っていた。襟首を握りしめた父の手を弾いて、それをふりほどくなんていうのは、簡単に出来る事だろうとは、思っていた。
 思っていたけれど──それは思っていた以上に、簡単すぎた。
 自分が打ち付けた父の手首が、少し、赤くなっているような気がした。
 だから一也は、小さく息を吐いた。
「僕は──」
 姉が、その弟を見ている。言葉をなくして、ただ見つめている。
「俺は──」
 一也は視線に押されるようにしてうつむいて、再び強く歯を噛み締めた。
「よくは、わかんないよ…」
 呟き、再び顔をあげた一也の視界の中に、何かが映った。何か──と言っても、それが何か、一也にはわかっていたし、よける事も、たぶん、出来た。
 けれど、一也の視線はそれを受けて、床に向いていた。
 左の頬を打ち付けたその震える手に、一也の視線は、床を向いていた。
 ロビーいっぱいに響いた音が、遅れて、自分の耳に届いたような気がした。
「お父さん!?」
 姉の声が、ずいぶん経ってから、聞こえたような気がした。
 だけど、痛みは、その後もずっと、なかった。痛くなかった。なんとなくわかっていた。だから一也は、そっと、息を吐いた。
「だけど──」
 そして、言う。ゆっくりと大きく息を吸い込んで、真っ直ぐに前を向いて。
「わからないから、今、ここにいるんだよ」
 そして──沈黙。
 そして──やがて、ロビーに今までと何も変わらない喧騒が戻ってくる。


「でも」
 静かに、一也は言う。
「俺たちとあんたは、違う。それだけは絶対に、認めない」
 男に向かって。
「このすべてを、シナリオだと言うようなあんたなんかと、俺たちは、絶対に違う」


 ゆっくりと振り向く。
 回転扉の方向。
 誰もいない。
 近づく足音に、視線を戻す。軽く、笑う。「痛い?」
 聞かれて、一也は軽く笑って首を傾げた。「さぁ?」


「香奈さん?」
「なあに?」
 ファスナーを上げ終えて、遙はぽつりと聞いた。長い髪を束ねていた手を下ろして、香奈は小首を傾げて聞き返す。
「香奈さんは、もしも明日世界が滅びるとして、その時、何処で何をしていますか?」
「え──?」
「もしもこのエネミーによって、明日、世界が滅びるとして、誰と、何処にいたいですか?」
「どうしたの?なに、突然」
「一也が、そう、聞いたんですよ」
 遙は笑う。自分に。
「あの後、香奈さんのお父さん帰っちゃって、香奈さんも一緒にいなくなって、私と一也、後から降りてきた研究室の人たちと一緒に、R‐IIのハンガーに行ったんですけどね」
 笑いながら、遙はベッドの上に勢いよく腰を降ろした。スプリングが軽く軋んで、遙とその髪を楽しげに踊らせた。
「そこで、一也がそう聞いたんです。で、私、どうかなって思って」
「それで、遙ちゃんは?」
「どうでしょう?」
 遙はひょいと肩をすくめて、質問には答えずに、香奈にした質問の答えを、勝手に言ってみた。
「香奈さんはきっと、小沢さんと一緒にいたいんでしょうね」
「な──そんなこと!」
「顔、赤くなってますよ?」
 軽く返すと、「えっ!?」と、香奈が自分の頬を押さえつけた。本当に赤くなんて、なっていたわけじゃないのに──だから、遙は笑いながら続けた。
「でも、いいなぁ」
 つんと、わざとらしく、口をとがらせて。
「世界の終わりに、一緒にいたい人がいて。一緒に、手を繋いでいたい人がいて」
 僻みっぽく言ったつもりだったけれど、思っていた以上にその台詞は僻みっぽくて──おかしくて、遙は思わず吹き出した。
 つられて、香奈も笑う。その遙がおかしくて。
「でも、遙ちゃんだっているでしょ?そういうひと」
 そして香奈はちょっと困った風に笑いながら、洗面所の方へと消えていった。
「どうでしょう?」
 笑いながら、その背中の消えた方へと遙は小首を傾げながら呟く。
 からかうような台詞も、答えのような台詞も、返っては来なかった。
 だから、ゆっくりと息を吸い込んで、部屋の窓の向こう、夏の陽射しに眼を細めて、遙は静かに言った。
「だから──なのかな」
 静かに。


       4

「だが、君に拒否権はない」
 男は静かに、一也の言葉に返した。
 どれくらい走ったか。都市を走る車の中、後部座席のシート。
「これが、最後のシークェンスだ」
 男はゆっくりとそこに座り直して、言った。
「奴に与えた、最後のコマンドを、君に教えよう。君は我々と、戦わざるを得ない。私のシナリオの通りに」
「コマンド?」
 呟くようにして返したのは、ベルだ。


「コマンドって?」
 眉を寄せ、遙はその単語を繰り返した。
 横須賀基地内の、巨大なハンガー。出撃を控えたイーグル2に、整備員たちが補給を行うためにめまぐるしく動き回っている。
「うむ。まぁ、横文字の好きなシゲがそう言いたがっているだけで、要するに、エネミーを操るための命令だと思ってくれればいい」
「いいえ、教授。コマンドです。command。略して書くと、cmd。具体的に言うと、/cmd」
 ホワイトボード前。集まった教授、小沢、村上、香奈、そして遙を前に、シゲが手にしたレポートを掲げて見せながら、言っていた。


「君に、今更説明するまでもないとは思うが」
 男は聞き返したベルを見ずに、世間話のように、軽く言った。
「君らが作り出す事に成功した奴らには、知性と呼べるレベルのものはなかった。enemyと呼ばれる奴らの、ベーシックな目的、単純な破壊行動、それしか、奴らには出来なかった。私から言わせれば、不完全なもの──」
「エネミーに、完全も不完全もありません」
「言っただろう。あれはだから、enemyではないのだと」
 男は笑った。一也の向こう、金色の髪の大使を見て。
「君らが作り出したenemyとは、違う。あれは我々が作り出した、我々の命令の通りに動く──」
「Overed Human Organismなんて言葉を、使う必要はないだろ」
 一也は男の言葉を遮って言った。肩越し、背中の向こうのベルを一瞬だけ見て。
「生体兵器だろ?」
「どうかね」
 男は口許を緩ませる。
 それが答え──ベルは、強く唇を噛み締めた。


「まぁ」
 シゲの台詞に顔をしかめさせながら、教授は言う。
「なんにせよ、このエネミーを作った奴らに明確な目的があるとすれば、コントロールするためのコマンドくらい、あって当然だろう?」
 手にした、シゲが掲げて見せたのと同じレポートを叩いて、にやりと口許を曲げる。
「でなければエネミーなんて、ただの破壊の先兵にしかならないですからね」
 続いたのはシゲの隣にいた植村だ。植村は言いながら、遙に向かってA4サイズの紙を一枚手渡した。「こっちは、裏紙だけど…」
 手渡された紙には、彼の手書きの読みにくい筆記体で、なにやら操作説明らしきものが書かれていた。
「コントロールって──」


「奴の体内には、我々の命令通りに奴を動かす事の出来る、ナノシステムが構築されている」
 男は座席の脇にあったサイドポケットからレポートを取りだして、一也に手渡した。無言で一也はそれを受け取り、開く。そこには、何か短い単語のようなものが、いくつも並んでいた。
「コマンド?」
「奴には、明確な『目的』がある」
 一也は少しだけ眉を寄せた。
「あんたの『目的』だろう?」
「言っただろう」
 男は胸ポケットから新しい煙草を取り出し、火をつけて返す。
「すべては、私のシナリオの通りなのだと」


 緊急警報の音がハンガー中に響きわたった。
 誰かが叫ぶ。
「エネミー、上陸しました!!久里浜です!久里浜から、横須賀方面に向かって北上!!」


「君は、戦わざるを得ない」
 言って、男は後部座席の真ん中にあったスイッチを押した。ゆっくりとそこから液晶ディスプレイが持ち上がってきて、映像が映し出される。
 一也と、そしてベルが息を飲んだ。
「だが、君がもしもためらいのようなものを感じているのだとしたら、私はそれを取り除かなければならないだろう」
 映し出された映像に、静かに煙草を吸いながら、「最高の演出を、してみせよう」男は言う。
「久里浜に上陸した奴は、そこから、横須賀を目指す。立ちふさがるすべてを蹴散らし──君と戦うためだけに」
「蹴散ら──」
 何かを言おうとした一也の台詞を遮って、男は煙の中で笑った。
「君は、戦わざるを得ない」


「出ます!」
 手渡された紙を手にしたまま、遙はコックピットへと向かって駆け出した。


「それが、このシナリオのすべてなのだから」


 駆け出した遙の後ろを、植村が追った。
「ちょ──これは一応、R‐IIにやらせるように──!!」
「え?」
 追いかけてきた植村に気づいて、イーグル2の搭乗デッキへと駆け上がりながら、遙は返した。
「これ、もしかして、R‐IIでないと出来ないなんていう、お粗末なプログラムなの?」
「馬鹿な」
 むっとして、デッキの上の遙に植村は返した。
「出来るに決まってるじゃないか」
「でしょ?」
 笑う遙。植村は「あ」と小さく呟く。
「いや、だって、一也くん、来るんでしょ?」
「一也は、ちょっと遅れるそうです」
「遅れるって──遊びに行くみたいに…」
「じゃ、デート」
「エネミーと?って、それは嫌だなぁ」
 顔をしかめさせた植村に、遙は軽く笑う。でも、それは一瞬だけ。
「イーグルでも、できるんでしょ?」
 手にしていたインカムを頭につける。そしてその向こうに向かって言う。「イーグル2、出ます。ハッチを開けて、滑走路に誘導してください」
「出来る事は出来るけど──」
 眉を寄せ、植村。デッキからイーグル2の中へと駆け込む遙の背中に向かって、
「特殊な電波帯を使ってるから、ある程度の接近が必要になる」
 言った。
「それでも?」
 問われて、遙はちょっと目を丸くした。ああ、そうか──こういう時に、いつも言っていたんだ。そう思って、返す。
「やるしかないんでしょ?」
 同じように。
 だからだろう。こくりと小さく、自分に向かって「わかった」と、植村がうなずきを返していた。
「いい?管制はほとんどシステムがやってくれる。ただし、エネミーはあの巨体だ。ナノシステムのどこが初めに処理を開始するのかはわからない。そこから処理が始まって、どの程度の時間で全身の制御がされるかも、概算程度でしかわからない」
「概算で?」
「──計算してない」
「…」
 遙は目をしばたたかせた。
 ああ、そうか──いつも、こんな感じだったのかな。だから同じように軽く笑って、遙は言った。
「意味なーい」
 言って、遙は一瞬だけ植村を見てハッチを締めた。「シゲさんと変わんない」「まあ、大先輩だからな」さらりと植村は言ってのけた。
「かなた!イーグル2の方のナノシステムコントローラーは?」
 搭乗デッキの上から植村が言うと、ノートパソコンを持ったかなたがデッキの下に駆け寄って来た。「一応、乗せたけど…R‐IIでやるんじゃなかったの!?」「予定は未定であって、決定ではない!」「また、そういう事をいうー」
 デッキを駆け降りた植村は、そのかなたの首からインカムを取って言った。
「教授、出しますか?」
「大沢、ハッチ解放」
 インカムの向こうから返る声。「了解ー」
 静かに開くハッチの向こうから、夏の陽射しが差し込んでくる。
「概算で、三分」
 植村はイーグル2のコックピットの方へと向かって歩きながら、インカムに手をかけて言った。声の先にいるのは、当然、遙だ。
「イーグルに搭載されている無線通信を使う。その間、無線は使えない」
「いい感じに緊迫感、アリアリ」
 笑いながら、遙はコックピットで各種計器のスイッチを順に入れて行く。シート両脇の薄膜ディスプレイが静かに光りだす。そして、無数の情報をそこに流していく。
「操作はオートセレクトシステムの補助でできる。いい?」
「OK」
 遙はコントロールトリガーの握りを確かめながら、軽く笑ってコックピットから返した。眼下、コックピット脇にまでやってきた植村が、インカムに手をかけて笑っていた。
 そして照らし出す夏の陽射しに植村も目を細めて、ハッチの向こうを見た。
 両手をあげてイーグル2を誘導する人影のシルエット。静かに高鳴りを増していくエンジン音。
 その光の向こうへ向かって、インカムに手をかけたまま、植村は言った。
「イーグル2、出ます!」


       5

 夏の空に軌跡を描いて、イーグル2が駆け抜けていく。
 久里浜より上陸したエネミー。大地を震撼させながら迫る、それに向かい。
 コックピット。遙はごくりと唾をのんで、コントロールトリガーの握りを確かめた。コックピットシート両脇の薄膜ディスプレイが、刻々と情報を告げている。目標の速度、相対速度、予想到達時刻、そして左前面に設置された薄膜ディスプレイが、目標をとらえて拡大表示させた。シャギーがかった輪郭が、再スキャンによりはっきりとした輪郭に表示し直される。
 電子音が響いた。
「開始します」
 そっと静かにインカムに向かって言い、遙はモニター脇にあったキーボードを叩いた。ディスプレイに、先ほど見た筆記体と同じ英文が勢いよく表示された。
 >are you ready ?
 カーソルが点滅している。
「三分だ」
 教授の声がインカムの向こうから返る。
「三分で、奴の動きは停まるはずだ。そこから先は、地上に展開している陸自と米軍に任せればいい」
「了解」
 別の薄膜ディスプレイへと、ちらりと視線を送る。
 そして遙は眼前のエネミーへと、地上に展開する陸自特科隊甲科隊、そして米軍スパイダー大隊の上を抜けて迫った。
 遅れて轟音が大地を抜けていく。
 遙は小さく頷く。


「イーグル?」
 時折ノイズの乗る画面を見つめながら、男は探るように呟いた。
「どういう事だ?」
「…遙ちゃん?」
 ちらりと隣を見て、ベル。だけれど隣の一也は何も言わない。男が続ける。
「そうか──君はあくまで、我々のシナリオに従う気はないと言うことか」
 男は手にしていた煙草を灰皿にもみ消して、膝の上にノートパソコンを広げた。「しかし、イーグル2と言ったか…データは見させて貰ったが、我々と五分に戦えるだけの能力は見受けられないが──まあ、いい」黒かった液晶がやがて色味を帯び、見たこともない画面をそこに映す。
 見たことがない。当然だ。男は一也の視線に気づいて返す。
「これは、奴の状態を監視する事ができるモニターシステムだ。ここに、奴の脳波、心拍、呼吸、そしてナノシステムの状況が表示されている。あいにく、管制はこちらからはできないがな」
「それで?」
「見たまえ。ここが心拍だ。奴もイーグルに気づいた。興奮状態になって、心拍が急上昇している」
 画面のエネミーが、咆哮をあげた。音はその液晶からは聞こえなかった。けれど、一也の見つめる画面の呼吸を示すグラフが、激しく揺れていた。
 イーグル2が迫る。エネミーが身構え、咆哮をあげながらに動く。
「先に言った私の台詞を、覚えているか?」
 男は、薄く笑いをその口許に浮かべて、言った。
「まだ、シナリオの修正は効くが、どうだ?」
「何が言いたい?」
「あれに乗っているのは、ハルカくんだろう?」
 胸ポケットから携帯電話を取り出す。
「君も、彼女を目の前で失いたくはあるまい?彼女を止めるチャンスを、君に与えよう」
 男が取り出した携帯電話は、普通の携帯電話とは違って、そのデータ通信用のソケットに、黒い小さなカードが差し込まれていた。「イーグルで、普段君らが使用している帯域を、覚えているだろう?」
「それとも君は──」
 差し出された携帯と男とを、一也は交互に見た。
 男が一也の手に携帯を押しつけながら、言う。
「私が言った言葉の意味を、理解できていないか?」
 微かに口許を弛ませるようにして、笑って。
「立ちふさがるすべてを蹴散らし、君と戦うためだけに、奴は横須賀を目指す。そして──ここからは奴の管制は出来ないと、私は言っているのだがね?」
 男から視線を外すことをせずに、一也はアンテナを伸ばしてそれを耳に当てた。


 遙は強く奥歯を噛み締めた。コックピットから、斜めになった大地とそしてその上に立つエネミーを視界の隅に見据え、左手をキーに伸ばす。
 音速に迫るGの中、彼女は小さく頷いた。「さぁって…」
 >are you ready ?
 点滅するカーソル。
 そして彼女は強く奥歯を噛み締めたまま──
「遙?」
 その声に、一瞬手を引いた。確かに聞こえた。はっきり、聞こえた。
「一也?」
 遙はインカムの向こうにむかって呟く。声が、返した。
「聞こえる?」
「聞こえるけど、何してんの?」
 そして、遙は再びキーに手をかけた。少し笑う風にして。「遅刻だよ。少しじゃ、ないね」
 一也が言う。「エネミーから、離れて」遙は返す。「遅いよ、もう」「なん──?」
「エネミーを、止めるわ」
 そして微かに微笑んだまま、遙は、言った。
「じゃ、またあとでね」
 そして遙はコントロールトリガーを倒すのと一緒に、キーを叩いた。
 プラスチックが弾ける音が耳に届く。
 >start system.


 一也の耳に、激しいノイズの音が響いた。
 エネミーが、大地を揺るがす咆哮をあげた。
 イーグル2のコックピット。
 薄膜ディスプレイがカウンタ表示に切り替わり、そのカウンタが、ミリ秒とともに目覚ましい勢いで上昇をし始める。遙はそのカウンタよりも速く、エネミーを見据えたままで空気の壁を突き抜けていく。
 男が、身体を振るわせた。
「何を、した…?」
 液晶ディスプレイの値が、激しく変化をはじめていた。
 一也は携帯の通話を切って、それを男に突き返しながら言った。
「エネミーを、止める」
「馬鹿な!?そんなことが──」
「あんた、自分で俺に言った台詞を、覚えてないのか?」
 一也は、眼前の液晶画面を真っ直ぐに見つめていた。
「あれは、自由にコマンドを送る事が出来るように改良されていると、そう言っただろう?」
 エネミーが身悶えるようにして、青い夏の空を突き落とすかのような咆哮をあげていた。


 その目がぎらりと冷たく光る。
 遙はコントロールトリガーを押し込んだ。瞬間、エネミーの黒い巨体から、肉の槍がイーグル2へと向かって放たれる。
 コックピットを激しいGが襲う。衝撃に遙は片目を閉じた。もう方の目は、なんとか堪えた。身体の全神経を浮遊感が包んで、硬直させる。視界の隅、踊る前髪の間を、エネミーの身体から放たれた黒いかたまりが走り抜けていく。
 ディスプレイを、読み切れないほどの情報が駆けぬけていく。
 遙はそれを振り切るようにして、スロットルをあげた。
「何を──」
 そのディスプレイに映る情報に、男は舌をうつ。
「コマンドを送り込んだのか?」
 ノートパソコンの液晶ディスプレイに、赤く文字が点滅していた。男が言った、ナノシステムの状況を表示するウィンドウ部分だ。一也はそこに点滅している文字を読んだ。
 system close execute.
 視線をエネミーを映すディスプレイに戻す。
「初めから、止めることも出来るようになってたみたいだな」
 一也の台詞に、男は舌を打った。突き返された携帯電話を耳に当てる。それを見ずに、一也は呟いた。
「奴は、いつ停まる?」
 三分──
 腕を振るうエネミーの攻撃をかわしながら、遙は薄膜ディスプレイを見た。カウンタが上昇を続けている。三分──まだ!?
 エネミーが吠えあげ、再び肉の槍を放った。遙はそれをぎりぎりのタイミングにかわす。身体にかかるGが、意識を薄れさせる。けれど、遙は強く奥歯を噛み締めた。
 ──まだ!?
 長い彼女の髪が、激しく踊っていた。
「──停止コマンドを送れば、奴は三分以内に心拍を停止する。心拍を停止し、休眠状態となる」
 言って、男はシートに深く座り直した。コールする相手は、応えない。
 ノートパソコンに映し出されたエネミーの心拍が、徐々に弱まり初めている。それにともない、ベルが見つめている先のエネミーもまた、動きを衰えさせ初めている。
「停まる…」
 小さく、ベル。
「まぁ…いい」
 ちらりとそれを見やった男が言う。
「結局は、同じことだ」
 静かに見つめる先、エネミーがついに最後の力を振り絞るかのような咆哮を、天に向かってつきあげていた。


 そしてその心拍を示すグラフが、やがて微動だにしなくなった。
 天を突き抜けた咆哮が、静かに空に吸い込まれて消えていく。冷たく光を放っていたその眼から、禍々しいばかりの輝きが失われていく。
 静かに、それはそのまま動かなくなった。
 夏空の下、生物の活動を停止した黒いかたまり。ただひとつ残った音、イーグル2のエンジン音だけが、静かに響いている。


「停まった…」
 小さく、遙は呟いた。


「──見たか?」
 男はコールに応えた相手に向かって、苛立たしげに呟いた。
「コマンドのキャンセルは出来たはずだ」
 電話の向こうの相手は答えない。
「なぜ、しなかった?」
 電話の向こうの相手は、答えない。
 男は静かに、言った。
「再起動だ」


「遙!!」
 届くわけもなく、一也は叫んだ。
 目を見開く一也。
 目の前にあった液晶ディスプレイに手をかける。


 遙は目を見開く。
 言葉が出ない。ただ、その眼に、冷たく光るその輝きが焼き付いた。


「それでいい」
 電話の向こうの男が、笑うようにして言う。
 光ひとつ差し込まない部屋。窓ひとつない部屋に、静かにコンピューターファンの音が響いている。
「あれに乗っているのは──」
 その音に紛れるようにして、光を放つの液晶モニターに照らし出された一人の男が呟く。


「遙っ!?」
 届くはずもない。声は、届くはずもないのに──その目に、はっきりとその映像は飛び込んできた。
 電子音が届く。
 ゼロを示していたグラフが、瞬間、跳ね上がっていた。黒いかたまりのそこ、顔にあたる部分、眼にあたる部分が、光った。そしてそれは、槍を放った。四方八方へと空間に存在するもの、すべてを破壊するために。
 激しい咆哮とともに。


 男が言う。
「それでいい」
 電話の声に、スティーブン・ハングは返す。
「──約束が違う」
「約束?」
「彼女は、二年前に立ち止まったままの存在です。この先の未来、我々が護らなければならないはずの──」
「だから、止めなかったというのか?」
 男の声に、スティーブは拳を握った。
「どうやら、二年前から立ち止まったままだったのは、お前の方だったようだ」
 握りしめた拳が、小さく震えていた。
「だが、お前は奴を再び動かした。それでいい。お前が言ったように、我々は変われる。常に進化を続ける事が出来る。ともすれば、神をも、それを予見できないほどに」


「はる──!?」
 何か──光のようなものが弾けて、直後、液晶画面はそれに向かって迫ってきた黒いものを映して──ノイズになった。
「停めろっ!!」
 身を乗りだし、運転席の男に向かって一也は叫ぶ。「停めろって言ってるんだ!!」
 隣に座っていた男に向かう。男の持つノートパソコンのディスプレイを見ない。激しく上下するグラフとエラーメッセージを、見ない。
 その喉元に右腕を押しつける。男の襟首を掴んで、手首でその首を押さえつける。
「車を停めろ!」


「ええ」
 電話の向こう、返す声。
 直後、男の耳に、何かがなぎ払われて、壊れるような音が届いた。
 男は眼前の一也から視線を外せない。
 電話の向こう、声が言う。
「ハルカが奴を止めようとした時、私は何もしなかった。彼女は、我々が護らなければならい側の人間のはずだ。だからこそ、私は何もしなかった。そしてその後も、私は何もしていない」
 男は呟いた。
「どういう事だ──?」


「お前が再起動をしたんじゃないのか!?」
「いいえ」
「ならば、何故!?」
「あなたが言ったように──」
「奴を止めろ!!」
「カズヤが、そこにいるんでしたね?彼に、伝えてください」
 スティーブの言葉に、男は返した。
「馬鹿な…ありえん…」


「奴は、自らの意志で再び動き出した」
「そんなことが、奴らに出来るわけがない!」
「今、あなたが目にしている通りのことが事実。それ以上の事は──」
 急ブレーキの音がして、車は激しい衝撃とともに停車した。男の膝の上にあったノートパソコンが激しい音をたてて落ちた。液晶が揺れて、その半分が映らなくなった。
「神に聞け」
 そんなものは死んだ。
 男はそう言った。
 だから、そう言った。


「奴を止めろ」
 自分を見据えて言う一也に、男は静かに返した。
「…できん」
「俺が腕を少し動かせば、お前の頸動脈を押さえる事が出来る。この意味、わかるな?」
 男は笑う。気丈に。
 そして手にしていた携帯電話を一也に向かって差し出した。
「──カズヤ?」
 声が尋ねた。
「誰だ?」
「ハルカを巻き込む気はなかったんだ」
「──誰だ?」
「奴は、我々の手の届かない所に行ってしまった。我々の手を、離れた。自らの意志で進化を続ける奴は、我々人類の進化を追い越して、二年前に、ともすれば立ち止まったままの我々を置いて──」
「それが、あんたのシナリオなのか?」
「違う!ハルカを巻き込む気はなかった。私は──!!」
「じゃあ、これは誰のシナリオだって言うんだ!?」
 一也は叫んだ。
 男は、答えなかった。


「──あんた達と、俺たちは、やっぱり違う。絶対に違う」
 一也はゆっくりと携帯電話を耳から離しながら言った。
「あんたの言ったように、誰も、誰も傷つけずに戦う事なんて、できないかもしれない。だけど、それでも、戦う奴らのことが、お前らにわかるか?」
 静かに、ベルは息を飲んだ。ノイズだけを映す液晶ディスプレイの光が、一也の横顔を照らしていた。
「お前らみたいな、なんもわかってないようなやつらに、戦場、知らないような奴らに、勝手に引き起こされたシナリオだかなんだかで、傷ついて、自分、傷つけて、それでも戦う奴らの気持ちなんか、お前らにわかるのかよ?」
 揺れる液晶の画面。半分以上が映らなくなった、壊れた画面。
 一也は言う。
「正義って、何だ?」
 真っ直ぐに、言う。
「これが正義か?これが、お前らの言う、正義か?
 戦場から離れて、ただ傍観しているだけのお前らの語る正義って、これか?」


 そして一也は男から手を離した。ベルを促し、車を出る。男はむせていた。一也の背中を睨み付けて、むせていた。だけれど一也は一瞥を返して、言っただけだった。
「正義って、そんなもんじゃない」


「少なくとも、俺の中にぼやっとある──」


 ベルの手を取って、一也は走った。
 車が停まったのは、首都高の路肩だった。
 二台後ろ、途中から気づいていた車もまた、その路肩に停まっていた。一也はその助手席にいた男へと目配せをする。男は一瞬戸惑ったようだったが、すぐに一也の言いたいことを理解した。
 トヨタエスティマのサイドドアが開く。一也はそこに顔を突っ込む。「横須賀方面に向かってください!!」
「どうした一也くん!?」
 助手席にいた篠塚があわてて返した。
「説明は後です」
 ベルを先に乗せ、一也。篠塚から片桐へと視線を動かし、言う。ポケットの中から携帯電話を取りだして、それを耳にあてながら。
「急いで!!」


 耳の向こうで、コールの音が鳴り続けていた。


       6

 切った電話を投げ捨てて、一也は飛び出した。あわてて、片桐は車を停めた。
 横須賀、米軍基地内の病院。一也は転びそうになりながら、その玄関に向かって飛び込んでいく。「待って!一也くん!!」後ろにベルが続いていたけれど、一也は彼女の方に振り返りもしなかった。
 玄関から、ロビーへと飛び込む。そして、辺りを見回す。
「すみません!」
 一也は近くにいた看護婦を呼び止め、そして、
「ちょっと前に、ここに急患で入ってきた人、どこにいるかわかりますか!?」
 早口で聞くけれど、看護婦の彼女は不慣れな日本語に眉を寄せた。軽く舌を打ち、一也は今度は英語で言った。日本語の時よりも速く、舌を噛みそうなほどの勢いで。
 看護婦が理解して、軽く頷きながら「その人なら──」言う。
「Thanks」
 場所だけを確認して、一也はエレベーターの階数表示に視線を送った。「階段は──?」「向こう──」示された方向に向かって、再び駆け出す。
 青い夏の陽射しの差し込む閑散とした白く長い廊下に、一也の足音が絶え間なく響いていた。


「すみません…」
 息を切らして、ベルはその看護婦に聞いた。
「あの…今聞いた人の、様態なんですけど…」
「ええ──」
 看護婦は静かに一也の走っていった方に視線を送って、返した。
「え?」
 思わず、ベルは聞き返した。
「本当に──?」


 一也は教えられた部屋の前で、ゆっくりと歩速を弛めた。ドアが微かに開いている。
 呼吸を整える。
 立ち止まる。
 そして──一也はそのドアに手をかけて、ゆっくりと開けた。
 病室の中に満ちていた夏の光が、ドアを抜けて、薄暗い廊下を照らし出した。


「馬鹿…」
 そっと息を吐き出しながら、一也は言う。
「ちょっと遅れるかもしれないけど、必ず行くって言ったんだから、待ってろよ」
 一也の言葉に、白衣のアメリカ人医師が振り向いた。ベッドの上の遙が、一也の視界の中に入った。


「遅いよ」
 静かに──だけと笑う風にして、遙が返した。
 ベッドの上にちょこんと座って、頭とか、腕とか、たくさんのところに包帯をしてはいたけれど、変わらずに笑う遙が、返した。
「私、マジ、死ぬかと思ったんだから」
「俺は──」
 ゆっくりと彼女に歩み寄りながら、一也は返す。
「マジ、死んだかと思った」
「本当に?」
「一瞬だけ」
「嘘。何?一也、汗かいてんじゃん。もしかして、心配して走ってきたの!?」
「違う。今、ドアの前でわざとやったの。嬉しかろうと思って」
「そういうのは、『そうだよ』って言ってくれる方が嬉しいんだけど…」
「黙れ、馬鹿」
「心配ないですよ」
 ベッドの脇にあった救急箱を片づける看護婦を手伝いながら、遙の前にいた医師が一也に向かって言う。
「咄嗟の行動で、体中に打ち身ができていますし、聞いたところによると頭も打っているらしいですから、精密検査を受けた方がいいでしょうが、目立った外傷はありません」
「──そうですか」
 ふうと息を吐き出す一也。でもそれを遙が見ていたので、軽く睨んで返す。「なんだよ…」遙はちょっと笑っていた。「なんでも」
「痛み止めを出しておきます。飲んで下さい」
「はーい」
「ありがとうございました」
 病室を出ていく医師と看護婦に、一也は深く頭を下げ──そしてそのまま座り込んだ。遙が座るベッドの足に、自分の身体を持たせかけて、床に直に。
 そしてゆっくりと大きく、息を吐いた。
「ばか」
 言われて、
「それしか、言えないわけ?」
 遙。
「ばかだろう」
 一也は頭を掻いた。うす茶色の少し長い髪を、くしゃくしゃに丸めるようにして、頭を掻いた。
「なんで、あんな無茶なことしたんだよ」
「結果として、そうなっただけ」
「遙が戦う必要なんかないんだよ」
 静かに、一也は言った。


 ロビーにゆっくりと姿を現した教授たちに気づいて、ベルは立ち上がった。
「あ…」
「一也くんは?」
 何かを言おうとしたベルを制して、教授。
 ベルは廊下の向こうを見て返す。
「病室に行きました。遙ちゃんも、問題ないみたいです」
「イーグル2の損傷も、大問題というほどじゃない」
 と、シゲ。
「サブエンジンがやられてるけど、なんとかなる。大沢に言わせれば、『時給1000円で、諭吉一枚ですね』」
「地球の守護神にしては、安い時給だ」
 村上は笑う。
「それで、ベルは、一也くんとどこへ?」
「──それは、後で話します」
「遙ちゃんの病室──って?」
 聞いたのは香奈だ。さすがに香奈は心配で眉を寄せている。教授やシゲ、村上はそうでもなくて、「シゲが可能だというから、実行したんだぞ。お前が、遙君に文句を言われるんだからな」「なんでですか!?最終決定を下したのは、教授でしょ?僕じゃないですよ」「そんなことを言ったら、村上さんだな」「私か!?ちょ…ちょっと待ってくれ。ただでさえ遙は私に──」
「病室、どこ?」
 苦笑いにその会話をすり抜けて、小沢。ベルに聞く。
「あ…」
 ベルは少し困った風にうつむいて、だけれど、言った。
「二人に、させてあげませんか?」
 香奈と小沢は、すこし驚いた風にして言葉を止めた。
「一也くん──遙ちゃんのこと、本当に心配して──目の前で、それを見て、本当に心配して──私、なんとなく、わかるから」


「ふたりに、させてあげませんか?」


「遙」
 一也は病室の天井を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「なに?」
 返して、遙は一也のことを見た。一也はただ、何が見えているのか知らない、天井を見つめている。何かあるのかと思ってその場所を遙も見てみたけれど、やっぱり、何もなかった。
 だけれど、一也はその一点をじっとみつめたままで続けた。
「もしも…もしもの話だから、そのつもりで聞いてほしいんだけど」
「もしも?」
「もしも僕がエネミーと戦わないとして」
「戦わないの?」
「もしもの話。いや、そうじゃなくて、もしも僕がエネミーと戦わないとして、遙はエネミーと戦うとして、だけど、もしも──」
 一也はゆっくりと大きく息を吸い込んだ。
 言葉を、続けるために。
「それでもしも遙が傷ついて、死んでしまうことになったとしたら、僕は──俺は、そんなの、嫌だ。はっきり言って、嫌だ」
 一也は眼を閉じた。眼を閉じて天井から視線を落として、立て膝の格好で座り込んだ自分のその膝に、自分の額を押しあてた。
「すげー、疲れた…」
「…ごめん」
「なに、あやまってんの?」
「…なんだろう。わかんない」
「謝るのは、俺の方でしょ」
 ぼそりと呟く一也は、額を自分の膝に押しつけたままの格好で、遙にその表情を見ることはできなかった。いや、どっちにしても、遙はうつむく彼の顔を見るつもりなんてなかった。
 だから、自分も一也が少し前まで見つめていた天井の隅を見上げて、小さく、言った。一也がもう、言葉を続けなかったから。
「もしも、もしもね…」
「もしも?」
「もしもの話だけど、もしも一也が戦って、それで、傷ついて、死んじゃったとしたら、私も泣くな。すっごく、泣くね。みんながびっくりするくらい、泣くね」
「──も?」
「も」
 遙は軽く、言った。思わず顔を向けそうになったけれど、やめて、視線だけは外したままで、言った。
「一也?」
「──なに?」
「もしも明日世界が滅びるとして、一也はその時、何処で何をしてる?」
 静かに、遙が言う。
「もしも明日、世界が滅びるとして、誰と、何処にいたい?」


「よくは──わからないけど」
 両膝をたてて、一也はその間に自分の顔を埋めて呟いた。
 少し茶色い髪の毛が、差し込む夏の陽射しと風の中で、微かに揺れていた。


                                   つづく


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