「君の愛しい彼に、我々は話があるんだが──急で、とても大事な」
ゆっくりと煙草を吸い込み、その口から白い煙と共に男は言葉を吐き出す。
そっと、一也は詩織の前に立った。詩織が少し怯えるようにして、その彼の腕を掴む。
「俺に話があるんなら、彼女には関係ない」
言う。そして詩織を瞬間だけ見て、微笑む。「大丈夫」「一也…?」
「もちろんだ」
男が返した。
「なら」
一也は言う。
「部下たちを下げてくれ。こっちの要求は、それだけだ」
「これは──失礼」
男は煙草を呑みながら笑った。そして、軽く顎をしゃくった。詩織はその時になって初めて気付いた。男が顎をしゃくった先、自分たちを取り囲むようにして、暗闇の中に人の気配があった。「もしも君が物わかりの悪い、最近の日本の高校生のようだったらどうしようかと思っていたんだよ」
「それはどうも──」
暗闇の向こうの気配が少なくなったのをわかって、一也は口許を曲げた。
「話を聞くよ。あんたの要求はなんだ?」
「いいだろう」
返して、男は煙草を足下に落とした。そして革靴の先でそれをもみ消し、暗闇の中へと消えた。「部下」たちの気配も、それと同時に消えていた。
一也は小さくため息を吐く。
そして言う。
「行かなくちゃ」
「──どこへ?」
しっかりとその腕を掴んで、詩織。
「どこへ行くの?」
「わからないよ。そんなの、わからない。だけど、行かなきゃ」
「──いや」
強く、詩織は一也の腕を掴みなおした。
「一也、本当にどっかいっちゃいそう。この手を離すと、私を置いて、どこか、遠くへきえちゃいそう。だから、いや。ねぇ、私は、一也と一緒の場所にいけない?私がこの手握ってちゃ、一也は前に進めない?」
真っ直ぐに自分を見つめて、詩織が言った。
だから一也は──
「だったら、この手、振りほどいて、行って」
そっとその手に、自分の手を乗せた。
優しく。
けれど、ものすごくそれが、彼女を傷つけるとわかって。
「行かなきゃ──」
ゆっくりと重ねた手を握る。握って、ゆっくりとその手を、外す。
「誰のために?」
仕方なくて、微笑む。誰のため──誰のためでもないかもしれない。だけれど今は──詩織が小さく自分の目を見て、言葉を口にした。
「一也、きっと、傷つくよ。もしかしたら、死んじゃうかも」
「そうだね」
「それでも、行くの?」
それでも──
「だけど」
そっと、彼は彼女の手を包んでいた手を離した。すこしだけ、彼女から離れて、そして、言う。
「だけど、僕はきっと──どこにいても。世界中、どこにいても──変えられない過去から繋がる今を生きてる。だから、どこに行っても、きっと、同じなんだ」
詩織の、支えられていた手が、重力に負けて落ちた。少しだけ離れた彼との距離。飛び込めば、出来る。すぐそこ。飛び込んでまた彼を抱きしめて──たった一歩だけ。
「だから、行くの?」
小さく、言う。
うつむいて、彼の腕を掴んでいた手を、強く握り直す。そこに彼の腕がなくても、その彼の目を、再び見つめられなくても。
「だから、もしかしたら、僕はやっぱり──」
その小さな頭を見つめて、うつむいた、その彼女の頭の、手を伸ばせばすぐそこにある柔らかな髪を見つめて、愛おしいはずのそれに伸ばすべきはずの手を握りしめて、一也は言った。
「だから僕は、このままじゃいられない。どこにいても、同じ」
そっと、一也は言った。
「傷つくなら──だったら──ごめん──」
嘘つきだ。──約束は、もう守れない。
うつむいたままの詩織から、視線を外す。見つめられない。
「一也…」
ちいさく、呟く。
同じ。同じことを、言ってる。
私にもわかる。私にだって、わかってる。だけど、そんなの、いやだ。同じことを言ってる。同じなら、きっと──私も、わかってる。
「同じ、傷つくなら、行くの?もしかしたら、一也、自分が死んじゃうかもしれなくても?傷つくだけじゃすまなくて、死んじゃうかもしれなくても?」
「──わかってる」
ゆっくりと息を吸い込んで、一也は返した。
しんとしたミュージアム。そのハンガーの中。かき消えてしまうほどに弱くかすれた声に、ゆっくりと息を吸い込んで、一也は返した。
「僕も、よくわかってる」
そして一也は顔をあげた。
青い水銀灯の光に照らし出されて、そこに、歴戦の勇士がいた。
「だから──この、今から繋がる未来に──僕は、今を、その時の過去を、どう見つめているか」
視線の先、R‐0。「もう一度だけ、確認したいんだ。だから──」
「ごめん」
しんとした空気が、やがてそこに残った。
新世機動戦記 R‐0 2nd Millennium END.
第8部
1
空に、夏の星座が輝きはじめていた。
そっと、松本詩織はその夜空に視線を送った。街の灯りの中に輝く、すこしの星。その星空を背景に、赤く明滅する光がゆっくりと抜けていく。
東京都港区台場。
ミュージアムの大きな駐車場にひとり。
詩織は鞄を両手で握り直して、その夜空を見つめていた。
小さく、ため息を吐く。
そしてバッグの中に手をそっと差し入れて、それを取り出した。いくつものボタンが並んだ、細長いプラスチックのそれ。
携帯電話。
ぎゅっと強くそれを握りしめて、それよりも強く、詩織は瞳を閉じた。
「──もしもし?」
だけれど、まだ履歴に残っていたその番号に、ダイヤルをしていた。
「もしもし…松本詩織です──昼間は、すみませんでした」
ふっと、顔をあげる。もう一度、わずかな夏の星座をその夜空に見る。そうしないと、言葉を続けることが、出来そうになくて。
「ごめんなさい──こんな風に電話なんて──するつもり、なかったんです。だけど──だけどごめんなさい。私、やっぱり、ヤな女です」
夜空の向こう、星が、いつの間にか見えなくなっていた。
明滅する光たちも霞んだ、夏の夜空。
詩織はそれを見上げながら、小さく、受話器のむこうの素っ気ないくらいの──だけどそれがものすごく優しい、だけど、それがものすごく辛い──声に、返した。
「聞いてくれますか?」
車窓に映るイルミネーションを、吉田一也は何を考えるでもなく、見つめていた。
大きな黒塗りの車。居心地悪く思うくらいの後部座席の空間。隣に座っていた男が煙草をゆっくりと飲んでいる。
車がどこに向かっているかは、わからなかった。方向から察するに、おそらくは都心の方向かと思う。けれど、方向に意味があるのではなく、男にとっては、この時間にこそ意味があるのだろう。
一也はちらりと男に視線を走らせた。
男が、ゆっくりと二本目の煙草に火をつけながら、言った。
「君は、何故あの巨大ロボットに乗って戦う?」
「理由は、今はありません」
よどみなく返す。嘘ではない。嘘をつくつもりも、ない。
男は返す。
「それならば、何故、戦う?」
男の日本語は、少しばかり発音がおかしかった。軽く、一也は笑った。そして車窓に映るイルミネーションを見つめながら、唇を久しぶりに動かした。
「あまり日本語が、堪能ではないようで」
男が少しばかり驚く。そしてすぐに、おかしそうに吹き出す。
「You're good at English」
「No」
笑い、一也も返す。
「I speaks only broken English」
と、ひょいと肩をすくめて見せる。しゃべれない訳ではない。訳ではないが、たいしてできるというほどでもない。
男はゆっくりと煙草をのむと、言うべき言葉をまとめるような沈黙の後、ゆっくりと自分の言葉で続けた。
「簡単に聞こう」
一也は小さく頷く。
「君は、何故今またエネミーが現れたか、疑問に思ってはいないかね?」
「疑問──というほどのことでは」
返すけれど、男の方は見ない。
「そのことを話すために、僕を呼んだんでしょう?」
「君は、頭のいい男だ」
「それはどうも」
「君らがエネミーと呼ぶあの超過生体有機体は、我々が作った」
「──そうですか」
「驚かないのかね?」
「別に。当然でしょう。誰かが作り出そうとしない限りは、エネミーは僕たちの前には現れない。わかりきっていることです」
「ならば、何故我々があれを作り出したか──疑問には思わないかね?」
車窓の向こうの景色が、記憶にある場所と繋がった。
車は都心部へと向かっている。間違いなく、自分たちの泊まっているホテルの方向へと向かっている。このあたりからなら、おそらくあと二十分ほど──
「何故です?」
一也の言葉に、男が返す。
「それが、我々の正義だからだ」
2
「聞いてくれますか?」
彼女はそっと、言った。
「私、もう、よくわからなくなって──何もかも。
本当の気持ち、見えなくて。
きっと、戦いたくなんか、ないと思うんです。それはたぶん、みんな同じだと思うんです。
だけど、それを出来ない自分がいて、認められない自分がいて、そして、取り巻くみんながいて、わかってるんです。本当は、わかってるんです。
だけど、自分に嘘、つけなくて──もともと、嘘、あんまり上手くなくて、それで自分、傷つけて、わかってるんです。
だけど、どうしようもなくて──
傷つきたくなくて──傷つけたくなくて──自分の周りに、たくさん、そういう、刃物みたいなもの、列べちゃって、動けなくなって──傷つくことがわかってるのに」
「正義?」
一也は小さく聞き返した。
男が、ゆっくりと返す。
「そうだ。君も、私たちも、同じだ。この星を護ろうとしている。だから、それは正義だ。ただ、やり方がほんの少し、違うだけだ」
「あれは、エネミーでしょう?」
「エネミーではない。超過生体有機体だ。人類という生命体を遥かに越えた力をもつ、生体兵器のひとつ。君の操る巨大ロボットと、なんら変わりはない」
「──詭弁ですよ」
「どうかな?それは君が一番よくわかっているはずだ。何かを護ろうとすれば、それ相応の犠牲が、必ずついてまわる」
窓の向こうを見つめたまま、一也はその言葉で聞いていた。答えは、わかっていたけれど。
「Is it that?」
「Sure」
「でも、同じ傷つくなら──って、言いましたよね。
自分の周りに、たくさん刃物ならべちゃって、どうしても、どうにもならなくなって、それで──同じ傷つくなら──
誰も傷つけないで──自分が傷つくってわかってても、踏み出すしかないんですか?」
平田教授はゆっくりと息を吸い込むと、ホテルのロビーにおかれた上質のソファに身を埋めた。
眼前、同じソファに浅く腰をかけた男が、再び、言った。
「息子を、戦わせないで欲しいのです」
真っ直ぐに教授を見つめて言う、吉田拓也。脇に置かれたスーツケースの後ろに、控えるようにして香奈が立っている。そして香奈もまた、教授のことをじっと見つめて黙っていた。
「そうですか」
と、教授。呟く。
「親の、エゴかもしれませんが」
拓也は少し身を乗り出して、言った。
「テレビで息子の戦う姿を見る度に、胸が締め付けられるような思いがするのです。教授も、わかっていらっしゃるはずです。あの場所にいる限り、息子はいつ死んでもおかしくはない」
「たしかに──その通りですな」
ひょいと、教授は見つめる視線から逃げるようにしてその男の娘、香奈を見た。何か言うだろうかと思ってそうしたのだけれど、結局、香奈は何も言わずに視線を外しただけだった。
「だからこそ、息子には戦って欲しくはないのです」
父、拓也が再び続ける。
「それとも、息子が命をかけてまで戦う必要があると、教授はお思いですか?世界には、息子よりももっと勇敢で、屈強の兵士たちがいるはずです。それなのに何故?何故私の息子が、普通の高校生の一也が、戦う必要があるのですか?」
「何故──理由──ですか」
考えるようにして呟き、教授は顎を掻く。伸び始めた髭の感触が、爪の先にした。でもそれだけ。その間に、その問いに対する答えは、思い浮かばなかった。
答えを返さない教授に、拓也は続ける。
「二年前に、戦いは終わったのでしょう?それが今、何故?今また、何故?二年の月日の間、我々は一体なにをして来たのですか?もしもその間に何もしてこなかったのだとして、再び、この事態が起こったのだとして、だとしたら、過去を忘れて、ただ未来に進んできただけのこの国を、一也が命をかけてまで護る必要など、ないと思いませんか?一介の、高校生の、息子が」
「そうかも──しれませんな」
すべての言葉を理解しながらも、教授は相変わらずに顎を掻きながら返した。
「どうして、こんな事になったんでしょうね。
五日前に、戻りたいな。出来ることなら。そうしたら、エネミーなんか現れないで、こんな風に思うことなんか、なくて、そっちの方が良かったのに。
ううん──もしかしたら、もっともっと戻って、二年くらい、戻って、そうしたら、別の未来が、あったりしたんですかね。こんな風に思うことなんかなくて、こんな風に、辛くなることなんかなくて。
みんな──出会うこともなくて──
もっと静かで、もっとゆっくりとしてて、もっといい、今があったんですかね。
でも、わかってるんです。
きっとみんな、わかってるんです。そんなこと、出来ない。
過去は、変わらないって」
「先にも言ったが、あれは我々が作り出した」
都心部へと向かう車の中。男が言う。
「君らがエネミーと呼んでいたものの体細胞を分析し、二年前の、あの悲劇を繰り返さないために、我々があれを生みだした」
「二年前の?」
車窓に映る、明滅を繰り返す街のイルミネーションに向かい、一也は小さく言った。
「じゃあ、今起きてるこれは、なんです?」
「二年前のあれは戦争だ。これは違う」
男は返す。煙草を飲みながら、彼のことを横目で一瞬だけ見やって。
「これはすべて、私の作ったシナリオだ。二年前のあれとは違う。このシナリオには、どこにも、戦争などという言葉は出てこない」
聞き返そうとしてしまって、一也はなんとか言葉を飲み込んだ。「シナリオ?」
男が言う。
「その通りだ」
煙草の煙をまとったまま、男が言う。
「すべては、私の作り上げたシナリオの上に成り立っている。人類が、君たちが、立ち止まったまま何もしなかったこの二年間も含め、すべて」
「──このすべての出来事が?」
「そうだ。スパイダー2との戦いも、この国のR・Rとの戦いも、G3、R‐1との戦いも、すべては私のシナリオの通りだ」
「すべてが?」
「そうだ」
「この──すべての出来事が?」
「過去が変わらないとしたら──
今は必然なんですかね。
そして、その今から続く未来もまた、必然なんですかね。
私たちには、決められた未来しかなくて、それがすごく辛くて、悲しい結末だとしても、私たちは、進むしかないんですかね。
そんなの──嫌です。
だけど──わかってます。
変わらない過去へ、今が変わっていく。
未来にいつか、私たちは追いついていく。
だからきっと──
私たち、このままじゃいられない」
「そうかも──しれませんな」
すべての言葉を理解しながらも、教授は相変わらずに顎を掻きながら返した。
そして軽く、言ってのけた。
「ですが、その過去があるから、今、戦う必要があるのかもしれませんが」
軽く言ってのけた教授の言葉に、
「平田さん、子どもは?」
即座に拓也が返す。
「いえ、いません」
あっさりとした調子で、相変わらずに顎をかきながら教授。
「まぁ、それでもじき、生まれるんですが」
「その子の事で考えて見て下さい。その子を、平田さんは戦場へやれますか?死地に、行かせることが、出来ますか?」
「だから、このままじゃいられないから、
今という過去を見つめる未来の自分を信じて──」
「だとしたら」
一也は、男を見据えて言った。
「俺とあんたが今こうして話しているのも、あんたのシナリオの通りだって言うのか?」
「私なら、するかもしれませんがね」
笑い、相変わらずに顎を掻きながら、教授は言った。
咄嗟、拓也は立ち上がった。自分でも戸惑うほどの反応だった。だけれど、気がついた時にはソファに深く腰を落としていたはずの目の前にいた男が、そのソファから転げ落ちるようにして叩き飛ばされた後だった。はっとして香奈が一歩を思わず踏み出す。その眼前──ゆっくりと、教授の身体がロビーの絨毯の上に落ちた。
遅れて、乾いた音が耳に届いたような気がした。
そっと、一也は空を見上げた。
街のイルミネーションの向こう、星の見えない夜空がある。
「残念ながら──」
男の最後の台詞が頭をよぎる。「これはアドリブだよ」
「もっとも、私としては、歓迎すべきアドリブだがね」
夏の夜空を軽く吹き抜けていく柔らかな風が、髪を揺らす。
「君の新型機の戦闘記録、見させて貰った。非常に興味深い数値だ。だから、私はシナリオの結末を、少し変更する事にした」
うつむき、一也は歩き出す。シナリオだって──?
ホテルの回転ドアの脇にいたボーイが、彼に軽く頭を下げたけれど、一也は気づきもしなかった。
「我々に、本当に二年前のあの悲劇を繰り返さないだけの力があるのか、真にこの世界を護る事が出来るのは、我々が生み出した奴か、それとも君か、決めようじゃないか?」
ゆっくりと回転するガラスのドアを抜けていく。
「それを、このシナリオのクライマックスとしようじゃないか」
「ふざけるな」
男に向けたのと同じ台詞を、一也は小さく呟いた。それで、何人が死んだ?どれだけの街が消えた?続けた台詞に笑った男。「キャストは、ディレクターに意見出来ないものだ」
「シナリオは、決まっているのだから」
男の言葉が頭に響く。
ロビー。
ちょうど立ち上がっていた拓也が荷物を手に振り返ったときに。
その、二人の目があったときに。
「父さん…」
呟く。
3
沈黙が空間を支配した。
ような気がした。
本当は、沈黙なんかない。人の行き交うホテルのロビーだ。本当は、沈黙なんかない。
荷物を手に、その少し前まで座っていたのであろうソファの脇に、すっくと父親が立っている。何故そこに父親がいるのか、理解できなかった。しかし、視線を外すとその向かいのソファに少し前まで座っていたのであろう教授が、痛そうに頬を押さえながら立ち上がろうとしているところだった。
父親の奥には姉の姿もある。どうしたらいいのかわからずに、視線を外して言葉を飲んでいる姉の姿もある。
よくはわからなかったけれど──一也はそこへと向かって真っ直ぐに歩いた。
小さく、自分に頷くようにして。
「一也」
父が言う。
「一也、ここにいたくなければ、一緒に京都に帰ろう」
一也は父の前に立つ。
「ここにいれば、お前はまた、戦うことになるんだろう?それが嫌なら、お父さんと一緒に京都に帰ろう」
戦いたくなんて、ない。
「香奈も一緒だ。さあ、香奈。帰ろう」
肩越しに振り向いて言われ、香奈もはっとする。そして──何も言えない。
「さあ、一也」
荷物を持ち直して、父が言う。
戦いたくなんて、ない。こんな──シナリオだなんて奴が言うような事に──命をかけてなんて。
ゆっくりと息を吸い込んで、一也は父を真っ直ぐに見た。
その背中の向こう──遙の姿。
遙はそっと、耳にしていた携帯電話を降ろして、その通話を切った。
そしてゆっくりと大きく息を吸い込んで──
「お前が──」
拓也が言う。
「お前が、一昨日、あのロボットに乗っていると思った。あのロボットが怪物にやられたとき、お前が、本当に死んだかた思った。お母さんもお父さんも、自分が死ぬより辛かった。わかるか?」
一也は視線を外す。そして、視線を落とす。
初めて見た。
父親の、大きかったはずの手が、小さく丸まって、震えている。何も言えない。
「帰ろう。一也」
優しい、言葉。
「親として、そう思っちゃいけないか?お前が辛いのはわかる。過去の英雄として、戦線に出なければならないのかもしれない事実。だけれど、死ぬかもしれないという現実。その間で、お前が苦しんでいるのはわかる。だから、一緒に帰ろう。お前はよくやった。これ以上、お前が戦う事なんかないだろう?」
「──うん…」
そして、一也はそっと顔をあげた。
そして大きく息を吸い込んで、言った。
「わかってる──僕も、わかってる」
顔をあげて、その向こうを見て、真っ直ぐに。
「僕も、戦いたくなんて、ない。死と向き合って、また、死と向き合って、今のままならきっとそうなると自分でもわかってるのに、それでも死と向き合って、その未来と向き合って、戦いたくなんてない」
言う。
「みんなの気持ちもわかる。わかる…だけど──」
真っ直ぐに言う、その向こう、
「僕も、わかってる。僕はきっと──どこにいても、世界中、どこにいても──変えられない過去から繋がる今を、生きてる」
遙がいる。
「だから」
一也は言う。
「すごく辛いんだ。父さんと母さんの事も、わかる。みんなの気持ちもわかる。お姉ちゃんも、教授も、ベルさんもシゲさんも明美さんも小沢さんも、世界中のみんなの気持ちだってもしかしたら。そして──」
真っ直ぐに見つめる先、父親の背中の向こう、携帯電話を手にした、遙の姿。
ゆっくりと息を吸い込み、そして、一也は父を見た。
「そして──死に直面して、戦う自分の気持ちだってわかる。逃げ出したいと思う気持ちだって、僕が一番よくわかってる。そして、それを肯定したい、自分の気持ちだってわかってる」
わかってる。わかってるんだ。
矛盾してる。わかってる。
「でも──自分の信じる正義のために、もう一度戦いたいと思う自分の気持ちも、わかってる」
嘘じゃない。「だから、辛いんだ。どっちの今の自分も本物で、どっちの自分も嘘ついてない。だったら、僕は、どうすればいい?この先に答えがある?それとも、置き忘れてきたどこかに、答えがあった?」
「どこまで行けば、その答えが見つかる?どこまで戻れば、僕は思い出せる?」
「だから、一也は戦うの?」
小さく、遙は聞いた。
「うん──?」
聞いていなかったのか、一也は小さく喉を鳴らしただけだった。
「別に」
短く言って、遙は手にしていたペットボトルを一也に差し出す。「飲む?」「いや、いいよ」「そ」
キャップを締めながら、遙は開け放たれた巨大なハンガーの扉に寄りかかった。向かい、同じように開け放たれた扉に寄りかかっている一也に習って。
夏の夜風が、その二人の間を優しく吹き抜けていく。
米軍、横須賀基地の巨大なハンガー。その入口。両脇に二人。二人、見つめる先には銀色の機体が水銀灯に優しく照らし出されている。
一也はそれを見上げて、すこし目を細めた。
R‐II。何人かの作業服姿の男たちが、その機体の各部を整備していた。指示を出しているのは、この機体を作った学生たちだ。ここまで、一緒にホテルから来た人たちでもある。
小さく、ため息。
気付いた遙が、そっと視線を走らせたけれど、一也は気がつかなかった。彼は真っ直ぐにその銀色の機体を見つめていて──ただ、何も言わずにいた。
遙も、何も言わずに視線を外す。外した先、青い光を放つ夏の星たちが夜空に瞬いている。静かな夏の夜。
優しく吹く、海からの潮の香りを乗せた風。すこし、なつかしいような香り。遙はそっと目を伏せた。見なくて、いいように。気になってしまう、意識しないようにと思えば思うほど気になってしまう、向かいの相手を見なくていいように。
軽く、遙は手にしていたペットボトルを振ってみた。
気を紛らわせるように、ちょっと、鼻歌なんかを歌いながら。
一也はそれを見ていた。それはその音が気になったからで、別に、他に気になることがあった訳じゃない。夜風に揺れる長い髪が、視界のすみに入って、気になったからじゃない。
言葉を探す。
同じく、言葉を探す。
だけれどそれが見つからなくて、一也は再び銀色の機体に視線を送った。
同じく、それが見つからなくて、遙はそっと目を開けて再び夜空を見た。
その間を、なつかしい記憶の中にあるのと同じ潮風が抜けていく。
一也は結局、父と共に京都へ戻る道を選びはしなかった。
遙は、一也がたとえその道を選んだとしても、それを止める気はなかった。むしろ、例え一也がその未来を選んだとしても、肯定してあげるつもりですらいた。
けれど──今、こうして向かい合ってる。
向かい合ってると言っても、お互い視線はあっちとこっちを向いたまま──だけど──そう。
もう過去となったその時がなければ、今ふたり、こうしてない。
遙は足下を見つめながら、その視界の隅で自分のつま先をつま先で蹴ってみた。他にすることがなかったから。
前髪に手をやる一也。そしてその髪をかき上げる。水銀灯に照らされた銀色の機体を見つめたまま、小さくため息を吐き出しながら。
自分でも、よくはわからなかった。戦いたくない。それは事実。だけど、自分の信じる正義というものを確かめたい。その気持ちも本当。
そして今、こうして銀色の機体を見つめている。
よくは──わからない。
「ただ──」
素っ気ない風に、一也は呟いた。
ゆっくりと遙が顔をあげる。優しく揺れる長い髪を、真夏の夜の風が軽く撫でていく。
一也はそれを見ないようにして、真っ直ぐにその機体を見つめたままで、言った。
「ただ、未来が気になったんだ」
遙は何も言わない。言えない。
だから、一也は続ける。
そっと。
「もしもこの世紀末に、世界が本当に滅びるとして、その瞬間、僕はどこで何をしているかなって。何を、その瞬間に思っているだろうかなって」
「…うん」
遙はすこしだけ微笑んだ。
「ただ──それだけなんだ」
「…うん」
「夢を、たまに見るんだ」
「夢?」
「R‐0に乗ってる自分の夢なんだ」
「どんな?」
「うん──R‐0に乗って、エネミーと戦ってるんだ。いつだか、僕がやられて、意識をなくした時があるだろ。あの時と同じような感じで、それで、その夢の中での僕は、エネミーにやられて死んじゃうんだ」
「──夢でしょう?」
「夢だよ。だけど、それが、現実に、すぐそばにいる。そう思う」
眼前には、銀色の機体。
じっと見つめる先、銀色の機体。
そっと、遙が返した。
「私も、ときどき、夢を見るわ」
「夢?」
「Necにいた頃の、夢」
「どんな?」
「うん──あのね、ハンガー、あったでしょう。そこでね、私、一也をからかってるの。一也、怒るんだ。昔みたいに、私に向かって。で、私、それで笑ってる。腕にはウィッチを抱えていてね、ハンガーの上から、教授と明美さんがそれを見て笑ってるの。で、そのうち香奈さんが来て、私にじゃなくて、一也に怒ってね、それを見て、シゲさんとベルさんも、笑ってるの」
「──夢…」
何かを言おうとした一也の、じっと銀色の機体を見つめたままの一也の横顔に向かって、遙は返す。続けさせない。彼に、言葉を続けさせないように。
「夢じゃないよ。現実」
夏の風が、その髪を揺らして、駆け抜けていった。
「本当に、あったこと。私が見たのは、そりゃ、寝ている間に見た奴で、夢だけど、夢じゃなかったその時間って、本当に、あったもの。嘘じゃ、ないでしょ」
「遙は──」
そっと、沈黙を破って一也は聞いた。
「遙は、どうして戦うの?」
「うん──」
「遙は、どうして戦うの?聞いたこと、あるよね?遙は、『女の子だって、ヒロインに憧れる』とか、答えた気がするけど、それだけで、遙は命をかけて戦うの?」
「──うん」
「死んじゃうかもしれないのに?あの時はそれでよかったかもしれないけど、今、また、どうして?遙は、戦う必要なんて、ないかも知れないのに?それなのに──どうして、自分の意志で戻ってきたの?」
「うん──そうね」
遙は真っ直ぐに、自分に聞く一也を見た。
一也も、遙を見ていた。
ふたりの視線が、ハンガー入口、数メートルの間に重なる。遙は軽く微笑む。一也に向かって、優しく聞くように。一也はわからなくて、少し首を傾ける。
遙は、言う。
「そうね──」
「たとえば──エネミーに一也、大事な人が殺されてしまったとしたら?
それを目の当たりにしたら?
一也、どうする?」
4
R‐IIのコックピットは、R‐1に比べると少し小さい。大幅に小型化され、コックピットスペースも小さくなっているのである。
とは言っても、以前までは首の後ろにコックピットへの入口があったのに対して、R‐IIはちょうど人間の鎖骨の付け根にあたる部分にコックピットが作られている。そのお陰もあって、一応、二人がその中を覗くくらいの空間は確保されていた。
「かわんないんだ」
遙が静かに言う。
「BSSを使ってるから。基本的に、操作は今までと変わらないよ」
「へえ」
と、遙はそのコックピットへ身を入れていく。背中を見つめながら、一也。
「でも、本当のことを言うと、僕がまだこいつを扱いきれないから、こいつの実力の半分も出せていないんだけど…」
「ふぅん」
コックピットシートに身を埋め、遙はマニュピレーションレバーをいじりながら聞いた。
「一也は、今度のエネミーの事、知ってる?」
手元、マニュピレーションレバーを見つめてかちかちやりながら。それは、一也の事を見なくていいように、わざと。
「知ってるっていうのが、どこまでかはわかんないけど」
一也は言葉を濁す。本当の事を言えば、知ってる。
遙が言う。
「今度のエネミーはね、エネミーじゃないの」
「何それ?」
「大島のエネミーの体細胞を分析した結果が出てね、シゲさんとか教授とかは、一也に言おうかどうしようか、迷ってる」
言おうかどうしようか──だけれど、遙は言った。
「今度のエネミーはね、今までのエネミーとは、違うの」
足の間の補助モニターを見つめ、何も映っていないそのモニターを見つめて。
「今度のエネミーは、たぶん、私たち、人間が作ったのものなんだ」
「──知ってる」
一也。素っ気なく、遙の見つめるのと同じ、何も映っていない補助モニターを見つめて返す。「知ってる」
「僕、それを作った奴らと、あったよ。そいつらに言われた。『これはシナリオなんだ』って」
「シナリオ?」
「うん──何もかもが」
「じゃあ──一戦わなかったのも…」
見つめない。一也の顔を、見つめない。目を見ない。目を見てなんて、話せない。
「違う」
軽く返す。視線を外す。コックピットから、見上げる。銀色の機体の顔。見つめながら言う。軽く。できるだけ、軽く。
「そいつらにあったのは、さっきだよ。ここに来る前。ホテルに帰る前──」
「──詩織ちゃんとあった、あと?」
「どうして──?」
「詩織ちゃん、電話、くれた。私、一也がいなくなってね、詩織ちゃんに電話して聞いたの。一也、どこにいったか知らない?って。詩織ちゃん、知らないって答えた。それで──」
今日あって──そんなこと、言えない。
「その後だよ。その後、あったんだ。それでそいつらに言われた。すべては、そいつらの決めた通りのシナリオ通りなんだって。すべて──」
すべて──決められたシナリオ。このすべてが。そんなこと、あるわけないのに。
「一也さ…」
遙はそっと顔をあげて、一也のことを見た。
「ん…?」
一也はゆっくりと視線を落として、コックピットの中の遙に視線を送る。
「詩織ちゃん、心配してる」
「わかってる」
「一也、自分、辛いのもわかるけど、詩織ちゃんも辛くさせちゃ、ダメだよ。女の子はさ、デリケートなんだからさ」
「──誰かは違うけど?」
「誰かって、誰だ?」
「誰か。──うん、わかってる。わかってるよ」
遙もわかってる。知ってる、たくさんのこと。だから、言わない。それ以上、言わない。
わかってるから。
「大丈夫」
一也はそっと言った。
「もう、何からも逃げないよ」
「じゃあ、いい」
「今から、逃げない。『逃げちゃダメだ』ってやつ?」
笑う。
「じゃあ、いい」
遙も、笑う。
「過去からも、今からも、未来からも。決めたんだ」
ゆっくりと、一也は顔を上げた。
銀色の機体が、静かに水銀灯の青に照らされて、輝いていた。
「もしも明日世界が滅びるとして、僕はその時どこにいるだろう。誰と、どうしているだろう。今は、わからない。けど、その未来が目の前にあるとして、僕は──」
「その時、どこにいるか。誰とどうしているか。
それだけを確かめるために、それを知るために、それを──見つけるために」
ねぇ…一也…もしも、もしもね。
一也がエネミーと戦わないというのなら、いいわ。けど、もし、私がエネミーに殺されてしまったとしたら、一也は、悲しい?
そんなこと…
わかんないよ。
遙は?
遙はもしも、もしも僕が戦って、それでもしも僕が死んでしまったとしたら、遙は、悲しい?泣いて、くれる?
そんなこと…
わかんないよ。
わかんない。
夏の夜空に明滅する街の灯り。
夜の新宿の街並み。一也はそれを見上げていた。
綺麗に作り直された階段に、そっと腰を降ろす。深夜の街に、行き交う人の影はまばらだった。それでも、そんな場所に──新宿駅の地下街へと続く階段に──腰を降ろす若者を、誰もが不思議そうに眺めては過ぎていった。
あの頃の面影は、もう、ない。
ビルの隙間から、都庁の明滅する赤い点が見えていた。
「あの夏を、忘れられない?」
ふいにかけられた声に、一也は振り返る。
「僕は、忘れられない」
静かに言って、小沢は笑いながら彼の横にそっと腰を降ろした。
夜風が静かに抜けていく。
夏の香りの強い、南の風。揺れる髪をそっと押さえて、赤坂御用地の木々の隙間から、遙は夜空を見上げていた。
そっと、静かな夜に静かに息を吸い込む。
ただ、木々の揺れる柔らかな音だけが聞こえていた。
静かな、夜。
「ちょっと、なつかしい気がするね」
ふいにかけられた声に、遙はゆっくりと振り返った。
「あの夏が、すごい、昔のことのような気がするね」
揺れる髪を押さえて、香奈は優しく微笑んでいた。
「小沢さん、どうして?」
静かに聞く一也の横、小沢は煙草に火をつけて、ゆっくりとそれを吸い込んだ。
「いや、別に」
小沢は手にした煙草の赤い火に息を吹きつけながら返す。
「一也くん、まだどっかいっちゃったかと思ってね。探していたんだよ。今、君にいなくなられちゃ、困る。君が戦うにしろ、戦わないにしろ」
「──もう、どこにも行きませんよ」
「そうか──取り越し苦労だったな」
軽く笑い、小沢は煙草を口につけた。そして、何も言わずに、一也がついさっきまで見つめていた高層ビル群の灯りに視線を走らせた。
「綺麗なもんだ」
なんて、小さく呟いて。
一也はゆっくりと、大きく息を吸う。
「今度のエネミーを作ったという人たちと、さっきあいました」
しっかりと言葉を続けるために。
「すべては、その人たちの『シナリオ』なんだと、言われました」
「それで?」
「それで──それで──なんでしょう…」
「一也くんは、それで、それがその通りだと、そう思ったの?」
「聞いていいですか?」
「何?変なことは聞かれても、困るよ。香奈さんといつ結婚するのとか、そういうのは、ナシね」
「そんなんじゃないです」
「じゃ、なに?」
「正義って、なんですか?」
「なんだろうな。僕にも、わからないことの二、三はあるよ」
小沢は軽く答えた。
「香奈さん…」
振り返った遙が小さく言うと、香奈も微笑みながら返した。
「遙ちゃん、出てくの見えたから。追っかけてきたの」
そして香奈は近くにあったベンチを指さした。「座って、話そう?」
遙は香奈の後を追う。
そして二人、並んで木のベンチに腰を降ろした。
「静かで、いい夜ね」
小さく言う香奈。遙も、ちょうどそう思っていたところだった。
「なんか、あの夏のころの夜みたい」
「そうですね」
遙も、ちょうどそう思っていたところだった。
「すごく──」
静かな夏の夜の空気を壊さぬよう、遙は優しく言葉を紡ぎ出す。
「すごく、なつかしい気が、します」
「うん、私も」
夏の夜空を見上げて、香奈。
「あんまり、星が見えないね。あの日見た夜空は、なんか、すごく綺麗だった気がするのに」
「──そうですね」
「綺麗な、想い出だからかな?」
ねぇ…一也…もしも、もしもね。
もし、私がエネミーに殺されてしまったとしたら、一也は、悲しい?
遙は?
もしも僕が戦って、それで僕が死んでしまったとしたら、遙は、悲しい?
5
新宿の街並みが見下ろす、ちいさなコンクリートの階段に二人。一也と小沢。
そっと、小沢が言う。その地下へと続く、階段の向こうを見つめながら、ゆっくりと。煙草を吸いながら。
「あの頃──」
細める目。一也はその目とその言葉に、言葉を飲み込んだ。
「ここで、一人の老人と話しをしたよ。一也くんは、知らないかもしれないけれど」
小沢は続ける。
「BSSを、その理論を、卓上でだけれど、作った人だ」
「あ──…」
知っている。
そして、自分もこの場所で、その人とあった。話しを、した。
だから、一也は小さく聞いてみた。
「小沢さんは──それで──何を話したんですか?その人と」
「なんだっけな」
ため息と同じに青白い煙を吐き出して、小沢は背筋を伸ばすようにして反らせた。傾いた身体を片手で支え、夜空を見上げながらに、言う。
「覚えてない」
「──覚えてない?」
「嘘。覚えてる。けど、一也くんには教えない」
「どうしてですか?」
「君には、教える必要がない」
言って、小沢はくわえていた煙草を足下のコンクリートにもみ消した。「君は、もう自分で気づいてる」
「一也くんは、もう、自分で気づいてるよ。たとえば、目の当たりにして来た現実。表裏した正義。どうしたって、どちらか一方からしか見ることの出来ない、目。一也くんは、もう自分で気づいてる。昼は、すこしひどいことを言ったけど、それも、一也くんが自分で気づいているとわかったから」
「僕は──」
「少なくとも」
小沢は二本目の煙草を取り出すと、ポケットの中のバンジョーを探した。
「僕が考える正義って、そう言うモンだ。すべてを知ること。そして、その中から、自分の信じるものを、見つけること──」
言葉を止めて、くわえた煙草に火をつける小沢。一也は彼の言葉を待つ。長く吐き出される呼吸のあと、小沢は少し口許を弛ませて、言葉を結んだ。
「それが、二年前に、僕がたくさんの人たちから、教えられたことだ」
優しく木々を揺らして抜けていく夏の風。その中に遙と香奈。
静かに、少し微笑む風にして香奈が言う。遠い夜空のその向こうを見つめるようにして。ゆっくりと。
「二年って、長いかな?」
「二年ですか?」
「そう、二年」
遙は香奈の横顔をちらりと見た。彼女はちょっとだけ、笑っていた。「まぁ、今まで生きてきた時間に比べれば、十分の一にも満たないけど」
「それでも、やっぱり、二年って長いよね」
「──そうですね」
すうと、香奈は大きく息を吸って、笑った。
「小沢さんとつき合って、二年かぁ。長いなぁ」
「何言ってんですか」
思わず遙は吹き出した。
「お似合いですよ」
「そう?」なんて返すけど、その顔はちょっと嬉しそうに笑ってる。「お似合いです」言って、遙は笑う風にしながら、香奈が見ていた夜空に視線を送った。
「初め──」
そっと、香奈。彼女の視線を追いかけて、二人、夏の夜空を見上げながら。
「小沢さんが私に近づいて来たのって、BSSのことだった」
「──そうですね」
「もっとも、私は小沢さんの知りたかった事なんて、何一つ、思い出せなかったんだけど…」
小さく、ため息。
「でも、小沢さん。本当は優しい、いい人で、そんな私に、悪いことなんか出来なくて。聞いたんだけど、本当は、私をオトしちゃえって考えてたんだって」
遙は笑う。
「逆に、オトされた訳ですかね」
「──かなぁ」
頭をぽりぽり掻くけれど、香奈はちょっと嬉しそう。
「香奈さん、なにげに面食いですから」
「そんなことないってば」
「小沢さんは、お金持ちみたいだし」
「そっ…そんなんじゃないってば」
夜空を見上げながらの遙の顔を真っ直ぐに見て、香奈。両手を遙に向けて言葉を続けるけれど、遙は軽い苦笑いに聞いてるだけ。
香奈もやっと遊ばれてると気づいて、「もぅ…」と小さく言って、再び夜空に視線を戻した。
「でも」
香奈。
「二年前のことがなければ、私たち、出会ってない」
遙は何も返さない。だから、香奈は続ける。
「出会いは、もしかしたら、あんまりよくなかったかもしれないけど、その過去がなければ、今がないものね。そして、それでも私、小沢さんのこと、好きだし」
「私は──」
「綺麗な想い出」
ため息のように息を吐き出して、香奈は夜空へと向かって言う。
「いろんな事があって、いいこと、悪いこと、辛いこと、楽しいこと。だけと、全部、綺麗な想い出」
何かを言おうとして言葉を飲み込んだ遙に、香奈はちょっとだけ笑いかけながら、言った。
「たぶん、過去って、どんなものでも、そういうものだと思う」
「馬鹿みたいな話ですけど──」
二人は静かに言った。
「聞いてくれますか?」
「なに?」
静かに、言葉を返す。
だからゆっくりと息を吸い込んで、ふたりは言った。
「僕は、ガキですかね?」
「私、結局、いろんなことから、逃げてるだけですかね?」
「たとえば」
「戦争っていう空間が目の前にあって、僕は、そこに行くしかなくて、その中で戦うしかなくて、戦うことが、皆の望むことだとして、それで、みんなが助かるからとして、僕は、自分を犠牲にしても、戦うのが、正しい選択ですかね。たとえ死んでしまうとしても──それがそう。
たとえば、誰でも、誰の身のことでも」
「自分の事を好きっていってくれた人がいて、自分は、よく、そういうのがわからなくて、だけど、もしかしたらいつかわかる日が来ると思ってつき合っていて、だけど、それをわからないまま、お別れになって──たとえばそう。
その人が、死んでしまって、何もかもが煙に巻かれてわからなくなって、それで──
人のことを好きっていうのがよくわからないなんていうのは」
「それは、逃げてるだけですか?」
明滅を繰り返す、街の灯り。
静かに、小沢が返す。
「わからないよ」
吹き抜けていく、夏の夜風。
静かに、香奈が返す。
「わからない」
「けど──
たぶん、わかってると思う」
「正義って、そういうもんじゃないと思う」
「誰かの事を好きって、そういうものじゃないと思う」
「正直、正義なんて、僕にもわからないよ」
小沢はゆっくりと言って、煙草をとりだした。
そしてひょいとそれを軽く振った。フィルターの先が、その紙箱の中から二、三本、勢いよく飛び出した。
そして、言う。自分の煙草を、口にくわえたままで。
「吸うかい?」
軽く、笑う。
「え──」
「これは、正義か?」
軽く、笑う。
「本当の事を言えばね」
くすりと笑って、香奈は言った。
「好きかどうかなんか、私もよくはわからない。小沢さん、煙草やめてって言っても、吸うし、私とあってる時はできるだけ吸わないようにしてるみたいだけど、別れたあとはすぐ吸うし、あう前も吸ってるみたいだし、本当はお風呂嫌いでね。忙しいからっていうと、お風呂入らないの。で、家に行ったりするとね、無精ひげはやしてたりするの。百年の恋も、冷めちゃうの。そういうのは、好きじゃない」
自分で言って、自分で香奈は笑った。
「でも、一緒にいて欲しいし、一緒にいれば楽しいし、一緒にいれば、いろんな事できるし。だから、きっと、好きなの」
「なんですか、それ──?」
「だから、私も、よくはわからない」
軽く、笑う。
「でも、言える。好きですって」
「正義なんてものは、誰かが決めるモンじゃないよ。それじゃ、勝てば官軍?負ければ賊軍?」
「ほら」というように、小沢はガキ大将のような笑顔とともに煙草の箱を一也に差し出す。
仕方なくて──一也はそっと、その一本を取った。
「正しいか間違ってるか、そんなことは、誰が決めることでもないでしょ」
フリントの擦れる音がして、橙色の光が辺りを照らし出した。
「好きとか嫌いとかって、定義のあることじゃないでしょ。もしかしたら、たくさんの人たちの想いの中で、たくさんの定義があるかもしれない」
「ね」というように、香奈は遙に微笑みかける。
遙はよく、わからなくて、少しだけ眉を寄せた。
「きっと、遙ちゃんには、遙ちゃんの好きっていう定義があるんだと思う」
夏の夜風が強くふいて、二人の髪を撫でて過ぎていった。
「でも、自分の心に嘘つかない。
たぶんそれだけ」
静かに、言葉が夜空の中に消えていく。
軽く笑う風な言葉が、静かに消えていく。そして、静かな夜が、戻ってくる。
6
夜の明滅する街灯り。
一也はひとり、それを見上げていた。
静かに吹く夏の夜風。
遙はひとり、その中で夜空を見上げていた。
話したいことは、たくさん。だけれど、言葉に出来ないことも、たくさん。伝えたいことは、たくさん。だけど、伝えられないこともたくさん。
静かに、ゆっくりと息を吸い込む。
ねぇ…一也…もしも、もしもね。
一也がエネミーと戦わないというのなら、いいわ。けど、もし、私がエネミーに殺されてしまったとしたら、一也は、悲しい?
「もしも──」
それが現実になるんだとしたら、僕は、そんなの、嫌だ。正しいとか、間違ってるとか、そんなことはどうでもよくて、ただ、嫌だ。
もしも明日世界が終わるとして、その時、そばにいて欲しい人がいるとすれば。
もしも明日世界が終わるとして、その時、手を繋いでいたい人がいるとすれば。
誰でもなくて──
遙は?
遙はもしも、もしも僕が戦って、それでもしも僕が死んでしまったとしたら、遙は、悲しい?泣いて、くれる?
「泣いてあげる──」
もしもそれが現実になるんだとしたら、泣いてあげる。もう二度と、涙が出なくなるくらい。涙がかれて、私、どうしようもなくなってしまうくらい、泣いてあげる。
もしかしたら、言葉は伝えてあげられないかもしれない。
もしかしたら、なにも言ってあげられないかもしれない。
だから、泣いてあげる──
それじゃ、ダメかな。
それじゃ、答えにならないかな。
うまくは言えない。伝えられない。伝えたい言葉は、たくさん。伝えたい想いもたくさん。だけど、うまくは言えない。
それじゃ、ダメかな。
それじゃ、答えにならないかな。
誰も、納得なんかしてくれないかな。
ガキかな。答えを出すことを、逃げてるだけかな。
でも、もしも、自分の気持ちに嘘をつかないのなら、それが答え。世界の終わりに、馬鹿みたいな、ちいさな悩み。正義だとか、好きだとか、そんな、小さな悩み。
50億の人たちの命と、計りにかけたら、すぐに壊れてしまうような、小さな悩みと、馬鹿な話。
だけど、それが目の前にある。
過去から続く、今に、ある。そして、50億の人たちと同じ、未来にある。
もしも明日、世界が滅びるとして──
一也はゆっくりと立ち上がった。
静かに、歩き出す。
長い一日が、終わろうとしていた。
遙もそっと立ち上がる。
夏の香りを乗せた風が、時を乗せて過ぎていく。
長い一日が、終わろうとしていた。
「もしも明日、世界が滅びるとして──」
そっと、静かに言う。
「だから」
その後に、言葉を続ける。
つづく
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