studio Odyssey


2nd Millennium END. 第7部




「心強いでしょ?」


 コックピットシートの両脇、薄膜ディスプレイが無数の情報を告げている。
 エンジン出力。対地対空全方位状況。対荷加重機体安定係数。刻々と変わる状況を視界の端にとらえながら、彼女は右手でコントロールトリガーを小さく動かした。
 操作系は変わらない。さすがにずっと機体制御なんてやっていなかっただけあって、最初は少し戸惑ったけれど、大丈夫。やれる。
 きっと、上手くいく。
 左前面に設置された薄膜ディスプレイが、その目標をとらえた。小さく電子音が鳴り響き、ディスプレイ内の点であった目標をクローズアップする。と同時に、その脇を目標の情報が勢いよく流れていった。
 鳴り響いた小さな電子音に、彼女はすうと大きく息を吸い込む。そしてそっと、その脇を流れていく情報に瞳を閉じた。
「いけるわね?」
 インカムに向かって、言う。
 地上、そして青い夏空に展開していた自衛隊と米軍の部隊が撤退をはじめていた。白い機体のすぐ近くを、編隊を組んだF/A-18とF-2が超音速の爆音とともに駆け抜けていった。「Good luck──Peacemakers」
 遙は軽く微笑む。
 白い軌跡がふたりの間を抜けて、それに続いた轟音が、やがて消えていく。
 ゆっくりと──遙は目を開き、言った。
 インカムの向こうへ。
「いくわよ」


「あなたがほしい言葉、私がかけてあげる」


 without RESTRAINT.
 そして鳴り響いた長い長い電子音に、そっと一也は目を開けた。
 マニュピレーションレバーを強く握り直す。
 FREE──
 真新しいコックピットシートに埋めた身体を、忘れていた浮遊感が包み込んだ。
 薄暗いコックピット。何も映すことのなかったモニターたちが、青い光と大地を映す。
 光が、一也を照らし出す。




   新世機動戦記 R‐0 2nd Millennium END.
                         第7部




       1

 身体を包んだ浮遊感に、吉田一也は両の手を握りしめた。忘れていたマニュピレーションレバーの握りの感覚を確かめて、眼前の五つの薄膜ディスプレイの投げかける光を見る。
 青い空と、果てしなく広がる大地と海が、その向こうに見えた。
 足の間から伸びた補助モニターが情報を伝えている。高度一万メートル。その数値が急激に加速しながら減少していく。
 こんなだったか──
 やがて、重力が生み出す加速の感覚が全身を包み込んだ。現れては消えを繰り返す補助モニターからの情報。全てを確認することなど不可能とも思えるほどの情報量に、一也は眉を少しだけ寄せた。
 それでも──マニュピレーションレバーを引く。
 やるしかないか。
 顎を引き、強く奥歯を噛み締めた一也に呼応するように、白銀の機体が青い空に翼を広げる。同時にコックピットを走り抜けていく軽い衝撃。小さく電子音が鳴り響き、補助モニターに文字が一瞬だけ点滅した。『Flight UNIT started』
 姿勢制御用の無数の情報が流れていく。「動いてくれよ──」
「シミュレーションの通りに操作して。考えているより、『セカンド』は反応がダイレクトだからね」
 インカムから──なつかしい?──声が言う。
「わかってる」
 返す。返して、一也は展開した飛行装備(フライトユニット)に新型機の姿勢を制御した。自由落下に大地のほうを向いていた背中が、バーニヤの力に押し上げられる。
 思わず目を見開く。
 軽く回転したコックピットにかかった衝撃が、予想していたものよりも少し大きくて、思わず一也は目を見開いた。がくんと揺れた頭に、少し茶色い前髪が派手に踊った。
 なんだこの扱いにくいくらいの反応の良さ──軽く舌打を打つ。輸送中にシミュレーションをしてはみたけれど、こんなに──
 補助モニターに流れていく情報を視界の端にとらえながら、それでもなんとか感覚を掴もうと姿勢を安定させ、
「目標は?」
 一也はインカムの向こうに言う。
「目標は──」
 インカムの向こうの遙が、ゆっくりと返した。
「あの横浜に着上したわ。いい?サテライトシステムの情報を──」
「なんとかなる」
 下半身の出力はこれくらいか──上半身のウェイト──R‐1よりもずっとバランスがいい──「なんとかなる」
 もう一度、確信するようにして呟いて、一也はマニュピレーションレバーを前に押した。きたるべき衝撃に備え、しっかりと奥歯を噛み締めて。
 フライトユニットのジェットエンジンが、強く強烈に輝いた。同時に、それは天空を白銀の翼に駆け出した。
 597…623…
 強くマニュピレーションレバーを握りしめる。強く、奥歯を噛み締める。そんなはずがあるわけないのに、振り落とされないように。
 784…840…912Km/hour.
 薄膜ディスプレイの向こう、景色が幻になって流れていく。消えていく。
 今は──真っ直ぐに前だけを見て、両の手を強く握りしめていた一也の耳に、短い電子音が届いた。
 モニターの向こう、エネミーが拡大表示される。そしてその脇を、読み切れないほどの情報が駆け抜けていく。
 今は──
 全てを振り切るほどに加速して、一也はそれに向かって迫った。


「来たか」
 元総理、歴戦の勇士の一人、村上俊平は降下をはじめたヘリコプターの音に顔を上げて呟いた。その視線を追うようにして、隣にいた金色の髪の大使、ベルも呟く。
「教授?」
「だろうね」
 返したのは開いたノートパソコンを左手にした中野 茂──通称シゲ──だ。彼の見ているのと同じ液晶画面を見ていた吉田香奈も、ゆっくりと言葉の先に視線を走らせた。
 やがて、降下したヘリコプターから五人の男女が降りて来る。頭を行くのはヘリコプターの回転するローターに薄汚れた白衣を舞わせる、科学者である。
「主役は、最後のピンチに現れるってモンですよ」
 軽く笑って言うのは、平田教授。
「相変わらず──ですよ」
 続いたのはその後ろにいた青年、小沢直樹だ。小沢はその場所にいた皆に向かって、ひょいと肩をすくめて見せた。皆、思わず少し吹き出した。
「間に合ったか」
 笑うようにしながら返したのは村上。教授が続く。
「世界が何度の危機に陥ろうとも、その度に、我々は現れて見せますよ」
「我々の意志を継ぐもの──に訂正しません?」
 と、間髪入れずに言ったのは小沢のさらにその後ろにいた研究生、大沢一成だ。隣では同じ研究生、植村 雄がこくこくと頷いている。
「アレを作ったのは、俺ら」
「そのとおし」
「神王にも魔王にもなれる、超兵器をね」
 間髪入れずに言う、研究室の紅一点、桐嶋かなた。思わず大沢と植村はむす。しかし彼女は自分たちのやりとりに笑っていたシゲに向かって──二人は無視して──
「あ、シゲさんですか?『セカンド』のアタッチシステム、問題ありませんでした。さすがですね」
 言う。
「まぁ、考えることは一緒ってことですかね」
「『イーグル2』は、万能輸送機の側面も持たせいてるから。君らの作った『新型』くらい運べなきゃ、万能とは言えないよ」
「うちの娘が操縦してるっていうのは、不安要素だがな」
 言って、村上は笑った。誰も、また、少し笑った。もちろんそれがジョークだと、誰もがわかっていたからだ。「あの機体──」
 空を見上げて、小さく香奈。見上げる空にはまだ、その銀色の機体は見えてはいなかったけれど、彼女はその空を見上げて呟いた。
「新型機──」
「一也くん──弟さんが乗ってます」
 答える大沢に、植村が続く。
「BSS──Brain Scanning Systemの、香奈さんが基本設計時に持たせた全ての機能に余すことなく対応させてます。世界中、どこを探しても、彼以外にあの機体を操れる人はいません」
「すべて──センシングフィードバックも?」
「今はカットしてますけどね。フィードバックは、今は必要ないですし」
「データスペックです」
 シゲに、かなたはフェンディのトートから出したCD-ROMを手渡した。受け取り、ノートパソコンのCD-ROMドライブにそれを入れるシゲ。「spec.pdfがそれです」
 ダブルクリックするノートパソコンの画面を、小沢が覗き込んでいた。リーダーの起動画面が立ち上がって──シゲはその液晶ディスプレイを見つめながら、聞いた。
「あの新型機──名前は?」
 軽く微笑みながら、
「R‐II(アール・セカンド)。通称、『セカンド』」
 かなたが返す。
「今世紀の終わり、そして次の世紀へと駆け抜けていく、新世紀への機体です」


 そのコックピット。
 薄膜ディスプレイの向こう──エネミーが吠えた。
 目標までの距離はまだ直線方向で五千メートル以上はある。その咆哮が、一也の耳に届くはずもない。届くはずもないのに、一也はモニターの向こうに映ったその姿に、マニュピレーションレバーを強く握り直した。一瞬、戸惑いのようなものが滑り込んでくる──と同時に、エネミーの巨体が激しく打ち震えたような気がした。
 来る──!?
 それが何かはわからなかったが、感覚がそれを告げていた。握りを確かめる。足下のフットレバーを確かめる。
 エネミーが、咆哮と共にその恐竜を模したような身体のいたる所から、黒々と照り輝いた肉の槍を撃ちはなった。音速を越える速度で迫るそれに、電子音が警告を告げる。同時に、補助モニターに数百の数値が表示され、カウンタが急速な減少をはじめた。
 エネミーの放った肉の槍が、銀色の機体──R‐II──に迫る。
「一也!?」
 インカムからの声。だけれど一也はその声が届かなかったかのように、マニュピレーションレバーを前に倒した。銀色の輝きが、強く陽光に照り輝く。
 動け!!
 強く奥歯を噛み締めながら、一也はその黒い槍の中に飛び込んだ。補助モニターの情報を視界の隅にとらえつつ、その槍の猛攻をくぐり抜けていく。宙を縦横無尽に駆け抜ける機体。音速に近い速度のコックピットの中、かかるGに一也は左目を薄く閉じた。しかし、右目は真っ直ぐに前を向いたまま──迫る槍と近づくR‐IIに、音速を越えた空間を、一也とR‐IIは駆け抜けていく。
 意識が飛びそうな気がした。
 次々と肉薄してくる肉の槍の、そのわずかな合間を、一也の意図を察したR‐IIがモニターの向こうに告げていた。そして一也は、ただ、その空間へと向けて機体を操っていた。時にはキリモミするように回転しながら、時にはタイミングを取るために姿勢制御バーニヤを逆方向に全開で噴射し、一瞬のタイミングに猛攻を飛び越えて──それを、音速に限りなく近い空間の中で。
「一也!!」
 再び、インカムの向こうに遙の声が届いた。
「無茶なことしないで!」
 無茶は承知だ──エネミーの放った攻撃の切れ間が見えた。電子音が一也の耳に届いた。こいつ──
 最後の槍をくぐり抜け、R‐IIが右手を前へと突き出す。同時に、姿勢を安定させるために吹き出したバーニヤの力に、コックピットが激しく揺れた。
 けれど、一也はそれがわかっていた。自分のタイミングと、それに応えるR‐IIのタイミング。なんとなくわかる──こいつ──
 軽く踊る髪の向こう、FCS──Fire Control System──が突きだした右手に握られているHGBライフルの照準を定めた。モニターの向こうに映る、まだ小さな点である、エネミーの頭に。
 R‐0と違う──R‐1とも違う──
 コックピットに大きな違いはない。操作系も、BSSを使用している分、ほとんど同じだ。だけど、全然違う。
 二年前とは──違う?
 戸惑いを振り切るようにして、一也は握られたHGBライフルのトリガーを引き絞った。
 強烈な閃光が、真っ直ぐに大地に向かって、エネミーに向かって、駆け抜けていく。


       2

「来たか」
 横浜の街を見下ろすビルの一室。
 空を駆け抜けて行った閃光に、男は軽く口許を弛ませた。そしてゆっくりとその口許へ、赤く燃える煙草を近づけた。
「これで、真の優劣が競える訳だ」
 吹き出すような笑いに、赤い火の粉が少しだけ散った。傍らに控えた男──スティーブン・ハング──も、窓の向こうを駆け抜けていった閃光に曖昧に口許を曲げていた。
 煙草を手にした男は続ける。
「R‐1は、所詮は二年前の機体。そんなものに興味はない。この二年で、人類はまた、進化した。神さえ、それを予見出来なかったほどに」
「さらなる、進化──ですか?」
「あの頃のエネミーならば、我々のスパイダー2でも十分に対処できる。しかし、これから先の未来──次の世紀──果たしてこの地球を護るべき力を持つのは──」
 ためるようにして、男はゆっくりと煙草を飲んだ。そして、答えを確信して、言った。
 白い煙が、窓の向こうからの光に照らされて、細くたなびいていた。
「奴か──それとも我々が生み出した、奴か」


 駆け抜けた閃光は、過たずにエネミーの頭部をとらえた。正確には、その直前までエネミーの頭部があったところ、をとらえた。
 駆け抜けた閃光は、エネミーの頭部がその瞬間前まであった場所を走り抜け、その後ろの横浜港海面を撃ち抜いた。モニターの向こうに巨大な水柱が立ち上り、辺りを水蒸気が包み込む。その中で黒い影──エネミーが──身かわした体勢を立て直していた。
 遅れて、音が一也の耳に届く。モニターの向こうでは大波となった波紋が、横浜港に停泊していた何隻かの船の船底を叩いていた。
 補助モニターにFCSが情報を伝えている。FCS unlocked.
 誤差──.0037%。
「.0037%?」
 思わず呟く。HGBライフルを撃ったのは一也だ。だけれど、HGBライフルを使えと指示したのは、R‐IIのシステムだ。このシステムはR‐1の時にもあった。状況を把握し、最も効果的な攻撃法──若しくは防御法──を即座にパイロットに告げるシステム──オートセレクトシステム──である。
「──なんだこいつ」
 思わず、一也は再び呟いた。この距離から撃って、本当にあたるのか?
 R‐1のFCSの感覚では、この距離からの射撃は不可能に近い。R‐1のHGBライフルでなら、この距離ではビーム光が拡散して、破壊力を持たなくなる。なのに、こいつ──
 補助モニターが告げている。
 戦え──最も効果的な攻撃法──敵を前にして戦え。
 こいつ──「遙!」
 一也は短く言って、マニュピレーションレバーを前へと倒した。
「オートセレクトシステムの切り離し方を教えてくれ!」
 そしてエネミーへと肉薄して行く。


「全ての能力において、R‐1の倍以上の精度を持っています」
 軽く笑って、そのシステムを作り上げた植村は言った。それに、ハードウェア設計を行った大沢が続く。
「全高と、重量だけですよ。半分以下になっているのは」
 やがて、皆の頭上を銀色の機体が駆け抜けていった。遅れて響いた轟音を、皆は視線で追いかけた。
「パーツの各部も、時代と共に進化しました。設計段階からすべてを吟味しなおして、小型軽量でいて、反応速度のよいものを選んでいます。エネミーを相手に考えていた訳ではないですけど、限りなく、人に近い動きを実現しています」
 と、かなた。それを見上げながらに言う。
「全高、20メートル。換装重量、68.2トン」
 教授は軽く口許を曲げてみせる。
「こいつらが言うには、『21世紀の巨大ロボット』だそうだ」
「まだ、もちっと小型化しないといけないですけどね」
 大沢は笑う。「せめて、全高であと2メートル押さえたいですね」植村もこくこく頷いていた。「ジェネレーター出力も、もっとあげたいって本音もありますが──」
「とは言っても、まぁ、まだ未塗装の銀色ですし、細部も未完成。これから、カンペキに仕上げるとしても、現状、エネミーごときに苦戦するほどの機体じゃないですね!」
 ふふん、と口許を曲げて笑う植村に、小沢は少しだけ苦笑した。未来の脳内情報処理研究室の教授か──?
 だけれど、
「悪いけど、あれはエネミーじゃないよ」
 笑う植村に向かって、シゲが言った。ぴくっと、植村はその表情を強ばらせた。
「どういうことですか?」
 咄嗟、かなたが続く。
「エネミーじゃないって?じゃ、あれはなんなんです?」
「大島で採取した、エネミーの体細胞を調べたんだ」
 シゲは左手のノートパソコンを抱え直し、右手で取った青いファイルを皆に向かってちょいと掲げて見せた。ふいと、小沢に目配せをする。
「──今度のエネミーについて、新しいことがわかりましたよ」
「らしいね」
 小沢が返す。片桐たちが言っていた。「今度のエネミー──彼のように戦わないことが、正義かもしれんぞ」
「じゃ、あれは?」
「僕らが戦う相手は、エネミーじゃない」
 きっぱりと、シゲは言った。
 ベルが、小さく息を飲んだ。
「この戦いに、意味があるとすれば──」


 天に向かい、エネミーが激しく咆哮をあげた。
 耳元までさけたハ虫類のそれである口をめいっぱいに開き、真夏の光線を遮って舞い降りた、翼を持った人の形を成したそれに向かい、エネミーが激しく吠えあげた。
 二枚の翼──飛行装備──を広げ、R‐IIが大地に滑り降りてくる。慣性の力に、大地につけた両足の裏でアスファルトの地面を砕いて走りながら──姿勢制御のバーニヤにその破片を舞い散らせ、掘削音とアクチュエーター音を響かせながら──銀色の巨神が再び大地に舞い降りてくる。
 やがてビル街を駆け抜けた轟音が止み、舞い散ったその全てが風にながれ、薄靄のヴェールが晴れていく。
 アクチュエーターの起動音が響く。
 一也はゆっくりと目を開けると、眼前のエネミーにマニュピレーションレバーを握り直した。


「この戦いに、意味があるとすれば──」


「本当の正義を示すことができるのは、果たしてどちらか──」


「エネミーじゃない?」
「正確に言えば、こいつらはエネミーじゃない」
 R‐IIは着地と共に飛行装備の翼を折り畳んでいた。地上戦において、翼はR‐IIの高機動性をなくす、デッドバランサーとなる。
 しかし、それによってさらに小さく見えた銀色の機体に、エネミーは何かを探るように低く唸った。
 全長50メートルにも届こうかという巨大なハ虫類と、まさに人と同じR‐IIの姿。たとえるならば、恐竜と人が対峙しているさま──何かを考えるように、エネミーは低く唸りをあげていた。
 R‐IIが、ゆっくりと動く。
「正確に言えば、こいつらはエネミーじゃない。動物細胞に変異核を移植してホメオボックスを作動させるやり方はエネミーのそれと同じだけれど、そのトリガーを引く、ベクターが違う」
 R‐IIが動く。
 同時に、エネミーは再びその胸から肉の槍を撃ち放った。
 雨のように振り注ぐその攻撃の中を、やくには立ちそうもないシールドを掲げ、R‐IIはエネミーに迫る。「待て」補助モニターが言う。「奴を一撃で倒す手段くらい、ある」警告音が言う。
 それでも、一也はそれを無視して、エネミーの懐へと飛び込んだ。
「つまり──どういうことだ?」
 そして右手にしていたHBGライフルをエネミーの下顎へと向けて伸ばす。FCS Lock。
 トリガーを引き絞る。
「エネミー──正しく言えば、超過生体有機体──は、自己増殖能力を持たない。だから、宇宙を行き来して、自らを増殖させることの出来る生命体を求めている。たとえばそれは突然に飛来するという可能性もあるし、人と人のエゴによる──力を誇示して、自らの下に人を屈服させようとする本能のようなものを利用して──戦争によって送り込まれてくる事もある。二年前の出来事が、後者として──」
 閃光が天空を貫いた。
 一也は小さく舌をうった。高周波の音が減衰して、消えていく。打ち出された光に、咄嗟に顔をあげたエネミーが発した咆哮と共に、高周波の音が減衰して、消えていく。
 体勢を立て直すR‐II。そのままエネミーの股の間を抜け、再び右手をその背中へと伸ばす。FCS Lock。だけれど、補助モニターは相変わらずに『最も効果的な攻撃法』を告げていた。それがここで出来るか出来ないか──そんなことは関係なく。
「つまり、それとそれを増殖させることの出来る生命体が出会うことによって、あの戦争が起こったとしたら」
「我々、人類がエネミーと出会って、二年」
 再び走り抜けた閃光は、エネミーの肩口を突き抜けた。咄嗟に身をかわしはしたものの、さすがのエネミーとはいえ、至近距離からの一撃をその巨体でかわすことはままならなかった。赤黒い体液が勢いよく弾け飛び、その衝撃に吠えながら振り返ったエネミーは、近くにあったコンクリートの塊たちを──ビルだ──その腕と尻尾で轟音と共になぎ倒した。
 エネミーが、怒りを露わにR‐IIへと迫る。


「結局──エネミーは自らを増殖させる術を持つ者たちの間を、巡り続けているんでしょうか。たとえ私たちが、その戦争を終わらせて、それを生み出すことを、やめたとしても」
 金色の髪の大使、ベルは小さく呟いた。
 ちいさな星の、ちいさな国が、その大きな力の誘惑に負けて暴走を初めて──そして再び、またどこかの──つまり、そう言うことなんだろうか。
 うつむくベルに、白衣のポケットに手を突っ込んだまま、遠くから聞こえる音に耳を傾けていた教授が言った。
「この星の人間が、エネミーと出会って二年」
 教授は口許を軽く曲げてみせる。
「これが人類の終焉。聖書に記されたアルマゲドンだとすれば、まさにその通り。そのトリガーを引いたのは──」
 誰も、その言葉の続きを口にはしなかった。
 ただ、香奈は青い夏の空の方へと、静かに視線を走らせた。その向こうに、一也がいる。
「いくつもの」
 そっと、呟く。
「いくつもの消せない過去が今を作るなら、この今もまた──そして、この先にある未来も──」


 エネミーの咆哮が、青い空を突き抜けていった。


「いい加減、言うこと聞けよ!」
 咆哮と共にエネミーが繰り出した右手を素早くかわしながら、一也は補助モニターを睨み付けた。相変わらずに、警告音は鳴り響いている。劣性だ。このまま戦い続ければ、敗北の可能性もある。性能の、わずか20%も発揮しきれていない。
 撃て。
 R‐IIが言う。
 けれど、一也は再び右手にしたHGBライフルをエネミーに向けた。立て続けにそれを撃ち放つ。エネミーの巨体に向け、五発。その全てはエネミーの身体を貫いた。貫いて、数発はその後ろにあったビル群をも消滅させた。
「HGBライフルでこの破壊力かよ」
 撃て。R‐IIが告げている。
「──撃てるもんか!」
 撃ち抜かれたエネミーが咆哮と共に暴れ、再びいくつかのビルをなぎ倒した。あたりにもうもうと粉塵が舞う。
 被害が大きくなるばかりか──R‐IIが言う。これ以上戦闘が長引けば、機体にダメージが出る可能性がある。
「一也」
 補助モニターの告げるそのダメージの可能性を、遙の声が告げた。
「オートバランスシステムの補助に使われているバーニヤに、過負荷がかかってるわ」
「わかってる」
 わかってる──こいつの言うことは正しい。今の未完の状態で、こいつを倒す最も効果的な攻撃法は、たぶんそれだ。だけど──
「じゃあ、撃てって?」
 それは正義か──
 一也は警告音を無視して、再びエネミーに迫った。エネミーもまた、R‐IIに向けて吠えかかりながら、巨体を低くして腕を振り上げた。
「俺は──!」
 エネミーの振り降ろした腕を、R‐IIが高機動性にすり抜ける。瞬間、飛行装備を再展開させ、体勢を崩したエネミーの上空へとR‐IIは重力の拘束を破って舞い上がった。
 銀色の機体が、陽光に輝く。
 R‐IIの右腕が大地をさす。FCSが、確かにその一点──エネミーの頭頂部──をとらえる。
「俺は──!」
 一也もまたそのエネミーの一点を見据え、トリガーを引き絞った。
「俺はそれを確かめるために、またここに来たんだ!」


 大地を閃光が撃ち抜いた。
 激しい衝撃波が、辺り一面に放射状に広がっていく。近くにあったものの全てはその衝撃の波に打ち震え、壊され、塵となって風に乗った。
 遅れて響いた空気の爆音に、エネミーの断末魔の咆哮が続く。
 そして、エネミーは暴走するようにして走り出した。醜く半分がなくなった頭をもたげて、眼前に広がる青い海に向かって。
 R‐IIのFCSがそれを追う。空中に制止したままのR‐IIのFCSが、長い咆哮を続けながら海へと飛び込んだその生命体の後を、迷うことなく、追う。
 撃て。
 R‐IIが言った。一撃で勝負を決める方法──背中の二枚の放熱板を広げ、R‐1から引き継いだ、最強の砲撃システム。さらに威力を増し、そして左右対となった、ツイン・テラ・ランチャーを──撃て。
 一也はそっと、マニュピレーションレバーから手を離した。
 そしてゆっくりと息を吸い込むと、静かに目を伏せた。


 やがて、R‐IIはライフルを手にしていた右手を下げて、ゆっくりとアスファルトの大地へと下降した。
 FCSから目標が外れたことを、小さな電子音が告げ、そして延々鳴り響いていた警告音も消えた。
 エネミーの咆哮もまた聞こえなくなり、何もかもの音がやがて消えて、海のさざ波の音だけが、あたりを包み込んだ。
 だから、一也はそっと、言った。
「おまえの言うことは、間違ってないよ」
 モニターが光を投げかけている。
「だけど──それが正義かどうか──俺にはよくわからないんだよ」
 ため息を吐き出して、一也はコックピットシートにその身を投げ出した。


       3

 横須賀基地の滑走路にゆっくりと降り立ったその機体に、軍関係者といえども、自らを律することは出来なかった。ゆっくりと下降して、そして停止した巨大な輸送機に、皆が駆け寄っていく。歓声を、それぞれの口に発しながら。
 イーグル2。
 その白い機体が、午後の陽光の中に輝いていた。
「──おつかれ」
 小さく言って、誰よりも速くその機体のすぐ脇に彼女は立った。当然だ。今の今まで、自分がこれを動かしていたのだから。
 潮風に揺れる長い髪をかきあげて、遙は小さくため息を吐いた。本当は少し、不安があった。今また、あの頃と同じに動かすことが出来るか、あの頃と同じに戦うことが出来るのか、そしてあの頃とは違って、自分一人なのか。
 ゆっくりと顔をあげる。
 青い空から、銀色の機体がゆっくりとその隣へと舞い降りた。長い髪が巻き起こった風に踊る。そしてその機体はアクチュエーター音を響かせながらそっとかがみ込んだ。
 かける言葉を探す。探して、探して──
「おかえり」
 そんな言葉しか出てこなくて、言って、自分で何を言ってるんだかと、遙は少しだけ口許を弛ませた。
 だけれど、彼──R‐IIのコックピットハッチから昇降エレベーターロープで降りてきて、それが真っ平らなアスファルトの地面に付くよりも速く身軽に飛び降りた彼の──一也の耳には、その声は届かなかったようだった。
 遙に気付いて、一也が近づいてくる。ヘッドギアを取り、そのお陰ですこし癖の付いた茶色い髪を、軽くかきあげて。
「僕は別に、帰って来たわけじゃないよ」
 そして一也は手にしていたヘッドギアを──BSSと彼を繋げるそれを──遙に投げ渡した。
「あ…」
 短く声を発して、遙は投げ渡されたそれを受け取る。ふと、思い出す。一也が自分の隣を抜けて行く。
 近視感──デジャ・ヴじゃない。初めてじゃない。そして遙はその時と同じように、彼の背中に振り向いた。
「じゃ、どうして帰ってきたの?」
 言う。
 あの時、自分が何を言ったかまでは思い出せなかった。だけれど、同じようにヘッドギアを投げ渡して自分の隣を抜けていった一也の目だけは、何故かものすごく、印象に残っていた。そして、その時に彼が発した言葉も、よく覚えていた。
「──それとも、あの時と同じで、私となんて、喋りたくない?」
 ぽつりと、遙は一也の背中に向かって聞いた。
 一也が立ち止まった。「あの時」がいつの話か、思い出せなかった。自分は思い出せなくて、だけれど、そこにいる遙はそれを覚えていて──まるで、逆。
 立ち止まったまま、一也は肩越しに振り向いた。
 午後の陽光に照らされて、銀色の機体が輝いていた。遠くから、歓声とともに駆け寄ってくる人たちの姿があった。
 眩しさに目を細めると、
「他に、道が見えなかっただけだよ」
 ぽつりと小さく、一也は言った。
「それで──本当にこの先に未来が、次の世紀が見えるのか、確認しに来ただけだよ」
「見えたの?」
 聞く遙の言葉を、一也は背中に聞いていた。
 再び離れていく一也の背中を見つめながら、遙はそのBSS端末用ヘッドギアを、そっと、抱きしめた。
 やがて、歓声たちが彼女を包み込む。


 小さく響いたフリントの擦れる音に続いて、橙色の光が車内を照らし出した。
 深くしわの刻まれた、彫りの深い男の顔がその火に照らし出される。男はその火でくわえた煙草に火をつけると、言った。
「新型の戦闘記録だ」
 手には一本のデジタルビデオテープがある。ラベルも何もない、四角いそれ。それを男は後部座席、自分の隣に座っていた男に手渡した。
 頷き、テープを受け取るのはスティーブン・ハング。
 煙草を深く吸い込み、男は続ける。
「解析し、データ比較を行え。奴と、奴の──」
 現れた銀色の機体は、想像以上の動きをした。互角、若しくはそれ以上の力を持つもののように見えた。男はそのことを気にしていた。だが、スティーブは笑う。
「無意味でしょう」
 受け取ったテープを、スーツの内ポケットへとしまいながら、スティーブ。
「彼らは、立ち止まったままの存在です。変わろうにも、変われないのです。だが、我々は違う。常に進化を続ける事が出来る。ともすれば、神をも、それを予見できないほどに」
「神か──」
 スティーブの言葉に、男は笑った。笑ったその口許から、白い煙が吐き出された。「確かに、その通りだ」
「だが、もしも神がいるのなら、我々のすべき事など、無意味だろうがな」
 言い、手にしていた煙草の灰を後部座席の真ん中、男と男の間にあった灰皿に伸ばし、軽く落とす。
「神など、当の昔に死んだだろう」
 そこで男は、再び煙草を深く吸い込んだ。「お前が、一番よく知っているはずだ」
「二年前の事を忘れずにいる、お前がな」


 小さく響いたフリントの擦れる音に続いて、橙色の光が男の顔を照らし出した。
 端正な顔立ちの、若い男。男はその火でくわえた煙草に火をつけると、言った。
「一也くんに、この事を知らせるか」
 手には青い真新しいファイルがある。彼が寄りかかった愛車、GTOのボンネットの隣、同じようにそこに寄りかかった男から、手渡されたものである。
 ホテルのタワー駐車場。昼間とはいえ多少薄暗いその空間に、小沢がくわえていた煙草の光が、少しだけ強く光った。
 小沢はため息のようにして、白い煙をゆっくりと長く吐き出した。
「一也くんは、もうこの事を?」
「いや」
 返すのは隣に立ったシゲ。
「たぶん、まだ知らない」
「知らない方がいいかな」
 小首を傾げて、小沢はファイルを運転席の開いた窓から車内に投げ入れた。再び現れたエネミー。その細胞片の分析結果が記されたファイルである。隣に立つ、超過生体有機体を研究している男が、その研究室より無断で借用してきたものだ。
「ま、どっちにしても」
 小沢は煙草を軽く吸い込む。
「真実はひとつ──か?」
「名探偵じゃないんですから」
 シゲは笑う。小沢が、ものすごく真面目な声をして言ったからだ。それがわざとだと、わかったからだ。
「イーグル2ってのは、シゲさんが?」
 話を変えるようにして、小沢はシゲの横顔に向かって聞いた。
「正確には、僕じゃないですけどね。科技庁とか、いろんな省庁の連中が、次世代SSTを作っているってのは、知ってるでしょう」
「次世代超音速旅客機ね。コンコルドの上を行くような奴だ」
「そのプロジェクトの一環ですよ。日本製のシャトルとか。設計に力を貸してくれって話だったんで、ヒマな時にちょこちょこ」
「なんだ、やっぱり、作ってたんじゃん」
 小沢は笑う。
「お陰で、R‐IIも動けたわけだけど」
「R‐IIは、教授が?」
 今度は聞き返したのはシゲだ。
「いや」
 小沢が返す。
「『脳神経機械工学研究室』がなくなって、『脳内情報処理研究室』になったんだけどね。その研究生たちの根本は、変わっていないってわけだ」
「研究生だけで?たいしたモンじゃないですか」
「R‐0も、イーグルも、あの場所に全てのデータがあるわけだし…そいつらに言わせれば、『ビームサーベルを解析して電池で動くライトセーバーを作るよりは簡単でしたよ』ってさ」
「ああ、見ました見ました。テレビで見ましたよ」
 そうか。あれはおもちゃかと思っていたけれど、ちゃんとしたものだったんだ。シゲは口許を曲げた。じゃあ、あれで触れられたら、報道陣もたまったもんじゃ──深く考えるのはやめた。
「設計理念はR‐0とR‐1のいいトコどりに、さらになんかいろいろつけたしてるそうだ。今回の件で、上も予算をまわしてくれるだろうから──」
「マッドサイエンティストに国家予算」
 二人、思わず笑った。
「僕は、じゃ、R‐IIの方に行きます」
 と、シゲは軽く片手をあげてボンネットから離れた。小沢も片手をあげて返す。「先輩らしく、後輩を助けてやってよ」「いやぁ、わかりません。悪ノリするだけかもしれません」
「俺は俺で、俺の仕事をするよ」
 小沢は火のついた煙草を薄暗い空間の中に軽く揺らした。
「シゲさんは、シゲさんの仕事を」
 頷きを返したシゲが、やがて見えなくなる。
「それぞれが、それぞれの仕事を」
 小沢はぽつりと呟いて、右手の人差し指と中指で挟んだ煙草の先、ゆっくりと燃えていく赤い光を、少しの間眺めていた。


「話すつもりか?」
 それは、不意にかけられた声だった。けれど、小沢は顔をあげなかった。じっとその火を見つめたまま、言う。
「それが必要なら」
 じっと、その火を見つめたまま、小沢は言う。
 しっかりとした声。自分でも驚く。いつ以来だ?こんな風にして喋るのは。
「真実ってのは、時には残酷なモンです」
 思い出す。
 もう、二年も前になる。
「知らなければよかったと、思うこともあるかもしれない」
 知らなければよかったこと。ずっと知らなくてもよかったこと。
「けど、前に進むためには、必要なモンです」
 あの時──後悔なんかしてない。だから今、この未来があるはずだから。
 真実を知ること──間違いじゃない。
「それが──正義か」
 声の主が小沢の前に立った。小沢は見つめていた火種から、そっと顔をあげた。
 自分の前に立った村上の姿に、軽く口許を弛ませて笑う。
「どうでしょうね」
 いつもの調子に戻って、返す。
「ただひとつだけわかっていることがあるとすれば」
 タワー駐車場の中に、トヨタのエスティマが入ってきた。知っているナンバープレートに気付いて、小沢は運転席のドアを開けた。
「ひとつだけわかっている事があるとすれば、それをじっと見据えなきゃ、見えるものも見えなくなってしまうんじゃないかって事だけですよ」
 手にしていた煙草を、車内の灰皿に押しつけて消す。
「人は、どうしたって自分の目から、自分の向いている方向しか見る事ができない。たとえ表裏した正義がそこにあったとしても、冷静に分析なんて、出来やしない」
「それが──正義か」
「それをそう呼ぶのなら」
 小沢は笑った。屈託なく、いつもの調子で。それを見た村上も、思わず、不器用にだけれど、笑った。相変わらずだ──
 エンジン音が響きはじめた。深く、身体の芯にまで響く音。V型6気筒エンジン──6G72型エンジン──にツインターボインタークーラーの付いた、GTOのエンジン音である。
「一也くんは、それを今、見据えているだろうか」
 村上がそのエキゾーストノートの中で言う。それは、少し、聞き取りづらかった。けれど、小沢はゆっくりと返した。
「彼は何故、戦わないと言い続けてきたか。そして今、何故再び戦いに赴いたか」
 運転席に小沢が身を滑り込ませる。村上は何かを言おうと口を動かしたが、それよりも速く、GTOは滑るようにして走り出した。
 一歩後ろへと退いて道を開ける村上。その脇を、軽く鳴らしたクラクションの音と共にGTOが抜けていく。
 村上はすこしだけ、目を細めた。その黒いボディの後ろを、エスティマが追いかけていく。
「彼の中の、正義──?」
 そして村上は小さく呟いた。


       4

 正義なんか、結局、ない
 戦い、命をかけて戦い、結局、得られるものなんかない。だから、本当の正義なんか、ない。
「それでも、俺はまた戦うのか」
 コックピットシートに身を埋めた自分。頭にしたBSS端末用ヘッドギアが、自分の意志を受けてその補助モニターに情報を映す。眼前に迫るエネミーの姿。その、情報。
「それでも、私たちは戦うのよ」
 ヘッドギアに内臓されたインカムから、聞き慣れた声が言う。
「それでも、戦うのよ」
 それでも、戦う──モニターの向こうに映っていたエネミーが、その右腕を振り上げた。そして一也に向かって、猛り狂って襲いかかってきた。
 それでも戦う──
 すんでのところで、その一撃を身を翻してかわす。脇にあったビルの幾つかが、そのエネミーの一撃によって破壊された。再びエネミーが体勢を立て直す。そして襲いかかってくる。一也はかわす。鉄筋コンクリートの建物が、再びエネミーの腕と彼の動きに破壊されていく。
 繰り返す。それを、何遍も何遍も。
 補助モニターからの警告音が、絶え間なく響いている。奴を倒せ。奴を倒せ。
 迫り来るエネミーとその恐怖を、一也はかわし続ける。
 インカムの向こう、励ます声が聞こえている。
 一也は全てをかわす。
 けれど、いつかエネミーの腕が一也の肩口をとらえた。金属がひしゃげて破壊される音が、耳に届いた。同時に、コックピットが激しく揺れた。
 痛みに、一也は目を伏せた。
 自分の腕がもぎ取られたわけじゃない。訳じゃないのに、自分の腕から感覚がなくなって、まるで、そこに腕はあるのに、全く動かないそれに、自分の身体の一部がエネミーによってもぎ取られたようで──一也は目を見開いた。
 エネミーの左手が、今度は一也の左肩をとらえようとしていた。かわそうとする。けれど、自分と同じに動くそれは、すくむ足の感覚と同じように、身動きしなかった。
 左腕がもぎ取られた。
 激しい痛みに、一也は叫んだ。堅く目を閉じる。流れた前髪が、その目を覆い隠す。
 なんとか体勢をたてなおし、再びエネミーに向かう。けれど、一也はその方向を見てはいなかった。エネミーが、最後の一撃のために、右腕を振り上げる。
 同時に、首筋に電撃のようなものが走り抜けた。
 目を見開く。モニターの向こうを、前髪の間に見る。
 振り上げたエネミーの右腕が、その手を包み込んだ雷の迸りが、強烈に瞬いた。
 光に、記憶がフラッシュバックする。
 見たことのある光景。そしてそれに続く光景。病院。自分を見つめる遙の姿。病院。ベッドの上。眠り続けている姉の姿。
 目を覚まさない──今度こそ──一也は力一杯に叫んで、四肢に力を込めた。
 死にたくない。
 死にたくなんか、ない。けれど──四肢に込めた力は、意味を成さなかった。
 右腕も左腕も右足も左足も、自分の身体でいて、そうでないものは、彼の強い意志にも動きはしなかった。
「動け!動けよ!動いてくれよ!!」
 エネミーが迫る。
 補助モニターが警告音を鳴らす。同時に、そこに読み切れないほどの情報が流れていく。ACTUATOR OVERWORK. ACTUATOR TROUBLE──arm's A B. leg's A B. BACKPACK BATTERY is DEAD.INTERNAL BATTERY is DEAD. BSS system LINKed error. LINKed 56.2%
 system not RECOGNIZED.
 error.error.error.
 鳴り響いた電子音の向こう、エネミーの手が、一也に向かって振り下ろされた。
 死にたくなんか、ないんだ!言葉を口から出せず、一也は叫んだ。


 鳴り響いた音に、一也は目を開けた。
 右腕がしびれていた。なんでか、初めはよくわからなかったけれど、しばらくしてわかった。振るった右腕が、サイドテーブルを思い切りに打ち付けていたんだった。
 痛みにしびれる腕からゆっくりと視線を外し、天井を見つめてみる。
 薄暗い部屋。窓の向こうの街を、夕暮れが包み始めている。
 高い天井。白一色の、綺麗な天井。身体を支えている、柔らかなベッドの感覚。
 一也はしびれの引いた右腕で、その天井を見つめながら髪を掻き上げた。サイドテーブルの上に置いてあった水差しとコップが、自分が思いきりにそれを打ったせいで倒れていたのに、その時初めて気がついた。中に残っていた透明な水が流れて、カーペットの上にぽつりぽつりと落ちていた。
 だからと、別にそれをどうしようとは思わなかったけれど。
 透明な水が、サイドテーブルの上に置いておいた、あと残り数錠になった銀色の薬のケースを濡らしていても、だからと、それをどうしようとは思わなかったけれど。
 ため息を吐き出す。
「──またかよ」
 呟いて、手で顔を洗う。
 しんとしたホテルの部屋の中、その声がやけに強く響いたような気がした。
「だっせぇ…」
 そして再び目を伏せる。少し頭痛がした。よくあることだ。薬を飲んで眠ると、ときどきある。それが薬のせいかは、わからない。けれど、目覚めた時、すこしだけ頭痛がして──でももう慣れた。
「未来なんか、見えるモンか」
 瞼の向こうの暗闇に向かって、一也は小さく呟いた。
「見えたとしたって、こんな未来、見たくなんかあるもんか」
 ゆっくりと息を吸い込む。でも、不器用にしか出来ない。強く奥歯を噛み締める。なんでだ。なんでなんだよ。
 右手で、一也は髪の毛を強く握りしめた。きっと、しびれたせいで震えているのであろう右手の震えを、押さえるために。
 その髪の間から、夕暮れの中からこぼれ落ちた光を、銀色の端末が受け止めていた。


 閑散としたホテルのホールに、香奈は座っていた。
 何かを考えていたような気がしたけれど、一瞬前のそのことがなんだったか、次から次へと沸き上がってくる考え事に掻き消されてしまって思い出せず、彼女は小さくため息を吐いた。
 もしも、時間が戻れば、どこまで戻れば、みんなしあわせになれるんだろう。
 エネミーのこと。みんなのこと──小沢さんのこと、シゲさんのこと、教授のこと、明美さんのこと、ベルのこと──遙ちゃんのこと。そして、一也のこと。
 考えてみて、だけれどそんなことはやっぱりわからなくて、ホールを時折行き交う人の流れに、香奈は時間を見つめていた。
 小さく息を吸い込んで、再びゆっくりと吐き出す。ため息と同じ。
 ホールに姿を現した男に気付いて、香奈はゆっくりと立ち上がった。少しかかとをあげて、手を胸の高さにまであげてみた。男はすぐに気付いた。そして返すように、その男も手を少しだけ、あげた。
 香奈は微笑みを返す。うまくは出来なかったと、自分でもわかった。
 男が、小走りに近づいてくる。香奈は一番始めにかけるべき言葉を探して、そして、言った。
「仕事、おつかれさま」
 娘の言葉に、吉田拓也はすこしばかり早口になって返した。
「いや、たいした仕事じゃなかったんだ」
「そう」
 香奈は手を差し伸べる。父の右手にあった鞄に手を伸ばす。と、父はすこし戸惑ったけれど、娘の手に自分の鞄を預けた。
 それは、続ける言葉がなかったからだ。本当なら、話すべきことはたくさんある。しばらくあっていなくて、話したいことはたくさんある。あるけれど、どれから話たらいいかわからなくて──
「東京は、久しぶりだな」
 拓也は小さく呟いた。
「ここも、ずいぶん変わったな」
「うん…」
 香奈はゆっくりと返す。
「二年前から比べれば、すごく、再興されてきたし、横浜も大分かわったわ」
「…そうか」
 香奈は普通に言った。それはたぶん、彼女たちにとって当たり前の事なのだろう。当たり前の会話のひとつで、新しく出来たビルなんかを見て、「今度はこんなビルが建ったんだ」なんていう若者たちと、同じ会話のひとつなのだろう。
 だが、拓也にとっては少し複雑だった。それが、娘と、そして息子の関わっていることだから、なおさら。
「一也は?」
 なんとか言葉を探して、一番そっけなく響く言葉で、拓也は聞いた。
 だから、なんとか言葉を探して、一番そっけなく響く言葉で、香奈は返した。
「うん…さっき、帰ってきて──寝てる」
「そうか──ああ、昨日、ニュースで見たよ。昨日、あのロボットがやられたとき、一也──」
「話したい事って?」
 ゆっくりと、だけれど拓也の言葉を遮って、香奈は言った。


 夕暮れが終わろうとする頃。
 スィートルームの大きな窓から差し込む微かな光が、夜の青を滲ませはじめた頃。
 それが差し込むベッドの上に、一也の姿はなかった。
 サイドテーブルの上のコップは倒れたままになっていた。そこからこぼれた水は、ほとんどがもう乾き、小さな水の塊を二、三、残して、青を滲ませた光に弱く光っているだけだった。
 ベッドルームから続く間取りの向こう、少しずつ色づきはじめた夜景が収められた窓がある。そしてその絵画の前、幾つかのソファとひとつの丸テーブルが置かれている。
 流れる水の音が、その向こうから聞こえていた。
 ソファの上にはナイロンバッグ。一也のものだ。その脇には、彼のバイクのヘルメットも置かれている。その奥、バスルームの手前、大理石の敷き詰められたその場所から、ひっきりなしに流れる水の音が聞こえていた。
 鏡の前に一也の姿。流れる水を受ける大理石の洗面台の脇に、銀色の薬のケースが無造作に置かれている。
 一也は水に濡れた茶色の髪の奥から、ただ、ぼうと自分を眺めていた。
 ひっきりなしに流れる水の音を耳にしながら、鏡に映る自分を、ただ、濡れた前髪の間から、一也は見つめていた。
 よくわからないまま、R‐0に乗った。それは、幼い頃から思っていた、正義に近かったかもしれない。人類に未曾有の危機が迫っていて、戦うチカラを持った、限られたものがいて、それが自分で、だから戦った。初めは、ただそれだけだった。
 その内、現実が目の前に現れた。
 戦いによって傷つく人たちがいて、自分が戦うことによって、平和を護るためのはずなのに、誰かが何処かで傷ついていることを知って、正義っていうのは、リアルな現実の中にあるものと知った。それでも、戦うしかなかった。だって、戦わなければ、もっと多くの人たちが傷つくはずだから。それが正義──だと思っていた。
 力を持つことの意味を知った。力のないものは、正義を行うことも出来ないと知った。力は、誰かを護るためにある。たぶん、力は。
 それでも敵わない力がやがて自分を襲う。正義だけじゃ、敵わない力。どんなときも、正義が勝つとは限らない。『正義』という言葉の後ろに隠れている、『死』という言葉。やがてそれを目の前にする。それでも、戦う。もっと強く、もっと強くなって。
 それが正義──か。
 誰かが何処かで傷ついて、それでも戦う。傷ついた人々からの声。正義って、なんだ。ただ戦う事が、イコールじゃない。力を持つことがイコールじゃない。正義を行う。それはイコール、何かを傷つけてしまうこと。それはイコール、力を持つことと同じ。
 それが『正義』か──それが、『正義』。誰かが傷つく。それが、戦い。だから、その中に正義があるとすれば、誰かを傷つけるだけじゃない。
 自分もまた、傷つくこと。
 それが、正義。わかってるはずなのに──この国は、護るべき価値があるか──その答えは、出たはずなのに。
「もしも」
 一也は小さく呟いた。流れる水の音に、掻き消されてしまうほどに弱く、濡れた前髪のその奥から、自分を真っ直ぐに見つめたままで。
「もしも俺に、これがなかったら?」


 ゆっくりとその部屋のドアを香奈は引き開けた。後ろに続いていた父、拓也を部屋の中に促す。
 部屋の灯りは消えたままになっていた。夕暮れを過ぎて夜の帳の降りた街が、窓の向こうにきらきらと輝いていた。
「一也、まだ、寝てるみたい」
 小さく呟いて、香奈は壁際のスイッチにかけた手を降ろした。咄嗟に灯りをつけようとしていたその手を、そっと降ろし、
「まだ、寝かせておいてあげても──」
 小さく呟く。
「一也──?」
 リビングにあたる部屋まで身をすすませて、香奈は奥のベッドルームに視線を走らせた。
 けれど、そこに一也の姿はなかった。不安に思って、ベッドルームの中にまで進む。拓也がその後に続いていた。
 ベッドルームから続く間取りの向こうにも視線を送る。けれど、しんとしたままの空気。それを微かにも動かすものはなかった。あるとすればそれは、香奈がゆっくりと吸い込んだ呼吸だけだった。
 いくつかのソファとひとつの丸テーブル。そして夜景の収められた窓がある、小さな部屋。そのソファの上にあったはずのナイロンバッグが、なくなっている。
「一也は──?」
 誰の気配もしない部屋の中に向かって、小さく拓也は言葉を発した。
 ついさっきまで、誰かがいた気配がある。ベッドの上の、乱れたままのシーツ。そのサイドテーブルの上の、倒れたコップと水滴のあと。
 見つめていた拓也に、香奈が小さく、言った。
「大丈夫…きっと」
 微かな声が、空気を振るわせる
「きっと、戻ってきてくれるわ。ただ、ちょっと──」
 背中を向けたままの娘の姿に、拓也は下唇を少し、噛んだ。
 どうしても、どうしようもならなくなったときのその背中を、彼女がまだ幼い頃に、何度か見たことがあった。静かに、誰にも気付かれないようにして、そうして、背中を向けたままにする。
 そして、静かに──
 そんな背中を、何度か見たことがあった。
 だけれど──その時必ず、振り向くまでその後ろにいた『お姉ちゃん思い』の男の子の姿は、そこになかった。
 しんとした空気が、明滅する光とそれに、微かに揺れていた。


「どこへ行くの?」
 駆け出したベルは、金色の髪を揺らしながらホテルのロビーを飛び出した。そして彼にやっとの事で追いついて、その背中に向かって声をかけた。
「どこ…って」
 苦笑するようにして肩越しに振り返る一也。
「ちょっと、出かけるだけですよ」
 そして一也は彼女を置いて再び歩き出した。


「待って、一也くん。どこへ行くの?戻って来てくれたのは、戦ってくれるためじゃないの?」
 一也の後ろを追いかけながら、ベル。だけれど一也は答えない。そのまま歩いて行って、ロータリーを横切り、ドアマンに何かを聞き、教えられた方へと進んでいく。
「一也くん!」
 金色の髪を揺らしながら、ベルは力一杯に言った。
「ねぇ、どうしたの?何か、私たちには話せないような悩みがあるの?誰なら、あなたの力になってあげられるの?ねえ、教えて。あなたたちがそうしてくれたように、今度は私が──」
 ドアマンに教えてもらった場所は、出口から一番近い駐輪場だった。そしてその駐輪場には、彼のバイクが停められていた。
「ねぇ!」
 再び、ベルが力一杯に言った。
 けれど、一也はそれに続く言葉を掻き消すように、バイクのエンジンをかけてスロットルをまわした。響いたけたたましい音に、ベルはびくりとして身を震わせた。
「ちょっと、出かけるだけです」
 言い、一也はヘルメットをかぶった。
「一也くん、ま──!」
 そして爆音とともに、その場から一也は走り出した。
 ゆっくりと息を吐き出すベル。肩から、力が抜けていく。金色の髪が、吹き込んできた夜風に、微かに揺れていた。
「どこへ行くの」
 小さく、呟く。
 流れる夏の夜風の中で。


       5

 白く長い廊下。
 それも、窓から差し込む夏の夜の光の中に、青く染められていた。
 面会時間は、とうに過ぎている。とうに過ぎているし、相手はまだ、面会謝絶の状態だ。だけれど、一也は無理を言ってその廊下を歩いていた。
 手には、夕刻を過ぎてもうあまりなかった花々を集めて作ってもらった花束があった。一也はそっとそれに視線を落とし、先を行く看護婦の後ろに続いていた。
 大きなガラスがはめられたその部屋の前で、「お待ち下さい」と小さく言って、看護婦が立ち止まる。一也は窓ガラスの向こうを見た。看護婦が部屋に入っていく。電気がつく。
 そして見えた、ベッドに横たわっていた男の姿に、一也はすこし、目を細めた。
 顔も、名前も知らない。今でも、名前はわからない。教えられたけれど、忘れた。ただ一度聞いたきりの相手の名前、思いだそうとするけれど、目の前の、その男の周りに列べられたいくつもの医療機器の前に、一也はその名前が思い出せなかった。
 男の胸が、呼吸にゆっくりと上下している。生きてる。けれど──予断をゆるさない状況だ──と言う。
 あの、R‐1に乗っていたという男。自衛隊の、男だと言う。
 だけれど、そんなことはどうでもよかった。看護婦が彼の周りの計器を見て、何かのメモをとっていた。けれど、一也の視界にそれは入っていなかった。
「俺が…もしも戦っていたら…あの人がこんな風になることはなくて…」
 言葉が、口から呟かれていたのに気付いた。そう思っていただけ。思っていただけなのに。なんでこんな事、言ってんだ──
 一也はそっと、手にしていた花束を足下に置いた。看護婦は計器の示す値をカルテらしきものに書き込んでいて、その場を離れた一也に気が付きはしなかった。
 あの人がこんな風になることはなくて──続けそうになった言葉を飲み込んで、一也はジーンズのポケットに手を突っ込んだ。俺が、代わりにもしかしたら、ああなって──
「俺の、同僚だ」
 突然かけられた声に、一也ははっとして顔をあげた。
「俺の、同僚だ。俺と一緒で、ロボット乗りになりたいと、馬鹿みたいに笑いながら、俺たちに言ったんだ」
 白く長い廊下──夜の光に青く染められたその廊下の向こうに──花束を手にした、大空 護の姿があった。
「あ…」
 何かを言おうと口を動かすけれど、言葉が出てこない。何も言えない。腕と肩口に白い包帯が巻かれていて、その頭にも同じ包帯が巻かれていて、それでも花束を手にしてそこに立っている大空の姿に、一也は何も言うことが出来なかった。
「恐いか──?」
 言い、大空はゆっくりと歩き出す。立ち止まったままの一也に近づいてきて、そして、その脇を抜けて、行く。
 その時に、
「以前も、こんな話をしたことが、あったな」
「覚えています」
「そうか──なら、いい」
 大空は少しだけ口許を弛ませて、返した一也の言葉に、軽く笑ったようだった。
 一也の脇を抜けて、大空もまたその窓の前に立つ。しばらくその中を見つめて、それから、一也が置いたのと同じ場所に、自分も花束を置くためにしゃがみ込んだ。
「難しいな」
 そして言う。しゃがみ込んで、ふたつの花束を見つめたまま。一也の背中に向かって、その花束の中にあった、小さな黄色いひまわりを見つめたままで。
「難しいな」
 一也はゆっくりと、肩越しにその横顔に視線を走らせた。
「そして、つらいな。正義を行うことは」
 ちいさな大空の言葉が、しんとした廊下に響いて、耳に届いた。


 わかってる。
 立ち上がった大空が行く。自分とは逆の方向。
 一也はその背中を肩越しに見つめて──わかってるんだ。
 誰かが戦わなくちゃ、たくさんの人たちがああなる。わかってる。わかっては、いるんだ。
 見つめる大空の背中が小さくなっていく。ふと、その背中の向こうに人影が見えたような気がした。それが誰だかは、わからなかったけれど、一也は何故か、目を離すことが出来なかった。
 誰か──大空が明らかにその誰かに会釈をして、廊下の向こうに消えていく。と、男と一也の間を遮るものは、何もなくなった。
 誰か──ずきんと、頭痛が走った。咄嗟、こめかみに手をやる。「難しいな。そしてつらいな。正義を行うことは」
 大空の台詞が、頭の中を駆け抜けていく。一也は目を見開く。誰か──その台詞に、その誰かの声が続いた。「正義を行うことは難しい。正義を行おうとする人は、どうしても自分が傷ついてしまうからだ」
 一也は今度は身体ごとで振り返った。廊下の向こう、初めは誰だかわからなかったけれど、痛みが教えてくれた。「気付いてはいるけれど、変わらない。変われない。昔からの慣習で、傍観を続けている。──君も私も──変える方法を気付いてはいるけれど、こうして遠くで呟いているばかり」
 あの人──間違いない。一也は駆け出すために左足をあげた。
 もう一度、確かめたい。あの『正義』は──あの時僕が手に入れたはずのものは──もう一度確かめたい。あれは偽物だったのか。それとも本物だったのか。今の自分は、それじゃあ──今、自分が本当にすべきことって、それじゃあ──
 ゆっくりと、一也はあげた左足を右足の隣に降ろした。
 できない。あえない。あって、また、話す事なんてできない。何を話したらいいかわからないし、なんとなく、わかる。あの人がここにいる理由。
 ここに、戻ってきた理由。自分と違って、ここに戻ってきた、意味。
 顔を上げた時には、男の姿は、もうなかった。
「石野さん…」
 小さく呟いたその名が、しんとした廊下に響いて、いやに自分の耳に残った。


 R‐0。
 ジーンズのポケットに両手を突っ込んで、一也は目を細めた。それは見上げたその英雄の姿が眩しかったからだ。水銀灯の光に照らされて、白く輝く英雄の姿が、眩しかったからだ。
 東京都港区台場。この場所にこのミュージアムが建てられたのは、一年ほど前の話になる。特務機関Necが解体されて、その直後の頃の話。
 元はなんのために作られたか、よくは知らない。R‐0とイーグルの専用格納庫として設計されたという話を聞いたことはあったけれど、本当のところは、知らない。
 だけれど──
 一也は大きな──あの頃なら見慣れていて、そんなに大きく感じることなんてなかったのに──白く輝くロボットを見つめて、目を細めた。
 閉館直前のミュージアム。
 解体されるはずだったその英雄の姿を見上げて、一也は目を細めた。
 初め、R‐0もイーグルも、解体される予定だった。
 だが、日本を、世界を護った巨大ロボットを保存しようという声も、ないわけではなかった。自分は、そんなことはどうでもよかった。本当に、どうでもよかった。
 だけれど──今、その歴戦の勇士を見上げている自分がいる。
 保存の声に、この場所に建てられたこの建物に、R‐0とイーグルはあの歴史の語り部として残された。全ての武器は外され、そしてそれを動かすことの出来る唯一のマニュピレーションシステム、BSSも外されてはいたけれど、この場所に残された。
 ミュージアムとして形を変えたこの場所で、あの歴史の語り部として。
 語り部──一也は歴戦の勇士を見上げて目を細めた。あの過去は、今もここにあるのかどうか──そしてそれに続く今と、未来が、ここから見えるのか、それはわからなかったけれど。
「来ると、思った」
 少し笑うような、それでも優しい声に、一也は視線を落とした。
「どうして?」
 薄暗いハンガーの中、少し微笑んで立っている彼女の姿に初めは驚いて、それでも、少し、返すようにして笑う。
「どうしてだろうね」
 彼に近づきながら、彼女は小さく言う。
「どうしてだかわからないけど、ずっと、待ってたんだ」
「ずっと──?」
 眉を寄せて聞き返す一也に、詩織はおかしそうに吹き出した。「どうしてだろうね」そればっかりを口にして、また笑う。
 詩織は制服姿のままで、いつも持っている鞄を手にしていた。
「学校…?」
 呟くようにして聞く一也に詩織は小さくうなずく。
「家には、いたくないから。それに──一也にもう一度会いたいって思ったから。ずっとここで待ってた。会えると思ったから」
 ずっと──という彼女の言葉が指す時間がどれくらいのものか、一也にはわからなかった。けれど、それはたぶん、一時間や二時間という時間じゃないだろう。
 何かが喉の辺りにまで沸き上がってきて、でもそれを口にはしないで、
「でも、どうして?ここに来るなんて、一言も言わなかったのに?」
 聞く。
「なんでだろう」
 詩織はまた笑う。おかしすぎるというように、屈託なく。
「でも、たぶん、待ってれば、いつか来ると思った」
 いつか──いつだろう──でも、そのいつかまで、待っててもよかった。そしてもしかしたら、そのいつかが、来ない事を願っていたかも知れない。
 小さく呟く。
「一也、やっぱり、いろんな事、忘れられないんだよ」
「いろんなこと?」
「なんでもない」
 詩織の細い声が、誰もいなくなった広いハンガーの中に響いた。
 そしてその言葉が、空気の中に消えていった。
「…約束」
 小さな、詩織の声。少し、とがめるような響き。
「…ごめん」
 一也も小さく返す。「だけど──」
「いいの。言わないで」
 そして沈黙。
 詩織はそっと一也に歩み寄り、その背中に腕をまわして、小さな頭を彼の胸に触れさせた。
 だから、一也も詩織の背中に──
「ねえ、一也…」
 詩織が言う。
「私をどこかへ、連れ去って」
 その背中へ伸ばした腕を──
「誰もいないところへ…私と、一也以外、誰もいないところへ」
 わかってる。
「そんなこと──」
「じゃあ、一也は私を置いて、私のいない場所へいってしまう?」
 わかってる。
「一也は、戦うの?私をおいて」
 わかってる。
 だけれど──自分を抱き寄せる彼女の背中に伸ばした腕を──
「それは、誰のため?」
 彼女が、背中にまわした腕を引き寄せた。強く頭を胸に押しつけて、聞き取りにくくなっている自分の声を、なんとかその耳に届けようと、その距離を近づけた。
「戦うのは、誰のため?私のためじゃないよね?それはもしかして、世界中の、みんなのため?それとも、一也と一緒に戦ってくれる、誰かのため?」
 誰か──「村上先輩のため?」
「遙は関係ないよ」
「なくなんか、ないよ。少なくとも、先輩は、そんなふうに思ってない。それで、きっと、一也も関係ないなんて、思ってない」
 だから一也は──詩織の背中にまわした腕を、そっと引き寄せた。
「一也、私のこと、好き?」
「好きだよ」
「じゃ、愛してる?」
「なんでそう言うこと、言うの」
「嘘だから。一也、私のこと、好きでも、愛してくれてない。昨日も、結局、そうだった。一也、私のこと好きって言ってくれるけど、一回も、愛してるって言ってくれたこと、ない」
 そして詩織は一也の答えを遮るように、強く彼の胸に顔を埋めて、その背中にまわした腕を、もう一度強く引き寄せた。
 感じる吐息と、腕の中で震える背中に、何も出来なくて──かける言葉が見つからなくて──一也は目をふせた。
 そして静かに流れていく時間──


「ごめん」
 ゆっくりと目を開いて、一也は言った。
「もう、行かなきゃ」
 その言葉に、詩織はそっと離れると、彼の目を見上げて聞いた。
「どこへ?」
「どこへだろう。実は、よくわからない」
「それは──」
 見つめながら、
「私のいない場所?私とは、一緒に行けない場所?」
 探るように聞き返した詩織から視線を外し、一也はハンガーの奥を見た。その場所を、まるで睨み付けるかように。
 気付いた詩織が、その視線を追う。静かなハンガーの空気の中に、フリントが擦れるその音が、いやに強く響いた。
「失礼」
 男は手の中に生みだした赤い炎を、その口にくわえた煙草につけて言う。
「邪魔をするつもりはなかったんだが」
 そう言って、その男は笑う。


「誰だ?」
 一也は詩織の前にそっと歩み出て言った。だが、煙草をくわえた男は軽く口許を曲げて、おかしそうに返す。
「これは──失礼。レディ、私は君の愛しい彼に話があるんだが、そちらの話が終わったのなら、こちらが話してもいいかな?」
 白い煙草の煙が、水銀灯の灯りの下で青白く揺れていた。


                                   つづく


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