studio Odyssey


2nd Millennium END. 第6部




 まだ小さかったけれど、青い夏の空に向けて、強い夏の陽射しに向かって咲くその花の姿が好きで、吉田一也は黄色いひまわりを選んだ。
 小輪のひまわりの花束。
 白い病棟とその花のコントラストに、何人かの看護婦たちが、すぎ際に彼のことを盗み見ていった。それは、その花のコントラストに視線を奪われたから──という理由だけではなくて、何故彼が、今ここにいるのかという、疑問の視線でもあった。
 T大学病院。その病棟。
 その中を、一也は迷うことなく進んでいく。そして彼は、開け放たれたままになっている病室のドアの前で、立ち止まった。
「こんにちは」
 軽くドアを叩いて言う。
「おはようございますですかね?」
「あら」
 彼女も、彼の姿に軽く笑った。
「これ、おみまいです」
 と、一也は手にしたひまわりの花束を軽くひょいと掲げて、病室の中へと一歩をすすませた。ドア脇にあるネームプレートに、平田明美と書かれた、その病室の中に。
「ありがとう」
 ベッドの脇にまで来た一也から花束を受け取り、明美はくすりと笑う。
「でもいいの、一也くん?こんな所来てて」
「明美さんまで、そういう事を言う」
 苦笑するようにして、一也は言った。
「検査のついでですよ、ここの」
 と、こめかみを指さす一也。それだけでわかる。埋め込まれた金属の端末、BSSの事だ。
「そう──悪いわね」
 手の中のひまわりを見つめながら、明美はそれでも少し嬉しそうに口許を弛ませた。「一也くん、ひまわり、結構好きでしょ?」「明美さん、嫌いですか?」「そんなことないわ。元気で、私も好きよ」
「──具合、どうですか?」
 ひまわりを見つめていた明美の横顔に向かって、一也はそっと聞いてみた。明美の答えも、なんとなくわかってはいたけれど。
「うん──だいぶいい」
 言って、明美は大きくなったお腹にそっと手を触れた。そして軽く、微笑んだ。
「ふたりとも、元気よ」
 その言葉が、どうしてもうまく受け取れなくて、
「花、いけてきますよ」
「あ、うん。お願い」
 黄色いひまわりの花束を受け取って、一也は病室を出た。
 その黄色と白のコントラストに、小さく息を吸い込んで。




   新世機動戦記 R‐0 2nd Millennium END.
                         第6部




       1

 細い道に、赤い車が止まっていた。少し派手目のオープンカー。ぱっと見ただけでも目を引く車だ。もちろんそれは、そのドライビングシートに座っていた人のせいでも、あったかも知れないけれど。
 フィアット、バルケッタ。
 左ハンドルの運転席から、彼女はフェンスの向こうを眺めていた。フェンスの向こうにあるのは、懐かしいグラウンド。自分がつい一年半前まで通っていた所のものだ。
 でももちろん、その場所も今は夏休みのまっただ中であったのだけれど。
 母校──高校──夏休みのグラウンド。
 運動部の部員たちが炎天下の中を走っている。あのトレーニングウェアは、サッカー部だっけ?なんて、かけたサングラスをちょいと下げて上目遣いに見つめてみる。──ああ、たしかそうだ。
 校舎の方からは軽音楽部のものだろう、ギターとドラムの音が微かに聞こえていた。
 なつかしいな──そんなふうに考えて笑って、ふと、校舎の上を彼女は見やった。
 なつかしいな、そう言えばあそこで──屋上──思い出そうとしたその思考を、チャイムの音が途切れさせた。
 聞き慣れていたはずの音。だけれど、忘れていた音。
 村上 遙は少し苦笑すると、下げていたサングラスを取って、ツーシートのバルケッタの助手席に投げた。で、代わりにそこに置いてあったテンガロンハットをひょいと取って、長い髪を耳の後ろにおいやってから頭に乗せた。夏の陽射しを遮るように、少しそのつばを前に下げて。
 なつかしいなぁ──
 遙はシートに身を投げ出すようにして、頭の後ろで手を組んだ。
 夏の陽射し。夏の空気。その中に、チャイムの音がゆっくりと消えていく。
 サッカー部の部員、高校生たちの声が、微かに聞こえていた。
 軽音楽部の音に、吹奏楽部の音が混じって、微かに、聞こえていた。
 静かな夏の空に向かって、遙は口笛をふくようにして軽く息を吐き出す。そのなつかしい感じに、少しだけ笑う。
 ふいに足音が聞こえたような気がして、遙はテンガロンハットを取ってぱっと勢い良く振り向いた。少しだけ笑った、その表情のまま。
「よ」
 視界の先に、ノースリーブの肩だしルックの彼女がいた。隣には、眩しいくらいの白色のシャツを着た、彼女の姿もあった。
「よ」
 軽く片手をあげて返し、遙はひらりとバルケッタのドアを飛び越える。
「ひさしぶり」
 笑う。
「ひさしぶり」
 屈託なく笑って片手をあげる佐藤睦美の隣、神部恭子も笑っている。


「いつもすまんな」
 かけられた声に、一也は花をいける手を止めた。
 各病棟、各階の端にある共同の流し。見舞いにきた人が、こうして花をいけたり果物を洗ったりするための場所。そこで、一也は知った声を聞いて、ひまわりを花瓶に挿す手を止めた。
 そっと振り返る。
 どきっとしたのは、ふいに声をかけられたからだけではなかった。考え事をしていて──何度来ても、病院は好きになれない。ベッドにいる人たちの姿。少し無理したような微笑み。好きになれない。そして、あの頃と違う微笑み。無理してる──そんなことを考えていて、そして声をかけたのがその人で、一也はすこしどきりとして、そっと振り返ったのだった。
「今、ちょうど私も病室に行ったんだよ。そうしたら、一也君が来てるって聞いてね」
 花をいける手を止めた一也に向かって、平田教授は言った。
「いつもすまんな」
「いえ…」
 小さく返して一也は視線を戻した。それ以上は何を話したらいいのかわからなくて──再び、ひまわりを花瓶にいけていく。とは言っても、何十もひまわりがある訳じゃない。すぐにその作業は終わってしまって──一也はいつもより長く手を洗ってみた。
「母子共に、十分元気だとさ」
 その背中に向かって教授が言う。言って、教授は一也がいけたひまわりの花瓶を手に取った。「夏らしくていいな」
「ええ…」
 気のないような返事を返し、やはりそれ以上はもたなくて、一也は流しの蛇口を閉めた。水の流れる音が消えて、そして沈黙──が訪れるよりはやく、
「母子ともに元気」
 教授が軽く言ってみせた。
「ここの連中が言うんだ。間違いない」
 視線をあげた一也と、教授の視線があう。だから、教授は続けた。
 また、軽く。口許を昔と同じにすこし、曲げて。
「何せ、私の大学がやってるところなんだからな」
 思わず一也も笑った。
「最後の一文が、不安ですよ」
「そうか?」


 その駐車場。
 大きな大学病院を見上げながら、小沢がGTOの運転席からゆっくりと降りて来た。
「病院?なんでまた──」
 呟いて、陽射しに目を細める小沢。
 その彼の前に、卵形フォルムのワゴンが音もなく停車した。トヨタ、エスティマG4WDである。
「本当に、ここに?」
 ゆっくりと開いていくエスティマのウィンドウ。その中に向かって、小沢。
「間違いないのか?」
「ああ、少し前に、ひまわりを手に入っていったよ」
 答えたのは運転席に座った男、片桐だ。助手席には望遠レンズを抱えた篠塚の姿もある。「ひまわり?」呟いた小沢の声が聞こえなかったのか、運転席に座っていた片桐は、構わずに続けた。
「読み通り、昨晩、松本詩織とコンタクトを取ったな」
「ああ──それはいいんだが…」
「途中、見失ったりもしたんですけどね。ここまで食らいついたんですよ、小沢さん」
 嬉々として言うのは篠塚。
「ああ──」
 小沢は気のない返事を返して、
「彼、なんでまた病院なんか?こんな時に、検査も何もないだろ?」
 開かれたウィンドウに手をかけて、彼は聞いた。
「──それか」
 と、口許を曲げる片桐。助手席の篠塚に手を伸ばす。篠塚がその手に見慣れたファイルを手渡した。彼が持ってくる情報がいつもファイリングされている、見慣れたファイルだ。
「病院で、何か?一也くん──」
 小沢はそれを片手で受け取った。そして開く──よりも先に、片桐が内容を口にする。
「いや、西田明美──じゃないな。平田明美が入院してる」
「明美さんが?」
「彼女に会いに来たんだろう。度々、顔を出していたようだな。旦那も、さっき入っていったよ」
「教授が──?」
 小沢はちいさく呟いて、
「聞いてないな…」
 受け取ったファイルをそっと開いた。
「先月くらいから、入退院を繰り返してるんですよ」
 言ったのは篠塚だ。いつの間にか、助手席の彼の膝の上にノートパソコンが開かれている。
「記録によると、妊娠がわかってからたびたび検査には来ていたようですけど──」
「いや、わかった。ありがとう」
 早口に言って、小沢はファイルをぱたと閉じた。
「理由は、直接でも聞くよ」
 そして小沢は軽くふたりに会釈をして、エスティマから離れた。
「そうしてくれ。俺たちは行く。どうやら、泉田が調べてるエネミーの方で、新しい動きがあったみたいなんでね」
「──頼む」
 ファイルを掴んだ手を挙げた小沢に、片桐は笑った。そして、ウィンドウを閉めた。
「小沢よ」
 閉まるウィンドウの向こう、片桐が言う。小沢は小さく喉を鳴らして返す。
「ん?」
「今度のエネミー──彼のように戦わないことが、正義かもしれんぞ」
「彼?一也くん?」
 聞き返した小沢の言葉は、閉めきられたウィンドウに遮られた。
「まだ、わからんがね」
 エンジン音が少し大きくなって、一歩身を引いた小沢の前から走りだしていく。そしてやがて、彼の視界からその車は見えなくなった。
「戦わないことが正義?」
 呟いて、小沢は手にしたファイルで頭を掻いた。
「だからって、このままじゃいられないだろ」
 GTOの中にファイルを投げ込んで、小沢は病院を見上げながらその玄関へと小走りに急いだ。


 校門から続く昇降口までの短い道。レンガ調のタイルが敷き詰められたその道を、あの頃と同じように──あの頃のようにローファーではなくて、制服でもなかったけれど──同じように、小気味よくかかとで音を響かせながら、遙は歩いていた。
 隣を行く睦美と恭子。
 そして三人、おしゃべり。
 変わらない。
 制服でもなくて、教科書──が入っていることはそんなになかったけど──鞄を持ってる訳でもなかったけれど、変わらない。
 昇降口の、たった二段の階段をあがって、三人は校舎の中へと入っていった。
 少なくとも、ここは変わっていない。
 下駄箱が並ぶ風景。その向こう、廊下の壁に掲示板がある。今じゃ、見ることもなくなった例の保健のポスターと並んで、夏休み明けにある文化祭の掲示が張られている。
 変わらないそのままの風景。差し込む夏の陽と、微かに吹き込む夏の風に、遙は少し目を細めた。
 並んで歩く睦美と恭子。二人もちょっと大人になって、ファッションも少し変わってはいたけれど、それでも会えば相変わらず。
 少し笑って、遙は廊下の先をゆっくりと右に折れた。なつかしいさび色をした昔くさい手すりが、階段の上へと向かって、真っ直ぐに伸びていた。
「高校、行ってみない?」
 言い出しっぺは自分だ。
 そして自分がどうしてそんなことを言ったか、自分でもなんとなくわかっていた。けれど、考えてみて、やめた。いくつかの理由が思い当たりはしたけれど、その答えを決めるのがいやで、やめた。
 なつかしい想い出。
 もう──あのころには戻れないのかな──
 階段を登り切って、視線を廊下の向こうに走らせる。
 美術室前の廊下に、昔自分たちがそうしていたのと同じように、部員達がだらけて座っていた。
 楽しげな笑い声が、夏の校舎に響いていた。


       2

 窓際のサイドテーブルに、一也はそっと花瓶を置いた。
 黄色いひまわりの花束。再びそれを整える一也の背中の向こう、明美が上半身だけを起こしたベッドの脇に、教授が腰をおろしながら言っていた。
「具合、どうだ?」
 くすりと、明美は思わず笑った。
「さっきも聞いたくせに、同じ事を聞く」
 その言葉を耳にして、一也も思わず笑う。明美が微笑みながら続ける。
「良好よ、母子ともに、元気。先生たちもそう言っていたでしょ?」
「ここの連中は、アテにならん」
「自分を基準にしてるでしょ?」
 教授を見つめて明美は笑うと、少し長くなった髪を、耳の後ろに掛けた。
 そして、言った。
「そういうあなた達こそ、こんな所にいていいの?」
 背中の向こうに明美の視線を感じて、一也はふと花瓶のひまわりを整えていた手を止めた。黄色いひまわりが一也の手をすりぬけて、ふいとそっぽを向いた。
「なんか、テレビ見てたら、二人ともいろいろ言われちゃってるみたいじゃない」
「言いたい奴には言わせておけばいいさ」
 教授がはっきりと言う。背中の向こう。
「──それでいいの?」
 聞かれて、教授は少し驚いたようだった。だけれどはっきりと、軽く笑って返していた。
「何を言ってるんだか」
 一也はすこし、はっとした。
「いいんだよ」
 言い切った教授の言葉に、一也はすこしはっとした。
 言い切れる。自分は──きっと──
 一也はそっぽを向いてしまったひまわりに、ゆっくりと右手を触れさせた。


「よ」
 笑って片手をあげた遙と睦美の姿に、廊下でだらけきっていた吉原真一が小さく返す。
「…先輩」
「どうよ、元部長」
 廊下に座り込んだ吉原を見下ろし、睦美。
「ちゃんと部活はしているのかね?文化祭の絵は、どうなんだね?」
「自分が言えたモンじゃないでしょう?」
 間髪入れずに続けた恭子に、思わずむす。
「現役とOGは違う」
「現役の時はどうだったっけ?」
「そんなの忘れた」
「先輩たち…突然どうしたんすか?」
 と、話を変えるように言い、立ち上がる吉原。
「しかも、みんなそろって」
「んー…いや、久々にみんな集まったからさー」
 と、睦美は笑って返した。なんてことはなく、軽く。あたりまえと言うように。
 あたりまえじゃない。吉原の周りにいた、一、二年生の男子たちは、彼女たちの姿にすこし戸惑っているようだった。戸惑っていると言っても、睦美と恭子は現役生も見たことがない訳じゃない。たまに遊びに来たりはしていたからだ。だけれど、その隣にいる彼女の姿──テレビの向こうでは見たことのある彼女の姿に──皆、少しばかり戸惑っていたようだった。
「ちゃんと部活してんの?」
 世間話のひとつというように──実際、世間話のひとつだが──睦美が聞く。
「あ…いや。そう、女子は中にいますよ」
 吉原は返した。睦美たちを促す。世間話のひとつ──という風には、出来なかったけれど。
「相変わらずだぁね」
 美術室のドアの方へと、睦美は促されて、視線を送った。
 視線の先、遙が、ちょうどそのドアからひょいと中を覗き込んでいるところだった。
 開け放たれたままのドアの向こう、相変わらずの風景を見て、遙はすこし複雑に口許を曲げた。変わらない──その風景の中、詩織がいる。
 変わらない──
 キャンバスにかけていた手を止めた詩織と、そのドアに手をかけた遙の視線とがあった。
 小さく息を吸い込む遙。何かを言おうとして──その遙に、詩織が視線を外した。外して、彼女はすこしだけ、あたりまえの挨拶をするようにして頭を下げた。
 ──どうして、視線を外すの?
 唇が紡ぎだしそうになった言葉を止めるために、遙はドアにかけた手に少しだけ力を入れた。そしてその言葉を喉の奥に飲み込んでしまうために、自分も視線を外して、足下に視線を走らせた。
 だけれど、理由はなんとなく、わかった。
 けれど、その答えを決めるのがいやで、やめた。


 開け放たれたドアをノックする音に振り向く一也。遅れて、教授と明美もそのドアへと振り返る。
「よう、おはよう──という時間じゃないか」
 白衣の医師、黒岩が軽く笑ってそこに立っていた。
 軽く笑う黒岩に、一也もちょいと頭を下げて会釈する。「うん」というように頷いて、黒岩も片手で返した。そして、
「ちょっと、いいか?」
 手にしたファイルを掲げて見せながら、教授に向かって言った。「相談事なんだが──」続けて何かを言おうとして、やめる。明美の視線に気づいて、黒岩は言葉を続けることをやめた。
「いいか?」
 探るように言う黒岩。
「ああ」
 ゆっくりと答えて、
「すぐ戻るよ」
 のそりと立ち上がる教授。
 そして、教授は黒岩と共に病室の外へと消えていった。見送る明美の視線を背中に感じながら、だけれど、それを意識しないように。
「──一也君は?」
 ぽつりと、明美は病室から消えた夫の背中の向こうを見つめながら、小さく呟く。しんとした病室の中に、明美の声がやけに強く響いた。一也には、そんな気がした。
「一也君は、それでいいの?」
 少しだけ辛そうな声。一也は明美とあわせていた視線を、思わず外す。
 何を返せばいいのかわからなくて──一也は病室の白い壁を見つめて、ぽつりと言ってみた。聞いてみた。
「明美さんは、シゲさんが入院した時のこと、憶えていますか?」
「ええ──もう、二年も前になるのね」
「あの時、僕、明美さんに聞きましたよね」
 病室の白い壁を見つめていた視線を、そっと自分の手に落とす。握りしめた手を見つめて、考える。
 浮かび出た自分の言葉たちに軽く口許を弛ませて、一也は笑った。そしてそれでも、言った。聞いてみた。
「僕たちは、あの時、間違っていましたか?命をかけて戦って、それは、間違いだったと思いますか?結果的に、僕たちはそれで、勝てたと思いますか?」
 どことなく自嘲したような声──ちょっと、悲しげな声に、明美は目を細めた。だけれど、彼女に背を向けたままの一也がそれに気付くわけもなく──言う。
「あの時僕が聞いた、僕たちが戦うべきだった本当の『敵』──僕が二年前に戦った『エネミー』は、本当にそれだったんですかね」
「じゃなければ、今、こんな事にはなっていないって?」
「わかりませんけれど…」
 一也は呟いた。
「あの過去が、まるで無意味に思えてきて──」


 彼女は重い鉄の扉を押し開けた。
 薄暗かった踊り場に、真っ白な陽の光が溢れ出るようにして差し込んでくる。ふわりと吹き込んだ心地よい風の中に、微かな潮の香りがした。
 なつかしい香り。
 そのなつかしい香りの向こう、抜けるような青い空があった。変わらない夏の青い空が、校舎の上、屋上の上に、変わらずにあった。
 眩しさに目を細めて、ゆっくりと一歩を前へと進ませる遙。
 そして言う。
「あぶないよ…」
 見回した屋上の縁に立っていた彼女に向かって、長い髪を風の中に揺らす詩織に向かって、遙は言った。
「センパイ──」
 彼女──松本詩織が軽く微笑んで、その屋上の縁から空を見つめたままで呟きを返す。
「先輩、前、ここにこうしていましたよね?」
 微笑む詩織の顔を真っ直ぐに見られなくて、遙も青い空を見つめながら彼女に近づいて行った。
「なぁに?話って」
 そして、できるだけ素っ気なく、軽く、聞いてみた。出来たかどうかは、自分でもよくはわからなかったけれど。
 その声が微かに聞こえる踊り場。
 身を潜めて、声を潜めて、睦美と恭子と吉原がいた。「重いよ、吉原っ」「睦美っ、しーっ」「なんでこんな事…」「ついてきたのはおめーだべ」
 そこに、小さな声が聞こえてくる。
「吉田くん、ずっとここで、作品描いていたんです」
 ぽつりと言った、詩織の声。
「へぇ」
 遙は返す。
「どんな?」
「知りません」
 そして続ける。
「一人で、ずっと描いてたんです。私が来るのも嫌がるくらいに」
 そうして、ゆっくりと詩織は息を吸い込んだ。その理由は──ゆっくりと息を吸い込んだ理由は──吐き出すために。吸い込んだその勢いに、言葉を吐き出すために。
 詩織は言う。
「わかります?」
 少し、その声が震えていたような気がした。遙には、そんな気がした。
「──なにを?」
 だから遙は返す。
「どういうこと?」
 そして──沈黙。
 二人、言葉がなくて、沈黙。
 二人、何も言えない。何も続けられない。
 言葉を耳にしていた睦美も恭子も吉原も、つばを飲むこともしないで、ただ、聞いていた。何も言えず、何を、考えることも出来ずに。
 そしてそっと、
「──先輩がどう思っているか知らないですけど」
 詩織が言葉を口にする。
「私、先輩が思っているほど、いい子じゃないですよ。あの時からそう。ずっとそう。わかります?」
 問われて、だけれど遙は何も言わなかった。
 ただ、詩織が見つめているのと同じ空を見つめて、何を考えていたわけでもなくて、ただ、詩織の言葉を耳にして、何も言わなかった。言えなかった。
 沈黙──詩織はそれがすごくすごく嫌で、続けた。ちょっとうつむいて、自分が、それでも続けて言う自分が、自分ですごく嫌だったけれど、続けた。
 言っていた。歯がゆいくらいの、想いに。
「昨日、先輩が電話くれたあと、一也とあいました」
 どきりとしたのは、その言葉を聞いていた三人だけ。遙以外の。
 遙は言葉を探す。それよりも先に、詩織が続ける。
「でも、私、一也にはそのこと、先輩にはそのこと、教えようなんて、全然思わなかった」
「言ったよね?」
 見つけた言葉を、遙かがゆっくりと口にする。
「私はそれでも、どうもしないって」
 真っ直ぐに詩織を見つめて、遙がゆっくりと口にする。
「私はそれでも、どうもしないって。私は一也のことも、詩織ちゃんのことも──」
「知ってるわけ、ないじゃないですか!」
 遙の言葉を遮って、詩織が言う。
「わかってるわけ、ないじゃないですか」
 屋上に彼女の声が響く。長い髪を風に踊らせて、コンクリートのその縁に置いた手を、ぎゅっと握りしめた彼女の声が、青い空の包み込んだ屋上に響く。
「だったら、戻ってなんか、来ないんじゃないんですか?一也の前になんか、現れないんじゃないんですか?私の前になんか、現れないんじゃないんですか?先輩、ずるいですよ。何もかもわかってるふりして、でも、全然わかってない。私のことも、一也の事も」
 ずきりと、詩織の言葉が胸の何処かを刺したような気が、ちょっと、した。だからかはわからなかったけれど、遙は自然と視線を外して、うつむいていた。
 詩織が、言っていた。
「先輩、全然わかってない」
 遙かはうつむく。
「私のことも、一也のことも。自分のことだって」
 何かが、胸の何処かを刺したような気が、ちょっとした。
 だけれど遙は結局、詩織から外した視線をそのままに、そのずきりといたんだ胸の間を、少し、おさえただけだった。


 白い廊下。
 その先に二人の男の姿。白衣の医師、黒岩とスーツ姿の教授。
「彼女、一昨日の検査では問題なかったよ」
 手にしていたファイルの中からカルテ取り出し、それを教授に渡しながら、黒岩が言う。
「少し雑音が気になるが、まぁ…これくらいなら出産にも堪えられそうだ」
「そうか──よかった」
 カルテを受け取り、それを見ながら教授は返す。ドイツ語混じりに書かれたカルテ。さっと目を通す教授を見つめながら、再び黒岩。
「だが、大事をとってあの時に入院させたのは正解だったな」
 六月の頃。梅雨の雨が降り出した日。教授が、この病院に訪れたころの話だ。
「もしもあの時に精密をやらないで、家にいたままだったら、放っておいたら、二人ともの命の危険があったろう」
「ああ──」
 喉を鳴らすだけの答えを返して、教授はカルテを黒岩の手へと戻した。その時に、ふと、自分たちを見る視線に気が付いた。じっと自分たちを見つめているような視線の感覚。
 少し気になって、教授は白く長い廊下の向こうへ、そっと視線を動かした。
「相変わらずに──神出鬼没だな」
 思わず苦笑する。そこにいた男──小沢の姿に。
「黒岩、お前か?」
「俺が?まさか。お前が、誰にも言うなといっただろう」
 カルテを受け取りながら黒岩が返す。それに、
「一也くんを追いかけていて──ですよ」
 軽いため息混じりに小沢。二人の元へと歩み寄りにながらに聞く。
「どう言うことですか?」
 少し訝しげに目を細めて、
「明美さん、入院してるなんて、教授、一言も──」
「それを知っていたら、戦場には誘いに来なかったって?」
 笑い、教授は返した。その表情と物言いは、いつもの教授のそれ。それが、いつもの教授のそれで、それで、小沢はそっと視線を外した。
「──どこか、悪いんですか?」
 ぽつりと聞く。
 だけれど教授は答えない。
 答えない教授に、カルテをファイルに挟みながらの黒岩が答えた。
「ASDだよ」
「──心房中核欠損?」
 軽く、黒岩と教授が唸った。
「わかるか?心房中核──心臓に、発達障害による小さな欠損がある」
「でも、普通は子どものうちにそんな穴、閉じてしまう物でしょう?」
「普通はね」
 今度は軽く、教授が続けた。小沢の事を見て、笑いながら。
「でも、そうでなくても、無症状のままでなんとかなってしまう、先天性疾患だ」
「明美さん、妊娠してるって──?」
「妊娠して、高齢出産という程ではないが、大事をとって精密をやってわかったんだ。L‐Rシャントもしっかり見られる」
 黒岩は脇に挟んでいたファイルを小沢に見せてみた。けれど、小沢はそれを受け取りはせずに、手で突き返しながら返した。
「でも、もうじき予定日でしょう?明美さん、大丈夫なんですか?」
「ああ──入院して、しっかり看護してもらっているから大丈夫だ。このまま安静にしてれば、黒岩たち、ここの医師たちが──」
「平田。ひとつだけ、言わせてほしい。お前に相談したい事ってのは、それだ」
 今度は教授の言葉を、黒岩が遮った。遮って、黒岩は一息で言った。そうでなければ、彼でも、言えなかったかもしれない。
 教授が、彼の言葉に一瞬だけ視線を外した。外した視線を、白く長い廊下に一瞬だけ、落とした。
「問題ないだろうというのは、今のままなら、だ。この検査は、一昨日の昼にやった検査結果だ。わかるだろう?一昨日の夜、そして昨日。何があったか」
 視線を外した教授に、小沢は気付かないふりをした。
「戻ろう──明美が変に心配するといけない」
 ぽつりと、教授は言った。言って、笑った。


「私は──」
 長すぎるくらいの沈黙を破って、そっと明美が言う。
 病室の白い壁に向かったまま、自分の握りしめた手を見つめたままの一也の背中に向かって、明美がそっと言う。
「私は、今、ここでこうしているから、今のことは知らないわ。だけど、ひとつ、わかっていることがあるとすれば──あの時、一也くんが戦って、護ったものは少なくないと思う」
 弱く微笑む。
「私は──ここでこうしているから、わからないけれど」
 一也に、その微笑みを浮かべた彼女の顔を見ることは、出来なかったけれど。


       3

「私は──ここでこうしているから、わからないけれど──あの時一也くんが戦って護ったものは少なくないと思う。それだけじゃ、不満?」
「不満だなんて──」
「そして一也くんも、きっと私と同じで、たくさんのものを手に入れたと思うけど──それでも不満?」
「そんなこと──ただ、僕は」
 ただ僕は…何だ。
 一也は握りしめた手を見つめていた。言葉を探す。何だ、僕が言いたいことって。それって──何だ。
「ただ僕は…あの頃と同じ気持ちで戦場になんて、いけないですよ。正義のためだとか、平和のためだとか。あの頃、僕の中にあったそれが揺らいでる。壊れはじめてる」
 だから、戦えない。
「また、見えなくなってる。あの時と同じ。結局──」
 呟く声が、開け放たれたドアの外にまで聞こえていた。病室に戻ってきた教授、そしてその脇に控えた小沢の耳にまで。
 だから二人、その空気の中に入ることが出来なくて、ドアの影で立ち止まっていた。
「結局──」
 一也は言う。
「この国は、世界は、護るべき価値なんか、なかったのかなって」
 言って、だけれど、軽く笑った。
「でもわかってるんです、俺。すごくガキみたいなこと言ってるなって。でも、今のままじゃ戦場にはいけないんです。あの時の感覚をまだ、覚えているから」
「あの時の感覚──?」
 ふと、明美は一也の言葉を繰り返した。その感覚が何なのか、彼女にはよく、わからなかった。
 一也が振り向く。
 笑って、軽く、言う。
「今のままだと俺、たぶん、死ぬから」
 言葉の後ろ、記憶の風景が明美にも少し見えた気がした。R‐0がエネミーの前に破れた記憶。動かなくなったR‐0と、そこに響いた彼女の声。瞳を閉じて、眠りの中に落ちていった一也の姿。目覚めない人たちを前にした自分たちの記憶。彼と彼女の記憶。
 明美はすこし、一也の真似をして、微笑みをその口許に浮かべて見せた。
「そう──」
「すみません──俺、もう帰ります」


「私も、不安に思うことがあるわ」
 そっと、ドアの向こうに出ていこうとする一也の背中に向かって、明美が言った。
「お腹の中の子、本当に、今、こんな世界に生まれてきたいと思っているかどうか、不安なのよ。もしかしたら、こんな世界、生まれてきたいなんて思ってないかもしれない。世紀末の、人類の終焉が近づいているような世界に、一也くんの言うように、誰かが命をかけてまで護ろうとも思えないような世界に、生まれてきたいと思っているかどうか、本当に不安なのよ」
 明美の声を背中に受けながら、一也はドアの向こう、病室の外に視線を送った。
 教授と、そして小沢の姿がそこにあった。──明美が続ける。
「生まれてきて、この子は、たぶん、たくさんのことを見るわ。いいことばかりじゃないと思う。くじけたり、何かをなくしてしまったり、後悔したり──生まれてきたことを、後悔したり──」
 一也は小沢から視線を外した。そして、うつむいた。
 教授もまた、誰とも視線をあわせずに、廊下の向こうに視線を送っていた。──明美の、小さいけれど確かな声が聞こえてくる。
「だけど、それでも、この子は何十年かたって、それでもこの世界に生まれてきてよかったと思えるかしら?」
 明美はそれでも小さく、確かに、続けていた。
「今の私に、未来は見えない。この子がこの世界を見て、どう思うかわからない。だからね、今、私は──信じるしかないの」
 だから──小さく曖昧に頷くようにして会釈を返し、一也は病室を出た。
 そして病室のドアの前、立ち止まっていた二人の間を抜けて、行く。何も言わず。何も言えず。
 ただその背中を、肩越しに振り向いた小沢だけが追っていた。


「先輩…」
 青い夏の空の下。屋上。
 小さく詩織が呟くと、遙は胸を押さえていた手を、そっと下げた。
 真っ直ぐに海のほうを向いたまま、微かな潮の香りを乗せた風の中、揺れる髪をそのままにした詩織がいる。何かを言おうとして、きゅっと強く唇を結んだ詩織が、いる。
 何かを──それくらい、今の遙にだってわかった。そしてそれが、ものすごく言いにくいことで、きっと自分にとっては聞きたくないことだなと言うことも、何となく、わかった。
 遙は視線を詩織から逸らす。
 でも──私は、はっきりとさせたいんだろうか──
 逸らせた視線を、遙は夏の空の向こうへ走らせた。
 ずっと、もしかしたら心の隅に引っかかっていたこと。よくはわからないけど。
 詩織が聞く。ゆっくりと。
 自分がそうした時と、同じように。
「先輩は、一也のこと、好き?──なんですよね」


「一也くん!」
 ゆっくりと閉じられようとしたエレベーターのドアに向かって、小沢が声を上げた。
 ふと、中にいた一也が顔をあげる。けれど、そのドアは音もなく、小沢がボタンに手をかけるよりも速く、ゆっくりと閉じきった。
 小さく舌を打つ。ぱっと顔をあげる。階数を示す緑のランプが、そのカウントを刻々と下げていた。
 小沢は廊下の左右を見回し、そして駆け出した。
 下へと続く階段が、すぐ近くにあった。


 沈黙があった。
 答えが、返ってこなかった。
 なぜかその沈黙に、詩織はちょっとほっとしたような、絶望したような、難しい表情を浮かべて顔をうつむかせた。
 夏空の向こうを見つめる遙の髪が、風の中に踊っていた。
「私は──」
 しっかりと、遙は言う。
「わからない」


 階数を示すカウントが下がっていく。
 エレベーターの中、一也はそれを見つめていた。
 一人きりのエレベーターの中、一也は右手を伸ばした格好で、開くのボタンに手をかける直前で固まったままの格好で、その表示を見つめていた。
 左手で、その右手をゆっくりと押し下げて、呟く。
「──何やってんだ、俺は」
 思わず、笑い出しそうになる。
「カッコわりぃ…」


「二年前と、同じことを言うんですね。先輩、変わってない」
 ゆっくりと遙の方に振り向いて、詩織は眉を寄せた。変わっていない。そんな事わかってる。変わらないでいる事なんて、出来るわけない。わかってる。だから、それが、すごくすごく嫌で、すごくすごく許せなくて──だけれど、詩織はその感情を押し殺すようにして、呟いた。
「でも、一也も私も、変わったんですよ。もう、あの頃とは違う」
 言葉が痛くて、遙はうつむいた。詩織の言葉が痛くて、重くて、それが、自分にもわかって、だから遙はうつむいた。
 言葉がない。なにも言えない。言える言葉なんて、ない。
 だから遙はうつむいた。
 一也ももしかして──同じ風に思っているんだろうか──
 詩織が言う。
「先輩、いっぺんでも、誰かのことを『好き』って言ったこと、ありますか?自分の思っている想いを、そのまま口にして、『愛してる』って言ったこと、ありますか?」
 遙は何も言えない。答えを返せない。胸に何か、ちくりとした痛いものがあった。いつの間にか、また。
 何を言われても、痛くなんかない。もう痛くなんかない。そう、思っていたはずのことなのに。
 どうして──?
「先輩、聞きましたよね?」
 詩織が言う。
「好きって、どういう事かなって。誰かの事を愛している感じって、どんなものなのかなって。一緒にいたいって思うことなのかなって」
 痛い。痛くて、だけれど顔をあげる。でも、ダメ。遙はすぐにまた視線を落とした。真っ直ぐに自分を見つめる詩織を見つめられなくて、ただ、視線を外して、そっと息を吸い込んで──うつむく。
 真っ直ぐに自分を見つめて、詩織が言う。
「先輩、聞きましたよね?好き──って」
 どうしてだろう。
「誰かのこと、好きって、愛しているって──抱かれても──いいって思うことなのかなって」
 自分が言った台詞だから、自分が言ったのと同じ言葉だからかもしれない。
 遙は強く手を握りしめた。結局は、何も、言えない。


「聞いてたでしょ」
 軽く、明美は笑った。
 病室に戻ってきた教授が少しそわそわとしていて、明美は笑って聞いた。「ああ──」素っ気なく、わざと素っ気なく、教授は喉だけをならす。
「でも、本当の事よ」
「わかってる──」
「ねぇ、もしも──もしもね」
「ああ」
「もしも、この子が本当にこの世界に生まれてくることを拒んで、だけど、それでも私と離れたくないって神さまにお願いして、神さまがそれを叶えてしまって──私が──そうじゃなくて──もしも、もしもね、神さまが、この子の願いを叶えてしまったとしたら、あなた、どうする?」
 私が──の台詞の後を、明美は言い換えた。けれど、言い換えなくても、わかった。わかって、教授は笑う。軽く言う。
 いつもの調子。
「さぁ…考えないな、そんなことは」
 明美も笑う。
「昔と同じことを言う」
「そうか?」
「そうよ、香奈ちゃんの時も、シゲくんの時も、一也くんの時も。あなた、そうだったわ。そう言ったわ」
「覚えてないな」
「私は、覚えてる。あなたはたぶん、ちょっとでも未来が見えているのね。だから、そう言えるんだわ」
「そうか──?」
 ベッドに上半身だけを起こして微笑む明美に、教授も仕方なしに笑う。
「未来なんか、見えない。誰にだって。そうだろう」
 起こり得る現実。胸を締め付ける想い。
 だけれど明美は優しく微笑んで、言った。大きくなったお腹の上に、ちょっと、片手を乗せて。
「でも、それは切り開いていける。そうでしょう?」


「少なくとも、私たちは」


       4

「私には──」
 うつむいたままで、遙はゆっくりと言葉を吐き出した。
 急いで言うことは出来ない。喉に、つかえてしまうから。もしかしたらそのせいで、嗚咽を漏らしてしまうかもしれないから。
「けど、私には、それが出来ない。それが、わからない。何もかも投げ捨てて、それでも先になんか、進めない。心のままになんて、生きていけないんだよ」
 青い夏空が包む屋上。想い出の校舎の上。
「詩織ちゃんみたいに、それでも進んでなんて、行けないんだよ」
 風に揺れる髪と、微かな潮の香りに包まれて、遙はそっと、ゆっくりと言葉を紡ぎだした。ゆっくり、言葉をひつとひとつ選びながらに紡ぎだして、顔をあげる。
 視線の向こう──
「ずるいですよ、それじゃまるで、私がすっごく馬鹿みたいじゃないですか」
 詩織がその目を、赤くして、呟いていた。
 だからそれ以上はもう、続けることなんて出来なくて──
「私だって、たくさんたくさん、大切なもの、あるんですよ。それ、いっぱいいっぱい壊しちゃって、自分、傷つけて、それで──でも、それでも──」
 優しく吹き抜ける風の音が、耳に届いたような気がした。何も言えないその場所から、答えられない言葉たちをさらって過ぎていく音が、耳に届いたような気がした。
 ゆっくりと詩織が歩き出す。言葉もなく、ただ少しうつむいて、小走りに遙の隣を抜けて。
 遙もうつむいた。
 何も言えない。かける言葉がない。あっても、出来ない。「『好き』って、どういうことですか?何もかも投げ出しても、一緒にいたいって、思うことですか?抱かれてもいいって、思うことですか?」
 小さな、詩織の声が言う。
「それとも何か、もっと別のことなんですか?私のことも、一也のことも、自分のことも、全部わかってるって言うんなら──答えて下さいよ」
 そして、詩織が答えられないで立ちすくむ自分の脇を抜けて、行く。
 やがて聞こえた鉄のドアの開く音を、遙はコンクリートの屋上に視線を落としたままで聞いていた。


 ドアを開けて、詩織ははっとした。
 そこに、みんながいたからだ。あせって、目元をこする。けれど間に合わなくて、詩織は皆がすこしばつの悪そうな顔をして視線を外した隙に、その間を抜けて階段を降りていった。「あ…」誰かが声を上げていた。けれどそれが誰かは、詩織にはわからなかった。
 踊り場を折れて、屋上から出来るだけ離れて──そっと、階段の途中、詩織は立ち止まった。そして、立っていられなくて、座り込んだ。
 手すりを両手で握りしめて、握りしめたその手の甲に額を押しつけて、堅く瞳を閉じる。大きく息を吸い込もうとして──だけれど不器用にしかできなくて──流れた髪に隠れた顔の、その薄い、微かに振るえた唇で、小さく呟く。
 自分に向かって、小さく。
「ヤな女…」


 大きく息を息を吸い込んで、遙は顔をあげた。
 青い空が、頭上に広がっていた。果てしなく広く、地球の全てを包んで──遥か遠く、宇宙の向こうにまで──青い空が広がっていた。
 だから遙は、それを見上げて、堅く口を結んだ。
 視線を落としたりなんか、しない。たとえ目が乾いてしまったとしても、視線を落としたりなんか、しない。痛くても、それでも。
 青い空を見上げて、それでも──遙は両手で自分の身体を強く抱いて、立っていた。


「待て!一也くん!!」
 小沢が言う。
 息も切れ切れに、叫ぶようにして。
 病院の玄関。行き交う人が皆、彼のことを見つめていた。階段の上から下。声をかける男のことを、皆が見つめていた。
「君はこれでいいのか?」
 立ち止まった一也が、ゆっくりと肩越しに振り返った。
 小沢はつばをごくりの飲み込んだ。喉がかれていた。渇いた喉が張り付く。うまく、言葉が出てこない。俺は君が今、何を考え、何を思っているか知らない。けれど──
「君は、これでいいのか?」
 ただ、小沢はその言葉だけを繰り返した。
 けれど、一也は答えない。
 それでも──小沢は続ける。
「今、僕らの目の前に危機がある。次の世紀に向かうために、もしかしたら、乗り越えなきゃならない壁がある。それを乗り越えるために、君は力を貸してはくれないのか?」
 けれど、一也は答えない。ただ、じっと、小沢のことを見つめているだけ。少し茶色い髪を風の中に揺らして。
 それでも──小沢は彼のことを見つめていた。
「小沢さんは──」
 やっと、そっと、一也が口を開いた。
 うつむきがちに、笑って。
「小沢さんは、俺がまだ戦えると思いますか?あの頃と同じように」
 けれど、小沢は返さない。ただ、じっと、階段の上から一也のことを見つめているだけ。
 一也は続ける。
「二年間、俺は何をしてきただろう。そしてこの先、俺は何をするだろう。何も見えない。もしもこのまま世界が終わるとして、俺は、その時何をしているだろう。何もわからない。何もわからない俺なんかに、未来をかけて、死と向き合って、戦えると思いますか」
 ぎゅっと、強く、拳を握りしめた。
 わかってる。わかってるんだ。正義だとか、平和だとか、そんなこと、わかってる。でも──
「この国は、護るべき価値なんか、ないか?」
 強く、小沢は言った。
 一也が、顔をあげた。


「未来なんか、誰にも見えない。先に見えるのは、闇だけ」
 窓の向こうの夏の空を見つめながら、明美は細く微笑んだ。黄色い、かわいいひまわりがいけられた花瓶。青と黄色のコントラスト。
 明美は微笑みながら、言う。
「もしかしたら、そこに壁があって、その先なんかなくて──戸惑って、つかれて、どうしようもなくなってしまうかもね」
 黄色いひまわり。
 弾けるような微笑みと同じ色。そのコントラストに、明美は小さく、言う。
「戸惑って、つかれて、どうしようもなくなって、もしかしたら、死んでしまうかもね」
 微笑みながら言う明美に、教授もまた彼女の見つめていたのと同じひまわりに視線を送った。青と黄色のコントラスト。
 そっと、目を細める。「──それでいいの?」問われて、返せる自分がいる。「いいんだよ」言い切れる自分がいる。
 その言葉は、決して嘘じゃない。未来が見えなくて、闇しか見えないのなら、その闇の中を一緒に歩いてやると誓ったはずだった。何もかも投げ出して、それをしてやることは、彼女の望むことなのか、それとも──
「私は、あの頃のこと、よく思い出すわ」
 そっと、明美が言った。
「あなたはどう?」
「あの頃?」
「二年前のころのこと」
「ああ──よく、思い出す」
「そう」
 微笑む彼女の横顔。
 明美が言う。
「それが、今の私たちを作っているのよね。振り返れば、私たち、たくさんの過去があるわ」
「ああ」
「あなたはその過去を見つめて、どう思う?」
「どう──って」
「たくさんの、過去。消せない、過去。今の私たちに繋がる物語もあったし、悲しいこととか、辛いこととか、たくさんあって、それでちょっと、いいこととかあって──この先の未来に、続いてる」
 夏の青い空。
 黄色いひまわり。
 見つめる視線に微笑んで、明美はそれを見つめながら、言った。
「未来なんか、誰にも見えない。けど、過去は、いつでも振り返れるわ。あなたは過去を振り返って、何を思う?」
 何を──何を思う。
 教授もまた、青と黄色のコントストを見つめていた。見つめていて、答えが返せなかった。
「約束、したわよね」
 そっと微笑みながら、その教授を見つめている明美。
「この子の名前──あなたがつけるって。ちゃんと、考えてくれている?」
「あ──」
「不安は、みんなにあるわ。大きいかもしれないし、小さいかもしれない。あなたにも、私にも」
 そしてそっと、大きくなったお腹に両手を乗せて微笑む。
「だけどね──」
 そして、言う。
 くすりと、おかしそうにちょっと笑って。
「何もしないで悔いの残る破滅を待つよりは、何かをして悔いの残らない破滅に巻き込まれた方がいいんじゃなかったかしら」
「明美──」
 教授は仕方なくて、笑った。
「おまえな…」
 何かを教授が言うよりも速く、明美が返した。
 笑って。
「私は、あなたの妻です」


 青い空を、白い軌跡を残しながらそれが駆け抜けていった。
 一也は見上げた青い空に、それを見た。
 小沢が言う。
「君に言わせれば、俺はエネミーを前に戦ったことのない人間だ。もしかしたら、君の気持ちなんて、全然理解できないかもしれない。だけれど少なくとも──」
 青い空を、それが駆け抜けていく。
 戦闘機の軌跡。
 爆音が、遅れて駆け抜けていく。
 青い空を見上げていた遙もまた、それに気付いて、強く唇を噛み締めた。
 夏空を、白い軌跡が割っていく。
 青一色で塗りつぶされていた夏空のキャンバスを、白い軌跡がふたつに割っていく。


「エネミー!?」
 小沢もそれに気付くと、駆け出した。駆け出して、病院の玄関から駆け出して、自分の車へと走り寄った。
 何故か、自分でもよくわからなかったけれど、一也もその後ろを咄嗟に追っていた。
 駆け寄ったGTOの助手席のドアを開け、ラジオのスイッチを入れる小沢。携帯を手にとって、ファンクションを操作する──よりも速く、それが手の中で震えた。
「俺だ」
 答えて、後に続いていた一也から離れて行く。後に続いていた一也は、彼の脇を抜けて、助手席から車内に顔をつき入れた。
 ラジオからの声が聞こえてくる。女性パーソナリティの声が、確かに聞こえてくる。「──近海、利島近海にエネミーの姿を確認したとの情報が入りました。海上自衛隊の報告によりますと、このエネミーは先日ニューヨークを襲ったものと同一のものと見られ──」
 確かに聞こえる声の向こう、聞こえてくるはずなんてないのに、その音がカーステレオのスピーカーから聞こえたような気がした。戦場の音。それが耳に届いたような気が、した。聞こえるはずなんて、ないのに。
「──今、聞いてる」
 電話の向こうに向かって小沢が言う。電話の向こう、シゲが返す。
「急速なスピードで北上してる。もう、大島を抜けてる。東京湾に突っ込むまでには、そう時間はかからないですよ」
「自衛隊の状況は──?」
 小沢の声。
 そしてそれに被さるラジオの声を、一也は聞いている。「繰り返します──」
 車の中に頭を付き入れてそのふたつの音を聞いていた一也は、自分の心臓が口から出てきそうな気がした。前屈みになってた体勢に、激しく脈打つ心臓が、いつか自分の口から飛び出して来るんじゃないか──そんな気がしていた。
「──繰り返します」
 再三、スピーカーからの声が言った。


「エネミーか?」
 かけられた声に、一也ははっとして振り向いた。視線の向こう、ゆっくりと歩み寄って来る教授の姿があった。空を駆け抜けていく爆音を見上げながら、歩み寄ってくる教授。
「ついに、来たか──」
 呟いて口許を曲げて見せる。一也は背筋を伸ばして教授を見つめ、車の脇に立ちつくした。
 教授が小沢に向かって、言う。携帯を耳に押しあてていた小沢に向かって、いつもの調子で、軽く。
「小沢くん、悪いが、私を大学まで乗せていってくれないかな」
 その台詞には、小沢も目を丸くした。けれど、それも一瞬だけだった。
「シゲさんです」
 口許を弛ませて笑って、小沢は教授に向かって携帯電話を投げてよこす。「私だ」教授の聞き慣れた声が、一也の耳にも届いた。
 そして、一也は身を引いた。
 助手席のドアの前から離れて、教授に道を開ける。小沢が小走りに運転席の方へとまわる。教授が助手席へと携帯を手にしたまま腰を降ろす。
 回り込んで、運転席のドアに手をかけて、小沢は、
「君は、どうする?」
 低いルーフの向こう、一也に向かって聞いた。
「今さら──」
 一也が返す。
「今さら、何が僕らに出来ますか?R‐1もあんなになって、戦う術なんか、ないんでしょ?それなのに──」
 それなのに勇んで戦場に出ていっても、死ぬだけ。そして運良くエネミーの脅威が去ってしまえば、忘れ去られてしまうだけ。二年前と同じ。なのに──
 小沢は運転席のドアを引き開けながら、言った。
「今さらじゃない」
 一也がその小沢を、真っ直ぐに見た。
「俺たちはまだ何もしていない。君もだ。そして、まだ、間に合う」
 だけれど、一也はその台詞が許せなかった。だから、掴みかかるようにして、返した。
「何言ってるんですか!僕だって、R‐1が大破したのは見ましたよ!今さらそんなこと言って、もう、どうなる事でもないでしょう!?再び現れたエネミーの前に、人類は滅びの道を──!!」
 青い空を、爆音が駆け抜けていく。


 だから、遙はその音に意を決するようにして頷いた。
 そして、走り出す。うまくは走り出せなかった。履いていたのは、来客用のスリッパだったから。そう、だから、たぶんそのせい──
 それでも駆け出して、遙は屋上のドアを思い切りに引き開けて、飛び出した。
「遙!?」
 そこにいた睦美たちが、驚いて短く声を上げた。
 遙は咄嗟に返す。走りながら。
「今は──何を言っても答えにならないと思う」
 階段を駆け下りる。転びそうだった。
 それでも、駆けた。踊り場を折れて、階段を駆け抜けて──遙はゆっくりと立ち止まった。踊り場の下、階段の下。
 詩織がいた。
 その視線が、あった。
 少し赤い目。その目と目をあわすのはすこし、辛かったけれど、それでも遙は詩織のことを真っ直ぐに見つめていた。
 詩織もまた、遙を真っ直ぐに、見つめていた。


「君が何を知っているっていうんだ?」
 低いGTOのルーフの向こう、小沢が真っ直ぐに自分を見つめて言う。
「戦うことを拒んで、離れていった君が、何を知っているっていうんだ?」
 真っ直ぐに見つめる視線に、少し、気後れをする。そして、視線を外す。小沢は続ける。
「今の君に、そんなことを言われる筋合いはないよ。そんなところにいて、何が見える?君に言わせれば、俺はエネミーを相手に戦ったことはない人間だ。もしかしたら、君の気持ちなんて、全然理解出来ないかもしれない。だけれど少なくとも、今の君よりは君の求めているものの近くに、俺はいる」
 そして小沢は一也の視界から消えた。
「未来に、近いかもしれないところにいる。その自信は、ある」
 うつむいたまま、一也は強く奥歯を噛み締めた。その耳に、エンジン音が聞こえてくる。強く、手を握りしめる。
「俺は──」
 ただ、呟く。
「未来なんか、見えない。誰だって、そうだろう?」
 下げられたウィンドウの向こう、携帯を切った教授がいた。
 軽く笑って、いた。
「もしかしたら、今さらかもしれん。私もだ」
「──明美さんを置いて、行くんですか?」
「ああ──」
 強く、一也は拳を握り直す。それを見ずに、教授が言う。
「見えないから、その先がどうなっているか、正直、わからん。この先はどうなっているか──もしかしたら、先なんか、ないのかもしれん。だが、見えないから、今見える限りのものを信じて進むしか、ないだろう」
 笑う教授のその表情が、どことなく、いつか見たものと同じで、一也は視線を外した。エンジンの音が、少し、高鳴ったようだった。
 ついさっき見た明美の微笑みが、どうしてか、頭をかすめた。
「この先に待つのは栄光か破滅か──わからん」
 教授が言う。
「ただ、どちらにしても──決めることが出来るのは、今の自分だけだ」


 聞き慣れたエンジン音が遠ざかっていく。
 一也は、うつむいたまま、ただそれを耳にしていた。
 見送ることも出来なくて、握りしめた拳を、ただ見つめて。


 今の俺に、何が見える──?
 たくさんのことが、起こりすぎた。あんなに静かだった時間をすごしていたのに、急に。二年の月日は長くて、ゆっくりとしていたのに、急に、たくさんのことが、起こった。
 エネミーが現れた。突然。二年前と同じ。
 戦いが始まった。そんなの、俺は望んでなんかいなかったのに。お姉ちゃんだって、望んでなんかいなかったのに。
 R‐1がエネミーを前にして戦った。そして破れた。あれに乗っていたのは、誰?そして破れて、倒れたのは、誰?
 詩織が自分の隣にいる。自分の腕を掴んで、言ってくれる。「どこにも行って欲しくなんかない」自分の望むことと同じ。そして──
 だけれど、変わらない過去。変えられない過去があって、時間に飲み込まれて何もできない自分。無力な自分。
 遙。
 戦うと言った遙。今は、何処にいるんだろう。遙は──R‐1は、誰が乗っていたのか知らない。でも、遙はその戦場に──
 エネミーが迫ってる。
 戦いが、始まる。いや、もう始まってる。明滅する光。もしかすると、命の灯とイコール。青い空に弾ける光。
 命をかけて戦って──あの時、命をかけて戦った自分は、本物だったんだろうか。だったら、あれが本物だったら、今の自分は、なんだ。この、ひどい自分はなんだ。
 なんだ。
 何もかもが中途半端だ。どうすればいいのか、わからない。
 一体、なんなんだ──
 誰か──お姉ちゃんなら──教授なら──シゲさんなら──ベルさんなら──明美さんなら──小沢さんなら──詩織なら──
 遙なら──?
 答え──


「ごめん」
 そっと、遙は言った。その声が、しんとした校舎の階段に、響いた。
「何がですか?」
 詩織が返す。
「うまくは言えない」
 そして無言。
「行くんですか?」
 詩織が聞く。
「一也は、来ないかもしれませんよ」
「そうだね」
 だけれど遙は歩き出した。立ち止まっていた詩織の脇を抜けて、行く。
「でもほら──傷つくなら、後悔なんて、したくないでしょ。本当の気持ち、知りたいでしょ。だからさ──」
 真っ直ぐに前を向いたまま、遙は言う。しっかりと、想いを込めて。
「だから、私も、このままじゃいられないでしょ」
 詩織は答えない。答えられない。たぶん、自分と同じ。
 何も違わない。
 自分の隣を抜けて、遙が行く。
「だったらなおさら──」
 決心を言葉にして──それはもしかしなくても、自分が聞きたいと思っていた言葉ではなかったけれど──決心を言葉にして、遙は詩織の隣を抜けて、行った。
「だったらなおさら、このままじゃいられないでしょ」


 もう一度──
 そして遙は、再び駆け出した。


 戦うか、戦わないか──戦いたいんだ。
 だけれど、それが出来ない。
 恐い。
 その恐い自分を正当化するために、言葉を吐く。そんな自分がどんどん嫌になっていく。俺は──

 俺は──
 そして一也は強く拳を握りしめた。


       5

 明滅する光の中を抜けて、それは迫っていた。
 エネミー。
 青い夏の空を駆けていくF/A-18の編隊に、F-15J、F-2が続く。そして爆光が交錯する。
 エネミーの咆哮が、世界中に向かって、響く──


「ねぇ──」


「私たち、なんで戦うんだろうね?傷ついて、傷つけられて、それでも戦う。なんでだろうね。この国は、そこまでして護るべき価値があると思う?でも──そんな風に私が聞いても、きっと答えてくれないんだろうな。だからね、私は、勝手に考えることにしたんだ。この国は、護るべき価値がある──って」


 ラボの廊下を、シゲは早足に抜けていく。手にはふたつの真新しいファイル。
 それを抱えなおして、シゲは後ろからかけられた先輩社員の声に返した。
「シゲ!正気か!?あの機体は、そもそもそんなことのために作られたわけじゃないぞ!?」
「だからって、しょうがないでしょう」
 早足に、シゲはラボの抱える工場へと向かっていた。時間はない。考えている時間なんか、ない。今を逃せば──
「待て、シゲ!あれを作るのにどれだけの予算がかかってるか、お前も知らない訳じゃあるまい!」
 後ろを追う先輩社員が言っていた。
「だからって」
 シゲは軽く、返した。
「だからって、来たるべき宇宙時代のために作られた物が、宇宙時代も迎えられないんじゃ、話になりませんよ」
「待て待て!だいたい、それだって、お前の言うものを運ぶことなんか、出来るわけがないだろう?」
「出来ますよ」
「何故!?」
 シゲは笑う。
「教授と僕なんか、考えることは一緒ですって」
 そしてシゲは走り出した。手にしたふたつファイルを抱え直し、笑って。
「それでも今は、戦うしかないんだから」
 ひとつは操作説明ファイル。大丈夫、こんなものに目を通さなくたって、たぶん扱える。そうに決まってる。なんてったって、歴戦の勇士なんだから。
 そしてもうひとつのファイル。
 それはエネミーの真実を書き記したファイル。
「それでも今は、戦うしかないんだ──」
 ラボの抱える大型工場の前。巨大な──それは見慣れたよう大さの──搬入路の脇に彼を待つ人影があった。
 シゲは小走りに彼女に駆け寄ると、軽く口許を曲げてファイルを差し出しながら、言った。
「いけるね?」
「当然」
 答えて、彼女はひょいとテンガロンハットをあげて笑って見せた。


「ねぇ、勝手にそう思うことにしたけど、それでも、やっぱり護ってくれるでしょ?護ってくれるよね。だって、私たちがいるんだもの。だから、私たちも護ってあげるね。そう決めたの。──だから──」


 黒塗りの大きな車が、首都高を抜けていく。
 中にいるのは、携帯電話を手にした男と、その隣に金色の髪の女性。
「それで──いけると言うわけだね?」
 男は電話の向こうに向かって聞いていた。少し探るように、確認するように。だけれど電話の向こうの声は、軽く返したのだろう。男は思わず吹き出すようにして、笑った。
「あなたらしい」
 そして、そっと通話を切った。
「戦うことが、出来るんですか?」
 男に向かい、金色の髪の女性が聞く。
「その手段と、装備が──?」
「あるよ」
 男は軽く返した。
「笑って、言ってみせたよ。『主役は最後に現れるってモンですよ』だそうだ」
「あの人らしい…」
 思わず、金色の髪の女性も笑った。
「あいつも、出るそうだ。さっき電話があった」
「あいつ──?」
「ああ。『何の練習もナシに乗れるのなんて、世界中探したった私だけよ』だと」
「あ──じゃ…心配…ですか?」
「心配ない」
 言って、男は窓の外に視線を送った。窓の向こう、都心の高層ビル群が見えている。ここからなら、あの始まりの場所までそう時間はかからないだろう。きっと、あの始まりの地が、また、始まりとなる。
「心配なんか、してないよ」
 村上は軽く笑った。
「歴戦の、勇士たちが再びそろうんだ」
「──ええ」
 金色の髪を揺らし、ベルも微笑んだ。そして彼女もまた唇をきゅっと結んで、窓の外を見た。
 褐色の瞳に映る青い空。
 もう一度──


 彼女は言う。
「好きだから」


 誰かが持ってきて置きっぱなしにしていったCDラジカセの前に、皆、集まっていた。
 ラジオから、ニュースが聞こえてくる。
 近づくエネミーのニュースが、静かに、だけれどはっきりと聞こえてくる。
 エネミーは浦賀水道を抜け、自衛隊と米海軍との共同戦線がはられたあの横須賀を抜け、ゆっくりとだけれど、着実に、近づいていた。
 近づく──迫るそれに、誰かが喉をならした。
「大丈夫よね──?」
 誰かが、小さく呟いた。
 それに、誰かが、小さく返した。
「うん──」
 しんとした空気の中、ラジオからの声だけが聞こえている。
 そっと、睦美はふいの違和感に美術室を見回した。しんとした空気の中、聞こえる音の中、彼女の姿がない。
 いない──
 そこまでは一緒に来たはずなのに、いない。恭子にそっと耳打ちをして、誰にも気付かれないようにして、睦美は美術室を出た。廊下の左右を見回して──
 廊下の向こう、彼女がいた。
 窓の向こうを、ただ見つめているだけで、詩織はまるで何事もなかったかのように、そこから、いつもの変わらない景色を眺めているだけで、睦美は彼女にかける言葉を探した。
 だけれど──かける言葉が見つからなくて──睦美はその場に立ち止まったまま、ただ、彼女のことを見つめるだけにした。
 ラジオからの声が、微かに聞こえていた。「我々を護ってくれたあの、正義の巨神は今──?」
 じっと窓の向こうを見つめていただけの詩織が、微かに聞こえたラジオの雑音に、そっと、その瞳を閉じた。
 眠るようにして瞳を閉じた詩織。その詩織を見つめている睦美。彼女の姿を美術室の中から見つめている恭子。そして吉原。
 吉原はゆっくりと視線を外すと、ラジオからの声を聞きながら、美術室の窓の向こうを見た。
 青い、抜けるように青い空を、その向こうに、見た。
「一也──」
 小さく呟く。ラジオからの音に掻き消されてしまうくらいに弱く、小さく。
「お前──何してんだよ」
 小さく、弱く。


「だから」


「私たちが、護ってあげる。傷ついて、戦いたくなくなって、辛くなってしまったら。だから、私たちを護ってよね。背中を押してくれる人がほしいなら、私が押してあげるよ。世界中が敵に回っても、私たちが味方になってあげるから」


 地下へと続く長い階段を、ゆっくりと小沢は降りていく。
 その先にあるのは、T大学の学生ならば誰でもが知っている場所で、だけれど、ほとんどすべての学生が入ったことのない場所であった。
「教授…」
 探るようにして言う小沢。先を行く、再び薄汚れた白衣に身を包んだ科学者が軽く笑う。その下から聞こえてくる、何処かで聞いたことのあるような、だけれど初めて聞くような、そんなモーター音に。
「私じゃないよ」
 階段を降りきった先にあるドアに手をかけ、教授は軽く口の端を突き上げて笑ってみせた。そして薄汚れた白衣に片手を突っ込んだまま、もう片方の手でそれを引き開けた。
「教授じゃない?」
 小沢が聞く。教授が返す。地下ケージ管理室のドアを引き開け、その向こうにいたものたちを視界の端に入れて。
「うちの研究室に志願してくる人間なんて、何するためにきてるか、わかったようなモンだろう?」
 地下ケージ管理室の中、脳内情報処理研究室のただ三人の研究生、植村 雄、大沢 一成、桐嶋 かなたの姿があった。
「あ、小沢さんっ」
 と、初めに小沢──と教授──に気付いたかなたが声を上げた。ふいと植村、大沢がその声に振り向く。
「どうだ?」
 管理室に踏み込みながら、教授。
「いけます。万全では、ないですけど」
 コンソールパネルがずらりと並んだ管理室の椅子に座っていた植村が、つい数秒前まで叩いていたキーボードから手を下げ、笑って返した。
「パーソナルデータ、入力完了しました」
「機体とのリンクは96%以上の値を示しています」
 教授の手に、かなたがA4のレポートを手渡して微笑む。
「さすがですね」
「──いけるな」
 手渡されたレポートをめくり、教授は口の端を軽く突き上げた。それはまるで、昔と同じように。
 地下ケージ管理室の大きなガラス窓の向こう、その横顔がある。
「いつの間にこんなもの──」
 呟いた小沢に、
「当然でしょう」
 植村の前にあったディスプレイモニターから視線を外し、大沢が笑って言った。彼が見つめているのと同じ、自分たちの目前、大きな窓ガラスの向こうに見えるそれに向かって。
「前身が脳神経機械工学研究室と知ってこの研究室にきたんなら、当然でしょう」
「じゃ──君らが?」
「もっとも、まだ塗装も終わってないんですけどねー」
 軽くコンソールを叩きながら植村。
「システム連動も、一回もテストしてないし」
「問題ないよ」
 教授は軽く、笑った。手にしていたレポートをかなたに返し、地下ケージ管理室の窓の向こうを見やる。胸の上部、人で言うなら鎖骨の付け根、コックピットシートのハッチが、ゆっくりと音もなく閉じていくところだった。
「歴戦の勇士だからな」
「システム、正常稼働を確認」
 コンソールパネルを叩きながら、ディスプレイモニターに流れる英文を追いかけて植村が言う。
 こくりと小さく頷いて。
「システム、解放します」
 BSS──system released.
 モニターに白く文字が浮かび上がる。
 その向こう、地下ケージ搬入路がゆっくりと開きはじめた。薄暗かったケージに青い光が差し込み、その金属の装甲を輝きの元に導き出す。
 system ALL Green──
 射し込む光が光線となって──埃にあふれたケージの中、ゆっくりとそれが動き出す。


「心強いでしょ?」


 コックピットシートの両脇、薄膜ディスプレイが無数の情報を告げている。
 エンジン出力。対地対空全方位状況。対荷加重機体安定係数。刻々と変わる状況を視界の端にとらえながら、彼女は右手でコントロールトリガーを小さく動かした。
 操作系は変わらない。さすがにずっと機体制御なんてやっていなかっただけあって、最初は少し戸惑ったけれど、大丈夫。やれる。
 きっと、上手くいく。
 左前面に設置された薄膜ディスプレイが、その目標をとらえた。小さく電子音が鳴り響き、ディスプレイ内の点であった目標をクローズアップする。と同時に、その脇を目標の情報が勢いよく流れていった。
 鳴り響いた小さな電子音に、彼女はすうと大きく息を吸い込む。そしてそっと、その脇を流れていく情報に瞳を閉じた。
「いけるわね?」
 インカムに向かって、言う。
 地上、そして青い夏空に展開していた自衛隊と米軍の部隊が撤退をはじめていた。白い機体のすぐ近くを、編隊を組んだF/A-18とF-2が超音速の爆音とともに駆け抜けていった。「Good luck──Peacemakers」
 遙は軽く微笑む。
 白い軌跡がふたりの間を抜けて、それに続いた轟音が、やがて消えていく。
 ゆっくりと──遙は目を開き、言った。
 インカムの向こうへ。
「いくわよ」


「あなたがほしい言葉、私がかけてあげる」


 wihtout RESTRAINT.
 そして鳴り響いた長い長い電子音に、そっと一也は目を開けた。
 マニュピレーションレバーを強く握り直す。
 FREE──
 真新しいコックピットシートに埋めた身体を、忘れていた浮遊感が包み込んだ。
 薄暗いコックピット。何も映すことのなかったモニターたちが、青い光と大地を映す。
 光が、一也を照らし出す。


                                   つづく


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