studio Odyssey


2nd Millennium END. 第5部




 雨の中を、ゆっくりとその車は滑り込んできた。
 大きなホテル前のロータリー。音もなく滑り込んできた車の脇へと、ドアマンが小走りに駆け寄っていく。
 そしてドアマンは、その大きな黒塗りの車のドアをゆっくりと引き開けた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
 かけられた声に、後部座席に座っていた彼女がそっと顔を上げる。「どうぞ」と促すドアマンに、うつむくようにして頷きを返し、香奈はそっと、車を降りた。
 小さく、ため息を吐く。
 ロータリーを覆う屋根の向こう、街灯りを滲ませて、雨が降り続けていた。
「どうぞこちらへ」
 かけられた声に、ゆっくりと彼女は視線を外した。
 息をのむ。
 彼女を促すようにして身を引いたドアマン。ホテルのロビー前、玄関脇に立っていた男の姿が彼女の視界に入る。
「家じゃ、ノイローゼになっちゃうだろ」
 言って、軽く笑いながら小沢はひょいと手を挙げてみせた。
「ここにいた方が、まだ、少しは──」
 言いながら、歩み寄る。けれど、小沢の台詞はそこで途切れたまま、最後を結ぶことはなかった。
 咄嗟、駆け出した香奈が自分に飛びついて、背中にまわした腕を強く引き寄せたのだった。ふわりと舞った長い髪が、遅れて彼女の顔を、自分の胸に強く埋めた彼女の顔を、優しく包み込んでいく。
「あ──…」
 何かを言おうとして、用意していたはずの台詞を、いつも通りの軽口で言おうとして──小沢はそっと、自分の胸の中にある彼女の長い髪をなでてやった。
「──…」
 口を動かすだけ。それだけをして、何も言わずにゆっくりと目を閉じた小沢の耳に、雨音が滑り込んできた。


 ウィンチの巻き上がる音が止んで、横須賀の海に浮かぶコンクリートの島──メガフロート──の上に、R‐1のコックピットコアが引き上げられる。
 そこへ鋼鉄の蜘蛛、スパイダーが近づいていく。何かを言ったパイロットの言葉を、日本人自衛官の誰かが通訳して叫んでいる。「退け!スパイダーでコアをこじ開けるぞ!」
 メガフロートの上へ、救急隊員を乗せたヘリコプターが爆音と共に着陸した。舞い散る雨の中を、中から飛び出してきたヘルメット姿の救急隊員たちが駆け抜けていく。
 降り続ける雨の中に響いた、金属の破られる音。
 その中へと、救急隊員たちが駆け込んでいく。
 道徳寺 兼康は、その背中を追っていた。続いていく、ゴッデススリーのパイロットたち、大空、大地、海野の背中を、その細めた目で追っていた。
「統幕議長殿?」
 声に、春日井 秀樹は振り向いた。視線の先に、R‐1の部品を手にしたままそのコックピットコアを見つめている老人の姿があった。
 老人は視線を外さずに続ける。
「あなたは、戦争を知らないですか?」
「何を?」
「最も、あなたくらいの歳では、仕方のないことなのかも知れませんなぁ」
 老人の声に続いて、コックピットコアを取り囲む者たちの中から声があがった。切羽詰まった声が、あわただしく響く。「まずい!危険な状態だ!」「一刻も早く病院へ!」「無線を飛ばせ!!」
 叱咤する声。スパイダーのアクチュエーター音が響く。やがて、担架に乗せられた人影が、その人垣をわって姿を現した。
「それは」
 ゆっくりと老人は言う。
「ある意味ではとても不幸なことかも知れませんなぁ」
「何が言いたい?」
 自衛隊を統率する男──そして道徳寺や春日井、ゴッデススリーやR‐1に命令を下す男──統幕議長は少し不機嫌そうに呟いた。
 その声に、老人は軽く笑って返す。
「いえ、ただ、あなたも目の前で二、三百の人間が死に直面して悶え苦しむ姿を目の当たりにすれば、考えも変わるでしょうかと。最も、そうなってから気づいたのでは、遅すぎますがね」
「当然だ」
 統幕議長は返す。
「我々は、その二、三百の犠牲が出ないために、今、こうして戦っているのだからな」
「二、三百の命と──」
 呟いて、老人はR‐1のコックピットコアの方へと歩き出した。
 その脇を、救急隊員たちが引く担架に乗せられた男がすぎていく。航空自衛隊のパイロットスーツ、それに身を包んだ男。ヘルメットの代わりに、ヘッドギアをつけた男が。
 そして、男は雨の中を待つヘリコプターの中に、救急隊員と共に消えていった。
「今、目の前にある命──失われつつある命。それに、何の違いがありますかね」
 呟いた老人の声は、巻き起こったローター音の中に掻き消されて、誰の耳にも届くことはなかった。
「だが──それでも我々は戦わなければならない」
 そのために、私はここに戻ってきたのだから。
 老人はゆっくりと、人垣の消えたR‐1のコックピットコアを覗き込んだ。
「辛いでしょうか──」
 春日井が小さく言う。雨の降り続ける空に舞い上がっていったヘリコプターの影を追いながら、隣に立った、老人が見つめているのと同じコックピットコアを見つめている道徳寺に、こぼすようにして。
「さぁな」
 道徳寺は、軽く口許を弛ませて返す。
「それでも、奴は戻ってきたんだ。戦うためにな。後悔はしていないだろう。それをよく、知っている分な」
「奴は、何者なのだ?」
 老人は、スパイダーの鋼鉄の顎によって、無理矢理にこじ開けられたコアの中に身体を滑り込ませていた。統幕議長である男は、その背中を睨むようにして見据えながら、二人の科学者に聞いていた。
 道徳寺は笑う。いつも通りに。
「我が最高傑作、ゴッデススリーがこうなった今、日本を、そして世界を救えるかもしれん男だ──とだけ、言っておこう」
 そして道徳寺はその老人の背中に、少しだけ、目を細めた。
 浸水し、シートの色の変わったコアの中、老人は慣れた手つきでマニュピレーションレバーの脇にあるキーボードをとりだす。そして、軽くそれを打つ。
 小さな電子音が、雨音に紛れて響いた。
 R‐1、そのコックピットの補助モニターに、再び光が戻った。
 ──壊れてはいない。
 それだけを確認すると、老人は小さくため息を吐きだした。白く浮かび上がった文字──BSS system released──But system not recognized a pilot.
 壊れてはいない──システムは生きている。しかし──
 降り続ける雨が、補助モニターの画面を濡らしていた。そこに浮かび上がった白い文字を、滲ませていた。
「辛いな──」
 滲む文字に向かい、老人は小さく言う。
「辛いな、一也君。戦うことは。正義を、行おうとすることは」


「香奈さん」
 呼ばれて、香奈ははっとした。
 ホテルの廊下。ガラス張りの廊下の向こうに東京都心の夜景が見える。だけれどそれもまた、降り続ける雨の向こうに滲んでいる。
 映り込む自分の影。そこから視線を外し、香奈は呼ばれた方をゆっくりと見た。
「香奈さん、こっち」
 ドアを開けて、廊下の向こうで待っている小沢。ちいさくこくりと頷いて、彼の方に歩み寄る香奈。「みんな、待ってる」
 軽く微笑みながら、小沢が言った。
「え?」


 戸惑う香奈を促して部屋に招き入れると、小沢はゆっくりとドアを閉めた。部屋の奥へと進んでいった香奈が、立ち止まって、言葉をなくして、そこに立っていた。
「みんな…」
 ホテルの部屋。
 大きな窓の向こうの夜景を眺めるようにして立っている、遙。彼女は香奈に気づいて、ゆっくりと振り返った。そして、軽く片手をあげて言ってみせた。
「──集まってますよ」
 香奈も少し、無理矢理にだけれど、彼女の言葉に微笑みを返した。
 遙の立つ窓際、その手前。テーブルには教授が座ってコーヒーをすすっている。隣には元総理、村上俊平の姿。脇にはシゲ。そしてその奥には、部屋に入ってきた香奈に向かって微笑むベルの姿もあった。
「あ──みんな──」
 何かを言おうとして、言えなくて、うつむきそうになった香奈の背中に、そっと小沢は手を触れる。そして、部屋の中へと彼女を進ませる。
 彼女はだから、言った。
「みんな──ひさしぶり──」
 窓の外には降り続ける雨。


 その雨の中。
 夜の街に降り続ける雨の中。
 一也は一人でいた。
 川沿いの遊歩道。バイクを止めて、降り続ける雨の中に星の見えない空を、ただ微かに明滅しているだけの街灯りを、ぼうと見つめて、一也は一人でいた。
 寝ころんだ土手に、降り続ける雨。
 しんとした空気の中、草葉を打つ雨音だけが響く。
 一也はそっと、目を閉じた。
 この川沿いの遊歩道。あの、土手。
 一也は寝ころんだままで、雨に濡れた茶色い自分の髪をゆっくりとかきあげた。ふと思い浮かんだことに──俺が戦えばよかったのか──今さらながらに、苦笑して。


「こうして、みんなに集まってもらったのは、他でもありません」
 ゆっくりと金色の髪の大使、ベルは言う。
「再び、みなさんの力をお借りしたいんです。再び現れたエネミー。再び始まったこの戦い。全てに決着をつけるために、もう一度、みなさんのお力をお借りしたいんです。
 今再び現れたエネミーが、私たちが生み出したものかどうかは、正直、わかりません。再び、私たちが戦争を起こしたのかどうかも、わかりません。
 しかし、今、目の前にある事実──エネミーが現れたという事実。その事実からは、目をそらすべきではないと思います。
 この戦いが正しいか、正しくないか、私にもわかりません。でもそれでも、私たちは、今、再び戦わなければならないのかも知れません」
 ベルの真摯な声が、雨音も届かない部屋の中に響く。


 一也は笑っていた。
 降り続ける雨の中、雑踏にも似た草葉を打つ雨音の中、濡れた髪を掻き上げて、土手に大の字になって寝ころんだまま、一也は軽く口許を曲げて笑っていた。
 頬を打つ雨粒の感触。
 きっとたぶん──もう遅い。
 笑う。
 R・R、ゴッデススリーもやられて、そしてR‐1もやられて。
 俺たちに出来ることなんか、ない──だからもう、遅い。
 目を閉じたまま、一也は軽く口許を弛ませて笑っていた。
 茶色い髪を、そっと、掻き上げる。
「──俺が戦えばよかったのか?」
 そんなことあるはずないのに──そう思って、再び笑う。


「再び現れたエネミーに戦いを挑んだゴッデススリーは、その前に破れました。春日井さんと科学技術庁で再生させたR‐1もまた、破れました。
 私たちには、もしかしたら、もう、エネミーに抵抗する術はないのかも知れません。
 それでも──再び戦ってはくれませんか?」
 問いかけるベルの視線から逃れるように、遙は窓の外に視線を走らせた。
 雨降る街に、滲む街の灯りがある。
 そっと、遙はその窓に左手を触れさせた。窓に映る自分の顔が嫌で、遙もそっと、瞳を閉じた。




   新世機動戦記 R‐0 2nd Millennium END.
                         第5部




       1

 雨の降り続ける川沿いの遊歩道。
 夜の闇。
 誰の姿もない。


       2

「私たちは、再び、戦うべきなのでしょうか?」
 ぽそりと、小さく平田教授は呟いた。言葉の先にいるのは元総理、村上俊平。
 ホテルのロビーを歩く二人。スーツ姿の二人の革靴が、こつこつと乾いた音を響かせている。
「頼る誰かがいる。それでけで、他に何か必要かね?」
 村上は少し口許を弛ませて返した。
 部屋から出て二人、帰るところ。金色の髪の大使、ベルの言葉に同意したわけではなかったけれど、二人はそれぞれの想いを持って、部屋を出たのであった。
 その想いの方向が、どこに向いているかはともかくとして──
「今の私には、頼られてもそれだけの力はないですよ」
 教授は言う。
「しかし、過去の英雄だ」
 すぐさまに村上は返し、歩速を弛めた。そして、立ち止まる。
「それでも、二年も経てば人も変わります」
 立ち止まって振り向いた村上に、教授も軽く口許を弛ませて立ち止まる。
「二年も経てば、人も変わります」
 小綺麗なスーツの身を包んだ自分。村上と並んで歩いていても、あの頃のような違和感はない。いやむしろ、それが普通すぎて、違和感に感じられなくもなかったけれど。
 教授は軽く頭を振って、再び歩き出しながら言った。
「変わります。この街と、同じように。それでも過去は、変わらないのかもしれないですけれどね」
「過去の英雄か」
 進む教授の前、ゆっくりと自動ドアが左右に開く。少し蒸し暑いくらいの夏の夜に降る雨の音が、ホテルのロビーに小さく反響していた。
 外に出る二人。その雨音に紛れ込むようにして、村上。
「変わらない過去があるから、それでも人間ってのは、生きていけるんじゃなかな」
 言う。
「だから、未来に進める。喜怒哀楽の歴史、全てを含めてね」
「いやぁ、総理──じゃないですね。村上さんは、それが出来るからすごいんですよ」
「そうかな?」
 教授の呼び止めたタクシーが、ゆっくりと二人の前に停車した。
「だが」
 少しばかり跳ねた雨水をかわす教授の背中に向かって、村上。
「今朝も言ったが──私はあの頃の事を後悔していないよ。そして今も。そして、この先の未来も」
 停車したタクシーの開いたドアへと、村上の言葉を背中に聞きながら教授は近づいていく。村上は、続ける。その背中に向かって。
「未来の自分が見つめる過去の自分を決めるのは、今の自分だ」
 笑う村上に、教授も思わず顔を上げて笑い返した。
 やがて、タクシーが走り出す。
 それを視線で追いかけながら、村上は軽く息を吐き出した。
「君はどうする?」


「みなさん──力になってくれるでしょうか」
 ホテルの部屋。
 窓の外に滲む街を見つめながら、ベルは小さく言った。言葉を向けられた相手、中野茂──シゲ──は優しくその彼女の肩に手をかけて言う。
「昨日、今日って、疲れてるだろ。今は、ゆっくり休むといいよ」
 ベルはゆっくりと、その肩に乗せられた手に手をかけた。頭を倒して、彼の胸にその金色の髪を押し当てる。そっと。
「再び起こった戦争──もしかしたら、私の力が足りなくて、起こってしまったのかも知れない戦争に」
「そんなことないよ」
 金色の髪に、シゲはもう片方の手を乗せて返す。
「それに、俺たちは力になるよ。そう、約束したじゃないか──二年前に」
 ベルは笑った。
「生きてるんだ──」
 二年前の約束──だけど、それが約束って言うのかどうか、本当のところはわからない。あの時のみんなの言葉なんて、本当は憶えてないし、理解できなかったし、でもそれでも、私の力になってくれる人たちという事実だけがあって──
「あの時の約束なんて、まだ、生きてるんだ?」
「生きてるよ」
 シゲは彼女を抱き寄せて、言った。言って、自分で、笑ってしまったけれど。
「生きてるから、俺は今もここにいるんだから」
「心強いなぁ」
 その言葉にベルも笑ってしまった。ちょっと、さすがに疲れて、うまくは出来ていなかったけれど。
「じゃあ私たち──次の時代に──新しい世紀に、進めますよね」


「うん──そう。今朝日本についたばっか」
 ベッドに腰をおろして、受話器を耳に押し当てて、村上 遙は笑った。
「めっちゃ、久しぶりだねー、睦美とこうして話すのなんか」
 受話器のむこう、高校時代の親友、佐藤睦美も笑って返す。
「ホント、マジ久しぶりじゃん。遙さぁ、だって、電話もかけてくれないんだモンなぁ」
「同性に国際電話かける度胸はない」
「電話代が」
 そして二人、おかしそうに笑いあう。
 それは、聞かなければならない事を二人、わかっているから。
 他愛のない話。ずっと、ずっと、他愛のない話を二人は続けていた。朝までだって、たぶん話せる。それだけの時間、離れていて、たぶん話せる。だけど聞かなきゃならない。
 遙は睦美と笑い合いながら、思っていた。だけど、聞かなきゃいけない。
 睦美もわかって、話す。
 他愛のない話。今、自分の周りで流行っている物。気になる人の話。さっきまで聞いていたお気に入りアーティストの新譜の話。他愛のない話。
 でも結局二人、引っかかる物があって、その隙間に、沈黙という言葉が滑り込んでくる。一度滑り込んできた沈黙は、その存在感を急激に強くしていって、戸惑いを連れてきてしまう。
 だから、生まれた沈黙に、滑り込んできた沈黙に答えるように、遙はゆっくりと言った。
「あのさ──」
「──うん?」
 雨が、いつの間にか止んでいた。
 受話器を握り直す遙の背中の向こう、窓の向こうに、雨上がりの街の夜景がきらきらと光っていた。


「初めてここに来たときのこと、憶えてますか?」
 雨上がりの空を見上げて、吉田香奈は言ってみた。聞いた相手──小沢直樹──が、「ん?」と喉を鳴らして返した。
「何が?」
「雨、止みましたね」
 軽く笑って言う香奈。雨上がりの丘の上。香奈は眼下の夜景に近づくために、すこし前へと歩き出した。
「あんまりそっちにいくと、危ないよ」
 その後ろ姿を目で追いながら、小沢は愛車、GTOのボンネットに寄りかかって煙草をひょいと口にくわえた。視線の先、ゆっくりと夜景に近づくように歩いていく香奈がいる。そしてその向こうに街の夜景。
 小沢は少し微笑みながら、それを重ね合わせて見つめていた。
 とっておきの場所。昔は、自分だけの。今は、ふたりだけの。
 結局、小沢はくわえた煙草に火をつけずに、箱の中へと戻した。昔と同じように。
 視線の先の香奈は、少し、元気になったように見えた。──連れだして、よかったかな──なんて思って、ゆっくりと吸い込んだ息を大きく吐き出す。
「憶えてるよ」
 そして夜景の方へと近づいていった彼女の背中に向かって、少し大きな声で彼は言った。
 微笑みと共に彼女が振り向く。彼も笑う。ボンネットに、座るようにして寄りかかりながら。
「じゃあ──」
 微笑みをたたえたまま、香奈は聞いた。
「あの時、私が何を言ったか、憶えていますか?」


「詩織ちゃんの家の番号か、携帯の番号とかって、わかる?」
 沈黙があって、
「──わかるよ?でも、どうして?」
 答えが返ってくる。
 だから、沈黙が生まれる前に、答えを返す。
「──うん」
「それって」
 言う。言いにくくても、それでも。
「一也──くんの事?やっぱり、あれ、あのR‐1に乗ってたのは、一也くんで──」
「えっ?」
 咄嗟に返す。
「違う。違うよ!そうじゃなくて──あれに乗ってたのは、一也じゃないんだ。じきにわかることだと思うけど」
 小さくなっていく語尾。咄嗟に返した自分に、冷静さを失ったような自分に戸惑いながらも、聞くべき事を胸の奥でもう一度まとめ直す。喉を通して、言いやすいように。
「一也、どこ行ったか、わかんなくて。私さ、ちょっと…」
「喧嘩でもした?」
 軽い言い方に助けられて、弱く笑う。
「ニアミス。ちょっとさ、二年ぶりっていうのはさ、やっぱ、上手くいかなかった。行き違い」
 喉につかえる台詞だろうから、今、聞く。
「それで──どうして詩織ちゃん?」
「うん」
 ゆっくりと返す。
「飛び出していった一也が、どこに行くかなって考えて、誰と連絡とるかなって考えて、誰と会うかなって考えて、それで、それしか思い浮かばなかった」
「そう──」
 頷くしかなくて。
「うん、ちょっと待って」
 アドレス帳のページをめくる音に、そっと目を伏せる。
「でも、いいよ。辛いなら、私、聞いてあげようか?」
「ううん──いい」
 目を閉じたまま、返す。
「教えてくれる?私、今は自分で一也を捜し出して、もう一度、面と向かいたいんだ。できるなら──後悔、したくないから」
 そして走り書きされる数字の列。十一桁の数字の列。
 そして──「ありがと」
「ううん。別に──」
「ああ──そうだ。今度、みんなで飲みにでも行こうよ。今年でうちらも成人じゃんさ。ぱーっと、オトナを祝おうじゃん!」
「おっ!いいねぇ。オトナ祝いだね。んじゃー、そんときオゴってもらおーっと」
「嫌だね」
 そうして、最後は笑顔に電話は切られた。


 電話が鳴った。
 液晶の表示がオレンジに光って、宇多田ヒカルの着メロが鳴り始める。
 松本詩織はノートに書き取っていた英単語から視線を外し、ふいとその液晶を見た。着信中。文字が光っている。その下には、見たことのない番号。
 誰だろう──
 戸惑いながら、彼女は緑色のボタンを押した。受話器が上がった絵の描かれているボタンだ。電子音が途切れて、
「もしもし?」
 アンテナを伸ばしながら、詩織は携帯電話を耳に押し当てた。
 知らない番号。友達の家電かも知れない。そう、勝手に決めつける。ほとんどの友達の、少なくとも自分に電話をかけてくる友達の家の電話番号なんて、電話帳のメモリーの中にちゃんと入っているのに。
「もしもし?」
 電話の向こう、女性の声が言った。
「えっと…ひさしぶり。って、わかるかな。私」
「──はい」
 答えて、詩織は手にしていたシャープペンシルを机の上にゆっくりと置いた。音を立てないように、ゆっくりと。聞こえるわけないのに。
 それでも、右手はそのペンにふれたまま、
「村上センパイ?ですよね」
 詩織は言った。
「うん」
 電話の向こうの声が返す。
「そう。あ、わかったか。よかった。忘れられてたらどうしよって思った」
 笑うようにして言う、なつかしい先輩の声。一年間高校で一緒で、それ以来、ほとんどあってもいなかったけど、すぐにわかった。特徴的な声。すこし甘えたような、猫のような、可愛い声。
 もしかしたら、嫌いな声。
「どうかしましたか?」
 聞いてみた。どうかしなきゃ、先輩が電話かけてくることなんか、ないのに。そしてたぶん、どうかした事っていうのは、私の聞きたくないようなことで、先輩も言いたくはないような事だと思うけれど。
「うん」
 軽く、遙は言った。
「一也君のこと──ですか?」
 抑揚のない詩織の声に、遙がつぶやく。
「何か、知ってる?」
「え──?」
 電話の向こうの彼女の声に、詩織ははっとした。指先で転がしていたシャーペンから、思わず手を離す。
「先輩と一緒じゃ?」
 そうだと思ってた。
 飛び出していった一也がどこに行くか考えて、それで、たぶんきっと、そうだと思ってた。それで、あのロボットに乗っていたのは──そう思っていたのに──
 覚悟すら、どこかでしていたはずなのに。
「一緒じゃない」
 遙が言った。
「一緒じゃないんだ。あのR‐1に乗っていたのも、一也じゃないの」
 ただ、聞いている。自分の知らないこと。私、一也の彼女なのに──
 ゆっくりと電話の向こうで彼女は息を吸い込んだ。言葉を繋げるために。だと思う。少なくとも、詩織にはそう思えた。
 遙が言う。
「一也は戦わないって、はっきり私にそう言ったんだ」
 知ってること。
「私にも、同じ事、言ってくれました」
「そう──」
 小さく言って、彼女が言葉を途切れさせた。詩織は電話を持ち直した。
 約束──守ってくれた。それが、少し嬉しい。一也には戦って欲しくなんかない。それで、傷ついてなんて、欲しくない。昔みたいな顔なんか、見たくない。ベッドの上で眠る一也。目を覚まさないかも知れない。そんな一也──もう、見たくなんかない。
 だけど嘘つき。
 一也の台詞を思い出す。嘘つき。「行かないよ、どこにも」
 震える唇から言葉が出なくて、沈黙の中から、電話の向こうの遙がそっと言った。
「詩織ちゃん、何か知らないかな?一也、どこに行っちゃったかとか」
「いえ、私も知らないです」
 返す。「そう──」電話の向こうで先輩が力なく言う。詩織はそれに返すようにして、続けた。
 その言葉は、遙の言葉と重なってしまったけれど。
「じゃ、もしも何か連絡あったら、教えてくれる?私、今ホテルに泊まってるんだけど──」
 遙の声。重なる詩織の声。
「先輩──でも、もしも私が本当は嘘をついていたとしたら、どうするんですか?」


       3

 携帯電話を持っていない。
 だから、番号はうろ覚えだ。
 それでも、どうしようもなくて、ダイヤルする。
 夜の闇の中、青白い街灯の下の電話ボックス。指が憶えているだけの記憶を頼りに、ボタンを押す。十一回。
 少しの間があって、コールする音──は聞こえてこなくて、無機質なトーンの音が帰ってきた。
 受話器を置く。
 番号が違うのか、それとも話し中なのか──軽く笑って、彼は雨に濡れた髪をかきあげた。
 雲間から、月が覗いていた。


「先輩──でも、もしも私が本当は嘘をついていたとしたら、どうするんですか?」
 詩織の声に、遙は息をのんだ。息をのんで、言葉を途切れさせる。
 そう。そうかも知れない。私はたぶん、一也とまた会って、何をするか、自分でもなんとなくわかってる。彼をたぶん、連れ戻す。
 電話の向こうの相手、そして本人が、たぶん、望まないでいると、わかっていても。
「──どうもしない。と、思う」
 遙は返した。
「もしも詩織ちゃんが嘘をついていても、どうもしないと思う。私には、そこまでのことは出来ないよ」
 少し強く握りしめたプラスチックの受話器が軋んだ音を立てた。届かないでいることを、願う。
「私は、結局、一也のことも詩織ちゃんのことも、よく知ってるから。だから私はたぶん、どうもしないと思う。だから、なんて言うかな…」
 言葉を探す。見つからない。でも沈黙はいや。探して、探して、呟く。「Well…」
「電話番号」
「え?」
「電話番号、今かけてきた番号で、いいんですか?」
 結局は、私も同じ。だから私もたぶん──
「うん」
 遙の声が、小さく帰ってきた。


「あの時、私が何を言ったか、憶えていますか?」
 言われて、小沢は少し考えた。
「なんだったかな?」
 そして聞く。軽く笑いながら。
 本当は憶えているけど。
 雨上がりの空に伸びたビルたちに灯る光。明滅するその灯を背景に、香奈はくすりと吹き出すようにして笑った。
「そうやって、すぐはぐらかす」
「性格だから」
「知ってます。よく」
「でしょ」
「憶えてますよね」
 言って、夜景に振り返って、香奈は続けた。
「広い広い世界で、どうして人はその人と出会えるのかなって」
 同じ台詞。
「どうして、この広い宇宙で、人と人は出会うんでしょうね。不思議ですね」


 夜の街の中に、やっぱり一人で走り出せなくて、戻る。
 もう一度ダイヤルする。
 青い街灯の下の電話ボックス。今度はすこし、ゆっくり。
 沈黙が少しあって──


 着信した番号をメモリーする。
 両手で携帯電話を操作しながら、思う。
 この番号をメモリーして、私は、この番号を教えるんだろうか──私は──どうするんだろう──


 電話が鳴った。


「もしもし?」
 探るようにして、コールに答える。『番号不明』の着信。
「──俺」
 そっと息を吐き出して、言う。聞きたかった声に向かって。
「今、平気?」
 その声にゆっくりと頷いて、返す。
「うん──平気」
 そして、話し出す。
「今、どこにいるの?」
「今?緑地。多摩川緑地の土手」
「雨、降ってるんじゃないの?」
「いや、もうやんだよ…今は月も見える。雨には濡れたけど」
「知ってる──私も、濡れた」
「あ…学校…」
「今日、来るって言ったのに、来ないんだもん。嘘つき」
「ごめん…家から、出られるような状態じゃなくて」
「知ってる──」
「傘、持ってなかったの?学校」
「持ってた。でも、帰りに寄ったの。家。だから、雨に濡れた」
「──そう」
「もう、いなかったけど──」
「──ごめん」
「なんで謝るの?」
「ごめん──なんでだろ」
「謝るようなこと、したの?」
「してないよ。なんだよ、謝るようなことって」
「約束破ったとか」
「ごめんって。今日学校いかなかったのは、ホント、家から出られる状態じゃなくて──」
「違うよ」
「違う?何が?」
「違うよ。どこにも行かないって、言ったじゃない。私に。私に、どこにも行かないって、言ってくれたじゃない。それなのに──今、どこにいるの?」
「──すぐ、近くにいるじゃないか。遠くになんて、行ってないじゃない。だって──約束、したろ?」
「嘘。遠い。すっごく遠い。こうしてると…すぐ近くに感じられるけど──全然そんなことない。遠いよ…すっごく…遠いよ」
「…ごめん」
「なんで謝るの…?」
「…ごめん」
「なんで…謝っちゃうのよ…」
「わかんないけど…ごめん…」
「──会いたい…会える?」


 夜風が、優しく吹いていた。
 夏の香りの強い、南の風。その中、揺れる髪を片手で押さえつけて、遙は雨上がりの夜空にそっと視線を走らせた。
 赤坂御用地の木々の隙間から、雲間に覗く青い月が見えた。
 夏の夜風に揺れる髪と、揺れる木々。そしてそのざわめき。
 遙は夏の夜の空気を、ゆっくりと大きく吸い込んだ。
 そして、ぽつりと小さく、呟いた。
 夏の想い出のたくさん。ヒト夏のことを少し思い出して、雲間から覗く青い月を見上げたまま、夜風に揺れる髪を、片手で軽く押さえつけたまま、ぽつりと小さく呟いた。


 雨に濡れた服を少し気にして、胸元をあおぐ。
 夜空をあおげば、青い月が見えた。
 ぼうっと、その月を眺める。川沿いの遊歩道。止めたバイクに寄りかかり、見上げた月に目を細める。
 人の近づく気配がして、彼は視線を月から外した。外して、その方へと視線を走らせた。
「待った?」
 彼女が言う。
「──ううん。はやかったね」
「飛び出してきたの。一緒だよ」
 そう言って、ゆっくりと近づいてくる彼女。月の落とす影が、遊歩道の路面に揺れていた。
「私も、もう──帰るトコ、ないかも知れない」
 彼女は言う。
「──一緒だよ」
 夜の闇の中に吸い込まれていく言葉たちに、そっと、彼は言う。
「──走ろうか」


「もう…あの頃みたいには、戻れないのかな」
 優しく吹き続ける夏の夜風に、遙は小さく問いかけた。


       4

「どうして、この広い宇宙で、人と人は出会うんでしょうね。不思議ですね」
 香奈の言葉に、小沢は答えない。答えがわからないからかも知れないし、自分が答える必要なんてないからかも知れない。
 それとももしかしたら、彼女の答えと、自分の答えと、確認する必要なんてなく、一緒だからかも知れない。
 答えない小沢。ただ、夜景を見つめる香奈の背中を見つめている。愛車、GTOのボンネットに寄りかかったまま。
「不思議ですね」
 ゆっくりと吸い込んだ息を吐き出す勢いと共に、香奈は続けた。
「もしもちょっと、何かが狂ったら、出会わない運命だって、あるかも知れないのに──不思議ですね。運命なんですかね、みんな」
「──僕らも?」
 聞いてみた。
 香奈は振り向いて、笑う。
「どうでしょう?」
 その微笑みが、夜景の弱い光の中ではすこし──真っ直ぐには見つめられなくて──小沢は目を細めた。「でも──」
 夜の丘。香奈は小沢の方へとゆっくりと歩み寄りながら、言ってみた。
「でも、もしもエネミーが現れなかったら、私たち、きっと出会ってないですよね。シゲさんとベルさんだってそうですし、教授と明美さんだって、結婚しなかったかも知れない。もしかしたら、一也も──」
「でも、その過去を振り返って、香奈さんはどう思う」
 小沢は寄りかかっていたボンネットから身を離した。そして、近づいてくる香奈の方へと歩み寄った。香奈の台詞を遮って。
「──小沢さんは、どう思いますか?」
 立ち止まり、近づく小沢を待って聞く香奈。少し首を傾げて、その瞳を見つめてみる。
「どんな出会いだとしたって──」
 軽く笑って、小沢。見つめる香奈の隣にまで進んで、言う。丘の上から、明滅する街の夜景を眺めながら。
「どんな出会いだとしたって、それがヒトツしかないものなんだとしたら、やっぱり、大切にしなくちゃいけないんじゃないかな」
「なんだ」
 ちょっとはずかしそうにうつむいて、香奈は言った。隣に立つ、小沢の腕をとって。
「憶えてるんじゃないですか」
 笑うだけで、小沢はそれに答えはしなかったけれど。
 そして香奈も、それ以上は続けずに、ゆっくりと瞳を閉じた。
 私は──大事に出来てるのかな?過去、そして今、そして未来に続いてく、全部。


「綺麗ね──」
 詩織は夜空を見上げながら呟いた。
 無言の一也。だけれど、同じ空を見上げている。
 昭和島。羽田空港滑走路から、真っ直ぐに北に少し行ったところにある、埋め立て地だ。知る人こそ少ないけれど、この島は夜空に向かって上がっていくジェット機を、真下から見上げられるという、一也にとってとっておきの、そして想い出の、場所だった。
「ときどき、来たりするの?」
 詩織が聞く。一也は軽く息を吐き出して返す。
「うん──たまに」
 そして、爆音と共に夜空へとあがっていく飛行機の赤い光を、その視線で追いかけた。
「あの頃の事、思い出したり、するんだ。ね」
 何かを言った詩織に視線を送るけれど、詩織は軽く笑っただけだった。彼女の言葉はジェット機の爆音に掻き消されて、彼の耳には届きはしなかったのだった。
 彼女はそれをわかって、言ったのだけれど。
「なに?」
「なんでもない」
 ため息のように息を吐き出して、
「一也は、どうしてあの時、戦ったの?」
 そっと、聞く。滑走路の向こう、赤い光が明滅してる。次の飛行機が雨上がりの夜空に向かっての、離陸準備を始めていた。
 それを見つめていて、一也はなかなか答えを返さなかった。考えているのかな?詩織はそんなふうに思う。だから瞳を閉じて、ちょっと、待った。
「──憶えてない」
 一也が返す。
「そう──」
 詩織も返す。
「でも、私、憶えてる」
 瞳を閉じたまま、軽く微笑んだままで詩織は続けた。
「一也、でも──って、その後に言葉が続けられるから戦うって、そう言ってた」
「そんなこと…」
 一也は寝転がるように姿勢を倒して、片手で頭を掻く。そして、
「言ったっけ?」
 軽く口許を曲げてみせた。少し自嘲するように。
 それを全然、憶えていなかったから。
「うん──憶えてる」
 詩織。
「おんなじ、夏の夜だったもの。少し、暑くて、それで、静かで、忘れられない、夏の夜だったもの」
「ああ──」
 言われて、思い出した。二年前の、あの夏の夜のことだろう。新宿の街に降下したエネミーに、夜明けを待ちながらすごした夜のこと。
「憶えてる?」
「憶えてるよ。忘れるわけ、ないでしょ」
「じゃあ、憶えてる?」
 そっと詩織は言う。寝転がるようにして姿勢を倒した一也の腕に、そっと、自分の腕を絡みつかせて、彼の目の中を覗き込むようにして。
「こうして、一緒に、夜景見たときのこと──」
「憶えてるよ」
 返して、一也はもう片方の手を詩織の髪にかけた。詩織が小さく笑う。
 一也も笑った。そして言った。
「でも、レインボーブリッジは後ろだけど」
「知ってる」
 囁くようにして言って、笑いあう。
 そして彼女も彼の髪にそっと、その手を触れさせた。
「髪──濡れてごわごわになってる…」
「うん──」
 答える言葉がなくて、喉を鳴らす。見つめる瞳。そっと、その瞳を詩織は閉じた。
 返すように瞳を閉じて、一也は彼女の柔らかな髪に触れた手を、そっと引き寄せた。
 滑走路の向こう、明滅していた光が、夜空に向かって爆音と共に滑り出していく。
 流れていく赤い光。夜空に吸い込まれていく爆音。その爆音の中で、彼女は彼に耳元にそっと、囁いた。
「一緒にいよう──」
 沈黙の二人の間を、光が駆け抜けていく。


「詩織、どこに行くの?」
 呼び止められた。
 玄関で靴を履いて、こっそり抜けだそうとしていた所を、詩織は母、倫子に呼び止められた。
 ダイニングから、倫子が少し小走りに出てくる。詩織は振り返らずに言った。
「ちょっと、出かける」
 本当は、ちょっとなんていうつもりはない──
「どこへ?」
 倫子が聞いた。
 詩織は答えない。答えられない。止められる事がわかっているから。
「あのね、詩織…」
 母がつぶやくようにして言う。心配して言う。気づいて欲しくなかったし、気づいたとしても、口に出して欲しくなかった人の名前を、静かに口にする。
「一也くんの事は──」
 だから、とっさに手を止めて、詩織は返していた。
「あれに乗ってたのは、一也じゃなかったの」
 その言葉が指す「あれ」が何か、倫子にはすぐにわかった。再び現れたエネミーを前にして戦い、そして共に海へと消えたロボットの事だと、すぐにわかった。
「え──?」
 思わず聞き返す。
 詩織は靴ひもにかけた手を再び動かした。母が次の言葉を紡ぎ出すよりも速く、その場を離れようと思って。
「じゃあ──」
 詩織は立ち上がった。バッグを手にして、ドアノブに手を伸ばす。
 じゃあ──のその言葉の後に何が続くはずだったのか、詩織にはわからなかった。彼が生きていると言う事を喜ぶ台詞か、それとも、彼に会いに行くと言う事を問いつめる台詞か──彼女にはわからなかった。ただ、
「待ちなさい!詩織!!」
 自分の腕を掴みながら発せられた母の言葉が、その耳に届いた。
「なに?」
 振り返る。
 すこし、気圧されるように母が身をひいたような気がした。
「…こんな時間に、どこに行くんだ?」
 二人のやりとりを耳にしてか、リビングから父が姿を現していた。
「部屋に戻りなさい」
 短く言う。
 詩織は動かない。母が掴んだ腕をそのままに、動かない。
 小さく息を吐き出して、父が言っていた。
「彼と関わり合いになるのはよしなさい。お前も、見ただろう?」
 だから、返していた。
「どうしてそんな事言うの!」
 堰を切ったように、詩織は言葉を吐きだしていた。
「この二年間、そんな事、一度だって言わなかったじゃない!!」
 自分でもわかってる。
「何が違うの?私は何も変わってない。一也だって、何も変わってない。お父さんだって、一也の事、認めてくれてたじゃない!なのに、どうしてそんな事言うの!?」
「頭を冷やせ、詩織」
 静かに父が言う。
「また、あれが現れたんだ。あれに乗っていたのが彼じゃなかったとしても、彼は、戦わなきゃならないんだろう?そうなれば──」
 そうなれば──?
「それは、お前が一番よくわかって──」
 続けさせたくなくて、詩織は自分以外の誰の言葉をもかき消すように、叫んだ。
「一也は、もう戦わないって、私に言った!!」
「そんな事は出来ないと、お前が一番よく知ってるんじゃないのか!!」
 怒鳴るようにして言った父の声が耳をすり抜けていく。
 自分でもわかってる。
 でも、口から言葉があふれてくる。
「みんなそう言うから!みんながそう言うから、一也、苦しんでる!!私には、彼の気持ちがわかる。お父さんなんかには、わからない!!」
 私の気持ちも、わからない。
 誰にもわからない。
 会いたい。会って、確かめたい──
 視界の隅から、父の手が伸びてくる。スローモーションのように。
 ぱんっという、乾いた音。
 長い髪が揺れた。
 ──痛くなんかない。
 この胸を刺した、何か、ものすごくとがった何かが、私に与え続けている痛みに比べれば──全然痛くない。
「部屋に戻りなさい」
「…いや」
「言う事を聞きなさい」
「聞かない」
 一也──今、行くね。
「私たちは、何も変わってない」
 私も、一也と同じだよ。
「あの頃からずっと、何も変わってない。出会ってからずっと、起こったたくさんのこと、忘れてもいない」
 だから、今、行くね。
 一緒にいよう──
「だから、私たちの気持ちなんて、あなたたちにはわからない」
 耳に、蹴った踵の音が、強く響いた気がした。


 暗い部屋のベッドの上に、彼女は身を投げ出した。
 うつぶせのまま倒れ込んで、大の字になったまま、ぽそりと呟く。
「何やってんだ、私は」
 言って、遙は頭を掻いた。長い髪がシーツの上に広がって、自分の顔を覆い隠す。灯りのない部屋、誰もいない部屋。
 誰にも見られることのない顔を、それでもベッドに埋めて、遙はぽそりと呟いた。
「何やってんだ、私は──」
 今日一日が、頭の中でぐるぐるとまわり出す。思い出したくないことばっかりが、ぐるぐると頭の中に鮮明思い起こされて、次から次へと生まれては消えていく。
 どうしよう──つまらない考えに、遙は強くベッドに顔を押しつけた。
 一也にはもう会えないかもしれない──根拠のない想いが胸を締め付けてしまって、それよりも強く、彼女は自分の顔をベッドに押しつけた。


 その髪にそっと触れて、一也は彼女とベッドの上で横になった。そして何度目かのキスを、そっと、した。
 ゆっくりと離れるふたり。だけれど吐息が聞こえる距離に、詩織が少し笑う。何かを言おうとするけれど、言葉が見つからなくて、ただ、少しだけ笑う。
 一也は再び、そっと彼女のその前髪に手を触れさせた。詩織が、また少しだけ笑う。
「手──震えてる?」
「もしかすると、ちょっと?」
 耳と胸をくすぐるようなささやきに、ふたり、なんとなく笑う。
 見つめ合って──言葉がなくて、一也は彼女の長い髪を優しく梳いた。詩織もまた、彼の髪に手をかけて、そっと、彼を包み込んだ。
 言葉、なくなんかない。好き──
 言おうとして、やめた。言ってほしかったけど、やめた。なんとなく。
 好き──
 言おうとして、やめた。言えなくて、やめた。なんとなく──
 吐息の聞こえる距離に、言葉を乗せることが出来なくて、ふたりはゆっくりと唇を寄せ合った。何度目かわからないけれど、初めてのように、ふたりはもう一度唇を寄せ合った。


 ホテルの窓の向こう、街の灯りが明滅している。
 雨上がりの空。微かな雲間。月と星がのぞいていて、優しく風が吹き続けている。
 静かな夏の夜。
 ゆったりとした夏の風。
 それでも、やがて夜は明けていく。
 それぞれの時間が、すぎていく。


       5

 夏の朝日が赤く高層ビル群を照らし出す。
 夜明けの都心の大通りに、行き交う車はまだなかった。
 七月二四日、早朝。
 どこか遠くから、セミの鳴く声が聞こえている。その音に耳を傾けながら、彼は人を待っていた。
 ふと、エンジン音が耳に届く。彼は振り向く。朝の空気の中に乾いたエンジン音を響かせて、黒い車がやってきていた。
「遅刻」
 言って、彼は笑った。
 ゆっくりと彼の前で止まるMitubishi GTO。彼の止めたホンダS2000の前に、その車がゆっくりと停車する。
「おはよう」
 そう言って、小沢直樹はその車から降りてきた。
「昨日は、よく眠れた?」
 なんて言う。
 言われた中野 茂──シゲ──は笑って、
「遅刻したのは、小沢さん、寝坊ですか?」
 やり返す。
 小沢はひょいと肩をすくめて、とりだした煙草に火をつけた。
「どうだろうね?」
 はぐらかして、小沢はゆっくりと煙草を飲む。「自分だって、遅刻したんじゃないの?」「してませんよ」
 シゲは笑いながら言って、小沢が軽く煙草吸うのを待った。そして少したってから──小沢が煙草の灰を一度足下に落としてから──言った。
「ベル、心配してます」
「何を?」
「僕たちがまた、戦ってくれるのかどうか」
「──気持ちばかりが先走っても、仕方ないだろ。僕は、こう見えても現実主義者でね」
 言いながら、GTOのボンネットに小沢は寄りかかる。
「戦うには、それなりの準備が必要だ」
「それは──確かにそうですね」
 と、シゲもS2000に寄りかかった。小沢はそのシゲに向かって、煙草を手にした手を振りながら言う。
「術は、あるの?」
「R‐1がやられたのは、テレビで見ました。ニュースでも。何度もですよ。嫌っていうくらい」
「あれは、春日井さん達らしいね。なんでも、今の総理に協力を求められたとか?」
「実は、僕も、教授もですけど──声をかけられていますよ」
「ああ、そうなんだ」
 指先が熱いと思って、小沢は中指と人差し指で挟んだ煙草を見た。いつの間にか、ずいぶんとフィルター近くにまで先端が迫ってきている。
「じゃあ、戦線に出ることは不可能じゃないんだ」
 言って、GTOのドアを開ける小沢。車内の灰皿の中に、吸い殻を押し込む。そして、再び新しい煙草に火をつける。
「でも、装備がないですよ」
 新しい煙草に火をつけた小沢を見て言うシゲ。ちょっと苦笑。「間髪入れずに二本目ですか?」「実はちょいと寝不足気味でね」小沢も苦笑を返す。
「ミュージアムのR‐0は?」
「R‐0はBSSを前提に作られています。BSSがなければ、R‐0も動かせませんよ」
「教授次第ってところか…」
「そうです」
「で──」
 と、煙草をくわえたまま大きく息を吸い込み、小沢はGTOのルーフの上に腕を乗せた。
「あとはその端末を持つ、一也くんか──」
 ゆっくりと息を吐き出す。吐き出された白い煙が、糸のようになって青い空へと吸い込まれていく。少しの間その煙の後を見ていたシゲも、答えるかわりに視線を外して、ちいさく息を吐き出した。
「どこに行ったのやら」
 青空にかき消えた煙のあったところを見つめたまま、小沢は呟いた。
「つかめていないんですか?」
「うちの片桐や篠塚を使って探しているけどね。どこへ行ったのやら」
「一也君は──二年前とは変わっているんですかね?」
「おお、そうだよ。そうだよ」
 少し声を小さくして言ったシゲの言葉に、小沢が嬉々として続く。その声に、シゲも顔を上げて、彼の方を見た。
「一也くんね、髪の毛なんか、茶色くしてるんだぜ。背も伸びたしね。シゲ君よりは低いけど、僕と同じくらいはあるんじゃないかな」
「へえ…」
 一也のその姿が想像できなくて、シゲはただ簡単な感嘆の言葉を返すだけだった。それを耳にして、小沢は続ける。
「大人になった──いや、大人びたって言うべきかな」
 少し小首を傾げて、軽く笑う。
「一也君は──また、戦ってはくれませんか」
「どうかな」
 味わうように、小沢はゆっくりと煙草を飲んだ。
「良くも悪くも、彼は二年も前に今起きていることを体験しているからね。それで、今また、戦えるか」
 あの頃と同じ気持ちで、正義のため、世界の平和のため。
 戦えるか──?
「どうかな?」
 呟くようにして言って、小沢は二本目の煙草も車内の灰皿に押しつけて消した。まだ長かったけれど、「やっぱ、すいすぎだ」なんて、ぽつりと言って。
 白い煙の糸が、青い空に流れて、やがて消えていく。
 斜のきつい夏の朝日が、都心にそびえる高層ビル群の窓や壁を、きらきらとオレンジ色に輝かせていた。
 二人は、何となくそれを、ため息ともつかない呼吸に眺めていた。
 夏の風が、小さく音をたててその間をすぎていく。


 朝の路地。
 詩織は駆け抜けた夏の風に揺れた髪を片手で押さえつけて、朝日に目を細めながら振り向いた。
「ここでいいよ、ばいばい」
 軽く言う。ちょっと照れくさくて、むしろ逆に。
「ああ──」
 一也も軽く、返した。
 バイクに跨った一也に向かって、詩織は小さく口を動かした。「あのさ──」
 だけれど、真っ直ぐに彼を見られなくて、それがどうしてか、自分でもよくはわからなかったのだけれど、なんとなく、たぶん、照れだろうと自分で納得して、「ううん、なんでもない」と、軽く片手をあげて言う。
「じゃ──」
 朝の空気をそっと吸い込んで、一也も返した。
「うん──」
 吹いた夏の風の中で、そのちょっと茶色い彼の髪の毛が揺れていた。
 詩織は目の前の彼に向かって、少しだけ微笑んだ。
 気づいてる?気づいてない?
 少しだけ、微笑んでいるだけの詩織。だけど、気づいてる?気づいてない?心の中に渦巻くわだかまり。
 気づいてる?気づいてない?
 家まで、あと少しの道。
 結局、帰るところはひとつしかなくて、自分でもわかってる。そして、結局戻った自分を待っているものも、わかってる。全てを振り切って、走り出して、それで、自分で決めたことだけど、わかってる。ひとつしかない、道。
 それに、気づいてる?気づいてない?
 本当はずっと一緒にいたい。ずっと一緒にいて、この世界が終わっても、ずっと一緒にいたくて──そんなこと出来ないって、わかってる。お互い。たぶん。
 一也がバイクのエンジンをかけた。
 夏の朝の空気の中に、心臓の鼓動をかき乱すようなエンジン音が、響き始めた。
「一也──」
 詩織は言う。
「うん?」
 ヘルメットをかぶろうとして、一也はその手を止めた。
「好きだよ」
 詩織が、小さく言う。
「うん──」
 返すように、一也も小さく頷いた。
 だから、それに、詩織も返した。
「うん──ねぇ、言って。一也も、言って。それで、名前を呼んで」
 そう、詩織が言った。だから、一也も言った。
「──好きだよ、詩織」
「うん──」
 答えて、うつむく。
 嬉しい言葉のはずなのに、うつむく。うつむいて、顔があげられない。嬉しい言葉だからと思う。そう思って、自分を押さえつける。
 そう、嬉しいから。だから。
「一也、好きだよ。愛してる──」
 けれど押さえきれなくて、うつむいた自分のその目元を、彼女は少し、擦った。
 だから、何も言えなくて──言えばいい。言えばいいだけのこと。難しくなんかない。一言、言ってあげればいいだけのこと。返してあければいいだけのこと──だから一也は、ゆっくりと視線を外した。
 風がすぎて行くだけの時間があって、
「じゃ、ばいばい」
 顔をあげて詩織は笑うと、軽く片手を振りながら自分も振り向いた。「またね」肩越しに言って、歩き出す。
 少しの上り坂。家までの道。
 歩く。振り返らずに、ただ歩く。
 当たり前だけれど──離れていく。
 大きく息を吸って、詩織は肩からかけていたバッグを、その肩にかけ直した。長い髪を片手で背中にやって、それでも歩く。振り返らないために、歩く。
 真っ直ぐ、真っ直ぐ──
 やがて、バイクのエンジン音が遠ざかっていった。
 夏の朝の空気の中に、心臓の鼓動をかき乱すようなエンジン音が吸い込まれていって、消えて、やがて、聞こえなくなった。
 だから、耳から消えたその音に、詩織は踏み出した左足より手前に、右足のつま先をおちつけた。うつむく。ゆっくりと、そして振り向く。
 誰もいない朝の路地。見慣れた道なのに、初めて見る景色。しんとした街並み。
 そのしんとした街並みに、まるで世界中の全ての人がいなくなってしまったような気がして、自分が、この世界にただひとりになってしまったような気がして、詩織は再び視線を落とした。
 立ち止まったまま、行くことも戻ることもせずに、詩織はうつむいていた。


「今日も、暑くなりそうだ」
 オレンジ色の光がだんだんと白くなっていくさまを眺めて言いながら、結局小沢は再び煙草に火をつけた。
「吸いすぎですよ」
 シゲが苦笑して返す。
「香奈さんといるときは、禁煙なんでね」
「他で吸ってたら、意味ないじゃないですか」
 言われても聞いているんだかいないんだか。小沢はすぅと煙草を吸い込んで、夏の青い空に向かって煙を吐き出した。
「今日も、暑くなりそうだ」
 なんて言って、口を曲げて。
「ですね──」
 返して、シゲはポケットの中からS2000のキーをとりだした。そしてそのドアに手をかけて、呟くようにして言った。
「今、再び戦えるか──」
 口許に運んだ煙草をくわえ、「ん?」と視線だけで聞き返す小沢。その視線を受けて、S2000のドアを引き開けながらシゲ。
「それでも僕は約束したから、ベルの力になりますよ」
 笑う。
「がんばれ、男の子」
 笑いながら言ったシゲの言葉に、小沢も笑う。
「そっちは頼むよ」
「じゃ、そっちは任せます」
「了解」
 返して、小沢はGTOのボンネットに再び寄りかかりなおした。S2000のシートに、シゲがその身を落ち着ける。そこに向かって、言う。
「俺も、約束したからね」
「約束?」
「ま、二年も前の約束が、今もまだ生きているかはわからないけれど」
「生きてますよ」
 軽く、シゲは返した。肩越し、少しだけ小沢に振り向いて。
「誰かが、それを憶えている限り」
「じゃ、あれだ」
 軽く言ってのけたシゲに、小沢。くわえていた煙草を手にとって、その先端の火種を見つめながら、言う。
「ますますもって、このままじゃいられないな」
 ちょっと笑うようにして、小沢は言った。
 そしてS2000は、滑るように走り出して、夏の街の中に消えていった。
 その音が遠く、消えていくのを煙草を吸いながら耳にしている小沢。オレンジだった朝の陽が、白い、夏の陽射しにその姿を変えはじめていた。
 見上げる青い空に昇っていく白い煙草の煙。白と青のコントラスト。
 小沢は煙に少し目を細めて、言った。
「じゃ──俺たちは、ますますもってこのままじゃいられないな」


 エンジン音。
 アスファルトの感触が、腕を、足を、身体中を刺激する。それでも、一也は右手をまた強く握りしめた。アクセルがまわって、エンジン音がさらに大きくなる。
 考えたくない。何も考えたくない。
 メーターの針があがっていく。びりびりと震えている。
 自分の腕や足と、同じように。

 かたんと鳴った鍵の音が、やけに大きく聞こえた。
 静かにドアを開ける。
 しんとした、薄暗い廊下。
「…ただいま」
 小さく呟く。

 震えるエンジンの振動に、一也はもう一度強く右手を握りしめた。
 身体を包む加速感に、考えたくないたくさんのことを振り落とそうとするけれど、でも、出来なくて──

 雨戸のない小さないくつかの窓から、朝の光が弱く差し込んでいるだけの、薄暗いリビング。
 誰の姿もない。
 耳鳴りのように、ダイニングキッチンに置かれている冷蔵庫が唸ってる。
 叫んでるのに──こんなにも強く、大きな声で叫んでいるのに──空気はその耳鳴りのような音以外、誰の耳にも伝えてくれない。伝える事を、拒んでる。

 どれだけ加速しても、思考する隙間がまだあって、その隙間を埋めるために、また右手を強く握りしめる。
 まだ──まだ──
 一瞬加速を弛め、爆音を響かせながら、一也は交差点を右折した。ぐっと身体を倒して、そのカーブを駆け抜けていく。目の前が開けた。真っ直ぐの道。
 ギアを落とす。クラッチを繋ぐ。アクセルを思い切りにまわす。景色が幻になって何も考えられなくなるまで、一也は思い切りにアクセルを絞りきった。

 後ろ手にドアを閉める。
 開け放たれたままの窓から、朝の光が差し込んでいる部屋。
 机の上には、開かれたままのノートと参考書。
 何も変わってない──風が通り抜けあとだけが残ってる。白いノートのページに、風の通り抜けたあとだけが残ってる。
 小さく、息をつく。ため息じゃない。息をついただけ。そう、自分に言い聞かせる。
 肩からかけていたバッグを、そっと机の上置いた。
 その中に入っていたそれを手にして、ベッドの上に横になった。
 長い髪が流れた音が耳に届く。
 しんとした部屋の中に、ただひとつ響いたその音が、耳に届く。
 何か考えて──何も考えられなくて──手にしたそれをじっと見つめていた。いくつものボタンが並んだ、細長いプラスチックのそれ。
 見つめていた携帯電話を、ぎゅっと強く握りしめて、詩織は瞳を閉じた。
 結局──私は教えなかった──
 右手を、そっと動かす。
 閉じた瞼の上に、右手を押し当てる。
 小さく、息をつく。ため息じゃない。息をついただけ。そう、自分に言い聞かせる。
 けれど、それとは裏腹に、右手は強くそれを握りしめる。
 手にしていた携帯電話が、小さくきしむような音を立てた。
 そんなはずないのに、その音が、それを壊してしまったような気がして、詩織は唇を噛んだ。

 景色が流れていく。
 そしてやがて、その音も消えていく。


       6

「一夜あけた、横須賀です」
 夏の空が、大きなテレビモニターの向こうに映っていた。その空を何機かのヘリコプターがローター音を響かせながらすぎていく。
「一夜あけた横須賀、メガフロートの上は、昨夜からの巨大ロボットゴッデススリー、そしてR‐1の回収作業が、今もなお続いています」
 女性キャスターの声。
 遙はぼうっと、それを眺めていた。
「再び地球に降下した生体兵器、エネミー。そしてそれに立ち向かった巨大ロボット。その死闘の後は、今はただ、米軍、スパイダー大隊の作業音だけが響いています」
 ホテルのラウンジ。コーヒーにトーストの軽い食事に手も着けず、遙はぼうっと、それを眺めていた。
 隣に座った香奈もまた、遙と同じように、それをぼうっと眺めていた。
「エネミーの撃退に成功した、日本政府ですが──」


 走る車の中。同じニュースが流れている。
 そして、同じようにそれをぼうっと眺めている村上。元総理、村上俊平の姿。
「いろいろと、手は回してはみたんだけどね」
 村上は少し苦笑するようにして、口許を曲げて言った。
「どうも、今の私にはそれくらいが限界らしい。あまり力になれなかったかもしれないな」
「いえ、そんなことないです」
 返したのは彼の隣に座った金色の髪の大使、ベル。ベルは彼から手渡された資料のページを、ゆっくりと一枚一枚めくっていった。
 その資料には、今、自分たちがエネミーと戦うためにつかえる場所、機械、その全てが書かれている。一晩かけて村上が手を回し、どこまで出来るのか調べ上げた結果である。
「もう、さすがに私にもあまり力はないよ」
 呟く。ふと、村上が眺めていた先の車載テレビモニターに、知っている顔が映った。現総理、小渕沢のすこし疲れたような顔だ
 村上はその彼の表情に、小さくため息を吐き出した。小さなスピーカーから、声が聞こえてくる。
「今後の対エネミー政策といたしましては、在日米軍、及び緊急のために駆けつけたスパイダー隊と密に情報交換をしあい、自衛隊と共に、今後もまた、エネミーが現れることがあれば、全力をもって殲滅作戦を──」
「何せ、今の総理と私とは、派閥が違うんでね」
 ぽつりと、村上は呟いた。ふいと窓の外を見れば、記者発表の場、つい先ほどまでテレビモニターの向こうに映っていた場所のある、国会議事堂が見えた。
 何かを思って、思った自分に、村上は再びテレビモニターに視線を戻した。
「どうかしましたか?」
 手の中の資料から顔を上げたベルが、少し首を傾げながら聞いてきた。
「いや」
 答えて、今度は村上は逆の窓の向こうに視線を走らせた。


 窓の向こうから差し込んでくる光に目を細めながら、シゲは研究所のロビーに向かって歩いていた。そう言えば、昨日は何も言わずに早退したんだっけなんて思いながら、たぶんこの時間ならまだロビーでテレビを見ているだろう皆に、うまいいいわけはないかと、考えてみたりする。
 思い当たらなくて、ロビーにまで来ると、シゲは軽く手を挙げて「おはようございます」と、普通に声をかけた。
「ああ、おはよう」
 誰かが言った。ロビーのテレビを、コーヒー片手に眺めたまま。いや、それはたぶん、声をかけたのが彼ということに気づかなかったからの反応で、直後、別の研究員がシゲに気づいて立ち上がった。
「シゲ!?」
「はい!?」
「昨日はどこに行ってたんだよ!」
 その声に、別の研究員たちも立ち上がった。「シゲ!」「どこ行ってたんだお前は?」「探したんだぞ!?」
「あ…ああ、ちょっと。いえ、まぁー…」
 言葉を濁し、数歩後ずさるシゲ。その腕を、
「こっち来い!!」
 数人の男たちががしと掴んだ。
「なっ…い、痛いですよ」
 奥のラボの方へと研究員たちはシゲを引っ張っていく。シゲが何を言おうが、全く聞く耳なしという風で、
「ちょっと、訳はちゃんと話しますから」
「それどころじゃないんだ」
 彼らは言う。
「大島で採取したエネミーの体細胞の分析結果が出たんだ。あれは、違うぞ──」
「──違う?」


「結局、エネミーとはなんなんだろうな」
 車の中から、窓の外の高層ビル群を眺めながら村上は呟いた。車載テレビの告げるニュースは、もうすでにスタジオでのキャスター同士の会話に変わっていた。
「あの時のも、そして、今回のも」
 小さく息を吐いて、村上はテレビを消した。音声が消えて、ベルもそっと、顔をあげた。
「エネミー──ですか?」
 少し考えるようにしてから、ベルは続ける。
「星と星の間を行き来する、宇宙生命体──科学者たちの論文に私見をくわえて言うのなら、自己繁殖力を持たない生命体であるために、自己を繁殖させうる能力を持つ生命体を求めて、宇宙を行き来している──と」
「なるほど」
 再び村上は窓の外に視線を送る。流れていくビル群に、目を細める。
「そして、エネミーとそれを繁殖させうる人類とが出会ったとき──が、あの二年前の出来事を生んだと言うわけだ」
 言われて、ベルは眉を寄せて言葉をのんだ。続けるべき言葉がない。その通りだから。
「いや」
 気づいた村上は、咄嗟、言った。
「君らを責めているんじゃない。勘違いしないでくれ。そうとられてしまったのだとしたら、謝るよ」
「しかし、事実ですから」
「うん──そうかもしれない。だが、だとしたらと、考えただけだよ」
「だとしたら?」
「だとしたら──ね」
 村上は再び窓の向こうのビル群に視線を送る。そしてその隙間から見える青い空を眺めながら、続けた。
「だとしたら、この星の人類がエネミーと出会って二年。私らに、それだけの科学力があるか──」
 そして、沈黙。


「あるとしたら──?」
 ベルは小さく、その沈黙を破って言った。


 ニュースが、天気予報に変わった。
 はっとして、遙は顔をあげた。トーストもコーヒーも冷え切ってる。小さくため息。それでもコーヒーをすすってみるけれど、やっぱりおいしくない。
 なにしてんだか──
 それでも冷えたトーストに、彼女は手を伸ばした。
「七月二四日、今日の天気です」
 ゆっくりとした女性の声に、
「あ」
 遙の隣に座っていた香奈が短く声をあげた。
「どうしました?」
「今日、二四日…」
「ええ、そうですけど?」
「今日、お父さん、東京に来るっていってた日だ」
 テレビを見つめたまま、香奈は小さく呟いた。
「一也…どこに行っちゃったんだろう…」


 遙は冷めたコーヒーを置いて、ふうと小さくため息を吐き出した。
 その耳に、天気予報を告げる声が届いてくる。
「今日も快晴の夏空につつまれて、暑い一日となりそうです──」
 窓の外に、真っ青な夏空が広がっていた。


                                   つづく


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