studio Odyssey


2nd Millennium END. 第3部




 早朝のヒースロー空港。ロビーにいたビジネスマンたちは皆、その映像に立ち止まっていた。
 搭乗を待つ人々の前。大型TVに映し出されたエネミーの姿。猛攻を受けながらも、それは海を激しく波打たせながら進んでいた。
 再び始まった戦争。
「どうして──」
 金色の髪の少女、ベルはその立ち止まる人々と映し出された映像を見つめながら、小さく、弱く、呟く。
「どうして、こんな事に──」
 もとはと言えば、自分たちが起こした戦争だ。だけれど、私たちはその私たちの犯した罪を償うために、今まで、こうして頑張ってきたはずなのに──
「どうしてまた、こんな事に」
 モニターの向こうに戦争が映し出されている。明滅する光と、それと一緒に消えていく命の火。どうして、今、何故?
 ベルは強く唇を噛んだ。二年前のあの戦いは、まだ終わってなんていなかった──?
 ロビーに、搭乗手続きの開始を告げるアナウンスが流れていた。英語とドイツ語と日本語のアナウンス。それを耳にして、
「行きましょう、ベル・フライエン」
 彼女の脇に控えていたスーツ姿の男が、ゆっくりと英語で言った。国連から彼女につけられた、彼女の秘書でありシークレットサービスでもある男だ。
「この便に乗れば、ドイツでの昼食会に間に合います」
「ええ──」
 と答えて、ベルはその場を離れようとして──立ち止まった。振り返る。直前──自分が見ていたロビーの景色に。
「待って!!」
 そして彼女は駆け出した。シークレットサービスの男が慌てて彼女を制止した。「待ってください!ベル!?」だけれど、彼女は彼の制止を振り切って、人の行き交うロビーの中へと躍り込んだのであった。
「待って!!」
 ロビーの向こうに消えた──搭乗ゲートの方へと消えた、その影を追って。


「待って!」
 少女のように背の低い彼女は、人波の合間を縫って、その人に追いついた。追いついて、弾む息を二、三の深呼吸に整えて、金色の髪を耳にかけながら尋ねる。少し、おそるおそると言うように。
「あなた──」
「困ります!」
 と、ベルの腕を掴むシークレットサービスの男。
「あなたを守るのが私の役目です。いくら自由に行動をすることをあなたが望んでいるとは言え、身勝手な行動は困ります!」
 言って、彼はベルを引っ張ったけれど、ベルは眼前の彼女から視線を外しはしなかった。シークレットサービスの彼も、彼女の見つめる彼女の事を、ゆっくりと見た。そして彼もまた、息を呑んだ。
「あなた──」
 再びベルが聞く。
 彼女は肩越しに振り返りながら、口許をゆっくりと曲げて笑って見せた。もちろん、目深にかぶったおニューのテンガロンハットのせいで、その目は、よくは見えなかったのだけれど、
「こんな所で会うなんて──ですか?」
 その声は、明らかに楽しげに笑いながら発せられていた。
 ことんと音を立てて、ロビーの床に大きな革のトランクを置く彼女。そして、ゆっくりと身体ごと振り向いて、その上に腰を落ち着ける。
 フェミニンな白いロングフレアのスカート。テンガロンハットとのアンバランスなコントラストが、彼女の変わらないイメージによく似合っていて、それがあの頃と変わらなくて──
「どこへ行くの?」
 ベルは聞いた。彼女の答えを、わかって。
「どこ?決まってます」
 右手の人差し指をたてて、「ちっちっ」とか言って、彼女は笑う。笑い、そしてその立てた人差し指で、ひょいとテンガロンハットのつばをあげて見せた。
 ぱっと現れた変わらない明るい笑顔に、ベルは泣き出してしまいそうで──微笑む。
「行くトコなんて、ひとつしかないでしょ」
 そう言って、村上 遙は屈託なく笑った。
「だって私ら、正義の味方でしょ?」


 ベルはそう言って見せた遙に抱きついた。思わず遙は目を丸くして、「おおっ」と倒れそうになる身体を、何とか立て直す。
「ベ…ベルさぁん」
 眉を寄せる村上 遙。
「いくら感動の再会だからって、女同士で抱き合うってものどうかと思うんですけど」
 泣き出してしまいそうだったベルは、遙がそう言ってくれて、少し笑った。「ありがとう」小さく、言う。
「遙ちゃん…日本へ?」
「夏休みだし」
 ベルは思わず吹き出した。遙は唇をつんと一瞬尖らせて、テンガロンハットをかぶり直す。けれど、結局、堪えきれずに口許を弛ませた。笑う風に。
「正義の味方だし」
「そうね──」
 そうよ──私たち、まだ、何もしてないわ。
 遙から少し離れて、ベルは小さく頷いた。まだ、できる。できるはず。
 そして、ベルはシークレットサービスの彼の方へと振り向いて、言った。
「日本へ戻ります」
「えっ!?」
 やはり彼は目を丸くした。「いや、しかし、この後ドイツに行って、その後はロシア──」
「行きましょう、遙」
 歩き出したベルに、遙も笑って続いた。「OK♪」テンガロンハットを軽く頭の上に載せ直し、革トランクを手に持ち直す。
 東京行きの飛行機。その搭乗ゲート。その向こうを見つめながら──遙は笑う。
「1999年、夏──本番って感じ?」
 なんて。




   新世機動戦記 R‐0 2nd Millennium END.
                         第3部




       1

 夜の闇の中に、島の影が浮かんでいた。
 伊豆諸島最大の島、大島である。
 雨降る夜の闇に光る家々の灯り。それを目に映して、巨大な生命体──エネミーは不機嫌そうに喉を鳴らしていた。
 その周囲を、戦闘機が飛び交っていた。空気を裂く爆音を立て、搭載したミサイルを次々と打ち出しながら、迫るエネミーの足を何とか止めようと、上陸を阻止せんとして。
 嵐のような爆撃を受けながら、エネミーは目を細めた。少しうざったそうに。だけれど、ただそれだけで、エネミーは歩みを止めはしなかった。
 巨大な生命体の前に、その攻撃は、全く意味を成さずにいたのであった。
 大島が迫る。
 その島に、巨大な波が打ち寄せはじめている。


「ご覧ください!」
 全世界に繋がるレンズを見つめながら、その女性は言った。降り続ける雨と風の中、乱れる髪を片手で押さえつけ、もう片方の手にマイクを持って。
 半透明のレインコートが、風にはためいていた。
「エネミーです!」
 ぱっと、画面がパンニングされる。と、そこに、闇の中から迫るふたつの輝く瞳があった。その瞳はゆっくりと近づいてくる。真っ直ぐに。この島へ。
 黒光りする身体の表面で、幾つかの光が弾けていた。ミサイルの爆発である。
「自衛隊、そして、アメリカ軍の必死の猛攻が続いておりますが──全く、エネミーには効いていない様子です。着実に、ゆっくりと、一歩一歩、エネミーはこの大島に近づいています」
 足下の防波堤に激しく打ち付けられた波が、白く雨の中に散る。迫るエネミー。恐怖が、彼女の、そしてその映像を伝えるスタッフ、皆の身体の中にも沸き上がってくる。
 彼女は後悔した。あの時の映像を見て、体中がしびれるほどに興奮した。自分もその興奮を伝えられるジャーナリストになりたいと思った。けれど、今、再びエネミーを目前にして、自分の目でそれを見て──
「菜美ちゃん、もう危ない。戻ろう!」
 カメラの向こうにいたディレクターが、とうとう堪えきれずに声を上げた。闇の中で明滅する光を、カメラは変わらずに映し続けていたけれど。
 マイクを握る手が汗ばむ。もしかしたら、汗じゃないかも知れない。それは降り続ける雨が滑り込んできただけなのかも知れない。この震えも、夏だけれど、もしかしたら、この雨のせいなのかも知れない。
「シメて」
 ディレクターが言っていた。ADが、カンペを出す。ディレクターの声だって、十分に聞こえてはいたけれど。
 佐伯 菜美は震える手でマイクを握り直すと、レンズとエネミーとの間に立った。震える喉をなんとか整えて、言う。
「全世界の皆さま、ご覧いただけるでしょうか」
 雨降る夜の闇の向こう、エネミーの姿。
「再び、人類に襲いかかる巨大な黒き影、エネミー。上陸は時間の問題でしょう…再び、人々は、絶望の淵へと落とされる運命にあるのでしょうか?」
 カメラが、エネミーをアップで捕らえる。
「二年前、この国の未来のために、人類のために戦った勇士たち、Necは、今はもうありません。あの戦いは、もう、終わりを告げたはずだったからです」
 菜美はゆっくりと振り返ると、目を細め、闇の向こうのエネミーを睨みつけて、続けた。
「確かに、あの戦いは終わったのかも知れません。しかし、再び、我々の前にそれは現れました。あの時から、未来に進んだ私たちは、あの過去を乗り越え、今、再び戦うことが出来るのでしょうか?」
 出来ないのかも知れない。
 菜美は一瞬、言葉を詰まらせた。あれから二年経って、あの戦いの話なんて、誰もしなくなって、結局、あの過去からどれだけ進んだんだろう。考えてみる。次の言葉を選ぶ。
 けれど、その余裕は結局、彼女にもたらされる事はなかった。
「ああっ!!」
 誰かが叫び、漆黒の海上の一点を指さした。
「ああっ!?あれは!!」
 菜美もそこへ目をやり、ぎゅっと強くマイクを握りしめた。震える声を振り絞って、言う。
「あれはまさか──!」
 漆黒の海上に、一隻の貨物船が停泊していた。ちょうど、この大島に迫るエネミーの進路上にである。しかし、それはつい先ほどまでは、確かにそこになかった。
 いつの間にか──忽然と、そのタンカーほどの大きさの船は、漆黒の海上に浮かんでいたのであった。
「まさか──」
 ごくりと菜美は唾を飲む。
 それはまた、誰もが皆──である。
 やがて、エネミーはその貨物船に近接した。邪魔なその巨大な存在に、身体をひねるようにして腕を振り上げ──
「そうです。忘れてはいけません!」
 菜美はぐっと拳を握りしめて、叫んだ。
「再びエネミーが現れた今!つまり、再び戦いが始まる時。すなわち──!」
 エネミーが振り上げた腕を、突き出す。
「復活の時っ!!」
 突き出されたエネミーの腕が狙った先、貨物船の上甲甲板を凄まじい勢いで内側から破壊して、それは姿を現した。
 エネミーが驚愕の咆哮をあげる。
 ぎらりと両の目を輝かせて、その巨大ロボットはエネミーの腕を捕らえて弾き飛ばしながら、漆黒の海の上に起きあがった。
「そう!これこそがまさに二度目の初陣ッ!!」
 再戦の初陣にたった巨大ロボットも、あの時と同じく、その巨大ロボットであった。


「出番だッ!」
 その貨物船のブリッジで、男は拳を突き上げて叫んだ。誰であろう──言うまでもなくロボット工学の世界的権威であり──当然──マッドサイエンティスト、設楽 信之である。
「二年前の借りを、ついに返すときが来たな!」
 続くのは老いてまだ熱い血潮を絶やさない南条家先代当主、南条 秀樹。
「いよいよだね!」
 ぎゅっと拳を握りしめ、ブリッジの向こうに見える巨大ロボット、R・R五号機とエネミーを見据えて言うのは南条 創。小学六年生にまで成長し、背もだいぶん伸びて、顔も少しは整ってきてはいたけれど──こくりと頷き、創は変わらずに、興奮気味に言う。
「今度こそ、R・Rの真の力を見せつけてやろう!」
 と、彼女に向かって。
「あっ…はいっ!その通りですっ!!」
 ちょっとびっくりして返したのは南条家メイド、笹沢 藍花。何故ちょっとびっくりしたのかというと、生き生きとした目でブリッジの向こうを見つめていた創に見とれていたから──というのはとりあえず置いておいて、
「その通りだ!あれから二年、ただ過ごしてきたわけではないぞ!!」
 設楽はばっと白衣をはためかせるようにして、腕を振るった。その大きなモーションに深い意味は当然、ない。
「さぁエネミー!勝負だ!!」
 びしっと、設楽はブリッジの窓の向こうのエネミーを指差した。
 R・R五号機の目が、弾き飛ばした眼前のエネミーを真っ直ぐに捕らえ、ぎらりと強く輝く。


 エネミーはゆっくりと起きあがると、頭を上下に激しく揺らしながらけたたましく吠えあげた。眼前に突如として現れた巨大なロボットに向かい、怒りを露わにして。
 しかし、
「今回のR・Rは、貴様が思っている今までのものとは、ひと味もふた味も違うぞッ!」
 設楽は負けじと返すように大声で叫ぶ。
「R・R五号機は、完全間接稼働だものね!」
 と、創。設楽の台詞を盗む。思わずむっとする設楽。が、気を取り直して、
「その通り!そして、対エネミー用に、スケールアップだ!今度こそは、負けん!!」
 ブリッジの向こうの海上にすっくと立つR・Rは、五○メートルにとどこうかというエネミーと対峙しても、全く違和感を感じさせずにいた。以前のR・Rと比べ、格段にスケールアップしている。
「R・Rは貴様らエネミーをうち倒すため、当社比2.139倍にパワーアップしたのだ」
 と、設楽。どこの当社比かは、不明。故に、数字の根拠も、不明。
 ともあれ、R・Rは対峙するエネミーに隙なく構え直した。その新たなる勇士は、確かに以前に比べ精悍、かつ、屈強そうに見えた。
 その勇士を見つめ、南条 秀樹は強く拳を握りしめて呟いた。
「ついに…ついにこの時が来たか…二年前のエネミーのデータを完全解析し、今まで以上の金をかけ、再び作り上げたR・Rが、戦いに赴くときが…」
「そうです。ついに、この時が来たのです」
 設楽も強く拳を握りしめて返した。真っ直ぐに、前を向いたままに。
「時代が進み、巨大ロボットも完全に二足歩行、自立運動が可能となりました。我々が勝利する時が──今まさに目の前にィッ!」
 びっしと勢いよくエネミーを指差す設楽に呼応するように、R・Rの目がぎらりと輝く。大きく腕を振るいながら、R・Rが、エネミーに向かって、仁王立ちとなる。
 エネミーが吠えかかる。設楽が力強く返す。
「先手必勝!R・Rショルダーミサーイル!!」
 その吠えあげるエネミーの前で、仁王立ちとなったR・Rの肩パッド上部が外側へと勢いよくスライドした。中から、無数のミサイル弾頭が現れ、
「行けーッ!」
 それは一斉に、雨の闇を裂いて打ち出された。
 対エネミー用ミサイルをさらに強化した特殊ミサイルが、降りしきる雨と同じくして無数に打ち出される。複雑な軌跡を描きつつも、目標であるエネミーをあやまたずに捕らえて、炸裂する。
「やった!?」
 拳を握る創。
「やりましたか!?」
 藍花も両手をぎゅっと握りしめて続く。
「あり得るものか!」
 その中、設楽は冷静──というか、期待に満ちた声で、
「この程度でやられてしまっては、張り合いがないぞエネミー!」
 ばっさと白衣を翻す。瞬時の間もなく、創が返した。
「それもそうだね!」
 それもそうである。
「全ての武器を使い切るまでは!!」
「──創さま…」
 藍花は潤んだ目頭をきゅっと抑えた。
「大人になられて──」
 ともあれ、エネミーの咆哮が煙幕の中からブリッジの強化ガラスを激しく震撼させた。


「エネミーが迫ります!」
 菜美はマイクを握り直し、叫ぶ。
 レンズの向こう、突然あられた巨大ロボットに、エネミーが凄まじい勢いで肉薄する。
「亀のような甲良を持ち、黒い強固な肢体を雨に濡らす恐怖の大王、エネミー。対するは人類で初めてエネミーに立ち向かった巨大ロボット!R・Rシリーズ、その五号機!」
 菜美の声はテレビだけでなく、ラジオでも流れている。菜美はそれを理解していた。理解していたので、どうすればラジオを聴くだけの視聴者に伝わるか、考えていた。
 エネミーの姿。
 そして、R・R五号機の姿。
「言うなれば──そう!」
 行き着いた答えを、菜美は言った。だてにあの戦いを見てアナウンサーを、この仕事をすることを夢見たわけではない。
 菜美は明確にして簡潔に、その眼前の二体の巨人たちを明言した。
「まさに、ガメラVSジャイアントロボ!!」
 よもや、彼女が設楽のR・R五号機設計図に書かれていたコンセプトメッセージを目にすることなど、ありはしなかったのであるが──
 ガメラ──いや、エネミーが、ジャイアント──いや、R・R五号機に肉薄する。


「胸部ミサイル、及びウェストレベルミサイル発射!」
 迫るエネミーに叫ぶ設楽。
 R・Rが両の腕を腰だめに構える。と、その胸の装甲が上部へと勢いよくスライドした。中から、ソケットに収められた無数のミサイル弾頭がせり上がり、がちりと大きな音を立てて固定される。その音は誰の耳にも届くほどの大きさだったが、当然、その音に深い意味はなく、
「ゆけっぇ!」
 腕を振るう設楽に合わせ、無数のミサイルが打ち出された。巻き起こる爆煙。そしてその爆煙を裂いて、閃光と共に腰についた二基の砲門も火を噴いた。
 閃光が、爆煙を突き抜けて走る。エネミーの体表に、数多の爆発が巻き起こる。
 しかし、闇を裂き、その爆発を受け止めたエネミーは、真っ直ぐにR・R、そして停泊する艦に近づいてきた。
「ちぃッ!やりおるな!!」
 嬉しそうに言う設楽。いや、実際それは嬉しかった。
「そうでなければ、張り合いがない!」
「でも設楽サン!」
 叫ぶ創。エネミーの腕が、R・Rに向かって突き出される。
「ああっ!!」
 藍花も悲痛な叫びをあげた。創と藍花、二人の声が重なる。
「やられちゃうっ!」
「ふ──」
 設楽は目を伏せ、その声に笑った。
「やられるものか」
 そう──R・Rはエネミーの突き出した腕を、易々と身かわしたのであった。足を動かし、海を割りながら、半身になって回転して。
「R・Rは、二年前とはひと味もふた味も違うのだ!」
「R・Rが動いた!?」
 驚愕する藍花。
「当然だ!」
 設楽は満足顔。だけれど、
「あ──そういえば、四号機も動けましたね。意味なかったですけど」
 藍花は冷静にぽつり。設楽は「むっ」。
 R・R四号機も、確かに動けた。HONDAの作り上げたP2の技術を用い、R・Rシリーズではじめて歩行を可能としたのである。が、藍花の言ったように、その戦いは船上のみで、そこに意味は全く、なかったのだけれど。
 とはいえ、そんな過去の、しかもいらん事を言って、藍花は設楽と南条に睨まれた。「は──っ!?」と、視線に気づいた藍花は、しまったと口を押さえた。けれど、
「お仕置きされちゃうね」
 創はぽつり。言われてさらに藍花は「は──!?」と頬を赤くして──とりあえずその辺りの話は置いておいて、攻撃をかわされたエネミーは、ゆっくりと、R・Rに向き直った。「ふ──ケリをつけたいか、エネミー…」
 設楽は言う。不敵に微笑みながら、怒りに喉を低く鳴らすエネミーを見据えて。
「俺も、お前と再びこうして戦えるときを、長い間、待ち望んでいたんだぜ」
 にやりとニヒルに笑う設楽に、創もごくりと唾を飲む。
「ついに──だね」
「その通りだ」
 答える祖父に、創も頷く。
「R・Rの、R・Rによる、R・Rのための武器…」
「そう、R・RのR・Rたる理由…」
 再び、エネミーが大きく前へと踏み出した。けたたましい叫びと共に。
「そして、R・Rの存在意義!」
 設楽は腕を振るった。
「ゆくぞ!皆のものッ!!」
 R・Rが左足を素早く後ろへ下げる。と、海が割れ、そこに白波が立った。
 上半身を大きく開くR・R。迫るエネミーに応えるべく、左腕を真っ直ぐに後ろへと引き、その目を、ぎらりと、今までで最も強く輝かせた。
 栄光の勝利へと向かって──
 強く拳が握りしめられる。力が、その鋼鉄の腕に満ち満ちていく。
「行けェッ!!」
 皆の雄叫びと共に、R・Rは左腕をエネミーへと向かって真っ直ぐに突き出した。
「ロケットパーンチっ!!」
 突き出された左腕が火を噴く。反作用を中和すべく、背中のバックパックもまた、闇を掻き消す爆光を発生させていた。
 大地が激しく揺れ、海が激しく荒れた。生み出された熱に、踏みしめた足から巻き起こった白波が一瞬にして蒸気となる。
 そしてそれは飛んだ。真っ直ぐに。エネミーに向かって。
 ロケットパンチ。R・Rの、最強の必殺技である。


「ああっ!」
 菜美は拳を握りしめて叫んだ。
「出ました!必殺、ロケットパンチ!!」
 迫るエネミーとロケットパンチの強烈な推進力とが激しくぶつかり合い、閃光が辺りを真昼よりも明るく照らし出した。
 青い海に二体の巨人の影が焼き付く。
 エネミーの断末魔とも言える咆哮が響いた。
 辺りを切り裂いた閃光と、巻き起こった爆発と突風に、降り続けていた雨が瞬間、その空間から消滅した。
「しかし皆さん──!」
 菜美は言う。R・Rの勇士を真っ直ぐに見つめながら。
「今のは左腕!!」


「当然だ!」
 設楽は叫ぶ。いつの間にかしたサングラスの奥で、その目がぎらりと光る。R・Rと同じくして。
「右腕!?」
 閃光から逃れるように手をかざしていた創が、驚愕と共に声を上げた。霞む目で見れば、ブリッジの向こうのR・Rが、体勢を崩して今にも海に沈没しそうなエネミーへ向かって、再び一歩を踏みだそうとしていた。
 左腕のロケットパンチを発射した格好から、そのまま右腕を振りかぶり、そして──
「これで終わりだエネミー!」
 設楽の叫びに応えて、爆発が支配する空間にむけ、R・Rは右腕を突き出した。
「ロケットパンチ!ダブルクラーッシュ!!」
 再び巻き起こった閃光と爆音に、辺りの空気は全て、その活動を止めた。
 光が空間の全てを支配して──やがて、ゆっくりと消えていく。


       2

 暗い暗い、闇の空間。
 彼がスイッチを押すと、そこに光と音が投げ込まれた。
 深夜のリビング。
 吉田 一也はテレビのリモコンを持ったまま、リビングからダイニングキッチンへとゆっくりと進んだ。そして、歩み寄った冷蔵庫のドアを静かに開けた。
 中から、心地よい冷気が流れ出てきた。
 一也はドリンクホルダーからミネラルウォーターを手に取り、
「──R・Rの活躍は、すばらしかったと思いますよ」
 スピーカーからの声に耳を傾けた。
「過去、何度かR・Rはエネミーと戦っていますが、今回のように、完全勝利したのは初めてといえますからね」
 そのコメンテーターは一也も知っていた。確か、巨大ロボット研究家だかなんだかで、自分も何度か話をしたことがある。いつだったか──忘れたけども。
「実際は、エネミーを倒したと言うよりは撤退させたと言う方が正確かと思いますが?」
 この報道特別番組のメインキャスターであるらしい、六時台のニュースでも顔なじみの男性アナウンサーが言う。と、コメンテーターの男はすかさず返した。
 一也はボリュームを少し絞って、ミネラルウォーターを口に運びながらリビングの椅子に腰を降ろす。
「いえ、それでもこれは勝利といえます。着上陸阻止。それが自衛隊、アメリカ軍の目指した勝利とすれば、R・Rは大勝利をおさめたと言えるでしょう」
 テレビ画面が、VTRに切り替わった。R・Rの放った二発のロケットパンチの映像だ。薄暗いリビングを眩しく照らす光に、一也は目を細めた。
 光の中で、エネミーが激しく断末魔の咆哮をあげている。聞き慣れた咆哮に、細めた目をさらに細めて、一也は眉を寄せた。
 爆発に、肉片らしきものが辺りに飛び散っていた。苦痛に顔をゆがめるエネミーのアップ。それがゆっくりとフレームアウトしていって──海面に、巨大な水柱が立ちのぼる。
 やがて、静寂がその海に訪れる。
 一也は、ミネラルウォーターを再び口に運んだ。
「では、現在の大島の映像です」


「現在、大島では厳戒な立ち入り禁止体制がしかれ、再び現れたエネミーが一体何者なのか、調査が行われています」
 女性アナウンサー──菜美だ──が、低く切迫した声で言う。映し出された映像は高台からR・Rとエネミーが対峙した防波堤付近を撮影しているらしい。投光器の投げかける灯りの中、アメリカのロボット、スパイダーが何機か映し出されている。
 その映像をバックに、女性アナウンサーは原稿を見つめながら言った。
「調査対象は、エネミーがまき散らした肉片を中心に行われ、数時間前に到着したアメリカスパイダー隊を中心に、回収作業が行われている模様です」
「R・Rロボはどうなったのでしょう?」
 スタジオからの声だ。女性アナウンサーは耳に入れていたイヤホンを片手で押さえて頷くと、
「えー…正式な発表はされていませんが、専門家等の意見によりますと、おそらく装備武器は現時点で全て使い切っているだろうという見解です。もしも一両日中にエネミーが再来する事があれば、さすがに再戦に赴くことは難しいと思われ、依然、ここ大島は、予断を許さない状況と言えます」
「確かに、R・Rはその最強の武器が自らの身体の一部ですからね」
 スタジオに映像が戻ってきた。先の巨大ロボットコメンテーターが、頷きながら最もな意見を述べている。
 一也はため息と共にゆっくり立ち上がった。リモコンに手をかけて、
「では、ここでエネミーに付いて詳しく、二年前の戦いの際、最前線でそれを目の当たりにしたジャーナリスト、新士 哲平氏にご意見を伺いたいと思います。新士さん、再び現れたエネミーは──」
 テレビを消そうとした手を、一也は止めた。モニターの向こうに、新士がいる。思わずほころぶ口許に、一也は自分で戸惑った。何してんだか──
 ゆっくりと、新士 哲平は身振りを交えて話していた。
「今回現れたこの巨大な生命体は、確かにエネミーと言えるかも知れません。ですが、本来ならば、エネミーはもう襲来はしてこないはずなのです」
「確かに。それは誰もが疑問に思っていることだと思います。とすると、自然に生まれた、もしくは過去のエネミーの生き残りではないかという説もありますが…」
「ええ。確かに、その可能性はないとは言えないでしょう。このボードをご覧下さい」
 と、新士はテーブルの上にボードを置いた。
「これはエネミー──ここでは、正しくはOHO、Overed Human Organismと言うのですが──を研究している機関の発表をグラフにしたもので──」
 一也はリモコンをテーブルに置くと、キッチンとリビングとを仕切る台の上から、白い紙袋を手に取った。
 薬の袋。
 振ってみると、かさかさと軽い音が返ってきた。そろそろ切れるかな──一也は一錠だけ中から取りだして手に握ると、リビングの椅子に再び腰を降ろした。
「このグラフからもわかるように、どの研究機関も、エネミーには生殖能力がないだろうという見解を示しています。とすれば、このエネミーが過去のエネミーが生み出したものではないと、そう考えるのが妥当と思われますね」
「とすれば、生き残り説ですが──?」
「その可能性が、現時点では最も高いと言えると思います。最も、宇宙空間に浮遊していたエネミーを、あの当時の厳戒態勢の中、発見できなかったとすれば──ですが」
 ミネラルウォーターを口に含んで、一也は薬を飲み込んだ。これで、寝付けなかった頭痛も少しはおさまるだろう──
「それから、国民の皆さん、全ての質問だと思いますが──あの、特務機関Necは?」
 男性キャスターが、その言葉を口にした。
「ええ。今はもう解体されてしまいましたが──」
 新士が言う。
 一也はテーブルにうつぶせると、微かに開けた目で、テレビの放つ光を見ていた。テレビの放つ音を、鼓膜に感じていた。
 睡魔が、急激に襲ってきていた。眠くなる薬だとはわかっていたけれど──テレビの音の向こうに、夜蝉が鳴く音が微かに混じって、聞こえていた。
「対エネミー用機関として設立されたNecですが、すでに解体され、R‐0はお台場のミュージアムに展示されてしまっています。R‐1も解体されてしまいましたし──」
「それはつまり、この事態の中にあっても、特務機関Necが復活する事はないと?」
「ない──とは、これも言い切れないかも知れませんが──」
「ないんだよ、新士さん」
 そっと目を閉じて、一也は言った。
「ないんだよ、新士さん──」
 鼓膜を揺らす音。
 瞼の向こうの光。
 一也は小さく、言った。夜蝉の鳴く夏の夜に、微睡みの縁で、小さく。
「僕のあの半年は、結局、何だったんだろう──」
 テレビは絶え間なく、そのニュースを続けていた。
 一也がそれを耳にすることは、もう、なかったけれど。


       3

 七月二三日の朝は、日本全国、そのニュースで持ちきりだった。
 テレビモニターの向こうに映し出されたマンション。報道陣の群れ。ざわめきに満ちた公道に、時折クラクションの音が響く。
 映し出されているのは、一也、香奈の住むマンションだった。誰かがカメラの前でコメントを述べている。「過去の英雄」「歴然の勇士」その言葉ともに、その向こうにいる彼のことを、彼の一挙手一投足を、したり顔に語っている。
 一也はペンを走らせていた。より正確には、シャーペンを。机の上のノートに、参考書の英文を訳すために。
 CDが、小さなボリュームで流れている部屋。カーテンは閉じられて、柔らかな光だけが部屋を照らしだしている。
 廊下では香奈が電話をしていた。「すみません──いろいろとごたごたしてまして──はい。二、三日、休暇を頂きたくて──はい。すみません」
 ふと、一也は手をとめて部屋の中を見回した。少しだけ開けた窓から、夏の風が吹き込んできていた。
 白いカーテンが、ゆっくりと、揺れていた。


 T大学。その14号館前も似たようなものだった。
「だーからー!」
 押し寄せる報道陣の波を押さえつけながら、大沢 一成は言う。
「本当に、巨大ロボットなんか作っていないんですってば!」
「そんなこと言って、本当は作っているんでしょう?」「何故、巨大ロボットでエネミーに対抗しないんですか?」「平田教授にコメントを頂きたいんですよ!」
「教授は今、立て込んでまして──」
 迫る報道陣に返すのは桐嶋 かなた。
「ちょっと!手伝ってよ!」
 と、一人離れて状況を静観していた植村 雄に向かって、文句を言う。
 言われて、植村は嫌そうに顔をしかめて見せた。報道陣は手にカメラ、マイクを持ち、なんとか歴戦の勇士である平田教授のコメントをと迫ってくる。力尽くで14号館入口を突破し、研究室に今にも雪崩込まんという勢いだ。
「よろしい──」
 おもむろに、植村は言った。言って、ゆっくりと一歩前へと歩み出た。
 そのゆったりとした物言いに、報道陣たちが一瞬停止した。ぴた、と停止して、はっと、植村にカメラとマイクを向ける。
 植村はにやりと笑うと、言った。
「誰かが僕に、二億兆円ほどくれれば、巨大ロボットをつくってあげないこともない」
「バカ!」
 即座にかなたはその言葉を発した。


 ロビーのテレビを見ていた男が、そのやりとりに声を上げて笑った。笑って、肩越しに後ろに立つ彼に向かって聞いた。
「お前の後輩だろ?」
 皮肉混じりの物言いに、中野 茂──シゲ──もしかたなく笑う。
「でも、払えばきっと本気で作りますよ」
「マジかよ?」
 驚く先輩研究員に、シゲはただ笑うだけ。彼は真意を推し量れずに、シゲに向かって再び聞いてみた。
「お前──巨大ロボット、作ってないよな?」
「ないですよ」
 シゲも今度は思わず笑う。
「大島で採取した細胞片が、そろそろ届く頃ですよ。ラボに行きましょう」
「ああ──」
 もの惜しげにテレビを見つめていた彼も、シゲに言われてゆっくりと席を立った。


 モニターの向こうのスタジオでは、コメンテーターとして、新士が質問を受けていた。少し疲れた顔をしてはいたが、彼は変わらずに冷静に現状を語っていた。
「次にエネミーが現れるときは、確実に本土決戦となると予想されていますが、新士さんは、そのことについては?」
「可能性は、非常に高いと思います。そして、エネミーはもともと、人口密集地を襲うよう、本能的にプログラムされていると言われています。今回も、出来る限り、人口密集地沿岸の方は、避難された方が賢明かも知れません」
「東京湾沿岸ですね」
「そうです。そして、ある情報筋によりますと、歴戦の勇士、道徳寺 兼康氏と春日井 秀樹氏は、政府の協力依頼を受けたと言われています。再び、都市部が戦場になる可能性も、否定できないと言えます」
「と、すれば、やはり旧Necの動向ですが──?」
「現状では──」
 新士は少し、言葉を詰まらせた。


「吉田先輩、やっばり来てないの?」
 彼女は言った。
 夏休みの高校。その美術部部室。彼女はドアをがらがらと開けて中に入ると、部屋の中にいた皆をくるっと見回して、言った。
「なんだー」
 と、少しばかり残念そう。昨日買った画材の入った袋を黒い大きな美術室の机の上に置き、同級生の友人に向かって、再び、
「せっかく、ちょっと話聞いてみたかったのになー」
 軽く笑いながら言う。と、返すように友人も彼女に駆け寄って、きゃあきゃあと続いた。
「だよねだよねだよね!先輩、全然、そういうこと教えてくれないんだモンね!私もさー、昨日ニュース見て、初めて知ったんだよー!」
「あっ、私も私も」
「ちょーびっくりじゃん?」
「ちょーびっくりじゃん!」
 盛り上がる後輩たちに、吉原 真一は頭を掻いた。脇にいた男の後輩たちが、困ったような視線を彼に送っていた。吉原はのそりと立ち上がる。立ち上がって、彼女たちが持ってきた画材の袋に手を伸ばした。
 ドアがゆっくりと開く音がした。と、後輩──女子たち──が、「きゃー!」と黄色い声を上げた。
「松本センパーイ!」
「先輩先輩先輩っ。吉田先輩と先輩ってー…」
「先輩、いろいろ聞いていいですかぁ?」
「おい。コテねーぞ、コテ。コテ買ってこなかったんかぁ?」
 突然に声を上げた吉原に、彼女たちも一瞬止まった。
「コテ」
「えー、そんなことないですよー」
 と、一人が画材の入った袋に手を伸ばして覗き込む。他の連中も、彼女に続いた。隙に、渡辺 恵は詩織の腕をとって、ちょっと離れたところに彼女を引っ張っていった。


「現状では──」
 新士は少し、言葉を詰まらせながらも、言った。
「復活に向けての動向は、全くと言って見られません」
 モニターの向こうの新士から視線を外し、小沢 直樹は小さくため息を吐いて、すぐそこにいる新士を見た。モニターを見てはいたけれど、視線を外せばすぐその目の前に、スタジオで喋る新士の姿が見える。このスタジオから、この映像は全国に向けて発信されているのだから。
 小沢はしばらくスタジオのライトに照らされて、全国に繋がるカメラの前で話す新士を見ていたが、やがて顔なじみのプロデューサーに会釈だけをして、スタジオを出た。
 スーツの内ポケットから煙草を取りだし、ライターを片手に握る。
「現状では──」
 小沢は局内の廊下で立ち止まった。見晴らしのいい廊下。大きな窓から、東京湾が見渡せる。青い空。青い海。
 灰皿の置かれた三人掛けのベンチに、ゆっくりと腰を降ろして、小沢は煙草に火をつけた。
「現状では──」
 ゆっくりと煙草を吸って、言う。
「再び戦わなきゃならない、理由がない──か」


 夏の風に揺れていたカーテンから視線を外すと、一也はそっと、机の上のそれを見た。
 高さ14センチほどのプラスチックモデル。
 二年前、自分が乗っていた巨大ロボット、R‐0のキットだ。あの時、Nec本部が解散されたとき、シゲが彼に「記念に」とくれたものだった。
 一也はそれを見て、小さく呟いた。
「あの頃──僕たちは──何のために戦っていたっけ」


       4

「なーにやってんだか」
 報道陣の取り巻くマンションを見上げるため、彼女はテンガロンハットのつばをひょいとあげた。
 昼へと向かう夏の陽射し。
 ちょっと目を細めるようにして、彼女は口許を弛ませた。「ちょいっとごめんなさいよ」と、革トランクを持ち直して歩き出す。白いフェミニンなロングスカートが、夏の風の中で揺れていた。
 二年前の彼女の顔をはっきりと覚えている者は少ないのか、誰も、我がもの顔でてくてくと歩いていく彼女を立ち止まらせはしなかった。最も、気にはしていて、皆、彼女の方を見てはいたのだけれど。「おい、あれ?」「うん…どこかで…」
 ちょっとつまらなくて、口を尖らせる。
「なんだ、面白くないなぁ」
 呟いて、彼女はマンションの中に入った。
 まるでそこが我が家であるかのように。


 部屋の前にも報道陣たちがいた。
 しかし、今はちょうど放送の時間などではなかったのだろう。照明もたかれておらず、マンションの廊下に三、四人で固まったグループが何組かいるだけで、特に下と違って騒がしいという訳でもなかった。
 と、その中を彼女は鼻歌混じりに通り抜けていく。
 騒がしくはなくとも、彼女に「誰?」振り向く視線に楽しそうに。
 彼女は微笑みを口許に浮かべながら、ドアの前に立った。ごと。と、革トランクを足下に置いて、ドアノブをひねって──当たり前だけれど開いていなくて、インターホンを指先で小気味良く叩いて鳴らす。
 けれど、反応は──ない。
「なんだよもぅ」
 彼女はふんと口を尖らせて呟いた。
 それを見て、報道陣たちもついに動き出した。誰かはよくわかっていなかったが、吉田家に来た女性の来客──それもとても親しそう──に、マイクを向けて尋ねる。
「あの、お知り合いですか?」
 夏の太陽と同じように眩しい照明に、彼女は目を細めた。
「いえ」
 そして彼女は躊躇せずに返した。ポケットの中から取りだした鍵を手に。
「住人です」
 答えて、遙は鍵穴にその鍵を差し込んだ。まわす。かたん──という音。
「じゃ」
 と、笑って、遙はドアを開けて部屋の中に入った。
 ばたんとすぐさまドアを閉めて再び鍵をかけ、にやぁと笑う。楽しそうに。
 そして、言う。
「ただいまー」


 その声に、リビングのテーブルについていた香奈ははっと立ち上がった。
 はっとして、スリッパをぱたぱたと鳴らしながら、リビングから玄関へと続く廊下へと顔を出す。その彼女の脇を、黒猫のウィッチが嬉しそうに鳴きながら、軽やかに首の鈴を鳴らして駆け抜けていった。
「ただいま、ウィッチー♪」
 飛びついてきた黒猫を、遙は両手で受け止めた。そして頭の上にまで掲げて、「元気だったかー」と笑う。
 玄関のすぐ脇にあるドアが、ゆっくりと開いた。
 そこに向かって、
「ただいま」
 遙はウィッチを抱きなおして言う。微笑みながら。
「あ…」
 言葉を返せずに、一也は息を呑んだ。玄関に、あの頃と変わらない遙がいて──二年前、当たり前のように見ていた光景の懐かしさに、一也は少し──
「ただいまって」
 と、遙はウィッチを投げた。ウィッチが嬉しそうに鳴く。一也は慌てて投げ渡されたウィッチを両手でキャッチした。「な…!?」
 だけど、遙はおかまいなし。よいしょとブーツを脱ぎはじめる。
「昔っからさ、チェーンロックしといた方がいいって言ってんじゃん。相変わらず、日本はセキュリティレベル低いねー」
 そのお陰で入って来れたのだが、そんなことは些細な問題。関係なし。遙はブーツを脱ぎ、玄関を上がった。
 ちょうど、香奈も玄関まで出てきたところだった。
「遙ちゃん、帰ってくるなら、言ってくれればよかったのに!」
 言う。
「トランク、持つわ。お部屋に置いておけばいい?」
「あ、自分でやりますよー」
 勝手知ったるなんとやらである。だけれど香奈は「外、暑かったでしょう?何か冷たいもの──麦茶でいいかなぁ」と、リビングの隣、二年前、自分と遙が一緒に使っていた部屋の中に消えていった。
「相変わらず、順応性高いね」
 と、遙は苦笑い。一也の方はウィッチを抱いて、突然現れた遙に小さくため息を吐き出すだけ。
「順応性が高いんじゃないよ」
 言う。
「状況を理解してないだけだよ」
「ああ、なるほど」
 こく。と遙は頷いた。「ごもっとも」
「で──」
 奥に消えた香奈の方を見たままで、一也は聞いた。
「遙、何しに帰ってきたの?」
「一年ぶりにあって、初めての質問がそれかい」
 遙も香奈の消えた方を見つめたまま、だけれど憮然として、口を尖らせて返した。
「一也、髪、格好良くなってんじゃん」
「ありがとう」
 少し長い茶色い髪をかき上げて、一也はため息。
「一年ぶりにあって、初めての会話じゃないね」
「同感」
 やがて、インターホンがけたたましく鳴り始めた。ドアの向こうの報道陣たちが、慌ただしく動き出しはじめていた。


 電子顕微鏡が映す映像をモニターに見ながら、シゲは小さく息を吐いた。椅子に座り直して、頭の後ろで手を組む。
「初めて見るタイプだな」
 その後ろで、先輩研究員が資料片手に呟いていた。
「これが大島で?」
 モニターを見つめながら聞くシゲ。
「ああ、細胞片は他にもあるけど…」
「そっちも分析してみましょう」
 と、
「シゲ、お客さんが来てるぞ」
 立ち上がったシゲを、別の研究員が呼んだ。入口のドアを開けて、くいくいと「こっちこい」と手招きをしながらに。
「客?」
「急ぎだそうだ」
「えっと──」
「いいよ、他の細胞片はこっちでやっておく」
 返した先輩研究員は、すでに別の細胞片を取りだして、分析の準備を進めていた。
「すみません」
 シゲはその背中に向かって軽く頭を下げる。そして、ドアの方へと小走りに駆け出した。「誰です?」「ロビーで待ってもらってるよ。こっちは俺がやろう」
「すみません」
 入れ替わるようにしてシゲは廊下に出ると、ロビーへと急いだ。こんな時に誰だろう──と、夏の陽射しが差し込む広いロビーを、少し眼を細めて見回した。
 金色の髪の少女の微笑みに、シゲは目を丸くする。
「ベル!?──だって」
「帰って来ちゃった」
 笑って、ベルは自分の後ろを指さした。少々憮然とした表情のシークレットサービスの男がいる。シゲもよく知っている男だ。
 思わずシゲは苦笑いを浮かべて、彼にちょこんと頭を下げた。
「どうして?」
 ベルに近づき、聞く。昨日、空港まで送っていったばかりなのに、どうして?
「どうしてかな?」
 小首を傾げ、ベルはシゲに一歩近づいた。その手を伸ばして、彼の手に触れる。
「ロンドンでね、遙ちゃんに会ったの」
「遙ちゃんと?」
 聞くシゲを見上げ、ベルは言う。強く。
「今、ちょっと平気?」


 リビングの椅子の変わらない座り心地に、遙はうんうんと小さく頷いた。なんとなく、しっくりといく感じ。
 テーブルの上には、香奈が出してくれた麦茶が乗っていた。
 涼しげなガラスのグラスに、水滴が輝いている。
 ただ、涼しげなそれとは対照的に、部屋の中は暑苦しいほどにけたたましいインターホンの音が響いていたのだけれど。
「ごめんね、うるさくて」
 少し疲れたようにして、香奈は言う。
「朝からずっと、この調子で──」
 と、ふいに音が消えた。見ると、一也がインターホンの受話器をあげて、ぶちっとその線を思い切りに引きちぎったところだった。
 部屋の空気がゆっくりと落ち着きを取り戻していって、静かになる。一也のその行動を見ていた香奈と遙。二人もまた、同じに。
 一也は引きちぎった受話器を、自分の部屋の中へと投げ捨てた。それは何かに当たって壊れるような音を立てたけれど、別段一也は気にするでもなく、自分もリビングの椅子へと腰を降ろした。
「で?」
 遙に向かって、聞く。
「そうね」
 遙はテーブルの上の麦茶を手に取ると、それをぐいっと一気に飲み干し、
「事態は切迫しているらしいので、単刀直入に言いましょう」
 たんっと小気味よくテーブルを打って、一也に向かって言った。
「さ、一也。行くわよ」


「そりゃ、確かにそうかも知れないけれど──!」
 シゲは驚きに目を丸くした。そして、テーブルを挟んだ向かい側に座っていたベルを見た。
 けれど、ベルはシゲの買ってくれたアイスコーヒーに一口も口を付けず、真っ直ぐ彼を見ていただけだった。決意に満ちた、その表情で。
 研究所のロビー。来客用ソファのこちらと向かい。
 シゲとベル。
 彼女は再び、言う。
「結局、なんであれ、エネミーが再び現れた事実は変えられないでしょ」
「それは、確かにそうだけど…」
「何故、再びこの戦いが始まったのか、確かに大切だけど、今しなくちゃならないことは本当は何か、考えてみたの。ずっと。飛行機の中で」
 ベルはシゲをまっすぐに見つめたまま、言った。精一杯の思いを込めて。
「だから、もしかしたら、ごめんなさい。もう一度、シゲさんたちの力を、借りたいの」
「確かに──」
 シゲは視線を外して言う。
「そりゃ、僕たちだって力を貸したいよ。だけど、もうNecは解体されてしまって、R‐0は展示物。R‐1も解体されてしまったし…出来ることなんて、なにがあるか──」
「うん。でもきっと、何か出来ることがあると思う。そう信じて、私たちが二年前に、この地に来たときと同じで──だから──」
 真っ直ぐに、ベルはシゲを見つめていた。シゲはその視線をちらりと見て、再び視線を逸らす。
 昨日とは違う輝きがそこにあって、金色の柔らかな髪の奥に、あの頃の輝きを見て、シゲは聞いてみた。
「遙ちゃんと、あったって?」
「うん」
「そう──」
 瞳の輝きを見て、シゲは口許を少し弛ませた。そうか──きっと、彼女は二年前と変わらなくて──いや、変われて?──だから──
「力になってください」
 ベルはシゲの横顔に向かって、精一杯の声で、言った。
 ふっと、その台詞がシゲの頭の中で弾けた。そういえば──シゲは笑うようにして背を逸らすと、真っ直ぐに自分を見つめるベルを見つめ返して、言った。
「ダメだよ」
 と、頭を掻く。
「そんなこと言われたら、断れるもんか」


「どこへ?」
 一也は軽く笑いながら聞いてみた。
 遙はしっかりと、返す。
「戦いに、よ。あなたの力が、再び必要になったのよ。光栄でしょう?」
「そんなことないよ」
 と、背を反らせるようにして椅子の背もたれにもたれる一也。茶色い髪の頭を掻きながら、
「それに、僕がまた戦わなきゃならない道理はないだろ?」
 言う。
「どうして?」
「どうして?って──Necは解体されたんだ。僕はもう、Necの人間じゃない。それに、R‐1も解体されて、R‐0も今やただの飾り物。この状態で、僕に戦えって?」
 ひょいと肩をすくめ、遙を見て、笑う。
「もしも僕が戦うと決意したって、無理だよ」
「そう?」
 首を少し傾げて、遙は一也のことを真っ直ぐに見返した。一也も少し、その遙の瞳を見つめていたけれど──口許が弛む。笑い出してしまいそうになる。それで、一也は視線を外した。遙の背中の向こう、夏の陽射しの差し込む窓の向こうに。
 ゆっくりと息を吸い込むと、遙は続けた。
「私も、無理かなって思うわ」
「そう?」
「でも、私はここへ来たわ」
 真っ直ぐに、遙は自分から視線を外した一也を見つめていた。一也もきっと分かってる。自分が戻ってきた理由。そして、本当なら、自分がしなければならないこと。
 視線を外して、外した視線を泳がせることなく、一也はただじっと窓の向こうを見つめていた。別に、レースのカーテンがかかった窓の向こうは、本当は、何も見ることなど出来はしなかったのだけれど。
 ただじっと、一也はその向こうを見つめていた。頭の後ろで手を組んで、少し、笑うように口許を曲げて。
 二年前、自分は戦った。だけど、あの戦いは──
「行きましょう」
 遙と、再び視線があった。


       5

 T大学。
 14号館前で、なんとか歴戦の勇士、平田教授のコメントを貰おうと粘っていた報道陣たちは、ついに恐怖した。
 鼻歌を歌いながら、二人の研究生がおもむろに現れたからである。押し問答の果てに、ドアを閉めて研究棟へ入ってしまったと思ったら──二人は手に、なにやら筒のような物を持って戻って来たのである。にやにやと、意味深に笑いながら。
 そして、二人は報道陣たちの目の前で、それを発光させた。赤と青。よく見ればそう、スターウォーズのライトセーバーである、それを。
 報道陣は皆、恐怖した。それがおもちゃである──とは、さすがに誰も思えなかったのである。そしてそれは当然、おもちゃなどではなかった。男二人、植村と大沢は嬉々としてそいつで報道陣に斬りかかる。報道陣が蜂の子を散らすように逃げ出す。
 追う植村と大沢。
 その頭を、かなたが丸めたレポートで思い切りにはたいていた。
「たいした連中だ」
 その光景を見下ろしながら、
「新しい研究生か?」
 村上 俊平は軽く笑う。
 14号館。入口が見下ろせる部屋。
 平田教授の部屋である。
「ええ。今度のも、なかなかの逸材でしょう?」
 笑って、教授はカップをテーブルに置いた。スチール棚の奥に隠しておいた、とっておきのアカプルコ。
「どうぞ」
「ありがとう」
 コーヒーを手にする村上。そう言えば、初めてあったときもこうしてコーヒーを飲みあったっけなんて思い出して、その香りにそっと眼を閉じる。
「子どもが生まれるんだって?」
 少し唐突に、村上は聞いた。
「小沢ですか」
 笑って返し、教授もコーヒーをすする。
「ええ。予定は、八月末くらいですけど」
「そうか──おめでとう」
 言いながら、思わず村上は吹き出しそうになった。ちょっと、想像してしまったのである。男の子が生まれるか、女の子が産まれるか、自分は知らない。けれど、この教授が子どもを相手にしている姿を思うと──
「どうかしましたか?」
「いや」
 聞き返す教授に、村上は笑いながら続けた。
「子どもが生まれると、きっと、教授は子煩悩になるんだろうなってね」
「ですかね」
 自分でもなんとなく、それが想像できたのだろう。教授は肩をすくめるようにして笑うと、再びコーヒーを軽くすすった。
「そういう、村上さんこそ──」
 そして言う。
「子煩悩さでは、日本でも屈指でしょう?」
「かもしれんが、遙の方はそうでもないらしい。あの歳にもなればね」
「そうですか?」
「今日──というか、ついさっきだな。帰ってきたらしいんだが、会ってもないよ」
「遙くんですか。あぁ、もう、二十歳になりますか…」
「二十歳になってもやってることは、同じだよ」
 笑いはしたけれど、村上は一瞬、真顔を見せた。教授はそれに気づきはしたけれど、何事もなかったかのように、コーヒーを喉に流し込んだ。村上の言う台詞は、なんとなく分かっていた。そのためにここにわざわざ来たのだろう。
「遙は、もう一度戦うつもりで戻ってきたんだそうだ」
「──そうですか」
「ベルにもね、言われたよ。もう一度戦ってはくれないかとね。我々の力が必要なんだと」
「──そうですか」
 村上はため息混じりに笑った。
「もう一度、戦ってはくれないのか?」
「村上さんは──」
 教授は窓の向こうを見つめて、漏らすようにして言った。
「遙くんがイーグルに乗ると言いだしたとき、どう思いました?」
 窓の向こうには、緑の葉を茂らせた桜が一本、たっている。
「あの時は──そうだな。何を思ったろう」
 返し、村上もまた、その桜に視線を送った。
 遙の言うことは、何でも聞いてやる。──そんなつもりはないけれど、自分は遙の言うことは否定しない。娘がやりたいことがあれば、それをさせてやる。
 だいたいは、そう。
 それは自分の過去が関係していて、そして、遙の過去が関係していて──
「今、再び戦えるか…」
 村上は小さく呟いた。
 あの頃と同じように。
「今、再び戦えるか。今も、あの頃と同じように出来る自分がいるか、私自身も不安だよ」
 娘も大きくなって、今は、自分の手からも離れていったようで、そして、結局は、あの過去を乗り越えていけたような気もして。
 そして、今とあの時とでは、自分の立場も違う。
 あの頃信じていたものが、果たして今もまだ変わらずに残っているのかどうか。今、再び戦えるのかどうか。
「だけれど──」
 村上は窓の外を見つめたままで、言った。
「私は、あの時、ああ出来た自分を、今も誇りに思っている。君はどうだ?」
 そして村上は教授に振り返った。
 教授は少し考えるような沈黙を返し、窓の外を見つめたままコーヒーをすすっていた。
 スーツ姿。薄汚れた白衣は、今ではもう着ることもなくなった。爪の中も、油で汚れてなんていない。無精髭もない。あの頃の面影は、ない。
「R‐0は、私の最高傑作ですよ」
 それでも、教授は口許を弛ませて言った。
「青春の、ホコリとも言えますね」
「そうか」
「ええ」
 村上は頷きを返す。そして、コーヒーを再び口へと運んだ。
 この男も、私も、きっと同じだ。同じ場所にいて、同じものと戦って、同じ傷を、もしかしたら受けたのかも知れない。
「なら、胸を張ってもいいと私は思う」
 村上は言う。
「私はもう、政治家には戻れないだろうが、それでも胸を張って、この先も生きていく。生きていきたい。君はどうだ?」
「──どうでしょうね」
 教授は微かに口許を曲げて、窓の外を見つめ続けていた。
 緑の葉を茂らせた桜が、そこに変わらずにあった。


「遙は、自分が戦う訳じゃないだろ。遙は、僕を連れ出しに来ただけだろ?」
 一也は、見つめる遙に向かって微笑み返した。
「誰に言われたのかは、知らないけどさ」
 吉田家のリビング。向き合う遙と一也。
 遙は少しきつい表情を見せるように眼を細めると、
「一也、本気で何もしないつもりなの?」
 言った。
「違う。何もできない」
 一也は即座に答えて返す。遙も続く。
「嘘。そんなことないと思う。一也は何もできないんじゃなくて、何もしないだけ」
「決めつけるなよ。昔っから、そうだ」
「私は、誰かに言われてここに来た訳じゃないわ。自分の意志で、ここに来たの。ロンドンから帰ってきて、真っ先にここに。あなたに会いに」
「光栄だね。でも、期待はずれでごめんね」
「──本気なの?」
 そこで、会話が一瞬止まった。
 テーブルのふたりを交互に見ていた香奈は、何かを言おうと口を動かしたけれど、そこから言葉がでてこなかった。ふたりの間の空気が、それをさせてくれない気がした。
 遙がゆっくりと身体を動かす。そして、何かを言おうと、長い髪に手を伸ばして掻き上げる。それを見ながら、一也も身体を動かした。
 口と一緒に。
「そんなにあれなら、遙が戦えばいいじゃないか。遙だって、歴戦の勇士だろ?」
 遙が一瞬、その手をとめた。
「──本気なの?」


 生まれた沈黙。
 それは空気が音を伝えることを拒んでしまったから生まれたようで、本当なら、ふたり、いつもと同じにやり合っているはずなのに、空気がそれをさせてくれないようで、二人はその口から言葉を吐き出すことが出来ずに、ただ、黙って見つめ合って──
 そっと、遙は視線を外した。
 答えのない空間を支配した沈黙を破って、遙は言った。
「──じゃ、そうするわ」
 小さく、フローリングの床と擦れ合って椅子の足が音を立てる。立ち上がる遙。テーブルの上に置いていたテンガロンハットを手にとって、深くかぶる。
 その視線を見られないように、つばをしっかりと押さえつけて、遙は呟いた。
「You coward…」


 革トランクを手にした遙が出ていくのを、一也はただ椅子に座ったままで待っていた。それ以外に、自分に出来ることはなくて。
 玄関のドアが開く音。
 真夏の太陽よりも明るい光。カメラのフラッシュの閃光。たくさんの報道陣たちの声。
 そして再びドアの閉まる音。
 一也はその音を聞いてから、ゆっくりと立ち上がった。香奈が小さく声をかけようとして、かけられなくて、退いた。歩く一也の前からそっと。
 一也は軽く息を吐き出して、笑って見せる。けれど、姉はどう返していいか分からなくて、気がつくと視線を外していた。


 一也は閉じられたドアを見つめていた。
 金属のドア。重たいドア。
 そこに何かが見えて──いや、見たくなくて──彼は自分の部屋に入った。
 後ろ手にドアを閉める。
 呟く。
「何やってんだ、俺は──」
 遙の残した台詞に、一也はどうしようもなくて、苦笑した。


 そっと、遙はマンションを見上げた。
 取り巻く報道陣がいる。瞬く無数のフラッシュがある。伸びる何本ものマイクがある。誰かが聞く。「何を話していらしたんですか?」「Necは復活するんですか!?」
「再び、戦ってくれるんですね!?」
 視線を外す。
 うつむく。
 そして、彼女はマンションの前で待っていた車に乗り込んだ。
「出して下さい」
 言う。
「一也君は来ないか」
 返し、小沢はミッションに手を伸ばした。小さく、息を吐く。
「──そうか」
 ふっと視線を送ると、助手席に座った彼女は、窓の向こうを見上げているように見えた。いや、実際、彼女の顔は真っ直ぐに前を向いている。本当は、小沢にはそんな気がした──というのが正しかったのだけれど。
 小沢は思い切りにアクセルを踏んだ。GTOのエンジンがけたたましい音を立てる。その音に、報道陣が散っていく。
 クラッチを勢いよくあげると、車はその合間をぬって走り出した。


 一瞬だけ、遙は本当に窓の向こうを見上げてみた。


 窓の向こうから聞こえたその音は、一也の耳にも届いた。
 聞き慣れた音。誰の車のエンジン音か、分かる。小さく、息を吐き出す。
 机の上に開かれたノートと英語の参考書。少し開かれた窓から吹き込む風。カーテンを軽く揺らしている。
 やがて、夏の空気が落ち着きを取り戻していく。
 ずっと続いていたのと変わらない日常が、やがて、戻ってくる。




 夕暮れに、雷が空を駆け抜けた。
 やがて、再び雨が降り始めた。
 ふと顔をあげて、窓を打つ雨に、一也ははじめて時の流れに気がついたような気がした。ノートの上に書かれたたくさんの英文。再びそれを見て、ため息。立ち上がり、窓に歩み寄る。手を、そっとその窓枠に押しつける。
 青かった空が無くなっていた。厚い、黒い雲が夏の空を覆っていた。雨が窓を打ち始めていた。
「夕立か──」
 再び、雷鳴がとどろいた。
 降り続ける雨の雨足が、少しずつ、強くなり始めていた。


 再びの戦いの始まりを告げる足音と共に、少しずつ。


                                   つづく


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