studio Odyssey


2nd Millennium END. 第2部




 クリスタルパレス。
 北米防空司令部の巨大なエレクトロニックマップの下、職員たちが慌ただしく動いている。それを少し高い場所から見下ろしながら、指令、ジョンソン・グレンは呟くようにして言った。
「今、何故またエネミーが…」
「戦争は、終わっていなかったと言うわけでしょうか」
 返したのは彼の部下の副指令。副指令もまた、エレクトロニックマップの下、慌ただしく飛び交う情報を眺めて漏らす。
「再び、世界はあの時と同じ時代に戻る──訳でしょうか」
「わからないがね」
 ジョンソン・グレンは言った。言って、再びエレクトロニックマップを見た。
 点滅する光。
 ひとつはポリネシア、ツアモツ諸島近海。
 もうひとつは日本、小笠原諸島近海。
「エネミーか…」
「まだ、その姿は確認されていません。エネミーとは、言い切れませんよ」
「──だといいがな。我々は再び、エネミーを前に戦えるか──世界は、再びエネミーに立ち向かうことが出来るか」
 作戦司令室に、刻々と変化を続ける最新情報が飛び交っている。


 その情報に耳を傾けながら、呟いた指令の小さな声に、男は笑った。
「世界は、再びエネミーに立ち向かえるか」
 クリスタルパレスの作戦司令室。それを見下ろす一室に、男たちの影がある。
「愚問だな」
 言って、男は煙草に火をつけた。
 作戦司令室から、この部屋の中を見ることはできない。万が一の事態の時に、大統領がこの場所に座り、最後のボタンを押すためだけに作られた部屋だからだ。
 その部屋の中にいる男たち。
 灯りのない部屋に、飛び交う作戦司令室の情報の全てが、小さなスピーカーから聞こえてくる。
「すべては、あの悲劇の瞬間から、決まっていた事だろう」
 男は細く、微笑んだ。
「我々人類が、次の時代へと進むために」
 ゆっくりと煙草を呑むと、その赤い光が暗闇の中で、ひときわ強く輝いた。


 吉田 一也は、リビングの床にそのまま座っていた。
 ふと、顔を上げて窓の外を見る。と、窓の外はいつの間にか暗くなっていた。阿呆らしいことに、学校帰りに買ってきたジャンプに読みふけって、日が沈んだのにも気が付かなかったらしい。
 のそりと立ち上がって、とりあえずカーテンを閉めに行く。ついでにテレビのリモコンを取って、とりあえず電源を入れてみる。
 そろそろ、姉、香奈も仕事を終えて帰ってくるだろう。米くらいといでおくかなんて考えながら、カーテンに手を掛けた。
「──に流れた流星は、現在調査中の段階ですが、専門家の分析に寄りますと、97年に降下したエネミーのそれと非常によく似ている、という事です。繰り返しニュースを──」
 黒猫のウィッチが、テレビから突然に聞こえてきた音に跳ね起きた。はっとして、慌てて、テーブルの足に頭をぶつけてのたうち回る。
「馬鹿猫」
 言い、一也はカーテンを締め切った。そして、ダイニングキッチンへと向かった。
「今日、午後四時半頃、再び空に流星が流れました。流れた流星の数はふたつ。このふたつの流星は──では、明日、七月二十日、海の日の天気です」
 突然に変わった女性の声に、ウィッチが顔を上げた。
 ダイニングキッチンのテーブルの上に一也はリモコンを投げるようにしておくと、
「さって、何合とごうかね」
 なんて呟きながら、シンクの下にしゃがみ込んだ。
「明日、海の日は残念ながら全国的に晴天には恵まれず、行楽にはむかない天気が予想されます。では続いて、各地の予報です」
 女性キャスターの可愛い声が、一也の鼻歌の合間に聞こえている。




   新世機動戦記 R‐0 2nd Millennium END.
                         第2部




       1

 七月二十日。
 海の日は、晴天とは言えない天気だった。せっかくの夏の始まりの一日目だというのに、曇り空。
 嫌な空ね…松本 詩織はその空を窓の向こうに見て、小さくため息を吐き出した。この夏の始まりの日にこんな天気で、この夏は──そんなふうに考えて、やめる。
 駅前のドトールは、今日が休日という事もあって、少しばかり混みあっていた。位置的にも、待ち合わせに使われやすいのだろう。店内には、男女のペアが目立つ。
 ふぅと小さく息を吐き出して、詩織はアイスティーの入ったグラスを、指先で軽くなぞってみた。滴がひとつに繋がって、テーブルの上に広がっていく。そのテーブルの上には携帯電話。
「雨、降るのかな…」
 呟いて、詩織はまた窓の外を見た。と、テーブルの上の携帯電話が宇多田ヒカルのメロディーを鳴らし始めた。慌てて詩織は着信ボタンを押す。
「もしもし?」
「今、どこ?」
 聞こえてきた声に、詩織はため息。
「今、ドトール。遅いよ」
「ごめんごめん」
 電話の向こうで、一也は笑った。笑って、そして言った。
「今、その前」
「え?」
 と、窓の外を見ると、電話を手にしたまま小走りに近づく一也の姿があった。自分に気づいた詩織に軽く手を振って、彼は彼女の座る窓際の席の前を通り抜ける瞬間に、その窓を軽く叩き、笑う。
 そして、切った電話をポケットに押し込みながら店内に入ってきた。
「ごめん、遅れた。最近、バイクばっか乗ってるから、電車の時間、忘れてた」
 言い、詩織の向かいの席に腰からかけていたナイロンバッグを投げ置く一也。詩織はちょっと不機嫌そうに、
「一也、来ないかと思った」
 言う。
「なんで?」
「昨日のニュース、見た。また、エネミーが現れて、さ」
「そんなの」
 笑いながら、一也は返した。
「なんでまた、俺がわざわざかり出されるわけ。そんな理由ないって。ちょっとアイスコーヒー買ってくるわ。走ったら、喉乾いた」
「…うん」
 軽い足取りで詩織から離れていく一也。詩織はその背中を見送る。
 店内には、自分たちと変わらないような、男女のペアがたくさんいた。きっと、他の人から見れば自分たちも同じ風に見えるんだろうな──それが嬉しくて、だけれど、すこし、フクザツ。
 ため息。
 そんなこと、出来ないんじゃないの?聞きたいけれど、聞けない。もしも聞いてしまったら、ホントに離れていってしまうかも。そうしたら今度は、もう帰ってこれないかも。
 同じに見えて、同じじゃない。
 一也が戻ってくる。そして、軽く微笑みながら自分の目の前に座って言う。
「スターウォーズ、何時からだっけ?まだ少しここにいられる?」
 微笑みながら、詩織は返した。
「うん」


 事務所の床には、資料が散乱していた。
 片づけていないからである。いや、より正確には昨日引っぱり出した資料のせいで、相乗的に散乱が激しくなっていたのであるが。
 その、マンションの一室を使っている事務所のソファで、小沢 直樹はゆっくりと身体を動かした。関節がぎしと鳴る。痛い。ソファで寝るんじゃなかったと後悔する。目を開ける気になれない。
 床に散乱した資料は、全てエネミー関係の資料であった。昨日流れた流星に、小沢たちの仕事は、急激に忙しくなったのであった。
 壁に掛かっているカレンダーには、びっしりとコメントを求められたテレビ、雑誌の出演依頼が書き込まれている。今までエネミーを追い続けてきた彼らに、ある意味で、大きなビジネスチャンスが回ってきていた事は、間違いなかった。だが──
「…ん」
 小沢はゆっくりと足を動かした。動かした足で床を確かめて、なんとか起きあがる。まだ午前中だ。いつもなら、まだ寝ている時間。だけれど、なにか、いい匂いがして、小沢は頭を掻きながらゆっくりと起きあがったのだった。
「あ?」
 寝ぼけ眼でダイニングキッチンの方を見る。
 と、
「あ、おはよう」
 目が覚めた。一瞬で。
「あ、いや…」
 と、小沢はくしゃくしゃの髪をかきあげて、Yシャツのはだけた胸元を整えて、やべぇ、髭剃ってないぞと、顎を隠すように撫でる。で、言う。
「え?なん──?」
 キッチンで、吉田 香奈はくすりと笑って、言った。
「おじゃましてます」
「え──あ、いや。はぁ…汚いトコで…」
 言っておきながら、自分で何を言っているんだかと、小沢は頭を掻いた。その、頭を掻く小沢に向かって、
「チャイムの音にも気づかないくらい、熟睡してるからだ」
 笑いながら悪態を付いたのは、片桐。片桐もキッチンにいて、冷蔵庫の中から出したらしい桃を、器用にナイフで切りながら食べていた。
「全然、気づかなかった…」
「それよりも」
 片桐は桃を口の中に入れると、キッチンに掛けてあるタオルを小沢に投げてよこす。で、皮肉っぽく笑って言う。
「顔くらい、洗って来いよ。百年の恋も醒めるぜ」
 思わず、香奈はくすりと笑った。それが妙にはずかしくて、
「…うるせぇよ、片桐」
 小さく言って、小沢は立ち上がった。「…わかってるよ」と、洗面所へ向かう。途中、まだ寝ている新士と篠塚、そして泉田を、順番にけっ飛ばしながら。
「オマエら、起きろよ」
 蹴られて、皆は、「うーん」と唸った。当然、唸っただけで、起きる気配はなさそうだったけれど。
 微笑みながら、香奈は言った。
「もうちょっとしたら、御飯出来ますからね」


 首相官邸。
 二階に、首相執務室がある。
 南向きの首相執務室には大きな窓があって、今日は少し弱いけれど、夏の陽射しが差し込んできている。落ち着いた洋風の部屋。厚い絨毯。中央から少し窓に寄ったところに、大きな木の机。
「どうしたらいいのか、さっぱりわかりませんよ」
 その陽射しに照らされた大きな机の上にある電話を手に、小淵沢総理は苦笑していた。
 革張りの椅子は窓の外をむいたままになっている。小淵沢総理は立ったままだからだ。所在なさげに、といった様子で。
「危機管理マニュアルは、確かに私も目を通しました。ですが、あれはエネミーに対してのもので、今のこの状況に置いてというものでは──」
 電話の相手に向かい、小淵沢総理は懇願するようにして言う。けれど、電話の相手はあまりいい返事を返してはくれなかったのだろう。
「そうですか」
 呟いて、小淵沢総理は電話を切った。そして、ゆっくりと、やっと、椅子に腰を落ち着けた。執務室に入って、今やっと、である。
 就任して、じき二年。短命内閣かと言われながらも、なんとかここまでやってきた。それは、こうしてたくさんの政治家たちに意見を聞き、うまく政治を転がしてきたからだ。いつもいつも、執務室に入って、まずは電話──と、である。二年もの月日の間。
 けれど──
 小淵沢総理は大きく息をついて頭を抱えたのであった。
「どうすればいい。再び現れたエネミーを前に、我々はどうすればいい」
 さっぱり見当も付かない。二年前、世界に初めてエネミーが現れたとき、あの時の総理も、今の私と同じ気持ちだったのか──小淵沢総理は頭を抱えたまま、再び深いため息を吐いた。今、自分に出来ること──やはり、あの時の英雄たちに頼らざるを得ないのか──
 思い、小淵沢総理は再び電話に手を伸ばした。意を決してである。
「失礼します」
 執務室のドアが、ノックと共に開かれた。秘書が、顔を出す。
「お客様です」
「ああ──もうそんな時間か」
 受話器を戻し、立ち上がる小淵沢首相。秘書が部屋の中に入ってくる。そして、ドアを大きく開き、秘書の彼は、部屋の中に彼女を招き入れた。
「いらっしゃい」
 満面の微笑みをその顔に浮かべ、小淵沢総理は彼女に向かって言った。
「はじめまして」
 女性──というよりは、外見は少女に近いが──は、ゆっくりと落ち着いた口調で言い、頭を下げた。
 金色の美しい髪が、さらりと揺れる。すがすがしい夏の香りに似た香水の匂いが、微かにしたような気がした。
 彼女は微笑みをたたえた口許で言う。
「ベル・フライエンと申します」
 金色の髪の大使、ベルはそっと歩み寄って、右手を差し出した。


「また、エネミーが現れたんですか?」
 言ったのは香奈だ。事務所のダイニングテーブル、普段は使わないそのテーブルについて、普段は食べない誰かの手料理なんかを食べている皆に向かって。
「ああ」
 返したのは小沢。他の連中は、無言でその手料理を食べ続けている。
「あっ、この野郎!そのサラダの海老は、俺が食うために残して置いたんだ!」
「そんなこと言って!泉田さんはいつも僕に食ってかかる!」
「てめぇ、篠塚、カメアシのくせに!」
「昔の話じゃないですか、今は違いますよっ!」
「あの、喧嘩しないでも…おかず、なくなったらまた何か作りますから」
「あ、香奈さん、おみそ汁をもう一杯いただけますか?」
「あ、はい。新士さん、ご飯の方は?」
「あ、すみません。じゃ、ご飯も」
「はい。ちょっと待ってくださいね」
 まるで、幼稚園の先生のようである。
 香奈は立ち上がると、新士の茶碗を持って、コンロの方へと歩き出した。
 それを見送って、小沢はちょっと苦笑する。で、まだ海老で言い合っている泉田と篠塚の手を、箸の先で思い切りにつついた。「いたッ!」「何すんだ!」
「ちっとは遠慮くらいしろ」
 それを見て笑っている片桐。
「それで──」
 香奈の後ろ姿が、言った。
「本当にまた、エネミーが現れたんですか?」
「ああ──その可能性が、ある」
 ぽつりと、小沢は返した。


「単刀直入に言って──」
 ソファに深く腰を落ち着けて、小淵沢首相は言う。眼前に座った、金色の髪の大使、ベルに向かって。
「エネミーは、もう、我々の前に現れないはずではなかったのかね?」
「そうです」
 躊躇することもなく、ベルははっきりと返した。あり得ない。エネミーは、もう、この星に襲来するはずはない。
「では何故?」
「私たちが、これから先の未来、共に暮らしていくために、我々は武器としてのエネミーを捨てました。二度と、エネミーが戦争の先兵として、送り込まれるようなことはありません」
「では何故、今またエネミーが我々の前に現れたんだね?」
 ため息をつきながら、小淵沢首相はゆっくりと背をソファに保たせかける。
「私は、エネミーについては君ほど詳しくはない。納得行くように、説明してもらいたいんだが…」
「そうですね」
 ベルは悟られぬように小さく息を付くと、言った。
「本来、エネミーには生殖能力はありません。ですから、誰かがそれを作り出さない限り、我々の前にエネミーが現れることはあり得ないのです」
「なるほど」
「確かに、我々にはその技術があります」
 小淵沢首相の方へ、少し、ベルは身を乗り出した。目を細めた小淵沢首相に向かって──彼女は続けた。
 しっかりと、力強く。
「エネミー甲殻卵体の持つ空間移動能力についても、確かにこの星よりも進んだ研究結果を得られています。確かに、我々にはその技術があるといえるでしょう」
「では、何故だね?」
 小淵沢首相は、ゆっくりと立ち上がった。詰め寄るベルから逃れるように。
 スーツの襟を正し、窓から外を見る小淵沢首相。夏の始まりを告げる空は、低い雲に覆われている。世紀末の夏の、始まりの空。
「──わかりません」
 そっと、ベルは言う。
「正直なところ、わかりません。もしかしたら、我々かも知れません──」
 その言葉は、言いたくはなかった。それじゃ、今まで私たちがしてきたことは、いったい何だったのだろう。二年もの月日の間、この世界を懸命になって駆けずり回って、そして、今、やっとここまで来て──
「ただ──」
 ベルは唇を噛み締めながらも、それだけは言った。
「再びエネミーが現れたのかもしれないということだけは、事実として、受け止めなければならないのかも知れません」
 窓の外の曇天の空が、今にも雨を降らせそうだ。


「どうして、また、エネミーが現れたのかなって」
「エネミーじゃないよ。超過生体有機体。Overed Human Organism」
「どう違うの?」
「同じだけど」
 笑って、小沢は煙草に火をつけようとして、やめた。マンションから駅への道。川を埋め立てて作られた、遊歩道の道。少し先を、香奈が歩いている。後ろ手にした麻結いのバッグを揺らしながら、少し、楽しそうに。
 小沢はポケットに煙草を深く押し込んだ。「あ、今日、この後時間ある?ちょっと、出かけよう──」「あ、今日はちょっとダメなの。夕方に、この前退院したおばぁちゃんの所、行ってあげないといけないから」
「今日は、小沢さんに、ご飯作りに来ただけ」
 小沢は軽く笑うと、ポケットに手を入れたまま、言った。
「いや、それはともかく、飯、ありがとう。久々にまともなもの食べたよ」
「そんな…家に来てくれれば、いつでもごちそうするのに」
 笑い、ゆっくりと香奈は振り向いた。後ろでひとつの束ねた髪が、ふわりと揺れる。こぼれ落ちそうなその微笑みに、小沢も思わず、口許を弛ませた。
「でも、いつもいつも、カップ麺ばっかり食べてるんでしょう?台所、見たわ」
「おいしいカップ麺の作り方なら、香奈さんにも負けない自信があるね」
「なにそれ」
 言って、香奈はまた笑った。
「麺の上にかやくを均等に広げるテクがね」
「そんなの、あるの?」
「あるよ」
 やがて、遊歩道は駅へと向かう大通りへと行き着く。
 行き交う人の間を縫って、ふたりは歩いていた。さっきまでは少し、香奈の方が先を歩いていたのだけれど、人通りが多くなるにつれ、ふたりは並び合うようになって、手を繋ぐようになって──
 人波の中、はぐれてしまわないよう、ふたりは歩いていた。
「エネミー、また、現れたんでしょ?」
 小さく、再び聞く香奈。
「──ああ」
 今度ははぐらかさずに、小沢も答えた。香奈が、その手を少し、強く握り返してきたからだ。
 電車のレールを蹴る音が、二人の間に滑り込んでくる。駅が近い。
「どうして?」
 香奈は、手を握ったままで、聞いた。騒音に掻き消されてしまうほどに弱い声で。
「もう、エネミーは現れないはずじゃなかったの?」
「──ああ」
「じゃ、どうして?」
「どうしてかな…」
 小沢は答える。
「でも、こうなることも、もしかしたら、必然だったのかもとは、思う」
「どうして?」
「歴史は、過去からずっと、続いてるものだから。リセットなんてできやしない。だから──かな」


「降るのかな?」
 映画館から出てきた一也は、曇天の空を見上げて呟いた。手には、スターウォーズエピソード1のパンフレット。
「どうなのかな?」
 隣の詩織が返す。
「せっかく、夏が始まったって言うのに、この天気はないよなぁ」
 言いながら腰に下げたナイロンバックにパンフを押し込む一也。
「どうしよっか?」
「うん?」
 詩織は微笑む。一也はその微笑みに、「さて、どうしようかな」と頭をかいた。
「ふらふら、とりあえず歩いてみよっか?」
「うん」
 差し出した一也の手を詩織は握りしめた。恋人同士。
 夏──の空はだけれど、今にも雨を降らせてしまいそうだった。


 首相官邸からゆっくりと出てきたベルは、待つ人に、そっと微笑みかけた。
 その微笑みをわかって、彼も軽く笑って返す。少し複雑だけれど、その微笑みの彼女の気持ちが、わからないわけではない。
 シゲも、過去にエネミーと戦ったものたちのひとりだからだ。
「送るよ」
 中野 茂──シゲ──は言う。言って、HONDA S2000のドアを開ける。ベルはシゲが自慢していた新車を見て、今度は本当に笑って、
「どこへ?」
 なんて、言った。
「何処へでも。お嬢さんの好きな場所へ」
「そうね──」
 笑い、シートに座るベル。低い車高に、上目遣いになってシゲを見上げ、金色の髪の少女は、微笑みたたえた口許で言った。
「誰も知らない場所なんか、悪くないかも」
「悪くはないね」
 それくらいのことは、きっとできる。けれど、できない。
 二人もそれくらいのことは、わかっている。
 S2000専用にHONDAが総力を挙げて開発した2L直列4気筒DOHC VTECエンジンのノートに耳を傾けながら、シゲはスロットルを踏んでいた。扱いやすい50:50という理想的な前後重量配分、ミッドシップ車に匹敵するヨー慣性モーメントの小ささ、ちょっと派手な運転でもしようかな、と思ってやめる。
 ツーシートの隣に座ったベルを、シゲはちらりと見た。気づいたベルが、小さく呟いた。
「…雨、降りそうね」
「あぁ…そうだね」
 シゲは言う。
「天気が良ければ、せっかくのオープンカーだもの、幌をあげて走ったのになぁ」
「いいね、オープンカーで、どこか、ひろーい草原とかを走るの」
 楽しそうに言うベル。シゲもちょっと楽しくなって、言う。
「いいね、北海道とか」
「え?私はイギリスとかだったなぁ…逆に、快晴の空の下もいいな。サンフランシスコとか、すっごくお日様が綺麗な」
「ワールドワイドだね」
 思わずシゲは苦笑い。この二年間、ベルは世界中を回ってきた。きっと、シゲなんかよりずっとずっと、この星の至る所に行っている。
「そんなことないよ」
 ベルは、窓の外から東京のビル群を見つめて漏らした。そうね…確かに、世界中、いろんなところに行ったわ。だけど、また──
「これから、また、世界中を飛び回らなきゃならなくなるんだろうな。また、シゲさんともなかなか会えなくなっちゃう」
 言うベルに、シゲは喉をならすだけで返す。彼女の気持ちが、わかる。
「アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国。大国も、小国も」
「──辛い?」
 シゲはちょっと素っ気なく、前を向いたままで聞いた。聞かなくても、答えはわかっていた。彼女はきっと答えるだろう。「でも、それが私のしなくちゃならないことだもの」
 だけれど、シゲの思っていた答えは、彼女の口から紡がれる事はなかった。
 沈黙の時間が、流れていく。
 エンジンのノートが、二人の間の沈黙を埋めていく。
「どうしてまた、こんな事になっちゃったのかな」
 ベルは小さく、その中で呟いた。
「私、何をしてきたんだろう。この二年間。もしかして、何の意味もない二年間を過ごしてきて──それでまた、同じ事を繰り返すのかな」
 微かな声に、シゲはベルを見た。ちらり、一瞬だけ。
 でも、彼はその一瞬でも、彼女の瞳を見る事ができた。
 金色の柔らかな髪の奥の瞳。
 消え入りそうな、弱い光。
 かける言葉がなくて──沈黙の間にまた、エンジンの音が滑り込んでくる。


 一也はふと空を見上げた。
 厚い雲が覆っていた空に、微かな晴れ間が広がっていた。
 その隙間から、夕焼け色の空が覗いている。
「どうしたの?」
 立ち止まった一也に、先に行ってしまった詩織が立ち止まる。そして、一也の見ている空を彼女もふっと見上げてみた。同じ、夕焼けの空が見える。
 詩織は微かに、微笑んだ。
「あ、すこし、晴れたね。明日は真っ青な夏空が見られるのかな?」
「どうかなぁ」
 一也は少し笑って、小走りに詩織に駆け寄った。
「晴れたら晴れたで、暑くていやかもだけどね」
「そうね」
 わずかな隙間の夕焼け空に、ジェット機の白い軌跡が流れていく。
 一也がそれを目にすることは、なかったけれど。


       2

 漆黒の夜の闇。
 それを裂いて、赤い光が飛んでいく。
「こちらRMS、RMS。クリスタルパレス、応答願います」
 太平洋上をP3‐Cが飛んでいく。薄暗いその機内。眼下のポリネシア近海のマップに、赤い点が点滅している。
「こちらクリスタルパレス。状況の報告を」
「こちらRMS。降下予想地点近海に、異常はみあたりません」
 米海軍兵たちが各計器を見つめている。ポリネシアに降下した謎の流星──それがエネミーかどうかは、まだ誰もわからなかったけれど──を確認しに、P3‐Cは夜の太平洋上を飛んでいたのであった。ただ、ポリネシアはフランス領だ。最新の機器、計器で探索をすることは、流石にできないでいた。
 機内の兵士たちが、ぽつりと言う。旧型の計器のお陰で、一向に発見できない『目標』にしびれを切らしたように、吐き出すように。
「一体、どこに消えやがったんだ?」
「さぁな」
「面倒くさい任務だぜ。なぁ?」
「どうだろうな」
 苦笑いを浮かべながら、仲間は無線でクリスタルパレスと交信していた。クリスタルパレスの方でも、まだ『目標』の確証にまでは至っていないという報告が聞こえてくる。
「引き続き、監視を続けてくれ」
「RMS、了解」
 ポリネシアを飛ぶ、赤い光。
「やれやれだ。本当に、奴らがまた、現れたとでも言うのかよ?」
 やがて、その光を掻き消すように太平洋に朝日が昇ってくることだろう。
 流星が流れて、二日目の朝が、やがて明けていく。


「あれ?どこに行くの?」
 朝の吉田家。
 ダイニングキッチンのテーブルの上を片づけながら言うのは香奈。言葉の先にいるのは、部屋から出てきた一也だ。その手には、ヘルメットを持っている。
「ツーリングでもいくの?」
 微笑みながら、香奈は続けた。
「そうか、もう夏休みだもんね。いいなぁ、お姉ちゃんも早く夏休みにならないかな。そうしたら、一回、京都にも帰って──」
「違うよ」
「違うの?」
「違うよ」
 一也はちょっと苦笑いだ。肩に掛けたティバッグを見せながら、
「図書館に行って来るよ。涼みながら、勉強。これでも受験生だよ?」
 言う。香奈もこくこくと頷いた。「あ、そうか」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
「うん」
 軽く笑って、一也はマンションのドアを開けて出ていった。ゆっくりと、金属の扉が閉まる。
 その音を耳にして、香奈は小さくため息を吐いた。
 ちょっとの、間。そして、
「家にいたくないのね」
 香奈は呟いた。
 自分が仕事に行ってしまえば、一也はこの部屋にひとりきりだ。もしも暑いのが嫌だとしても、リビングに来ればエアコンがある。何も、バイクに乗ってまで図書館に行くことなんかない。
 きっと、一也は家に一人でいたくないんだわ。
 香奈はそう思いながら、少し強くダイニングテーブルを拭いた。
 なんとなく、その気持ちはわからなくもない。ふと視線を走らせる。今日はまだ、一度もつけていないテレビ。
「あ、急がなくちゃ」
 その上の時計を見て、香奈は仕事に行く準備を急いだ。


 緑の葉が、陽光にきらきらと輝いている。
 四月に来たときは、ここに桜が咲いていたのだけれど──季節が移り変わり、夏になって、今は緑の葉が陽光にきらきらと輝いている。
 T大学。14号館。
 その脇の桜の木の下を抜けて、小沢は軽い足取りで中に入っていった。行く先は決まっている。脳内情報処理研究室だ。過去の、脳神経機械工学研究室である。
 真新しい廊下。窓。扉。ネームプレート。小沢は形だけのノックをすると、そのドアを開けた。
「お邪魔します」
 と、笑いながら言って、中に入る。と、そこに学生が三人、いた。三人の学生は屈託なく笑いながら研究室に入ってきた男に、ちょっと驚いたそぶり。
「ぁ、何かご用ですか?」
 声をかけたのは、三人の中の紅一点、桐嶋 かなただった。その脇にいた植村 雄は、顔も上げずに、「む」と眉を寄せた。なぜなら、かなたの声のかけ方が、「いい男」を見たときにのみ発せられる声だったからである。
 ひょいと顔を上げ、植村は男を見た。ドアの向こうにいた男が、笑いながら返していた。
「あ、僕、小沢 直樹っていいます。教授とかから、聞いたりしてるかな?」
「あ、小沢さんですかぁ?」
 語尾を伸ばすようにして言ったかなたの声に、大沢 一成も目を細めた。「む」と。
「教授、いる?」
 と、小沢。
「あ、はい。こちらです」
 かなたは小沢を連れて、奥へと消えていった。「教授ー」とである。それを視線で追いながら、
「扱いが違う」
「──んなもんだ」
 植村と大沢はぼやき、机の上に視線を戻した。机の上には教科書とノートが広げられている。当然、それはかなたのノートである。
「俺ら、どう考えても、かなたからすればイー男じゃねぇもん」
「かなたにイー男なんて思われても嬉しくないね。とりあえず、単位さえもらえりゃ、いいもん」
「だから、ダメなんじゃん」
 かなたのノートを必死に書き写す二人。ぽぉっと、ちょっと嬉しそうにかなたが戻ってくるのになんて、気がつきゃしない。


「テスト?」
 聞いた声に、神部 恭子は顔をあげた。
 大学の図書館。書架の前で借りる本をチェックしていた恭子に声をかけたのは、
「嫌だねー、テスト」
 高校時代からの親友、佐藤 睦美だった。
「睦美もテスト?」
「当然でしょ。同じ大学だもの」
 と、睦美は笑う。手には、彼女も何冊かの本を持っていた。「ホメロスだよん」「トロヤ戦争?」「そ」
「大学生になっても、やっぱし、テストは相変わらずだぁーね」
 言って、睦美は笑った。笑ったとは言っても、図書館だ。大声ででは、なかったけども。
「大学は、勉強するところでしょぅ?」
 当然、そう言ってみせるのは恭子。だけれど、彼女も笑いながらだったりする。
「恭子の方は、テスト、いつまで?」
「私の方は、明日まで」
「じゃ、もうすぐ、休みかぁ」
「そうね」
「いいなぁ、女子大生の夏休みだぁ。何するのー?予定あるのー?」
 半笑いに、睦美は言ってみた。
 隣で、恭子も笑ってる。


「結局──」
 緑の葉をきらきらと輝かせる桜を見ながら、小沢は言った。
「結局、エネミーは再び現れましたね」
「結局ね」
 返したのは平田教授だ。手にしたコーヒーを、ちょっとすする。素っ気なく。
 小沢はひょいと肩をすくめて見せた。一昨日、昨日、そして今日だ。もうすこし教授なら教授らしい答えを返すかとも思っていたけれど──期待はずれだったかな。
「教授は──」
「ん?」
「再び、戦わないんですか?その準備は?」
 窓から離れ、小沢は女子学生が運んできてくれたコーヒーを手に取った。口許に運んで、
「研究生の子らは、テスト勉強でもしていたみたいですけど?」
 言う。コーヒーのいい香りがほっと心を落ち着かせるような気がする。
「ああ、今、大学はテスト期間中だからな」
 教授も笑って、言った。
「奴ら、男らのほうだが、卒業がかかってるんでね」
「卒業と、世界平和では、卒業ですか。教授の研究室の学生らしい」
 皮肉とでもなくて、小沢は言った。教授もわかって、軽く肩をすくめてみせた。
 再び、コーヒーを一口飲んで、小沢は聞いた。
「教授は、再び、戦いはしないんですか?本当に」
「あの時、答えただろう?」
 教授もコーヒーをすすって、目を伏せたままで返す。
「どうして私がまた、戦う必要がある」
「教授の口から、そんな言葉を聞くとは思いませんでしたけどね。あの頃の教授なら、『私がやらんで、誰がやる!』と言ったでしょうけど」
「そうかも知れんな」
 自嘲するように笑い、教授はまた、ひょいと肩をすくめてみせた。そうする自分が、容易に想像できる。けれど、
「だが、人間、二年も経てば考えも変わるよ」
 はっきりと、教授は返した。その答えの即答ぶりに、聞いていた小沢が目を丸くしたほどだ。
 驚いた小沢に笑い、教授は彼がついさっきまで見ていた窓の外に視線を送った。緑の葉をきらきらと輝かせている、桜の木。
 それが、窓の向こうに見える。
「子どもが生まれるんだ」
「──え?」
 口に運んだ小沢のコーヒーカップの縁から、流石に、コーヒーがこぼれ落ちた。


「テストが終わったら、どっか、行こうか?」
 恭子が言う。書架から本を取り出すべく、少し、背伸びをした格好のままで。
「どこか?どこに?」
 睦美は返す。
「きょーこちゃん、夏の予定はないのかいね?」
 と、睦美。にやりと笑う。そして適当に、その辺りの本を一冊手に取った。ぺらりと開く。化学の本だった。訳の分からない結合図がかかれている。ぱたん。
「先週の頭、振られた」
「あれあ」
 睦美はびっくり。
「夏の予定は、費えた」
 言って、恭子は書架からちょっと乱暴に本を引き抜いた。それを見て、
「サイで」
 笑わないつもりだったけども、口許が──睦美はとりあえず話を進めるべく、言う。
「んじゃー、今さらかもしんないけど、海外とかでも行こうかぁ?」
 手にしていた本を戻しながら、睦美は言ってみた。
「そうね──」
 恭子も軽く微笑む。睦美の言いたいことくらい、わかる。
「どうしてるんだろね?」
「さぁ?」
 ひょいと肩をすくめて笑って、睦美は返した。恭子も考えてることは一緒だ。
「変わらないんじゃない?」
「睦美は夏休み、いつから?」
「24日から」
「みんな、フリーかな?」
「んだべ」
 睦美はけらけらと、楽しそうに笑った。


 ふと、集中が途切れて、一也は手を止めた。
 目の前を、中学生くらいの女の子が通り抜けていく。友達と話しながら、思わず出てしまった笑い声に口を押さえて「ごめんなさい」というように頭を下げて。
 一也は細く、微笑んだ。
 市立図書館も、夏休みになって、少しばかり混みあっているようだった。自分と同じように、受験勉強に来ている人たちの姿も目立つ。もちろん、それ以外にも子どもたちの姿、おじいちゃんおばあちゃんの姿なども目立つけれど。
 ふぅと大きく息を吐き出して、一也は背筋を伸ばした。伸ばして、辺りを見回す。
 吹き抜けになった一階と二階。一也の座る二階の端からは、下の一階が見下ろせ、そして見上げれば、近代建築らしい鋭角の壁に、あまり大きくない窓が見えた。
 その窓からは、優しく微かな光が射し込んできている。
 いつもと変わらない風景。
 また、小さくため息を吐く。
 いつもと変わらない。変わらない。
 何があっても、いつもと変わらない風景。
 ゆっくりと、時間だけが流れていく。
 手を止めたまま、一也はぼうっと何かを考えていた。何を考えていたかは、本当を言うと、自分でもよくわからなかったけれど。


       3

「へえ、教授に」
 男は軽く笑った。
「驚きましたよ」
 言うのは小沢だ。
「彼も、結構、尻に敷かれるタイプだろうな」
 想像して笑う、元総理、村上 俊平。小沢も思わず吹き出す。
 村上家。大きな和風のつくりをした、元総理の邸宅である。
 その広い庭に、二人はいた。正確には、その庭に面した縁側に小沢が座り、庭に村上がいる。
 村上は、背の低い松の枝に手をかけながら言った。
「二年か──やはり、月日としては、十分に長かったのかも知れないな」
「どうですかね」
 肩をすくめる小沢の脇に、村上の妻、光代がやってきた。光代は小沢の隣に座り、そっとお茶を置いた。「あ、お構いなく…」「いえ、ゆっくりしてらしてください」
 夕の近づく夏の空が、また、少し陰り始めていた。
 その空を見つめながら、村上が呟く。
「──この夏は、あまりいい天気にはならないのかも知れないな」
「ですかね」
 と、茶を口に運んで、小沢。光代が「ごゆっくり」と、離れていく。奥に戻る彼女の背中の向こうに、彼女の父であり、また、元総理でもある村上 正次郎の姿があった。
 小沢を目にとめて、軽く会釈をして笑う。
 小沢も軽く、頭を下げる。
「夏は、澄み渡った青い空が魅力なんだがな」
 呟くようにして言って、村上は小沢の方に振り向いた。小沢はそっと、視線を村上に戻す。
「からっと晴れた、青い空ですか?」
「ああ、私は、そういう空の方が好きだからね」
「そうですか」
 笑う村上に小沢も笑い、お茶を喉に流し込む。渇いた喉に、茶の渋みがすこししみた。
「それで?」
 村上が言う。小沢の方に向かって歩きながら。
「エネミーが再び現れたと?」
「現れたわけではありません。それらしきものが、宇宙から再び舞い降りたというだけです」
「君は、それがエネミーだと思っているんだろう?」
 縁側に置かれた茶を手に取り、村上は瞬間、真顔になった。すぐに笑って言って見せは、したけれど。
「──じゃなければ、ここにわざわざ、顔を出さないと?」
 瞬間を見逃す事のなかった小沢が聞いた。
「どうかな。君は、今では私の同志だからね」
「同志ですか」
 笑いあう。二人して。
 そして、小沢は最後に聞いた。結局は、そのために来たわけだったから。
「再び、再び地球に落ちた流星がエネミーだとして──歴戦の勇士、元総理、村上 俊平としては、この事態をどう見ますか?」
 村上はすぐには答えなかった。
 手にした茶で喉を湿らせて、じっくりと考えるような間を置いて、そして、返した。
「──複雑だね」
 答えに、小沢は目を伏せて小さく頷く。
 空に、かすかな青空も見えなくなっていた。
 夕の近づく夏の空を、厚い雲が完全に覆ってしまっていた。


 結局、一也はそのまま図書館を出た。
 時間ばかりがただ過ぎて、何ができたわけでもなくて、することもなくて。
 空を見上げると、厚い雲が、傾き始めた陽を遮って、今にも雨を降らしはじめそうだった。
「降るな…」
 呟きに、微かな雷鳴が応えを返してくる。
 雨の気配が近づいている。強く、強く。
 一也は走り出した。
 近づくその気配から、逃げるように。


 雨は、すでに降り始めていた。
 ニューヨーク。
 この街では、すでに。
 ニューヨークの中心、マンハッタン島。薄明の頃。まるで青い朝靄のように、マンハッタンの街には、すでに霧雨が舞い始めていた。
 その霧雨の中、
「今日も精が出るな!」
 ホームレスのようなみすぼらしい身なりをした男が、同じような男に向かって言っていた。マンハッタン島の南端、フルトン魚市場の先にある、小さな防波堤で。
「うるせぇ」
 と、男は返す。手には釣り竿。
「今日も、どうせ釣れねーんだ。無駄なことはやめとけ」
 男の言葉に、その悪態をついた男の隣にいた別の男が──これもホームレスのような格好をしているのだが──笑った。けたたましく。
「うるせぇ、今日は釣れる!こんな朝から雨の日は、決まって大物が釣れるんだ!」
 いきり立って返す男の台詞に、その男は笑った。
「バカ野郎だな!そんな台詞を吐いた男が、過去にもいたぜ」
「どうせ釣れねーんだ。この能無しが!」
 だが、無視して、男は竿を振るった。リールから、勢いよく糸が放たれていく。
「もっとも、それは何とかって映画の話だったけどな!」
 大笑いをする男たち。
 竿を手にした男は聞いていない。なぜなら、その糸の先のウキが、早くもぴくぴくと動き出していたからだ。男は歓喜に、顔を上気させた。そして、男たちに「みやがれ」とばかりに振り向いた。
「来たぞ!こいつは大物だ!」
 リールを巻く。ひたすらに、男はリールを巻く。大物だ。すごい引きだ。流石に先ほどまで悪態をついていた男たちも、ごくりと唾を飲み込まざるを得なかった。
 やがて、それは引き上げられた。
 いや、より正確には、それは自らの意志で、海面に顔を出したのであった。
 人よりも大きな目が、海を割って現れる。ぎらりと、その目が男たちを捕らえる。男たちは恐怖に言葉をなくして──ただ、その場にぺたりと座り込んだ。
 海面を割って現れた怪物は、ゆっくりと立ち上がった。巻き起こった巨大な波が、防波堤に襲いかかる。男たちは駆けた。逃げ出した。
 巨大な波が、防波堤を覆い尽くす。朝靄の中に、滴が跳ね、散る。
 男たちは走りながら、恐怖に満ちた声で叫んだ。海を割って現れた、巨大な恐竜の姿を、転びそうになって見上げながら。
「エ…エネミー!?」
 全長50メートルにもなろうかという巨大な竜は、その口を全開にまで開き、天に向かって突き抜けんばかりの咆哮をあげた。
 再び、マンハッタンの街が、大地が、その咆哮に震撼した。


 クリスタルパレスに戦慄が走った。
「『目標』!着上陸!!」
 若いオペレーターの切迫した声。指令、ジョンソン・グレンは身を乗り出してエレクトロニックマップに食い入った。
「どこだ!?」
 マップ──その場所が点滅している。
「ニューヨーク…」
 副指令が、小さく呟いた。
「また、この街を襲うのか──」
「くそ!!」
 グレンは吐き捨てるようにして言い、拳でテーブルを打った。弾ける音が、作戦司令室に響く。
「いいようにさせてたまるか…」
 強く拳を握りしめ、グレンは腹の底から声を上げて告げた。
「各基地、各員、対エネミー迎撃体制に移行!配置に着き次第、総員、行動開始!」
 クリスタルパレスから、全ての米軍に通達が渡る。
「ネイビーヤードは、任意に攻撃を許可する!!」


 マンハッタン島の最南端、再びエネミーが現れた地点から、イーストリバーを越えてすぐのところに、海軍基地がある。再び現れたエネミーに、最も近い基地だ。ネービーヤード。その名を持つ、アメリカ海軍基地である。
「エネミーを再びマンハッタンに入れるな!二年前の悲劇を、繰り返すんじゃないぞ!」
 旋回性能が高い迎撃ヘリが次々と上がっていく。武器は、過去に開発された対エネミー用の兵器の数々だ。
「二年前とは我々が違うところを、見せてやれ!」
 朝のマンハッタンに、爆音と光の明滅が、生まれはじめた。


 それを、男は不敵に見つめている。
 クリスタルパレスの作戦司令室。それを見下ろす一室。
 男は不敵に微笑みながら、煙草に火をつけた。
「どう思うかね?」
 男が聞くと、彼の後ろに控えていた別の男が返した。少し、笑う風にして。
「二年前と、何が違いますかね」
「同感だな」
 作戦司令室のエレクトロニックマップが、マップから映像に切り替わった。再び現れたエネミーに接近したヘリが、映像を送ってきたのである。
 作戦司令室に、驚愕のため息が漏れた。
 まるで、恐竜そのものと言える、エネミーの姿に。
 男は小さく何度か頷きながら、煙草を飲んだ。ゆっくりと煙を吐き出す。特等席で見物というのも、悪くはない。
 映像の中のエネミーに向かって、何百もの銃弾が打ち込まれていく。辺りを舞い飛ぶ、数十機の迎撃用ヘリのポッドから、朝靄を裂いて、曳光弾の軌跡を残して。
「対エネミー用兵器か」
 男は細く微笑んだ。
 そして再び、ゆっくりと煙草を呑む。その赤い光が、暗闇の中で不敵に輝く。映像の中のエネミーの瞳と、同じように。
 エネミーが力の限りに吠えた。その咆哮は、この場には響かなかったけれど、空気は微かに振るえた──かに思えた。
 閃光が、続く。
 何機が、映像の中から、一瞬にして消えた。


 高層ビル群を抜け、攻撃を続けながらヘリは飛んでいく。しかし──それはエネミーの足を止めることすら、出来ずにいた。
 エネミーはウォール街にまで進んでいた。自らが歩くのに、邪魔なものを次々と破壊しながらに。
「許可する!」
 ジョンソン・グレンはネイビーヤードからの提案を、躊躇なく許可した。ネイビーヤードから『目標』までは3キロメートルほどしかない。たかだか3キロの距離、50メートルの目標を相手に、外すはずもない。
「打てるだけ、打て!」
 答えに、映像の中にいた迎撃ヘリたちが蜂の子を散らすようにエネミーから離れた。作戦司令室にいた職員、皆が、ごくり息を呑む。直後──対エネミー用ミサイルが、ネイビーヤードから朝靄の煙るマンハッタンに向かって放たれた。
「無駄なことを」
 煙草を飲み、男は笑う。
 エレクトロニックマップが強烈に輝く。真っ白な光が、クリスタルパレス、作戦司令室を包んだ。
「敵は、エネミーではない」
 白い光に照らし出されたまま、男は言った。やがて、その台詞と同じように、光は空気の中にかき消えていく。靄と、その巨大な竜の姿を残したまま。
「馬鹿な──」
 グレンは呟いた。
「エネミーじゃないのか…」
 その声に、男は満足げに煙草を飲んだ。
「F/A-18も上がります!」
 オペレーターの声が聞こえてくる。
「何をしても、無駄だ」


「これが、この星の人間が、二年間してきた事への、答えだ」


 雨が、降り始めた。
 日本。
 東京の街にも。
 ヘルメットを打つ、大粒の雨に、一也はバイクのスロットルをまわした。
 雨を振り切るように。力強く。
 それに、雷鳴が応えを返す。


       4

「『目標』を誘導しろ!シチーホール公園から、全力攻撃!ブルックリン橋へ追い込め!」
 グレンの命令が飛ぶ。上がったF/A-18には最新型の対エネミー用ミサイルを積ませた。ただし、破壊力が相応にある。市街で使うことはできない。マンハッタンまでF/A-18が到達する二分間の間に、エネミーをブルックリン橋まで誘導しなければならない。
「これが最後の攻撃だ!力を出し切れ!」
 眼前の映像に映し出されたエネミーは、流石に米軍の全力攻撃に身悶えていた。徐々に、その巨体をブルックリン橋の方へと逃がしはじめているように見えた。
「良い作戦だ」
 戦いの観戦を決め込んだ男は、新しい煙草に火をつけながら言う。
「だが、無意味だ」
 エネミーが吠えた。吠えて、エネミーは逃げ出した。ブルックリン橋の方へ、大通りを通って。
「F/A-18は!?」
「有効射程距離内に入りました!」
 別の迎撃ヘリのカメラが、ナローズ海峡を音速で突破してくる二機のF/A-18を捕らえた。エネミーへ、二羽の音速を越えた鳥が肉薄する。
「よし、撃て!」
 グレンが叫んだ。同時に、F/A-18から四基のサイドワインダーが放たれる。ブルックリン橋にさしかかったエネミー、それに向かい、一直線に。
 凄まじい速度で近づく人類の牙に、牙をむいてエネミーが吠えあげた。
 爆音が響き合う。
 巻き起こった白い靄のような煙とその空気を引き裂いて、二機のF/A-18が駆け抜けていく。
 そして──


「失礼──」
 雨音に掻き消されてしまいそうだった。
 その、男の声は。
 振り返って、その声が自分にかけられたものだと、一也は初めて気づいたくらいだった。マンションの野外駐輪場。一也はバイクを止めて振り返り、男に気づいた。
「失礼──」
 男が言う。
 黒塗りの大きな車の前に立った、スーツ姿の二人の男の内ひとりが、傘を手に。
「吉田 一也君ですね?」
 一也は答えない。答える必要はない。仕立てのいいスーツに身を包んだこの男、一也にはわかる。関わり合いにはなりたくないと思っている方の、人間だ。
 一也はメットを小脇に抱えると、雨の中へ駆け出した。
「人違いです」
「エネミーが、再び現れました」
 はっと、一也は立ち止まった。立ち止まって、しまった。
 何してんだ──
 男は立ち止まった一也の背中に向かって、二歩ほど歩み寄ると、
「エネミーが、再び現れました。つい、今し方です。と言っても、日本ではなく、ニューヨークにですが」
 その事実を、告げた。
 雨が、降り続けている。
 降り続ける雨の中、エネミーの咆哮が、再び空を割った。
 怒りに満ちた、恐ろしいまでの。
「お前たちでは、役不足だ」
 男は笑って、煙草を呑んだ。
 眼前では、エネミーが力強く、雄叫びをあげていた。
 だから──
「だから?」
 一也は、言った。
 もう、服はびしょ濡れだった。ここまでバイクで走ってきたからだ。もう、これ以上濡れても、変わらない。
 だから、立ち止まったまま、一也はゆっくりと振り向いた。少し茶がかった髪から、雨だれが頬に落ちる。
「だからって、僕がまた戦う必要でもあるんですか?」
 一也は男を見据えて、言った。
「僕がまた戦わなきゃならない理由なんて、ないでしょう?」


 ブルックリン橋はすでに半壊していた。強烈な対エネミー用ミサイルの一撃は、確実に大ダメージを与えてはいたのだ。
 それによって、エネミーを倒すことは、できずにいたけれども。
「…馬鹿な」
 グレンは呟く。万策はつきた。これ以上、手はない。
「馬鹿な!」
 握りしめた拳で、グレンは再びテーブルを打った。
 あざ笑うかのように、映像の中のエネミーは、雨のマンハッタンをバックに吠えあげている。
「馬鹿な!!」
 三度、グレンはテーブルを打った。
「我々は、この二年間、何をしてきたというのだ!再び現れたエネミーに、結局何もできずに指をくわえるだけなのか!?」
 しんとした──絶望に満ちたクリスタルパレスの作戦司令室に、グレンの声が響く。
 その声を耳にして──ただ一人、その男は笑っていた。
 作戦司令室を見下ろす部屋。その存在を知る者も、わずかにしかいない、部屋。
「やれやれ──所詮は、二年前の壁で立ち止まったきりの、烏合だったか」
 男は困ったように言う。いや、弛む口許を見ればわかるが、全く困った様子などは、そこになかった。
 むしろ、その顔は期待通りといった風で──
「どうしますか?」
 男の後ろに控えていた別の男が言う。彼も、微かに笑いながら。
「そうだな」
 煙草を手にしていた男は、その男の言葉に、
「いいだろう」
 ゆっくりと立ち上がって、告げた。
「十分なデータは取れた。終わらせろ」
 そして、最後の煙草をもみ消して、男は暗闇の中へと消えた。
 控えていた男も、軽く口許をゆるませて、それに続いていた。


 絶望に支配されていたクリスタルパレス、作戦司令室に、声が響いた。
「なんだあれは!?」
 オペレーターの声に、グレンもはっと顔を上げる。
 エレクトロニックマップに映し出された映像には、ブルックリン橋のブルックリン側が映し出されていた。
 そして──そこには、作戦司令室にいたグレンたちをも驚愕させるものが映っていた。
「な…」
 グレンは目を見開いた。部下の副指令もまた、である。
 映し出された映像──それは対エネミー用に作られたアメリカ初の戦闘用ロボット、スパイダー大隊の映像だった。いや、スパイダーだけではない。明らかにスパイダーよりも小さく、しかし、明らかに新しい、同型状のロボットの姿も見える。
「さぁ、子どもの茶番はここまでにさせて貰おう!」
 と、作戦司令室にその男が現れた。握りしめた拳、太い腕を、高々と突き上げて。
「ここからの指揮は、全てこの私が執るッ!お前たち、ついてこいッ!!」
 現れた男は歴戦の勇士──前指令、ジョン・マッキントリックであった。
 グレンは何も言えない。目を丸くするばかり。
「全機、攻撃態勢は完了しています。スパイダー、及びスパイダーU。全54機、『目標』に対し、照準を固定」
 くいと眼鏡を上げ、ニヒルに口許を弛ませるのはマッキントリックの部下、ペーター・ローガン。
 グレンはさらに目を丸くした。そして、全ての言葉を飲み込んだ。
 英雄二人の突然の登場に、グレンは何も言えない。マッキントリックはにやりと笑うと、言った。
「お前が心配することではない。二年間、我々はただ指をくわえていたわけではないぞ。あの時の借りは、ちゃんと返させてもらう。人類は、二度は同じ手をくわん!」
 エレクトロニックマップにデータが次々と表示されていく。全54機のスパイダー、及びスパイダーUの詳細なデータだ。一機で、戦車小隊くらいは壊滅できるその火力。機動性能。グレンはただ、マップを見つめるばかりだった。
「さぁ、茶番は終わりだ!」
 マッキントリックは握りこぶしを突き上げて叫ぶ。
「くたばれ、エネミーっ!!」


 スパイダー、スパイダーUの猛攻がエネミーを襲う。
 対エネミー用に組織され、訓練されたスペシャリストたちだ。流石のエネミーも──F/A-18の攻撃もあって──悲鳴じみた咆哮をあげて身悶えた。
 怒りにまかせて暴れ、何機かのヘリを再び落とし、何機かの蜘蛛を踏みつけはしたけれど──しかし──
 エネミーは最後の雄叫びを力一杯にあげた。


 雨垂れが髪の先から落ちて、一也の頬を伝う。
 一也は細く、微笑んだ。
「僕が戦う事なんて、ないでしょう?この二年間、ただ、みんな過ごしてきたわけじゃないでしょう?」
「──そうかも知れません」
 男は言った。
「ですが、もしかしたら、再びあの時と同じ時代に、この国は戻ることになるのかも知れないのです」
「だからって、僕が戦う理由はないでしょう?」


 最後の雄叫びをあげて、エネミーはブルックリン橋からイーストリバーに落ちた。
 真っ白な水柱が、朝靄に煙るマンハッタンを背景に、何十メートルという高さに立ち上り、爆音が響きわたった。
 滴が、雨となって戦場に降り注いだ。
 それが戦いの結末──そして始まりだった。


「吉田 一也君、君はもしもこのエネミーによって世界がどうなっても──」
 雨に濡れた髪を軽く振るって、一也は言った。
 はっきりと。
「そんなの──僕の知った事じゃないですよ」


       5

 夏の空は、今日も、晴天とは言えなかった。
 新宿の喧騒。ビルに張り付いた大きな街頭テレビがひっきりなしに伝えるニュースが、さらに街を騒がしくさせているような気がして──一也はその映像から視線を逸らした。
「──ニューヨークからの映像です。ご覧の様に、現地時間の今朝、再びこのマンハッタンにエネミーが現れました」
 空から降ってくる、男性キャスターの声。一也はその下を通り抜けていく。
 新宿駅南口。皆が街頭テレビを見上げて、半壊した橋の映像に口を半開きにしている。その合間をぬって、一也は下へとくだるエスカレーターに乗った。
 一也の先を行く、美術部の後輩たちを追って──その映像を見て、唖然としながら呟いている、皆に続いて。
「うそぉ、マジ?」
「また、あんな風なこと、起こるの?」
 その声を聞きながら、一也は──夏の暑さに──気怠そうにエスカレーターの手すりに寄りかかった。
「米軍の猛攻により、エネミーはイーストリバーに消えました。その後、エネミーの消息は知れません。海の藻屑となったか──それとも──ここ、ブルックリンでは、今もなお、厳重な警備の下、捜索が続けられています」
「どうしたの?」
 一也は聞いた。自分のことを、ちょっと困った風に真っ直ぐに見ていた詩織に向かって。
「──うまく言えない」
「何が?」
 一也は首を傾げた。そして、うつむいた詩織から視線を外した。彼女の背中の向こうに、半壊したブルックリン橋とその周りの蜘蛛型ロボットたちの映像があったから、と言うわけでもなくて。
「行こう」
 そして一也は詩織に手を差し出して、先を急いだ。
 後輩たちの背中を追うように。


 同じ映像が、はたと途切れた。
 唯一の光と音を生み出していたその映像が途切れたことによって、その場所は暗闇と静寂に支配された。が、間もなく、FDトリニトロンの灯りだけだった会議室に、蛍光灯の明かりが灯った。
 と、カーテンがゆっくりと開いていく。
 差し込む陽射しの眩しさに、彼は目を細めた。
「ご覧いただいたように──」
 首相、小淵沢はゆっくりと言う。
「再び、エネミーが現れたという事は、揺るぎない事実となったわけです」
「それで?」
 男が返す。隣にいた老人が、不敵に微笑んだ。小淵沢総理の言葉をわかって──である。
 小淵沢は言った。その男たちが彼の口から、日本のトップたる男の口から、聞きたいと願っていた言葉を。
「つまり──再びエネミーがこの国を襲ったとしたら──あなた方の力を、再びお借りしたいというわけです」
 「ふん」と、即座に老人は鼻を鳴らした。もったいを付けたように、いや、もったいを付けてと言った方が正しいか。
 老人は答える。
「いいだろう」
 歴戦の勇士──マッドサイエンティスト、道徳寺 兼康は、総理官邸の会議室の椅子にゆっくりと座り直した。
「そういう話なら、協力してやらんこともない」
「同感ですね」
 続いたのは彼の右腕、彼のマッドでない部分のブレインと言われた男、春日井 秀哲だ。春日井は椅子に座り直すという訳ではなくて、ゆっくりと立ち上がると、
「私たちには、ことわる理由もないですからね」
 言って、道徳寺と視線を合わせて不敵に微笑んだ。
 流石に、小淵沢総理も少々、引くほどに。
「では──」
 小淵沢総理は言う。気を取り直して。二年の昔、日本を救った勇士たち向かって。
「我々も最大限の助力を──」
 手渡されたA4の計画書を手に、彼は──シゲは小さくため息を吐き出した。誰にも気づかれないように。
 ひとつの空いた席、その方を、ちらりと見て。


 「どうしてまた、こんな事になっちゃったのかな」
 小さな声を思い出す。
 ため息混じりにひょいと顔を上げると、この首相官邸の中庭からも、青い夏の空が微かに見えた。「私、何をしてきたんだろう。この二年間。もしかして、何の意味もない二年間を過ごしてきて──それでまた、同じ事を繰り返すのかな」
 手にしたレポートを、とりあえず、シゲは筒状に丸めてみた。
「なかなかの乗り心地だね」
 ふいにした声に、シゲははっとして振り返る。と、S2000のキーが彼の手から投げてよこされた。少しびっくりしながらもそれを左手で受け取るシゲ。
「結構、楽しい車だね」
 と、小沢。シゲは軽く笑った。
「どこまで行ってきたんです?」
「ちょいとその辺走ってきただけだよ。シゲくんらが、二時間ばかしは会議するだろうと踏んでたからね」
「小沢さんは、相変わらず情報の中心にいるって訳ですか」
「そうでもないよ」
 ひょいと肩をすくめ、小沢はシゲの隣にまで歩み寄った。そして、夏空を見上げて、
「教授は、結局来なかったね」
 言う。
「ですね」
 シゲは丸めたレポートでこりこりと首筋を掻いた。
「小沢さんの言ったように、教授は今度の事には、手を出さないつもりなんですかね」
「さぁね。少なくとも──」
 流れていく雲が覆い始めた青い夏空を見たくて、小沢は少し上半身をかがめて空を覗き込んだ。陽射しに目を細める──けれど、そろそろまた雲が出てきはじめたようだ。
 今日も降るのかな…
「少なくとも、僕には、教授はそう言ったけどね」
 小沢は言う。
 シゲは小さく、頷いた。
「教授は、あの頃とは変わっちゃったんですかね」
「どうかな」
「僕らは──もしかしたら何も変わらずに、あの頃の事を鮮明に覚えているのかも知れないのに」
 ふいと、シゲも中庭から見える空を見上げた。
 微かに残った青空の隙間を、白い飛行機がゆっくりとすぎていく。


「再び現れたエネミーを前に、我々は再び、戦わなければならない」
 ゆっくりと落ち着いた、威厳のある声でその男は言った。しばしの沈黙があって、周りにいた男たちが頷く。男の言葉は英語であった。故に──ではないけれど──通訳が入る分、微妙にタイムラグが起こっているのであった。
「同感ですね」
 彫りの深い、白人の男が続く。こちらはフランス語。
「降りかかる火の粉は、払わなければならない。世紀末に人類が滅びるなどと、馬鹿なことを本気にするわけにはいきませんから」
 各国の首脳たちが、その発言に頷いていた。
 空を飛ぶ飛行機。
 緊急に開かれる事となったこの会議は、場所を決める間もなかった。たとえ場所を決めたとしても、多忙な各国の首脳陣だ。おいそれと集まれるものではない。
 その、わずかな時間の隙間で首脳陣が集まれる場所──各国を巡る、飛行機の中。つまり、ここ。
 各国の首脳たちが、特別機の大きな会議テーブルを囲っていた。
「しかし──」
 少し訛りの入った英語で言う、東洋系の顔立ちの男。
「二度とエネミーはこの星に現れないはずではなかったのですか?」
「たしかに、その通りだ」
 答えたのは東洋人の彼が問いかけた相手ではなく、先の英語を言った男だ。
「エネミーは、我々の前には二度と現れないはずだった。あちらの多くの国も、我々とは和平を進めようとしてくれている。先の戦争を起こした国は、もう、元首も変わっているという話だ」
「では、何故?」
 短く、ドイツ語で男が言った。はっきりと、きっぱりと、彼女を見て。明らかに疑惑のそれとわかる、眼で。
「──わかりません」
 ベルは答えた。ドイツ語で。
 そして、英語で後を続ける。
「たしかに、私たちに猜疑心を抱いていらっしゃるかも知れません。しかし、我々は二度とあの戦争を──」
 けれど、その台詞は最後を結ぶことはなかった。
「結局──」
 ゆっくりと落ち着いた、威厳のある声で、その男は言った。
「我々の間は、エネミー甲殻卵体を使った、不自由な行き来しか出来ないのが現状だ。どこまで、我々の意志が君たちに伝わっているのかも知れない。このような状態では、和平を進めることも難しい」
「むしろ、人類はまだその高みにまで達していないのでは?」
 耳に届くフランス語に、ベルはうつむいた。
 少しの間を置いて、皆が小さく頷いた。
 二年──やっぱり、短かったのかも知れない。
 私たち、何のために今までがんばってきたんだろう──『ベル、この戦争はもうじき終わる』忘れかけていた、なつかしい言葉。最後に聞いた母国語の台詞。
 ふいに、頭の中に蘇ってきて、ベルは唇を噛み締めた。誰からも見られないように、咄嗟にうつむきはしたけれども。『その時に、その場所に、おまえはいろ。わかったな』
「所詮は、我々も君らも、人だ」
 男は言った。
「その歴史から、争いが途絶えたことはない。この戦争もまた、その争いの一部なのだろう。それを、君にも理解して貰いたい」
「──再び、戦う訳ですか」
「生き残るため、それは当然の権利だ。人類は今、一丸となって、戦うしかない」
 戦う──戦ってきた。
 今日まで。あの時からずっと。それで、やっと、やっとたどり着いたと思ったのに──でも結局──何のために、私たちは頑張ってきたんだろう。
 スピーカーから、機長の声が届いた。飛行機は着陸態勢に入るらしい。ふと外を見れば、広大なリッチモンド公園、テムズ川に繋がるクィーンメアリー貯水池の向こうに、着陸する先、ヒースロー空港が見える。
 ベルはその窓の向こうを見つめながら、再び弱く唇を噛んだ。


 店内には、音楽が流れていた。
 それだけで、時間の流れは特には感じられなかった。一也は後輩たちの手にした買い物リストを覗き込みながら、買い物をする後輩たちと屈託なく笑いあう。ごく自然に。
 新宿駅南口を出て、少し歩いたところに高島屋TimseSquaerがあって、その中に東急ハンズがある。その七階。画材売場。
 美術部の後輩たちが、文化祭用の買い物リストを見ながら、楽しそうにおしゃべりしている。「私の絵的には、1号、五万てトコだから、10号で五○万でしょ。それは流石に暴利だから、2号程度で──」「でかいの描きたくないだけじゃん?」「溶剤持ち決定。三つね」「郵送使おうよー」
 一也も笑う。そういえば、自分たちも同じようなことをしていたっけ。
 笑う一也を、そのころを知っている仲間たちがただ眺めいた。吉原と恵と、そして詩織。
「先輩、文化祭の予算て、別にいくら貰えるんでしたっけ?」
「あ?おお」
 吉原は後輩──今の会計だ──の女の子の声にはっとして、後輩たちの輪の中に入った。
「確か、別に二万貰えるんだったよな?一也」
「ああ、そうだよ」
 一也は軽く、笑って返す。
 その仲間たちの事をわかって。
 自分のことを、よく知っている、わかってくれている仲間たちのことを思って。
 そう──結局は、そうなのかもしれない──自分でもわかってるんだ。
 後輩たちが、屈託なく笑い、おしゃべりをしている。
 いつもと、変わらない風景。
 今になって思えば──
 買い物を済ませて外に出ると、また、空は雲に覆われてしまっていた。風に、雨の匂いが強く感じられる。きっとまた堪えきれずに、空は雨を降らせはじめるのだろう。
 せっかくの夏が始まったって言うのに、曇り空ばかり。そして、雨ばかり。
 一也は小さくその空を見上げてため息を吐いた。
 新宿の街。
 外には、相変わらずの喧騒があった。南口の大きな街頭テレビでは、今もあのニュースが繰り返し流されている。刻々と変わるわけでもないその情報に、今では、足を止める者さえ少なくなっている。
「雨、降るかな」
 一也は見上げながら、誰にとでも呟いた。近くにいた後輩が、
「あ、そうですねー。降るかも知れないですね。あ、傘持ってきてないや」
 答える。
 一也はちょっとだけ、笑った。
 雨──だけれどきっと、この街にもう一度──
「ごめん、吉原」
 そして、振り返って一也は言った。
「ちょっと、寄るところがあるんだ。雨降りそうだし──先に帰ってていいよ」


 軽く手を振って、一也は駆け出した。
 新宿。
 二年前の面影は、もうない。


       6

 香奈は少し急いでいた。
 雨が降りそうだったからである。早番の病院のおつとめを終えて外に出てみたら──いけない、洗濯物、きっと干しっぱなしだわ。
 案の定、洗濯物は干しっぱなしだった。一也、今日は出かけちゃうっていっていたしね。と、急いで部屋に上がる香奈。
「よかった、間に合った」
 言い、鞄を置いて、吹き出る汗はとりあえずそのままに、急いでベランダへ出る。後ろを黒猫のウィッチが追いかけていたけれど、今はとりあえず、「ただいま、ウィッチ」だけ。
 通り道、点滅していた留守電のボタンを軽く指先で押す。テープが巻き戻されていく音を耳にしながら、香奈は洗濯物によいしょと手をかけた。
「3件のメッセージがあります。3件のメッセージを再生します」
 電子音の女性の声に、ウィッチがびっくりしてフローリングの床に足をすべらせた。慌てて体勢を立て直す。と、首の鈴がちりんと軽やかに鳴った。香奈は笑う。
 その耳に、1件目のメッセージが聞こえてくる。
「もしもし?二人とも、元気にやってるか?」
 それは、父、拓哉の声だった。
「いや、電話したのはたいした用じゃないんだが──二十四日に、出張でそっちに行くことになったから、ちょっとかけてみたんだ」
 香奈は洗濯物にかけた手を止めて、その声に耳を傾けた。お父さんたら──本当は何かにつけて電話をかけてきたいくせに。
 部屋を片づけておかなくちゃ。父の言うことをわかって、香奈は再び手を動かしはじめた。
「だから、二十四日、そっちにちょっと、顔を出す。仕事が終わってからだから、夕方になるかな?ところで、この夏は帰ってくるのか?いつになる?ま、とりあえず、たまには連絡しろ。じゃ──」
 女性の声がメッセージを受け付けた時間を告げる。そして、2件目のメッセージを再生し始める。
 香奈は取り込んだ洗濯物を抱えたまま窓を閉めて、フローリングの床にぺたりと座り込んだ。一息ついて──とりあえず、たためるものだけでもたたんでしまおう。
「もしもし?」
 その声に、どきっとする。で、無造作にぺたりと座った姿勢を、正す。何してんだか。
「小沢です。えーと、香奈さん、この前はご飯作ってくれてありがとう。久々にまともなもの食べたよ。また、今度そっちにお邪魔して、ごちそうになろうかな。なんて。あ、これ一也くんが先に聞いてたら、今、嫌そうな顔してるんだろうなぁ」
「私のが先でした」
 笑って返しながら、香奈は洗濯物をたたみはじめた。ウィッチが近づいてきて、彼女の隣で丸くなった。
「──で、別に何か用があったって訳じゃないんだけど──なんとなく、電話してみたんだ」
 少し、小沢は間を開けぎみに喋っていた。言葉を選んでいる。そんな風に。香奈にもそれくらいはわかる。
 そしてその理由も、わかる。
「香奈さん、夏休みとかあるのかな?休みになったら、どこか、デートにでも行こうか?──えっと──じゃ、また、電話します」
 ちょっとばかり微笑んで言ったようなその台詞を最後に、電話は切られた。女性の声が、再びメッセージを受けた時刻を告げ、それがつい先ほどの電話だったことを教えてくれた。
「ありがとう」
 小さく、香奈は答えた。気にかけてくれてる──ちょっと、嬉しくなる。再び空を流れた流星がエネミーで、また、もしかしたら私たち──
 最後のメッセージが再生される。
 けれど、そのメッセージはすぐにただの発信音に切り替わった。無機質なトーンパルス。だけれど香奈は、その音にはっと顔を上げた。
 女性の声が、メッセージの入った時間を告げる。つい、数分前──
 誰?
 その電話は、発信音に切り替わる直前、少しだけ間があった。留守電の応答が始まってすぐに切ったのなら、そうはならない。だけれど、一瞬の間──香奈は留守番電話のそんな特性を知っていたわけではなかったけれど、そのちょっとの違和感が、なんとなく、引っかかったのだった。
 誰だろう──
 手を止めたままの香奈を、ウィッチが不思議そうに見上げていた。
 私たちを、気にかけてくれる人──?


 一也はゆっくりと、その階段の前で立ち止まった。
 綺麗に作り直された階段。その先の地下街。
 彼の脇を、ビジネスマンたちが早足に通り抜けていく。地下街に降りる人、地上へ上がる人。行き交う人いきれ。
 一也はただ、ため息を吐き出した。
 そっと顔を上げると、高層ビル群の合間から、東京都都庁が見えた。
 綺麗に修復された新宿。西口。その地下街。
 あの頃の面影は、もう、ない。
 忘れられない二年前。この場所を思い出す。
 一也はゆっくりと、その階段を降りた。一段、二段──あの時腰を降ろしたのは、何段目だったか──
 一也は立ち止まった。足下を見つめたまま、行き交う人々の邪魔にすらなる場所で。
 新宿。西口。その地下街へと降りる階段。
 自分が、決意を新たにした場所。自分が、守りきれなくて、それで、この国を、この世界を守るために、もう一度戦おうと決めた場所。
 忘れられない二年前。この場所を思い出す。けれど──その頃の面影は、すでにない。
 一也は立ち止まったまま、弱く、呟いた。
 今になって考えれば──
「結局、なんだったんだろう」
 自分の問いかけに答えられず、一也はゆっくり振り向いた。降りてきた階段を、再び上がろうとして──詩織がいた。
 階段の上に、彼を追って走ってきた、彼女がいた。
 一也は小さくため息を吐き出す。微笑む。そして言う。きゅっと眉を寄せて、階段を上がってくる彼をまっすぐに見つめている彼女に向かって。
「どうしたの?」
「一也、どっか行っちゃいそうで…」
 詩織は答えた。最後の段を登らずに、自分と視線を合わせるようにして立ち止まった、一也に向かって。
「なんか──急に、ふっと、いなくなっちゃいそうで」
「行かないよ、どこにも」
「うん──でも」
 うつむき、そっと両手を一也に伸ばす詩織。彼の手を取り、その手をぎゅっと握りしめ、
「でも、こうして、しっかりこの手握ってないと、ふわっとどっかに行っちゃうそうで」
 うつむきがちになって、彼女は言った。
 一也は微笑んだ。詩織が握りしめた手に、そっと力を入れて、彼女の手を握り返して。
「行かないよ。どこにも」
「──うん」
 うつむいたままで返す詩織。小さく頷いて、その声に、ちょっと──嘘でもいい──
「一也?」
「うん…?」
「嘘でも、嘘になってもいいから、もう一回言って」
「何を?」
「辛いなら、いい。辛くなっちゃうなら、それでもいいけど──」
 弱く呟いた詩織を、その手を優しくほどき、一也はそっと抱きしめた。階段のひとつ上と下。詩織は自分を引き寄せた彼の肩に、そっと頬を寄せた。
 ふわりと、長い髪が揺れる。
 そして、その髪は、彼女の顔を隠した。彼の声に──うれしいはずの言葉なのに──うまく微笑むことの出来ない彼女の顔を、隠していた。
「行かないよ、どこにも」
「うん──」
 微かな声が、優しく鼓膜を揺らしてくれる。
 そしてふたりはゆっくりと離れて、自然に──そっと瞳を閉じて──その唇を寄せ合った。
 頬に、降り始めた夕立がひとつ、落ちた。


       7

 深い深い、青。
 漆黒に限りなく近く、闇の色に限りなく似ている、深い青。
 その中を、真っ白な光が流れていく。海底。そこを照らす、人工の光。
 小笠原諸島近海。
 しんかい3200の前部に取り付けられた強力な指向性ライトが、漆黒の海底を照らし、それを探していた。
 それ──その光よりも強い輝きが、闇の中で光った。黄色い、獣の瞳の輝き。
 しんかい3200はその光に反応し、急旋回をはじめた。指向性ライトが闇を裂く。海底の岩盤とは明らかに違う凹凸が、流れる光の中に照らし出された。
 そして──光は獣の眉間を確かに捕らえた。
 カメラに、その巨大な生命体の姿が映し出される。
 開かれた大きな口。その中から吐き出されてくる、何千という数の巨大な泡の圧。海流が渦を巻く。そして開かれた口は、海流の中で自由を失ったそれを噛み潰した。
 しんかい3200は大破した。最後に日本海溝に落ちた流星の正体──エネミーの姿を確かに伝えて。


「深海3200、大破!」
 太平洋上。しんかい3200のオペレーションをしていた男は、舌打ち混じりに声を上げた。
「畜生!やっぱりもう動き出していたか!」
 その声に、この監査船の船長であり、彼らの部隊長でもある男が力強く続く。
「しんかいはいい!それよりも『目標』は!?ソナーはどうだ!?」
 素早くレーダー手は返す。眼前の緑の発光点を見ながらに。
「『目標』高速移動を開始!速度──64ノット!?ろ…64ノットで北上を開始しました!!
「馬鹿な!?」
 64ノット。時速に直すと百キロを越える速度である。海底にありながら、その速度は驚異的なスピードであった。
「振り切られるぞ!?」
 その速度で移動する『目標』を追うことは、この船には出来ない。それどころか、時速50ノットですら、この日本にはわずかに数機しかないミサイル艇を置いて追えるものは他にない。
 つまり、暴走をはじめたエネミーを止める事ができるものは、もう、この海にはいなかったのであった。
「くそッ!本土に緊急入電だ!!」
 叫ぶ船長の後ろ、ソナーの緑の点滅が、恐ろしいまでの速度で北を──日本を──東京湾を──目指していた。


 やがて、戦いが始まる。
 各基地から、迎撃戦闘機が次々と上がっていく。過去にエネミーが現れた時に作られた危機管理マニュアルに乗っ取って、円滑かつ的確に、日本中を駆けめぐった情報に、迎撃勢力が動き出す。
 『目標』の着上陸阻止。そのために。
 しかし、はたしてその行為が成功するのかどうか──それはこの国を守る自衛隊のトップ、小淵沢首相にもわからなかった。ニューヨークでは、対エネミー用に組織されたスパイダー隊ですら、エネミーをうち倒すことは出来なかったという。
 それが──はたして今の日本にできるのだろうか──
 夕立の空に、次々と戦闘機が上がっていく。


 海面を割って、エネミーがその姿を現した。
 巨大な亀のようなその姿態。大きく割れた凶悪な口から無数の牙を覗かせて、エネミーは、雨降る空を裂くようにして、吠えた。


 やがて、全てのテレビがその映像に切り替わる。
 香奈ははっとして、料理をする手を止めた。テレビの画面が、強烈に輝いていた。打ち出されたミサイルが、エネミーの黒光りする身体に当たって、爆発している。何十も、何百も。
 だけれど、画面の向こうのエネミーは、大きく口を開けて、少しもひるむことなく、吠えあげていた。
 香奈は眉を寄せ、固く目を閉じた。吠えあげるエネミーの声が──映像だけで、まさかその咆哮が耳に届くはずはないのに──その声が、耳の奥で聞こえたような気がして、香奈は固く目を閉じた。
 シゲも立ち止まった。ラボのロビー。同僚たちがその映像を、食い入るようにして見つめていたその場所に、彼も立ち止まって、手にしていたコーヒーカップを手放してしまったのだった。
 激しい音を立てて、カップが床に砕け散った。
 テレビの中から放たれてくる無数の閃光。それはミサイルの爆発ではなくて、夕立の降り続ける空から、何機のもの戦闘機が消え失せていく光。
 立ち止まった彼の視線の向こう──その映像が、映し出されていた。
 植村は大声をあげて皆を呼んだ。脳内情報処理研究室の学生居室。この部屋の小さなテレビにも、同じ映像が映し出されている。
 植村の大声に、慌てて居室に飛び込んで来る大沢。植村がこぼしたカップラーメンの汁を勢い余って踏んでしまったけれど、そんなことよりも、眼前の映像に息を呑んだ。
 かなたは興奮気味に、居室の隣に続くドアを強く叩いた。明滅する光が、夕立に薄暗くなった部屋を照らすその場所に、ゆっくりと、教授が顔を出した。
 画面の向こうに、エネミーの姿。
 禍々しいまでに醜悪な、その姿。
 無気味に左右に揺れ動く長い首と、対照的に短い腕が、辺りを飛び交う戦闘機を振り払おうと宙を掻いていた。だけれどそれが上手くいかなくて──エネミーは再び怒りを露わに吠えあげた。
 その巨体に向かって、海上に浮かぶ何十隻もの戦艦が砲を撃ち放つ。降りしきる雨の中に、何十、何百と。
 生み出された弾幕が、エネミーの巨体を包み込んだ。真っ白な空間。白い煙の幕。その中で、巨大な生命体は悶えるようにして激しく暴れていた。
 ノイズだらけになったラジオを、小沢は無言で切った。
 雨音だけが、彼の周り──彼の乗った愛車、Mitsubishi GTO──を包み込む。
 ついに──始まったか──
 小さくため息を吐き出して、小沢はポケットの中に手を突っ込んだ。煙草と、独特の形をしたライター、ロンソン、バンジョー1927を取り出して、ゆっくりと煙草に火をつける。
 ウィッグの燃えるちりちりという微かな音が、雨音の中に紛れて車内の空気を揺らして、消えた。
 大きく、息を吐く。白い煙。
 小沢はその煙に向かって、呟いた。
「世紀末の始まり──か?」


 雨が窓をうち続けている。
 揺れる電車。その大きな窓を、絶え間なく大粒の雨がうち続けている。
 一也はシートに座ったまま、肩越しに雨の街を振り返った。陽も落ち、辺りはすでに夜の帳に包まれている。静かな、夏の夜が近づいているかに、見えた。
 きっと、それはいつもと同じ風景。
 一也は微かに微笑むと、そっと、頭を寄せた。自分の肩にもたれ掛かって、小さく寝息をたてている詩織の頭に。そっと。
 雨が、絶え間なく窓をうち続けていた。
 一也もそっと──目を閉じた。


 降り続ける雨に、白い弾幕が晴れていく。
 そして、その向こうの巨大な生命体──エネミーの姿を明らかにする。
 再び、猛攻がエネミーを襲った。明滅する光。巻き起こる煙。
 エネミーが吠えた。
 天に向かって、低く垂れ込めた灰色の雲を突き落とすほどの勢いで。
 全てのものを、震撼させるほどに。


                                   つづく


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