studio Odyssey


2nd Millennium END. 第1部




 1999年、7月19日。
 真っ青な空が広がっていた。
 夏の到来を感じさせる青い空。まるで、青一色で塗り尽くしたキャンバスのような、一面に広がった青い空。
 そんな夏空が、見渡す限りに延々と広がっていた。辺りで一番高い場所。この屋上の、その、さらに上に。
 少年──というべきか、青年と言うべきか──は、ゆっくりと眩しそうに目を開けると、少し気怠げにその身を起こした。
 夏服の制服。襟を、潮風が悪戯にはためかせていく。
 高い空を見上げながら、彼はゆっくりと立ち上がった。足下には長いもの短いもの、無数のパステルが散乱している。その傍らには、一冊のスケッチブック。
 開かれたそのページには、同じ、青い空が描かれていた。ただ一つ違うところがあるとすれば、そのスケッチブックには白い一筋の流線がある。
 彼が目を閉じる直前にこの空を駆け上がっていった、一機の飛行機が作り出した雲の軌跡である。
 勢いで描かれたその軌跡は、青空に、躍動と始まりを描いているようにも見えた。
 だけれど、見方を変えれば、そこには別れや儚い想いすらも、見て取れた。
 彼は小さくため息を吐く。すでに、足は欄干にまで歩み寄っている。
 スケッチブックに書き込んだ軌跡の事を少し考えて、やめる。
 青空の下、広がる街並みがある。真っ直ぐに降り注ぐ夏の陽射しは、ここからは少しばかり遠い東京の都心部まで、曇りなく彼の目に届けていた。
 街並み。変わらない、街並み。
 吹き抜けた風が、少しだけ茶色く染まった彼の髪を揺らしてすぎていく。
 彼は、小さく呟いた。
 そして、そっと、目を閉じた。
「1999年、夏──か」


 チャイムの音が鳴り響く。
 その音に、辺りは急に騒がしくなった。
 放課後。
 しかし、そのチャイムはただの放課をづけるチャイムではなかった。皆が待ちに待った、一年に一回だけ鳴る、夏の始まりをづけるチャイムだったのである。
 明日から夏休みだ。
 そのお陰もあって、教室はいつもよりも、一層のざわめきに満ちていた。ついさっき配られたばかりの通知票を手に友達と成績の話をしているもの、始まる明日からの休みの予定を話すもの、三年生らしく、受験の話をしているもの。
 それぞれに、それぞれの風景。
 その中、彼もまた、ひとり、別の風景を作っていた。周りの皆とは、少しばかり違う風景。
 ただ、ぼぅっと窓から青い空を見上げている──という風景である。
 頬杖をついて、まだ開いてもいない通知票を机の上に置きっぱなしにして、彼は開かれた窓からの風に頬杖をついていた。
 見つめる先、青空に飛行機が軌跡を残して上昇していく。
 微かなジェットエンジンの爆音が、風の中から聞こえたような気がした。
 高校三年生。
 高校最後の夏休みが始まった。
 だけれど、その教室の窓際、一番後ろの席に座っていた吉田 一也は、ただ、ぼぅと夏を迎えたその青空を眺めていただけであった。
「高校最後の休みだしよ、どっかみんなで行こうぜ」
 すぐ隣にいた友人が声を上げる。一也は、ゆっくりとそちらに振り返る。
「予備校?」
 別の友人がやってきて、まじめ腐った顔で言う。
「受験勉強?」
「バーカ。何が悲しくて、わざわざ休みを棒に振るのさ」
「そりゃそうだ」
「ってーか、ナンパ旅行でも行こうぜ、マジで」
「いいねぇ」
 と、ぞくぞくと皆がその声に集まりだした。いつもの連中。一也の、今の仲間達。
 一也は笑う。そして、その話をいつも通り、ただ、聞いている。
「行くなら、とりあえず湘南辺りでもぱっといかねぇ?」
「いいじゃん」
「行くなら、みんなでバイクで行こうぜ」
「俺、原チャしかねぇよ」
「しらねぇよ」
「当然、横羽つかって」
「当然」
「乗れねぇじゃん、俺」
 どっと笑う皆。そこに、
「お前ら、来年には受験もあるんだから、問題起こすんじゃねぇぞー」
 教壇の向こうから、この夏に三十路に踏み込むことになる男性教師が、ファイルを整えながら突っ込んだ。
「はーい。わかってまーす。」
 だけれど、
「わかっては、いまーす」
「おお、深い」
 笑って答える友人達に、一也も吹き出す。
「まぁ、でもよ」
 と、友人のひとりが一也に向かって言った。
「ナンパ旅行なんか、一也、行く必要ねぇよな。むかつくことに」
「そん通りだな」
「俺らだけで行くべぇよ」
「でも、こいつがいないと女がつかまらねぇ。ジャニーズ系のモテ顔だなしな、こいつ」
「イケメン?」
 言いながら、そいつは一也の頭をぺしぺしと叩いた。一也は笑うだけ。仕方なさそうに。
「ほいほい、うちの看板息子を変なことに使わない」
 なんて言いながら、皆の中に入ってきたのは美術部前部長、吉原 真一だった。
 夏が始まったばかりだというのに、早くも吉原は少し日焼けしている。健康的な体躯は、相変わらずだ。
「看板息子って、なんだよ」
 苦笑いに返す一也。
「オマエ目当ての女の子たちだって、結構いるって話だ」
 笑う吉原。
 吉原 真一。一也とは、これで三年目の腐れ縁になる。三年間のクラス、そして部活。ずっと一緒の、親友だ。
 そして、昔からのことを全て知っている、数少ない奴でもある。
「それはともかく」
 と、吉原。一也の席に手を置いて言う。
「一也、お前、文化祭の絵、そろそろ取りかかれって部長が言ってたぞ。可愛い後輩たちを、困らせんなって」
「女部長だろ?ったく、ナンパ師の風上にも置けないな」
「まったくだ」
 なんて突っ込むのは、取り囲む友人たち。
「なんでだよ」
 苦笑しながら、一也は返した。
「俺は、そんなんじゃないっての」
 なんておどけてみせて、皆に「お誘い」の返事をついでに返す。「はいはい」なんて、手を「いらんいらん」というように振る友人たちに、一也は軽く笑った。
 こんなやりとりにも慣れたもんだ──
「じゃ──」
 言って、一也は椅子から立ち上がった。まだ見てもいない通知票をそのまま鞄の中に押し込んで、吉原を誘う。
「行こうか?」
「おう」
 皆に手を振って挨拶をして、一也と吉原は廊下に出た。ちょうど廊下の向こうから、彼女が歩いてくるところだった。
 歩く彼女に気づいて、一也は微笑む。
 彼女も気づいて、彼の方に小走りに駆け寄ってきた。
「部活、いくの?」
 松本 詩織は満面の笑顔を浮かべて、一也に向かって聞く。
「ああ」
 一也は返す。


 彼女は、ちょっとばかり急いで走っていた。
 遅刻だからである。
 夏空の下。木漏れ日の隙間をぬって走る彼女。汗にお化粧が崩れちゃうなと思いながらも、腕時計に視線を走らせる。──まだ、始まって10分たってない。まだ、今日の特別講義には間に合う。
 彼女は少し、足を早めた。
 今日の特別講義は自分の大学の教授のものではないし、自分の学科の内容とも全く違う。かけ離れている。
 けれど、ちょっと聴いてみたいお題目なのであった。
 ちらりと再び時計を見やる。
 次の角を曲がれば、特別講義が行われている初代学長の記念講堂だ。特別講義は、いつもそこで行われている。
 無論、クーラーも効いているはず──彼女はまた少し、足を早めた。
 そして、講堂。
 いつも通り、彼女よりも先に講堂についていた彼女は、少し彼女を気にして、同じように腕時計に目を走らせていた。
 また遅刻か…と、小さくため息。
 薄暗い講堂。プロジェクターからの映像がスクリーンいっぱいに映し出されている。
「──細かい理論はこれ以上話せませんが、要は、このようにドラッグ・デリバリーによる運動感覚刺激をピックアップしているわけです。まぁ、先日発表された義手のFESと変わらないですね」
 スクリーン脇で、レーザーポインターを手にした教授が説明を続けていた。すらっとした流行のスーツに身を包み、女子学生の目から見ても、好感度は悪くない。一見は、ナイスミドル。居眠りをする女学生も、きっと少ないだろうと思われる。だけれど──
 変われば変わるモンね。
 と、彼女はため息混じりに笑った。そうよね、あれから、もうじき丸二年経つんだもの。
 みんな、変わるわ。
 神部 恭子は、ちょっと、自嘲するように笑った。気づいたのだ。自分の鞄の中に入っている携帯電話、そういえば、呼び出しをバイブに切り替えていないことに。
 慌てて、バッグから携帯電話を取り出す。今じゃ、当たり前に誰でも持ってる。当然、自分も持っている。けれど、あの頃の自分からは、想像もつかない。
 バイブコールに切り替えて顔を上げると、隣に彼女がちょうど現れたところだった。少し息が切れてる。笑って、恭子は席をひとつ移動した。
「やべぇー、寝坊した」
 開口一番、小声に佐藤 睦美は言う。
「相変わらずね」
「ま、ね。でも、あの人は全然、相変わらずって感じじゃないね」
 と、睦美は教壇にたつ教授を指さし、笑った。
「で、このシステム、BSSを使って、みなさんご存じのあの巨大ロボット、R‐0は動いていたわけです。それで、97年、地球に襲来した、我々がエネミーと呼んでいた生命体と、戦いを繰り広げたわけですね」
 真面目な顔をして言う教授──平田教授である。
 睦美は教授の話を聞きながら、その姿に呟いた。
「ナイスミドルになっちゃってるじゃん。無精ひげもないし、あのきったない白衣も着てないのね」
「ま、あの助教授の人と結婚したからでしょう?結構、尻にしかれてそうじゃない」
「同感」
 睦美は笑う。
 睦美と恭子の通う大学は、無論、T大学とは関係がない。だいたい、ふたりとも文系学生だ。だが、今日はたまたま彼女たちの通う大学、その理学部の特別講義に、平田教授が招かれていたのであった。
 これは冷やかしに行かねば…と、恭子を誘ったのは当然睦美。で、今、ふたりはここにいるわけである。
「なんか、冷やかしがいがないなぁ…」
 睦美は口を尖らせる。
 大講堂を埋め尽くすほどの学生たちは、皆、世界に誇る日本のブレインである男の話を熱心に聞いている。中には、学生でも何でもない、どこかの大学教授風の人たちの姿も混ざっていた。特別講義は別段、学生でなければ受けられないというわけではない。きっと、この男の話を聞きに、皆も潜り込んできたのだろう。
 教授は二年前の戦いの勇士として、壇上で話を続けていた。
「生命体であるエネミーと対等に渡り合うには、BSSの様に、人間の動きを無理なくトレースして、再現できるシステムが必要だったわけですね。まぁ、最も、もともとBSSというシステムはこのような巨大ロボットを作るために作られたわけではなく、医療用として開発されたシステムなのですが。では、そのシステムの応用についてですが──」
 スクリーンの画面が切り替わる。
 睦美は「お?」と、そのオペレーターを見て言った。
「あれ?明美さん、来てないの?」
 プロジェクターに繋がれたPCを操作しているのは、自分とたいして歳も変わらなそうな女子学生だったのである。
「私、てっきり明美さんがやってるんだと思ってた」
 目を丸くする睦美。
「そういえば、そうね」
 恭子も言われて、はっとしたようだった。
「なんだ、冷やかしがいがないなぁ」
 薄暗い講堂の中、教授の真面目な声が響いている。
 プロジェクターの画面が切り替わっていく。
 睦美はちょっとつまらなくなって、口許を曲げた。
「みんな、変わっちゃったのかなぁ…」


 同じように薄暗い巨大な会議室。
 その中の巨大なスクリーンの映像も、それと同じように切り替わっていく。
「あれから、二年がたったわけです」
 プロジェクターが映し出す映像の脇に立って、彼女は言った。彼女の言葉は彼女がしたピンマイクを通し、一瞬のうちに英語、フランス語、ロシア語、ドイツ語、ポルトガル語、イタリア語、中国語と、世界の言語に変換されていく。
「二年という月日を長いと感じるか、短いと感じるか。それは私自身、わかりませんが──」
 切り替わるスクリーン。
 その前に立ち、彼女は胸を張って言葉を続けていた。美しい金色の髪がスポットライトの中で輝いている。
 金色の髪の少女──ベルは言う。
「この街も、あの頃の傷が残っている場所は、もう、ほとんどありません」
 この街──横浜。二年前の始まりの地である。
 もちろん、それはベルにとってでもあり、あの、仲間達にとっても──だ。
 よく言えば、思い出の場所。いや、悪く言ったとしても、思い出の、忘れてはならない場所。
 ベルはゆっくりと大きく息を吸い込んだ。次の言葉を続けるために。
 あれから二年──長かった?
 それとも、短かった?
 どうだろう──小さく頷いて、言う。
 代表として、その始まりの地、パシフィコ横浜の大講堂にて、世界中の要人や科学者達を前にして──言う。
「地球の研究者、そして、母国の研究者たちからも、この地球で言うenemy、超過生体有機体の研究報告が出されています」
 言いながら、ベルは講堂を見渡した。薄暗くて、皆の表情も顔もよくわからないけれど、
「ですが──正直なところ、やはりまだよくわかっていないというのが、現状のようです。これからも、我々が共に、よりよい関係を築いていくためにも、共同研究のプロジェクトを早急に検討し、未来に繋げていきたいと思っています」
 薄暗くて皆の表情も顔もよくわからなかったけれど、ベルは微笑んだ。
 暗闇の中に、確かに彼の姿があったからだ。
 中野 茂はベルが自分に気づいたのをわかって、軽く、膝の上に載せていた手を挙げて見せた。
 ベルも気づいたらしい。彼女は小さくもう一度頷いて、言葉を締めくくった。
「復興をとげた、この街と同じように」


 屋上からは、その街並みが見える。
 復興した街並みだ。
 パシフィコ横浜も、その向こうのランドマークタワーも、クィーンズスクエアだって、この屋上からはしっかりと見える。
 視線を逆に送れば、あの、東京タワーだって見えた。その向こうには、うっすらとだけれどこの都市のシンボル、東京都都庁だって見える。
 彼は再び、真っ青な空の下、ゆっくりと目を閉じた。
 そして、曖昧に微笑む。
「記憶は思い出に変わって、傷は癒えていくもんか」


 同じ青い空を見上げて、彼女はふぅと息を吐き出した。
「吉田さん、それ終わったら、三階の川島さんのところにお薬届けてくれる?」
 吉田 香奈は同い年の看護婦の言葉にはっとして、
「あ、はーい」
 と、笑って振り返りながら答えた。
 返事を返された同僚の彼女は、屋上の物干し場から軽く手を振って出ていく。
「終わったら、お昼、一緒しよ」
 と、言葉を残して。
「あ、うん。じゃ、その時にね」
 香奈が返すと、彼女は屋上のドアを後ろ手に閉めて出ていった。屋上から、誰もいなくなる。
 香奈、ひとりになる。
 小さな病院。
 ここが、今の香奈の勤め先である。
 もちろん、香奈は看護婦の資格を持っていないし、准看の資格を持っている訳でもない。が、大学では医療機械工を学んでいた。そして、医学部もあるT大学の卒業生でもある。
 まぁ、資格はなくとも、他にあるもので、彼女はその望み通りに、今はこうして看護の仕事に就いていた。看護助手という仕事である。
 人のために働いて──毎日、充実していた。本当にやりたい仕事をして、毎日、充実していた。
 二年前と比べても──きっと。
 ナース達と同じ白衣に身を包んで、物干し竿にかけたシーツを軽く両手で叩く香奈。
 軽い音が、青い空に吸い込まれていく。
 夏の到来を告げる強い陽射しに輝く、白いシーツ。
 平和な風景があった。
 軽く風が吹き抜けていく。
 あっと思って、咄嗟に香奈は頭を抑えた。キャップが風に飛びそうになったのである。
「っと…と」
 頭を抑えてけんけんしながら、香奈は何とか体勢を立て直す。そしてため息混じりに、
「もぅ、あとでちゃんと留めなおしておかなくちゃ」
 と、独り言を言って髪とキャップを直した。
 その髪。
 二年前はあんなに長かった髪が、今では少しばかり短くなっていた。
 その、少しばかり短くなった髪の上にちょこんと乗っているキャップを直して、香奈は、再び足下の洗濯かごの中からシーツを取りあげた。
 長かった髪。
 本当はあまり切りたくはなかったのだけれど、仕事柄、長すぎるのも婦長に怒られてしまうので、少し梳いたのである。そして、ただ梳いただけではなく、今ではもっぱら後ろで束ねるのが香奈のスタイルになっていた。
 イメージチェンジ。功を奏しているかはともかくとして、久しぶりに大学時代の友人とあったりすると、皆、「香奈、なんか明るいイメージになったね」と言うくらいだから、ちょっとは、変わったように見えるのだろう。
「二年も経てば、私も変わるわ」
 なんて笑いながら、今は言える。
 けれど──たとえ髪を束ねても、こめかみの辺りは意図して今でも隠していた。変えられない過去が、そこにあるから。
 香奈は、取り上げたシーツを「よいしょ」と竿に掛けた。ちょっとジャンプするようにしたせいか、前髪がはらりと頬に落ちてくる。すこし邪魔だなと眉を寄せて──だからと、この髪まで後ろで留めてしまうわけにもいかないし…
 それは出来ないこと。してはいけないこと。
 そこにあるものが、見えてしまうから。
 それは、香奈の忘れられない記憶のひとつ。
 掛けたシーツのしわを伸ばすように、再び、香奈は両手でそれを軽く叩いた。小気味のいい音が空に吸い込まれていく。
 少し、香奈は微笑んだ。
 青と白のコントラスト。
 平和な風景。
 ゆっくりと、静かに時間が過ぎていくよう──突然、風が吹いた。
 駆け抜けるように。速く、強く。
 はっとして香奈は目を見開く。
 白いシーツが音を立ててはためく。キャップが風に乗って、とうとう青い空に向かって飛んだ。
 髪が、風に踊る。
 その奥で、銀色のそれが、一瞬だけ輝いた。


 その風に、一也もぱっと目を見開いた。
 屋上。
 あの街並みが見える屋上。
 吹き抜けた風に向かって、一也は真っ直ぐに立っていた。
 小さなパステルが風に飛ばされて折れる。
 スケッチブックのページが勢いよく括られていく。
 青空のページが消えて、何もない、真っ白なページが、勢いよく括られていく。


「これで、今日の特別講義は終わります」
 大学の記念講堂。
 平田教授はそう言って、ゆっくりと教壇の前に戻った。
 学生達が疲れた身体を少し動かす。と、ざわめきが少しだけ起こった。
 やがて、消えていた講堂の灯りがついた。
「何か、質問がある人がいれば──?」
 教壇の上から言う平田教授。そして、くるりと講堂を見回すと、ひとりの男が、そっと手を挙げていた。
 平田教授は笑って、
「では、あなた。どうぞ」
 彼に発言を促した。
「簡単な質問ですが──」
 言いながら立ち上がった男は、学生ではなかった。かと言って、どこかの大学の教授というわけでもない。
 しゃれたスーツに身を包み、背もすらりと高い好青年。教授は、その、彼の姿に笑った。
 彼もわかって、笑いながら聞く。
「簡単な質問ですが──」
 小沢 直樹は一瞬、瞳の奥に確かな輝きを持って、言った
「再び、エネミーは我々の前に現れると思いますか?」


 風に一也の髪が踊る。
 少し茶色い、二年前の彼と違う、その髪が風の中に踊る。
 一也は真っ直ぐに、その青空を見つめていた。
 青空をわって、わずかな雲を突き抜けて、流星が流れて行く。
 再び。
 1997年、3月。
 その時と同じに、再び、大地に向かって真っ直ぐに落ちる白い流星の軌跡。
 強く、風が駆け抜けて行った。
 1999年、7月。


 吹き抜ける風の中、流星が流れていく。
 吹き抜ける風の中、踊る髪の下──こめかみにある金属の端末──Brain Scanning Systemの端末が陽光に輝く。

 1999年、夏。


 スケッチブックのページが、勢いよく括られていく。




第10章72節

  L'an mil neuf cens nonante neuf sept mois
  Du ciel viendra vn grand Roy d'effrayeur
  Resusciter le grand Roy d'Angolmois.
  Avant apres Mars regner par bon heur


「こ…これは…現実なのか…?」
 指令、ジョンソン・グレンは、眼前のエレクトロニックマップに映し出された映像に息を呑んだ。
 北米防空司令部──通称、クリスタルパレス──その作戦司令室にいた者たちは、再び現れたその流星に、皆、一様に息を呑むことしかできかなった。
「奴ら──もう、現れないはずなんじゃなかったのか…」
 二年前のあの時、この場所にいたものの姿は、今となっては数えるほどしかなかった。皆、退職なり、転部なりしてしまったのである。あの、多くの人の記憶より消えていった戦いを、忘れることができずにいた、そのせいで。
「ど…どうすればいいんだ…」
 指令、ジョンソン・グレンは呟きながら振り向いた。振り向いた先にいた、先日配属されてきたばかりの副指令は、言葉をなくして目を見開いている。
「指令!命令を!!」
 古株のオペレーターが、指令に向かって声を上げた。
「あ…ああ…じょ…状況を詳しく伝えてくれ」
 指令、ジョンソン・グレンの言葉に、若い別のオペレーターが応える。
「宇宙空間において確認された物体の数は三体。三体、降下を開始しました!」
「こ…っ、降下予想地点は!?」
「現在、演算中です!しばらく──」
「くそっ!!どういうことなんだ!?」
 はっと正気に戻った副指令は、ちっと舌を打った。
「奴らは、もう、地球に襲い来ることはなかったんじゃないのか!?それがなぜだ!?」
「わからん」
 ジョンソン・グレンはエレクトロニックマップを見つめながら、呟いた。
「ただ、もしかしたらひとつ、言えるのかも知れないことは──」
「到達予想地点、出ました!ひとつはポリネシア、ツアモツ諸島付近、誤差二○!」
「もうひとつはミクロネシア、マリアナ──いえ!小笠原諸島近辺かと思われます!!」
「最後の一体は、ウェーブコースを外れました!減速の影響を受け、衛星軌道上に戻ります!!」
「──二体か」
 副指令は眼前のエレクトロニックマップに映る、ふたつの流星の軌跡を見つめて、再び舌を打った。
「ただひとつ、言えるのかも知れないことは──」
 指令、ジョンソン・グレンも、それを見つめながら、呟いた。
「これが旧約聖書の中にある、ARMAGEDDON(アルマゲドン)の始まりなのかも知れないということだけだ」




   新世機動戦記 R‐0 2nd Millennium END.




       1

 校門脇の桜が、その美しい花を咲かせていた。
 一九九九年、四月。季節は春。
 歩く一也の隣を、いつもと同じに詩織が歩いている。
「また、一緒のクラスになれなかったね」
 と、詩織は少しつまらなそうに笑った。
「せっかく、ふたりとも同じ文系なのに」
「そうだな」
 一也は返す。少し、素っ気なさそうに。だけれど別に、そういうわけでもなくて。
「一年の時、だけだったな。同じクラスになれたの」
 言いながら頭を掻く。少し茶色い、長めの髪の頭を。
「まぁ…でも毎日会ってるし、関係ないか」
「そうね…」
 詩織も呟くようにして返した。ちらり、隣を行く、一年のころとはだいぶん違って大人びた一也を、ちょっと見上げるようにして。
 一也の背は、もう、詩織よりも頭ふたつ分ほど高くなっていた。身長も、あの頃とは違って高い部類に入るようになっていた。吉原と並んでも、違和感がないほどだ。
 もちろん、顔立ちも大人びて、あの頃とはだいぶん印象も変わっていた。あの頃の印象が線が細いとするなら、今の彼はシャープ。もちろん、それは大人びた、とも言い換えられるのだけれど。
「三年生か…」
 視線を外して呟く詩織。
「ん?」
「ん?ううん、別に」
 微笑む詩織に、一也は少し口を曲げた。
「なんだよ」
「なんでも」
 そしてふたりは、職員玄関前の人垣から離れた。
 職員玄関前の煉瓦塀に、一学期の始業式の日、その年のクラス編成が掲示される。それが、この高校の習慣だった。
「せっかく、高校生活最後の一年なのになぁ」
 詩織は、少しつまらなそうに言う。呟くようにして。
 高校生活最後の一年。このふたりにとって、最後の掲示。
 でも結局──
「同じクラスに、なれなかったね」
「ああ──そうか」
 一也は呟いた。詩織の言葉を耳にして、だけれど──その視線は校門の脇に咲く、美しい桜の方に向けたまま。
「もう、三年か──」
 風が優しく吹き抜けていく。花びらが、その風に乗って舞っている。
 ふいに、頭をよぎる。
 ──みんなは?
 チャイムの音が、聞こえ始めていた。


 新聞を真ん中からふたつに折って、中野 茂はその向こうの椅子に座っていた小沢 直樹を見た。
「なんか言いました?」
「いや、みんな、何してんだろうって」
 小沢は言う。窓の向こう──桜がちらちらと舞うその風景──から、ゆっくりと視線を外し、眼前の男に笑いかけながら。
「何してるんでしょうねぇ…僕は、仕事してますが」
 笑って返す中野 茂──今でも、通称シゲ──に、小沢は思わず吹き出してしまう。
「仕事って、デスクに座って新聞読むこと?」
「これも、大事な仕事です」
 なんて言って笑うシゲ。新聞を折り畳んで、机の下に投げ入れる。そんな新聞が、机の下には山になっていたりする。
 小沢は笑うしかない。
「税金会社は、有閑企業なのかね」
「そんなことないですよ。研究、してますよ。人生是、研究と探求の日々」
 言いながらデスクの上のコーヒーをすするシゲ。説得力、まるでナシ。
 笑いながら、二人は合わせたように窓の外に視線をゆっくりと送ったのであった。
 ここはシゲの勤め先である、科学技術庁出資の共同企業ラボラトリーだ。
 最先端の技術研究を、各企業が各々の利益を捨てて研究している──と言うのがタテマエの、実際の所は、何をやっているのか、出資者の国民の皆様には内緒な、シゲ好みの公的機関だ。
 その一階。
 超過生体有機体研究科、第3分室。
 シゲの配属先である。
「小沢さんこそ、こんなとこで油売ってて、いいんですか?」
 シゲは返す。反撃である。
「んなことだと、香奈ちゃんに見限られますよ?」
「仕事?してるさ」
 と、心外というように振り向いて目を丸くする小沢。けれど、実際は彼もシゲが煎れてきたコーヒーをすすりながらだったりするので、説得力なんかまるでナシ。
 まぁ、だからといって、小沢がその程度のことで戸惑ったり困惑したりする人間ではないことは、すでにご存じの通りであろう。
 小沢は軽口で返す。
「僕はほら、こうしてあの戦いの英雄たちにインタビューして、ノンフィクション小説でも書こうかなって、思ってるわけ。だからほら、今は仕事中」
 シゲは苦笑いだ。遊びだか仕事だか──と言おうとしてやめる。確実に、突っ込まれる。「自分はよ」と。
「それで、夢の印税生活ですか?」
 笑うシゲ。小沢も「いいねぇ」なんて笑い、
「それはともかく。そう言う自分はどうなの?ベルとは」
 結局、やり返す。彼にとってみれば、それは当然とも言えるけれど。
「いや、別に。どうという事はないですよ」
 結局話を振られて、言葉を濁すシゲ。
「惑星間結婚、第一号になるんじゃないの?ニュースだぜ?」
 と、小沢は乗り気。
「それ、小沢さんはノンフィクションで書きたいんでしょう?」
「ま。売れるだろうからね。恋愛云々、結婚云々は」
「自分のことはどうなんですか?」
「それを決めるのは、僕。今は、シゲ君の話を聞いてるんだって」
 大真面目な顔で言う小沢。シゲは仕方なしに、笑う。
「ベル、最近また忙しいみたいなんですよ」
「へぇ」
 感嘆するようにして返しながらも、小沢は一瞬、ルポライターのそれの目をした。流石だな──なんて、シゲはちょっと感心してしまう。
「なにか、あったのかな?」
 食いつく小沢に、シゲが隠し通せるわけもなく、
「これ、まだ内緒ですけどね」
 声を低くして、シゲは言った。小沢は身を乗り出し「わかってる」と片手をあげる。
 左右を──意味もなく──確認して、小沢に耳打ちするシゲ。
「宇宙空間でのエネミー利用の有効性について、ちょっと、面白いデータが出てきたんですよ」
「どこから?」
「ま、それはウチでも研究してたんですけどね」
「じゃ、資料見せてよ」
「そんなコトしたら、僕が懲戒免職じゃないですか」
「大丈夫。問題なし」
「何がです?」
「で?」
「…まぁ。エネミーの細胞組織を使えばって話ですけど──」
 と、言いながらシゲは小沢から離れて背筋を伸ばした。どうやら、ここからは流石にまだ言える段階ではないようだ。小沢も軽く頷くだけで、手帳を出したりはしなかった。
 シゲは言う。
「まぁ、平たく言えば、宇宙空間においての有機生命体の補助的活動についての可能性というレポートが出てきたって事なんですけどね。その程度ですよ」
 ひょいと、肩をすくめるシゲ。
 小沢も軽く唸って、返す。
「まだまだ、エネミーについてはわからないことが多いって訳か」
「超過生体有機体。Overed Human Organismですよ」
 シゲは笑って、言った。
「ま、でも21世紀も目の前ですし、今の人類を越えるために必要になる、新しい力なのかも知れないって事ですか」
「エネミーなんかじゃなくて?」
 少し口許を緩ませながら言う小沢。シゲも返すように口許を緩ませる。
「今の人間を越える、新たな力ね」
「ええ。その可能性が──と」
 つぶやくようにして言うと、シゲは再び窓の向こうに視線を走らせた。
 青い空の下、桜が静かに舞っている。


 14号館の入口脇には、一本の大きな桜の木があった。
 T大学。
 そのキャンパスの外れ。
 平田教授はその木を眺めながら、軽く笑った。
 本当はこの桜の木、この建物が建てられるときに切られる予定だった。けれど、今も変わらずに、その花は毎年の春が来る度、ここに咲き誇る。
 改築されて、二年前の面影を完全になくしたその14号館の前にあっても──だ。
「今年も、ちゃんと咲いたか」
 呟いて、教授は14号館に入っていく。
 改築された14号館に、あの立て付けの悪かった扉はもうない。薄暗い廊下も、歩くだけで靴音に誰かが来たことがわかる廊下も、登りにくいコンクリの階段も、すでにない。
 一年前に改築されて、あの頃の面影は、すでにない。
 14号館に入っていた唯一の研究室、『脳神経機械工学研究室』も、すでにその改築と共に姿を消していた。
 教授は過去、『脳神経機械工学研究室』があった部屋の前に立つ。今は、きれいに改装されて、そのドアも変わっている。そして、その上のネームプレートすらも、変わっている。
 教授は新しい研究室のプレートが入ったドアを、ゆっくりと開けた。
「おはよう」
 脳内情報処理研究室。
 教授の登場に、研究室にいた研究生達が振り向いて、挨拶を返してくる。
「あ、おはようございます」
「おはよう。今日もいい天気だね」
 教授は軽く会釈をして、彼らの脇を抜けて奥の自分の部屋へと進んだ。
 窓の向こうには、昔と同じ桜が見える。取り囲むものは、全て変わってしまったけれど。


「あの人がさ、二年前のロボット作った人でしょ?」
 脳内情報処理研究室の研究生は、わずかに三人しかいない。
 いや、だからといって人気がないというわけではない。この研究室を志願した学生の数は、なんと、実際には学科の半分以上にも昇ったのだった。
 それはそうだろう。世界に誇る日本のブレインの、そして、実在する巨大ロボットに触れられるかも知れない、世界にただひとつの研究室だ。憧れ、好奇心──多くの学生達はこの研究室に入りたいと、志願はしたのであった。
 けれど、結局、教授はこの三人しか研究生として迎え入れはしなかった。
 理由はない。
 ただ──なんとなく──だ。もともと、教授は「研究室では研究をしない」というのがそのスタンスであったからかも知れないけれど。
 それはともかくとして、三人の内の紅一点、桐嶋 かなたは、部屋に消えた教授を目で追いかけながら続けた。
「見えないよね。全然」
「そーか?」
 返すのは室長、大沢 一成。頭の後ろで手を組み、彼もかなたの視線の先を追う。
「まー、何考えてるかは、わかんない人だけど」
「よっしゃ!NASAのデータベースにアクセス出来た!!」
 と、二人が教授の消えた方を見ている間に、研究室のUNIXの前に座っていた植村 雄が、小さくガッツポーズをとって歓喜の声を上げていた。
「さっすが、世界に誇る研究室のマシンとそのパワー。これならさくさく、世界中の情報にアクセスできるね」
 と、植村は楽しそう。水を得た魚──ハッカーに最新型マシン──である。
「なになに?何が見られる?」
 大沢も乗り気だ。二人して、21インチなんて言う、意味なく大きなUNIXのディスプレイを覗き込む。
「スペースシャトルの打ち上げ計画とか、見られるね。いじっちゃおうか?」
「今度、アメリカでも無人シャトルあげるよな?あれ、俺たちでコントロールしねぇ?」
「いいねぇー。えーっと、アクセスコードはーと…」
 モニターの反射に映る、かなたの姿。
 その手に、ヒートガン──ゴムを収縮する事が出来る、ドライヤーのリミッター解除版のようなものだ──が握られているのに、二人はまだ気づかない。
 数秒後、研究室に悲鳴が響く。
「仲のよさそうな奴らだな」
 教授はデスクでコーヒーをすすりながら、その声に微笑んだ。


「では、この計画で」
 着席すると、男は言った。
「タイムテーブルも、これで決定でよろしいですね。他に、何か質問があれば」
 窓のない会議室。蛍光灯が青い光を放っている。
 NASA。その会議室。
 大きなテーブルを囲んで男達が話し合っているその前には、一機のスペースシャトルの打ち上げ計画書があった。
 アメリカ初の、無人スペースシャトル打ち上げ計画の、計画書である。
「実際問題として──」
 上座に座った、チーフの男が口を開いた。
「この計画が失敗する可能性は?」
「ありません」
 男はきっぱりと返した。返して、厚い眼鏡をゆっくりとあげた。
「我がアメリカではこの無人スペースシャトル、今回が初になりますが、すでにロシアでは、旧ソ連時代に成功している技術です」
「我々は、その分野では先をいかれているというわけです」
 言ったのは別の男。先ほどまで説明していた男の隣に座っていた男だ。
「その通りです」
 部下の言葉に、男は続ける。
「来るべき宇宙時代、人類が月と地球との間を行き来する時代、シャトルのパイロット不足は問題となるでしょう。そして、安全性の面についても」
「コロニー計画もあるしな」
 また、別の男が呟く。チーフの右隣に座っていた男だ。
「最も、そのロシアが計画を遅らせている所はあるが」
 軽い笑いが会議室に生まれた。
 男は説明を続ける。
「その面で、パイロットなしでも十分な安全性を保証できるシステムが必要となります。この計画は、それへの布石と思っていただければ、差し支えはないでしょう」
「このスペースシャトルのシステム基礎は、どのようなものになっている?そして、何故今、この計画が?」
 チーフの言葉に、男は微かに口許を弛ませた。それは、彼の部下の男にしか、わからなかったけれど。
 男は言う。
「新たな、信頼性の高いシステムの開発に成功しましたからです」


「あ?」
 植村は顔をしかめさせて、言った。
「なんじゃ、このシステムは」
 なんだなんだと、大沢がディスプレイを覗き込む。
「システムがどうした?」
「いや、無人シャトルに使われてるシステムをのぞき見したんだけどね」
 植村は身体だけ大沢の方に注意を送って、返した。視線はディスプレイの方に向けたままである。
「どこかで見たことあるシステムだなって──ああ、そうか」
 と、植村は今自分が使っているUNIXから、隣のUNIXのキーボードに手を伸ばした。見たことのあるシステム。確か──と、キーボードを叩く。
「お。やっぱりじゃん」
「なにが?」
「これ、同じ」
 ふたつのディスプレイに、同じシステムプログラムが表示されている。よく見れば細部は違うが、基本的な入出力などは、同じようだ。
「それ、何?」
 まだ手にはヒートガンを持ったままのかなた。
「熱っ」
 大沢が顔をしかめる。
「これ?ま。世界一信頼性の高い航空機管制システムだろうね。コピーしとこうぜ。これで、卒業研究完成ー」
「ずるっ!」
「何これ、バグとり版?」
「つーか、なんでNASAのスペースシャトルと同じシステムが、うちの研究室にあるのさ?」
「世界一信頼性の高いシステムだからだろ?」
 画面には、コピー中を示す表示が点滅している。
「そういうこと聞いてるんじゃねぇよ」
 と、大沢。植村は椅子ごと振り向き、
「NASAはカッシーニだのの打ち上げで、叩かれたからな。信頼性の高いもの、欲しいんだろ。初の無人シャトルだもの。失敗できないじゃない」
 言う。が、
「なんで、それがうちの研究室にあるのって話でしょ」
「そう。その通り」
 植村の言っていることは、話の流れには乗っていなかった。
 「ああ」と頷き、植村は言った。
「これ、うちで作ったやつだからだよ」
「うち?」
 眉を寄せるかなたの隣で手を打つ大沢。
「なるほど」
「そ」
 植村と大沢は同時に言った。
「EVR‐0──イーグルのシステム」
 この研究室の前身である、『脳神経機械工学研究室』助教授、西田明美の作り上げたものである。


「EVR‐0システム」
 廊下を歩く上司に向かい、男は言う。
「確かに、このシステムを手に入れて、この計画は始まったと言えますけれど──正気ですか?」
「なにがだ?」
 男は振り向きもせず、歩みも止めずに返した。
「何か、疑問でも?」
 言う男は、先の会議で計画について発表していた男だ。厚い眼鏡を軽くあげ、彼は軽く笑う。
「アメリカ初の無人シャトル。すばらしいじゃないか」
「それは…確かにそうですが…」
 会議を終え、二人はラボへと戻るところだった。
 言葉を濁す部下とは対照的に、先を行く男は胸を張って悠然と歩いている。そして、さらりと、
「君は、ここまで来て、なにかに戸惑いでも抱いているのか?」
 言う。
「いえ…ただ…」
 言葉を濁す部下に、男は肩越しに振り返って返した。はっきりと、きっぱりと。
「来たるべき宇宙時代に、この計画はクリアしなければならない、課題なのだ。未来を見つめろ。未来を見つめて、今を生きろ」
 部下の男は下唇を噛んだ。理解できる。理解はできるが、納得は──
「出来ないのならば、君にはこの計画から外れてもらうだけだ。残念だがね」
 男の言葉に、彼は、
「いえ、この計画が、人類の未来のためだと言うのならば、実行します」
 はっきりと、返した。ここまで来て、戻ることなど出来るものか。世界最初の、歴史に名を残すことになる、一大計画なのだ。
 ここまで来て、戻ることなど、出来やしない。
 男は笑った。そして、先を急いた。遅れまいと、部下の彼も後に続いた。
「計画通り、打ち上げは5月13日に実行する」
「わかりました」
「マスコミには、十分に事前情報を流しておけ」
 男は笑う。笑って、厚い眼鏡をあげて、言う。
「どんな事故が起こっても、この計画が中止されないようにな」


       2

 桜を散らした風に、微かな夏の香りがしはじめた頃。
 五月。
 一也はその青空の下を、ふらふらと踊るような足取りで歩いていた。小さくGLAYの歌なんかを口ずさみながら、あの、川沿いの遊歩道を、である。
 ゴールデンウィーク明けの平日。その午後。
 ゆったりと、海に近い河口付近の川の流れと同じように、時が流れていく。
 手にはパステルの入った紙袋。どうしても今日買わなければならないものではなかったけれど、授業をサボる理由にするくらいには、十分な事だった。
 少なくとも、今の彼にとっては。
 ふと、一也は立ち止まる。
「かわんないな」
 刻々と変化しながらも、普遍の流れの上にある川面。
「かわんないな…」
 一也はもう一度呟いて、笑った。


「ミッション開始時間まで、残り3分」
 無線の声が言う。
「了解、各計器、最終チェック。異常なし」
 それに返す無線の声。
 ヒューストン。その集中指令センター。
 百を越える端末機をオペレートする男たちの向かい側には、4枚の超大型ディスプレイがある。世界中、いや、宇宙の膨大な情報を映し出すために作られた、専用の特殊ディスプレイだ。
 そして今、そのディスプレイには、一機のスペースシャトルが映っていた。夜の闇の中、浮かぶ白いシャトルのシルエット。
「チャレンジャー2、全システム、異常なし」
 無線の向こうの声が言う。
 男は軽く、口許を弛ませた。
「問題は、ないよ」
 その男に向かって言ったのは、今回の打ち上げの総責任者であり、先の会議でのチーフを務めていた男である。
「アメリカ初の完全無人スペースシャトル。必ず、この計画は成功する」
 チーフの男の声に、
「だといいですね」
 男は細く笑う。
 今日の打ち上げを、誰よりも待ちこがれていたのはこの男だと、チーフの男は知っていた。計画立案、システム設計、テストプラン──そのすべてを手がけ──先月のあの会議の後、突然の部下の事故死もあった。悪い噂が流れた事もあった。計画の中止を求める市民団体からの声もあった──しかし、それらすべてを乗り越えて、彼はやっとの事でここまでたどり着いたのだった。
 チーフの男は、そのことをよく知っていた。
「ここで、シャトルの打ち上げを見届けるといい。逐一の情報を、耳にすることが出来るからな。自分が設計したシステム、しっかりと見届けるといい」
「いえ…それは、遠慮させていただきます」
 男は言い、インカムを外してチーフに手渡した。
「私は、打ち上げに関しては専門家じゃないですからね。ここはプロフェッショナルのみなさんに任せます。私は私で、一番見たい場所で、私の作り出した芸術品の晴れ舞台を、見守りますよ」
 男は笑って、集中指令センターを後にした。
 チーフは、ゆっくりと離れていくその背中を見送っていた。インカムに声が響いてくる。
「チャレンジャー2、打ち上げ1分前──」


 やがて、爆音と共に、漆黒の闇を裂いて赤い軌跡が駆け登っていく。


「今、時代は動き出した」
 打ち上げられたシャトルの描く軌跡を見つめながら、男は言った。
 三つ揃いのスーツに身を包んだ、貫禄のある男である。発射台を遠くに見る丘の上。黒いリムジンに寄りかかり、彼は煙草を軽くふかして言う。
「我々人類は、進化し、進み続けなければならない」
 煙草を吸う男の言葉に、別の男が笑う。同じように、打ち上げられたシャトルの軌跡を見つめながら。
「ええ…そして、あれこそがまさに、その始まりです」
 男──スティーブン・ハング──彼こそが、今打ち上げられたシャトル、そのシステムの設計者であり、その中に積まれているものを、作りだした男であった。
「いえ…」
 スティーブは言った。
「始まりは、二年前──」
「二年前は、まだ始まってはいなかったさ」
 煙草を吹かし、男はスティーブに笑いかける。
「二年前、人類は、壁にぶつかっただけだ。あの時に、何かが始まったのではないよ」
 男は煙草の赤い光で、闇を裂いて登っていったシャトルの軌跡を追った。軽く、笑いながら。
「今、あの時に止まった時代が、動き出すのだ」
 男はシャトルの軌跡を追った赤い光を、そっと投げた。
 煙草の赤い光。
 放物線を描き、ゆっくりと大地に落ちる。


 遥かな空のかなたで、光が弾けた。


 川沿いの土手。
 一也はそこに寝そべって、空を見上げていた。
 五月の空。
 青い、空。
「…かわらないな」
 呟く。
「なぁ…」
 誰にとでもなく。
「変わらなくて、あれから、ずいぶんの時が経ったのに、結局何もかもが元通りになって、それで結局、何も変わらなかったようで──」
 そして、そっと、一也は目を閉じた。
「あの半年は、結局なんだったんだろうって──最近よく思うんだ」
 答える声はない。


       3

 六月の雨が、ゆっくりと窓を叩きはじめた。
 病院の窓ガラスの向こう、降り始めた雨を見つめながら、一也はシャツのボタンを留めていた。
「面倒だろう?」
 カルテを見ながら言うのは、この病院の医師であり、一也の主治医である、黒岩だ。
 一也はゆっくりと黒岩に視線を送る。
「なにがですか?」
「いや、面倒だろう」
 カルテに今日の診療結果を書き込みながら、黒岩は続けた。
「こうして、毎月毎月、検査を受けに来るのは」
「そうですね」
 別段、そうという風にでもなく、一也は返す。黒岩はちらりと、その一也を見た。一也はそれに気づく。
 気づいて、それで、続ける。
「でも、僕の、忘れられない記憶ですから」
「──そうか」
 呟くようにしてから、黒岩はカルテをまとめ直した。毎月検査をしているが、今月も、異常はなし。毎月の検査なんて、もしかしたら、無意味なのかも知れない。端末が、人体に与える影響なんて、もしかしたらないのかも知れない。
 けれど、世界中で彼と同じものを持つ者は、たった二人しかいない。大事をとって、黒岩は彼と彼女に、毎月検査を受けに来るようにと告げていたのであった。
 BSS──Brain Scanning Systemの端末を持つ、世界にたった二人の姉弟に。
「そろそろ、薬がなくなる頃?」
 カルテを確認し、黒岩。
「あ、そうですね」
 一也は返す。
「一応、出しておこう。いつも通り、頭痛がひどくなったら、飲んで──」
「特に何もないときは、服用しない──ですね」
「ああ。お姉さんの方は?」
「生理の前になると、ちょっと」
「頭痛が出るか。ホルモンバランスの関係かな…仕事の方は平気なのかな?」
「黒岩さんに紹介してもらったところ、気に入ってるみたいです」
「そうか」
 よかった──と、口の中で黒岩は呟いた。カルテを引き出しに戻す。それを見て、
「今日は、もういいですか?」
 一也は聞いた。
「ああ、帰りに薬局に寄って、薬をもらっていってくれよ」
「わかりました」
 答えて、ヘルメットを手にとって返す一也。それを見、軽く笑う黒岩。
「免許、取れたんだ。早かったな」
「ええ、ロボット動かすよりは、簡単ですから」
 軽く言って、一也は笑う黒岩に頭を下げて部屋を出た。


 窓の外。
 雨が降っている。
「一也君、どうです?」
 窓の外、駐車場のバイクの前で雨を降らす厚い雲を見つめている一也。それを見ていた黒岩に声を掛けたのは、
「久しぶりだな」
 振り返って笑う黒岩の前に立った男、平田教授である。
「BSSの端末を持つ、世界中でたったふたりの人間ですか」
 窓に歩み寄り、黒岩の脇に立つ教授。窓の向こう、一也がフルフェイスのヘルメットをかぶる──瞬間、その茶色い髪の隙間から、金属の端末が覗いていた。
「問題ないよ」
 黒岩は返す。
「あの端末は、人体にはほとんど影響を与えないように作られているらしいからね。最も、私ももう資料が手元にないから、はっきりとしたことは言えないがね」
「香奈君に取られたままですか」
「返してくれないんだよ」
「私の方からも、言っておきましょうか?」
 教授は、窓の外をちょっと、探るようにして見ている。バイクに跨った一也が、走り出したところだった。
「まだ、ときどきあったりしているんだ?」
 言い、窓から離れる黒岩。残された教授は、
「いえ」
 返す。
「あれ以来、ほとんどあってませんよ。みんな、それぞれに今の生活がありますからね」
「──そうか」
「ええ──」
 窓を打つ雨が、少しずつその勢いを増しはじめていた。
 六月の雨が街を包み込んで、静かに時間を進めている。


 ゆっくりとドアが開く。
 部屋の中にいた黒猫が、玄関に姿を現した飼い主に駆け寄ってくる。
「雨に降られたよ」
 一也は言い、出迎えた黒猫のウィッチに苦笑を返す。靴を脱いで、その辺にほったらかしたまま部屋に上がる一也。ジーンズの裾から、滴がぽたぽたと垂れている。
 歩く一也の後ろに転々と付く水滴を、ウィッチが楽しそうに前足で踏みつけて歩いていた。
 玄関を入ってすぐ隣の部屋のドアを開け、一也は着替えとタオルを手に取る。と、そのままリビングへ進み、テレビのスイッチを入れてから着替えをはじめた。
 スピーカーから、雨のニュースが聞こえてくる。ウィッチが定位置、リビングのテーブルの下に戻っていく。その視界の中に、一也のリュック、服が、どさどさと振ってきていた。
「降り続ける雨は、明日も一日続くでしょう。西日本では大雨洪水注意報が四県で発令されています。ただ、この雨が止みますと、太平洋高気圧が張り出してきて、夏空が──」
「夏──ね」
 呟き、半裸の濡れた身体をタオルで拭きながらキッチンへと歩く一也。冷蔵庫を開け、中からミネラルウォーターのボトルを取り出す。そのまま口に運び──そうだと気づいて、投げ捨てたリュックの中から、白い袋を取りだす。
 薬局でもらってきた袋の中から、三種類の錠剤を取り出すと、なれた手つきで一也はそれを左手の上に広げた。軽く口の中に放り込んで、
「CMの後は、先日のスペースシャトル爆発事故の続報です。計画中止を決めたNASAの危機管理について、検証します」
 そう告げるテレビのチャンネルを変えた。
 適当に変えたチャンネルでも、天気図が画面いっぱいに映し出されている。
 ミネラルウォーターを口に含み、錠剤を流し込む一也。気怠そうに頭を降って、窓際にまで歩み寄る。
「この雨が止めば、夏が訪れる事でしょう」
 女性キャスターが言う。
 窓の外は六月の雨。足下に、ウィッチがとてとてと歩み寄ってくる。
 一也は軽く笑うと、
「夏が来る──か」
 呟いて、窓の外を見つめながら、ぐいと水を飲み干した。


       4

 そして、七月。
 晴天の日曜。
 青い夏空の下、一也はバイクを止めた。メットを取って、ふぅと息を吐き出す。ゆっくりと視線を送る先、巨大な建築物がある。
 東京都港区台場。
 お台場である。
 一也はバイクから降りると、まばらに車が止まっているだけの駐車場を抜けて、その建物に向かった。
 閑散とした、広大な駐車場。
 一年ばかり前なら、この駐車場も車が止められないほど混んでいたのだが──今はあまり、そのころの面影は見られない。
 十数段の階段を小走りに駆け上がり、一也は回転扉から中に入った。
 Nec。
 解体され、名ばかりになったその特務機関の名を受け継いだミュージアムに、一也はゆっくりと入っていく。
 入場チケットを売るカウンターに座っていた女性が、一也に微笑みかけながら言った。
「いらっしゃいませ」
 軽く、一也は笑う。


 解体されたNecは、その装備の全てを回収された。それはつまり、人類初のエネミーに勝利したロボット、R‐0、その専用輸送機、イーグルもという事である。
 初め、R‐0もイーグルも解体される予定だった。二度と現れないエネミーに、対エネミー用の特務機関、兵器はいらない。そして、戦争の放棄を憲法に持つ日本に、R‐0とイーグルの持つ軍事的な力は、強すぎもした。
 ミュージアムの中を歩く一也。
 1997年3月19日を始まりに、世界人類とエネミーとの戦いの記録が書かれたボードが、通路の壁に埋め込まれている。
 見ながら歩く一也。初めて知る、客観的な位置からの、その歴史というもの。
「へぇ…」
 と、小さく彼は呟いた。
 次の角でこの通路も終わる。
 その先は、少し薄暗い場所になっていた。弱い水銀灯の灯りが、微かに漏れてきている。少し、なつかしいような、その光。
 一也はその向こうに向かって、進む。
 初め、R‐0もイーグルも、解体される予定だった。
 だが、日本を、世界を護った巨大ロボットを保存しようという声も、ないわけではなかった。
 一也は薄暗いハンガーにゆっくりと入って、細く微笑みながら顔を上げた。
「よぅ…」
 白い機体が、水銀灯の光の中で、優しく輝いている。
 R‐0。
 歴戦の勇士の姿が、そこにあった。
「ひさしぶりだな」
 初め、R‐0もイーグルも、解体される予定だった。
 だが、日本を、世界を護った巨大ロボットを保存しようという声も、ないわけではなかった。
 そして今、その巨大ロボットは、このミュージアムにあの頃の姿のままで、立ちつくしていたのであった。


「これがその、R‐0ですよ!」
 と、響く声。一也は笑いながら、声のした方に視線を走らせた。
 薄暗いハンガーの中、一箇所だけ、煌々と明るい光に照らし出された場所がある。そして、その前でテレビカメラが回っている。
 一也は軽く笑って、そちらに向かって歩き出した。
 回るテレビカメラの前には、巨漢──というか太っている──男性タレントと、その男と丁々発止のやりとりをしている、女性の姿があった。
「すごいでしょう!生っ、本物ですよ!」
「これがホンモンなの!?」
 よく知っている、たまに、一也も見たりするゲーム番組の収録が行われていた。今度出る、なんとかというロボットゲームに、ついにR‐0が実際に登場するんだとかで、この場所でロケをする事になったのだという。
 カメラの前の女性が、教えてくれたところによると──だ。
「しかも!同時に出てくるこのロボットの専用輸送機イーグルなんか──」
 カメラの前で笑う彼女が、言う。
「私、出てますっ」
 一也は笑った。
 テレビカメラの向こうで、彼女が笑ってる。村上 遙──彼女を演じる、柚木 園子が。


「ひさしぶりね」
 そう言って、柚木 園子は笑った。
「園子さんも、元気そうで」
「まぁね」
 R‐0の前、立入禁止になっているその足下を囲む金属の欄干に、二人は寄りかかって話していた。
 眼前のスタッフたちは、なにやら次の撮影シーンについての打ち合わせをしている。休憩時間。園子は一也を見つけると、すぐに彼の手を取ってここまで連れてきたのだった。
「一也君、テレビ出てくれればよかったのに」
 笑いながら園子は言う。
「いやぁ、いいですよ。そんな」
 苦笑いを返す一也。園子が笑いながら続ける。
「一也君、テレビ出たら、ファンが黙ってないって?そういえば、背も高くなって、いい男になったじゃん」
「そうすか?」
 園子は自分の頭の上に手をかざすと、ひょいと隣の一也に向かって水平にその手を動かしてみた。ちょうど、手は一也の口許の辺りに届く。
「いつの間にか、すごく背、高くなってない?」
「そうですね、まぁ、あの頃に比べれば、だいぶ」
「遙と並んだら、結構、いい組み合わせって感じじゃない?今なんか、特に」
 笑って言う園子に、一也は困ったように口許を弛ませて、返した。
「遙なんか、もう、一年以上もあってないですよ」
「そうなの?」
「きっと、園子さんより、あってないな」
「マジで?」
 驚きに、園子は目を丸くした。一也はそれがおかしくて、思わず吹き出してしまう。
「遙、今、何してるの?」
「さぁ…何をしているんでしょうね」
 ゆっくり答えて、一也は欄干に寄りかかったままで背筋を逸らした。
 R‐0の巨体を真下から、そっと見上げる。あの頃毎日のようにしていたことを、久しぶりにしてみる。
 そして、一也は目を細めた。天井の水銀灯の明かりが、少し眩しくて。


「R‐0、久しぶりに乗ってみる?」
 園子が言った。
「え?」
「R‐0、コックピットに入れるのよ」
 それは一也も知らなかった。
 R‐0とイーグルがこのミュージアムに展示されていることは知っていた。けれど、そのコックピットに入れるとは、彼も知らなかった。
「誰も、一度は巨大ロボット、乗ってみたいって思うモンでしょ?一也君が昔、言ったみたいに」
 園子の言葉に、一也は笑った。
 そして二人は、そのコックピットハッチの前にまで来た。
「どう?」
 どう?と言われ、一也はどうとも答えられなかった。あのハンガーと同じような、コックピットへと向かうブリッジを渡り終えて、その先に、同じコックピットがあって──
「へぇ…」
 小さく、感嘆するように言う。
「乗ってみなよ」
「いいですよ」
「最も、もう、動かないけどね。動く部分は、取り外されちゃってるから」
「そうなんですか?」
「うん。R‐0は、もう、外見だけなんだって。本当はR‐0もR‐1と一緒に解体されるはずだったんだけど、R‐0だけ、動かないことを条件に、ここに運ばれることになったらしいから」
「へぇ…」
「乗ってみなよ」
 園子は再び、言った。今度はちょっと優しく、微笑むように。
「待ってるかも知れないよ?」
「R‐0が?」
 一也は笑った。
「まさか」
 そして、彼はゆっくりと、コックピットの中に入った。そっと、シートに腰を降ろす。同じ座り心地に、思わず口許を弛ませてしまう。
 そっと、髪をかき上げて、一也は小さくため息を吐いた。
 眼前には五つのモニター。足の間には補助モニター。
 シート両脇にはマニュピレーションレバーがあって、フットレバーの感触もそのままだ。
 何もかもが、そのまま。ただひとつ違うところがあるとすれば──やっぱり少し、狭い。
 見慣れたレイアウトのコックピット。
 この場所は変わらなくても、やっぱり、自分が成長してる。あの頃とは、違う。
 ため息をつきながら、一也はそっとシート右脇に手を伸ばした。起動コックがちゃんとある。記憶を頼りに、ACTIVEの方向にそのコックをまわそうとして──やめる。
「ねぇ、一也?」
 その声に、一也はふっと顔を上げた。あの頃と同じに、実はちょっと見にくいコックピットの入口脇から顔を出して、彼女が声を掛けていた。
「ねぇ、一也」
 その言い方に一也は笑う。
 声は園子の声だ。だけれど、その言い方は、遙のそれ。園子の演じる、村上 遙の声色で、彼女はゆっくりと、言った。
「一也、もし、もしもう一度エネミーが現れたら?」
「もう一度、エネミーが現れたら?」
 薄暗いコックピット。
 一也はその中で、何も映らないモニターを見つめていた。
 笑う。
 補助モニターも光らない。そこに、文字も映らない。起動コックをACTIVEにまわしたって、きっと、そこに文字は映らない。
 一也はマニュピレーションレバーに手も掛けずに、言った。
「僕が、戦うことはないよ」
 何も映らないモニターの向こうを見つめながら、一也は言った。


       5

 1999年、7月19日。
 真っ青な空が広がっていた。
 夏の到来を感じさせる青い空。まるで、青一色で塗り尽くしたキャンバスのように澄み渡った空。
 そんな夏空が、見渡す限りに延々と広がっていた。辺りで一番高い場所。この屋上の、その、さらに上に。
 風に一也の髪が踊る。
 少し茶色い、二年前の彼と違う、その髪が風の中に踊る。
 一也は真っ直ぐに、その青空を見つめていた。
 青空をわって、わずかな雲を突き抜けて、流星が流れて行く。
 再び。
 1997年、3月。
 その時と同じに、再び、大地に向かって真っ直ぐに落ちる白い流星の軌跡。
 強く、風が駆け抜けて行った。
 1999年、7月。


 吹き抜ける風の中、流星が流れていく。
 吹き抜ける風の中、踊る髪の下──こめかみにある金属の端末──Brain Scanning Systemの端末が陽光に輝く。

 1999年、夏。


 スケッチブックのページが、勢いよく括られていく。


                                   つづく


[End of File]