studio Odyssey


第五話




 ──吉田 一也の日記から。
 四月一四日、月曜日。
 今日は入学式だった。
 お姉ちゃんは入学式に出る出ると言っていたが、結局Necの方の会議があり、「出られなくてごめんね」と僕に言ってシュンとしていた。別に、来なくても全然問題はないんだけど…
 遙が、もう一週間も前から学校に行っているので、(新入生じゃないから)結構いい学校だとは聞いていたけど、かなり綺麗で、僕も驚いた。その辺は、さすが総理の後光といったところだろう。
 もちろん、この学校には誰も知ってる人はいなかったのだけれど、今日、早速友達が一人できた。
 吉原 真一。こいつ、出席番号が僕の後ろなんだ。からっとした性格の奴で、研究室にいるみんなとは、明らかに違うタイプだ。背が大きくて、がっしりとした体つき。多分、なんかスポーツをやってたんだろう。
 今日教室で、誰かがR‐0の話をしているのを聞いた。
 僕があれのパイロットだということは、多分まだ誰も知らない。(それらしいことを聞いてきた人はいたけど、笑ってごまかした。吉原にだって話してない)
 このことも、いつばれるかと冷や冷やしつつ、ちょっとした優越感も味わってたりする。
 明日は対面式だ。学校であったら、遙のことを先輩と呼ばなきゃならないのかと思うと、今からちょっと憂鬱な気分だ。
 ──できれば学校では会わないようにしよう…








 第五話 一也君の憂鬱。

       1

 学校の昼休みに、
「一也!」
 と、この学校で彼のことを呼び捨てにして呼ぶ女の子など、一人しかいない。
 一也は顔をしかめさせた。彼の隣には、同じクラスで出席番号が後ろということで友達になったスポーツマンタイプの男、吉原 真一がいる。
「吉田。誰か呼んでるぞ」
 きょろきょろと辺りを見回しながら吉原。今二人がいるのは学校の購買の前、自動販売機の列の中だ。
「がーずや!」
 と、列に並んでいた一也の手をぱしりとつかむ彼女。村上 遙。
「ありがとう一也。オレンジジュースと紅茶ね。ストレート」
 有無をいわせず一也の手に二百円を握らせる。(注*1)
「なんだよ。ちゃんと並ばなきゃダメだよ遙」
「固いこといわない。みんなやってるもの。それと一也」
 一也の顔に人差し指を突きつける遙。真剣な顔つきで、
「学校ではちゃんと、村上先輩と呼びなさい。私のが年上なんだからね」
 と、先輩ぶる。しかしそれは、学校という組織の中で、絶対的な力の差を表すのである。
「わかったよ。オレンジと紅茶のストレートね」
「つぶつぶはいやよ」
「はいはい…」
 結局、学校でもパシリかよ…一也は二百円を手の中でもてあそびながら、唇をつんと尖らせた。「じゃ、よろしくぅ」と、友達の待つところへ戻っていく遙。それを見ていた吉原が、不思議そうな顔つきで一也に聞いた。
「吉田。お前、高校からこっちなんだろ?なのにもう知り合いがこの高校にいるのかよ」
「ん?うん。というか、バイト先の知り合いみたいなもんだよ」
 嘘はついてないよな…(注*2)
「お前、もうバイトなんかしてるのか?仕事なんだよ?儲かるか?」
「全然儲からないよ。仕事の内容もきついし…」
 順番が来た。一也は三百円を自販機に入れると、まずは頼まれたオレンジジュースと紅茶のボタンを押す。
「きつい?土木関係とかか?」
 そう言って吉原はからっと笑う。スポーツマンタイプの彼なので、土木関係のバイトでも決してキツイなどとは言わなそうだ。
「そうだね。土木関係と言えば、そうかもしんないけど」
 自分の分はカルピスウォーターにしよう。と、ボタンを押しながら、
「具体的に言うと、地球を守るお仕事かな?」
 とぼけた調子で言うと、吉原は声を上げて笑った。


「さっきの先輩、名前はなんていうんだよ」
 一年D組。廊下側の一番後ろの席が吉原 真一の席だ。その前に座っているのが一也である。
「んー…さっきの?」
 一也は廊下側の壁に寄りかかって、半身になった姿勢で、吉原と昼のくだらない話に興じていた。
「遙?──村上 遙だよ。三年生かな」
「ああ、それはわかってんのよ。リボンが赤だったしな」
 リボンとはこの学校の制服──ブレザーだ──のYシャツに結びつける、学年別に色分けされた細身のリボンのことである。(注*3)
「可愛い人だったなぁ…三年生かぁ…大人なんだろうなぁ」
 と、吉原が勝手な想像で盛り上がっている。大人?遙が!?
「吉原。それはないよ。全然大人じゃないよ、あいつ」
「あいつだぁ?お前、本当にあの人とはただのバイ友なんだろうなぁ」
 疑いと好奇のまなざしで、吉原が笑う。
「本当は何だ?…お前、もしかしてもう──!!」
「ちょっと待ってくれよ。勝手に暴走するなよ」
「ああぁ…可愛い人だったなぁ。あんな彼女がオレにも欲しい」
「も?違うってば」
「オレはな、高校に入ったら絶対に彼女つくんぞって決めてたんだ」
 吉原にずいいっと言い寄られて、一也は思わず苦笑いを浮かべた。あ…決めてたんだ…そりゃぁ…たいそうなこって。
「今んとこ、第一候補だな。村上先輩」
 うんうんと腕組みをして頷く吉原。
 物好きだなぁ…とは、思ったが言わなかった。
 そうか。よく見てみりゃ、遙は顔だって可愛いし、声だってアレだし、帰国子女なわけだから英語とか堪能だし…大したもんなのかもしんないなぁ。
「吉田、吉田。先輩のこと、いろいろ教えてくれよ!」
 そういわれて、一也はちょっと考えた。
「そうだなぁ…」
 とりあえず『エヴァンゲリオン』は全話見てないと話が合わないんじゃないかな…


「午後もまた、あのくだらないショーを見せてもらえるのかいね?」
「そうだよ。午後も午前の続き。部活動説明会だよ」
 体育館へ移動しながら、一也は手にしたワラ半紙作りの冊子をぺらぺらとめくった。その冊子にはでかでかと『第九回部活動総合説明会』と、書かれている。
「あれ?オレ、それどこやったっけ」
「知らないよ。朝は持ってたみたいだったけど」
「まぁ、いいか。いらねーもんな」
 と、吉原はこめかみの辺りをぽりぽりとかく。(注*4)
 部活動説明会。それは一種のお祭り騒ぎである。
 洗礼。──言い方がよければそう──その学校の校風を見せつける(?)この儀式は、ラグビー部の女装に始まり、水泳部の海パン姿のボディビル、野球部の汗くさい青春ドラマに演劇部のショートコントと、延々続く恐怖の祭典。校長先生は声高らかに、「脳細胞を我が校のものに変化させ、新入生を忠実なる当校の下僕とし、世界征服の足がかりとするのじゃぁ!ぬぅわっはっはっ」──と。ま、それは言い過ぎだとしても。(注*5)
 部活動説明会とは、結局のところお祭り騒ぎなのである。
「部活かぁ…」
 と、ため息を吐く一也。やりたいけど、ダメだよなぁ…教授たち、絶対になんか言いそうだもんなぁ。
「吉原は、何か部活に入るの?」
「さぁてねぇ…女の子がいっぱいいる部活に入りたいけどなぁ」
 吉原はにやりと笑って、顎をなでた。


「女の子がいっぱいいる部活って言ったら、ウチしかないよ」
 ここは、MAT──失礼。(注*6)Nec本部。
 東京国際空港の片隅にある、今は使われていないジャンボジェット機の格納庫を改造して作ったハンガーの中で、
「一也も、ウチの部活に入れば?」
 と、にこにこ笑って言うのは村上 遙。
「うちの部活ねー、一年生の女の子も、かわいい子いっぱいよ。私なんかの代も、美女ばっかだしー…ねぇ、聞いてる?」
 言われた一也の方は難しそうな顔。そうは言っても、部活のことで悩んで難しい顔をしているわけではない。
 目の前にある将棋で悩んでいるのだ。銀がこうきて…角がこうくる。すると、ここに桂が効いて…
 チェスでは遙にかなわないと悟った一也は、将棋で遙に挑んだ。彼女、将棋はやったことがないと言っていたが、ルールを教えていざ勝負。と言うところで…
 R‐0の整備班長、植木ことおやっさんが割り込んできたのである。
 一也対おやっさん。
 世紀の対決に、整備員たちが息を飲む。その中で、
「一也は、年上と同年と年下。どれがいい?一也なんかの歳だと、年上かな?でもやっぱ同級生だよね。一也のクラス何組だっけ?でもきっと、同級生の女の子もいるよ。お近づきになるチャンスだって。まぁさ、高校生活なんて言うのはさ。そのほとんどを男女関係の充実に使ってもいいとも思うのね。私は。そーゆー場において部活って言うのは──」
 と、遙は一人話し続けている。
「わかったから。今ちょっと重要なところなんだってば」
「若いながらも、たいしたもんだな一也くん。ここまでできる奴はなかなかいないぞ」
 状況ではややおやっさんが有利と言ったところか。
「でねでね、一也…」
「あとあとあと。悪いけど、あとにしてよ」
 にこにこ笑いながら話しかけた遙の顔が、一瞬で捨てられた子犬のような情けない顔になる。
「つめたい男…」


「一也は女の子にもてないタイプですね」
 整備員たちの人垣を見ながら、機嫌悪そうに遙が言う。言葉の先にいるのは一也の姉、吉田 香奈だ。
「そんなことないでしょ。一也、あれで結構いい子なのよ」
 さらりと言う香奈。遙は、さらに機嫌悪そうに返した。
「香奈さんは一也のこと、過保護にしすぎですよ。もしかして、ブラコンなんじゃないですか?」
 香奈は「ブラコン?」という顔で首を傾げる。わかってない。遙は大きくため息を吐いて、
「Brother Complex──兄弟に異常的な執着を持つこと。マザコンと同じような意味の言葉ですよ」
 香奈にとげとげしい言葉つきで言い放った。
 だが、とうの香奈にそんなものが通じるはずもなく…
「でも、それって悪いことじゃないんでしょ?」
 なんて言って首を傾げてみせる。
「ま…まぁ…悪いことって言うか…なんていうか…その」
「でしょ。だって、弟を愛しちゃいけないなんて法律、どこにの国にもないものね」
 と、香奈は笑う。ことわっておくが、香奈の言う「弟を愛する」という言葉の意味は、汚い大人の考えるところのものではない。(注*7)


「やばいな…」
 作戦会議室──単なるみんなの溜まり場──で、平田教授がぽつりと漏らした。
「どうしました?」
 中野 茂、通称シゲがマンガから顔を上げて聞く。
「明美君にシゲ…」
「私もですか?」
 と、パソコンから顔を上げる助教授西田 明美。
「ふたりとも──」
 教授はやけに真面目くさった表情で、二人に向かって重大なことを告げた。
「今回のR‐0はどうやら学園もののノリらしい。今のうちに喋っておかないと、今回は出番がなくなりそうだ(注*8)」
「えっ!ちょっ…」
「本当なの!?あ、しゃべるしゃべる!しゃべるって…」
 ぷちん。──と、画面の消えた音。(注*9)


 さて、と言うわけで大々的に学園もののノリで行くことを告げた今、舞台は学校へと戻るわけである。
 入学式から一週間もすると、新入生歓迎という雰囲気も消えてきて、学校は普通の授業を始め出す。
 つまんないな…と、思い始めるのもこのこの頃からである。
 一也は黒板に向かって授業をしている物理の立川──ちなみに、学級担任だったりする──の声を子守歌にしている、一つ後ろの席の友達、吉原 真一を見た。
 いびきこそ聞こえないものの、幸せそうに眠っている。しかも机の上の教科書は前の授業のものだ。
 よく寝るよ。まったく…
 最近はエネミーの日本への襲来もなく、世間は比較的平和な毎日を送っている。(注*10)無論、それは一也にとっても例外ではない。出撃がこのままずっとなければ、ずうっと普通の学生生活が送れるのだ。
 吉原や遙の言うような、男女関係の充実に臨むような日々も不可能ではない。
 もちろん、それだけって訳でもないだろうけど。
 一也は大きくあくびをした。
 隣の列の松本 詩織がくすっと笑ったのに、一也は全然気がつかなかった。(注*11)


 少し気になる人──
 授業を続ける立川先生には悪いのだけれど、詩織はちらちらと横目に、自分の隣の列の彼を見ていた。
 どこかで見たことのあるようなないような…でも聞いた話じゃ──そう、直接聞いたわけじゃないけど──彼は高校からこっちに越してきたらしい。前は京都にいたと言う話だから、絶対に逢ったことなんかあるはずがないのだけれど──前世とか、そういう言うものが関係してこなければ──でも、少し気になる。
 目立たないようにしているのかな?そう思うときがあるくらい、クラスの中での色は強くない。もし同窓会でもやれば、「ああ、お前ってこのクラスだったっけ」なんて言われちゃいそうなタイプ。
 もちろん、私はそんな風には思わないだろうけど。
 あ。あくびしてる。眠いのかな?後ろの席の吉原君──彼の親友──を見て…先生をちらっと見て…あ、机に突っ伏して…眠っちゃうんだ。
 小さく笑う詩織。
 少し子供っぽくて、ずぅっと見ていたいなって思う人。
 これって──やっぱりそうなのかな?
 そう考えちゃうと、頬の辺りがちょっと弛んできちゃったりして、やだなぁとか思いながら、詩織は頬を撫でて微笑んだ。(注*12)
 でも、まだ一回も話したこともないんだよね。
 思わず、はぁとため息。
 チャンス、ないかなぁ…
 窓の方に視線をやると、柔らかな春の風が少し開けられた窓から入ってきていた。


 チャイムの音に目を覚ます一也。学生諸子の、基本的な授業の終わり方である。このとき「じゃあ来週はこの続き、○○ページからやるからな」と言ってくれる先生の授業は楽でいい。予習復習がいざというときに出来るからである。(その「いざという時」は自分が指されるとわかっている時しかないが…)
 昼か…ジュースでも…と、後ろを振り返ってみたが──
「起こすのは悪いかなぁ…」
 と、いうほど気持ちよさそうに、吉原は机に突っ伏して眠っていた。
 どうしようかな…と、頭を掻いて、
「よしわ…」
 と、揺すり起こそうとした時。
「このクラスに吉原 真一っていう奴がいるだろう?」
 不意に一也の鼓膜を揺らす声。視線を声の元に走らせると、前のドアから入ってきたやけにがっしりとした体つきの男子生徒が、ドアから出ていこうとしていた松本 詩織の腕を掴んでいた。
「吉原はどこの席だ?」
「え…」
 驚いたように目を丸くして、
「は…はい。えと…吉原君なら、この列の一番後ろです」
 とまどいがちに答えて、詩織がちらりと一也たちの方を見やる。困惑した一也と詩織の、二人の視線が重なった。
 ──え?
 それって…う…嘘だろ。
 ドアから中に入ってきたのは三人。タイピンの色は赤。三年生だ。しかも、みんながっしりとした体つきをしている。
 吉原…あ…お…お前、何したんだよ…
 当の吉原は、一也の気持ちなんざわかっちゃいない。当たり前である。彼は、まだぐっすりと眠っていたのだから。
「おい、吉原」
 と、三人のうちのリーダーらしき男子生徒が吉原の肩を揺する。クラスのみんなはドキドキしながらも、三年三人と吉原の一挙手一投足に注目していた。
 一也としてはあんまり注目などしたくはないが、自分の後ろでやられちゃぁ、無視する方が無理ってもんだ。
「おい、吉原!」
 と、かなり強く揺すられて、吉原はやっと顔をあげた。
「ふぁあぁあ…」
 いきなり大欠伸かよ!吉原ぁッ!
 吉原の方は一也に起こされたとでも思ってたんだろう。豪快に欠伸という名の酸素吸入を済ませると、
「あ、もうメシかぁ…」
 と、腕時計を見て漏らした。完全に、三人の三年生には気づいていないようである。
「吉原、久しぶりだな」
「ぶぁ?」
 欠伸をしようとしたところを声をかけられたので、吉原は変な声を上げた。そしてそこで初めて三人の存在に気づいたのである。
 脳の回路が正常に動き出すまで、しばしの時間があり…
「あ、どうも先輩」
 と、今更ながら頭を下げたのであった。
「吉原、ちょっと話があるんだが──」
 と、その男子生徒が本題に入ろうかとした時、
「ごめーん!このクラスに、吉田 一也君ているでしょ!?」
 後ろのドアからひょっこりと顔を出したのはもちろん遙。
 後ろのドアというのは、もちろん吉原のすぐ後ろなわけであり、三人の先輩方が立っているすぐ近くなわけであり──
 遙のバカっ!
 緊迫した雰囲気の真っ直中だったわけである。
 しん…と、水を打ったように静まり返る昼休みの教室。誰もが、固唾をのんだ。
「あれ?これはまた、やばい所に居合わせちゃった?」
 教室をくるりと見回して、最後に視線を落ち着けた先、一也に向かって聞く遙。
 一也の口から、「うん」とは言えない。
 遙はちょっと笑って──もちろん苦笑い──
「平沢君、私、そっちの奥の子に用があるんだけど、いいかなぁ?」
 同じクラスの人、と言うだけでたいして親しくはない平沢に向かって聞いた。平沢というのは、吉原を揺すり起こした男の名前である。
 平沢は眉間にしわを寄せて、
「村上、お前、なんか勘違いしてないか?」
 と、ため息混じりに漏らす。
「へ…?」
「オレは、こいつを部活勧誘にきただけだぜ(注*13)」


「ホント、ちょっと怖そうな人ですけど、悪い人じゃないんスよ。平沢先輩」
 頭の後ろをぽりぽりと掻きながら笑う吉原。お前はいいかもしれないけどな、こっちは冷や汗の出る思いだったぞ。と、一也は目を伏せてため息。
「平沢君て、確か柔道部だったと思うけど…じゃあ、吉原君も、中学の時は柔道やってたんだ」
 一也の席に寄りかかって聞く遙。
「遙、用がないなら帰れよ」
 それをちらりと見やって、一也は悪態をつく。けれどもちろん遙はそんなもの完全無視だ。吉原としても、お陰でこうして憧れの村上 遙先輩と話ができる訳なので、友情は二の次三の次四の五の次に…(注*14)
「いやぁ、でももう辛いのはかんべんっスよ。高校では、文化系じゃないっスかね」
 笑いながら、吉原は頭を掻く。
「女の子目当てだ。吉原君、えっちー」
 なんて言って笑い、吉原をつつく遙。
「そんなことないっスよ」
 つつかれながらもその顔が笑っちゃってるんだから、吉原にも困ったものである。
「まぁねぇ」
 と、遙は腕組み。
「でも、男の子ってのはそういうもんでしょ。どっかの誰かみたく、真面目すぎて面白みない男ってのもね」
 ふふんと笑って一也を見下ろす遙。なんだよ、このぉ…と口を尖らせて見返す一也。
「用がないなら早く帰れよなぁ」
「あっ、かなしぃ。せっかく来てあげたのに」
「そうだぞ一也。まだ昼休みはタップリあるんだ」
「吉原。お前、どっちの味方だよ」
「美女の味方」
「もぅいいよ」
 一也は頬杖をついて、すねるように顔を背けた。頭上で肩をすくめて笑っている遙の表情など、もちろん一也に見えるはずもない。
 一也に見えているのは、少し戸惑ったような顔をして前のドアからこちらに向かって歩いてくる、松本 詩織の姿だ。
 詩織は軽く笑顔を作って、
「せんぱい、こんにちわ」
 と、遙に声をかけた。
 およ?と、遙が振り向く。
「あ、詩織ちゃん!このクラスだったんだ。うそぉー。そうかぁ、D組だったっけぇ」
「はい。そうです。先輩、どうしてこのクラスに?」
 ちらりと一也、吉原に視線を走らせて聞く詩織。
「こいつ。こいつに用があってね、来たの」
 と、指さし。
「こいつ?」
 指さされた一也が、眉間にしわを寄せて言う。
「用があるなら、さっさと済ませて帰れよ」
 小声で言う一也を押し退けて、
「先輩、松本さんと知り合いなんスか?どーゆー御関係で?」
 吉原は身を乗り出して遙に聞いた。目が、ややマジだ。
「よしわらぁ…」
 肘に潰された一也が呻いているが、そんなことを気にするような奴ではない。
「ん?詩織ちゃんはね、私の彼女なの。もー、かわいぃっ!」
 と、詩織に抱きつく遙。抱きつかれてしまった詩織の方は、ちょっと困ってしまったような表情だ。
「吉田君。本当のところは、部活の先輩ってだけだからね」
 なんて言って苦笑い。
「ああっ!詩織ちゃん、ひどい。私はこんなに想ってるのに…」
「まぁ…遙に想われたってな…」
「一也、あんたいっぺん痛い目に遭わなきゃダメなの?」
「…本気で睨むなよ」
「部活、なんです?」
「あ、吉原君入る?女の子いっぱいよ。詩織ちゃんは、あたしのだからあげないけど」
「せんぱーい…」
「他にもね、えーと…睦美と、一応恭子もだし…あとは──」
「吉原、これ以上遙に関わると、ろくなことないぞ」
「んだって?取りあえず、あんたの方の用事は済ませとくわ。一也、はいこれー」
「ポケベル?」
「イザって時のね。連絡とれないでょ。──で、吉原君も部活入る?放課後、うちの部活見学に来る?」
「そうっスねぇ…」
 顎を撫で、考える素振りを見せる吉原。
「やめとけって…」
 でも結局、詩織に連れられて二人は美術室のドアをノックしたのである。









       2

「遙くん!遙くん!」
 と、ハンガーで呼ぶ声に、遙は立ち止まった。
「何ですか?」
 小脇に抱えたイーグルのマニュアルを。「よいしょ」持ち直して返す遙。向こうから、教授が小走りにやってくる。
「遙くん、ちょっといいかな?」
「はぁ、何でしょう?」
「うむ…復刻版では、私ももちっと出番がほしくてな」
「はぁ?」
 遙は眉を寄せた。何をいっているんだか…
「いや。違う。そうではない」
 こほむと、教授は咳払い。気を取り直すようにして、
「一也くんなんだが、高校で部活に入りたいと言って来たんだ」
 言う。
「ああ、美術部。一也、入るんですか?」
 いちいち教授達に報告なんてしなくったって…と思いながらも、それはおもしろそうだ。──と、遙は口許をゆるませた。それに気づき、教授もにやりと笑う。
 そして、聞く。
「遙くん、一也くんが美術部に入ったら、おもしろいことになると思うかい?」
 何をいってるんだか──と思いながらも遙、
「もちろんです」
 なんて言って、にゃぁ。
「そうかそうか」
 と、教授もにやぁ。
 何も知らない──と言うか、鈍感なのか?──一也も大変である。


「吉田君!」
 と、声をかけられて振り向くと、同じクラスの同じ部活で友達の女の子、松本 詩織が小走りに駆け寄ってきた。
「おはよ」
「おはよう」
 ありきたりの挨拶を交わし、学校に向かって歩き出す二人。電車通学の二人は、方向こそ違うものの、遅刻しないですむ比較的遅い電車が上下線とも同じ時間にホームにはいることから、こうして登校時に出会うことも多かった。──多かった?いや、少なくとも一也はそう思っていた。(注*15)
「ねえ、作品。何で描くか決めた?」
 朝の通学路。同じ制服に身を包んだ、沢山の学生達に紛れての会話。
「決めたよ。下絵も描き終わった」
「あ、なになに。何で描くことにしたの?」
 二人が話しているのは新入生歓迎作品批評会──つまるところ、取りあえずなんか描かせてみよう作品批評会──の話である。
 題目、及び何を使って描いてもいいことになっている。
「吉田君も油?」
 と、詩織。一也の友達、吉原は油絵で描き始めていたのだ。なお、油絵は遙の得意とする分野でもあり、邪な考えからそれが選択されたと言っても過言ではないことを付け加えておこう。(注*16)
「油はちょっと…」
 と、苦笑いの一也。
「水彩?私、教えてあげるよ」
 詩織は楽しそうに笑って、手にした鞄を軽く振った。
「松本さん、水彩で描いてるんだっけ」
「うん。で、何で描くことにしたの?」
「ん?」
 一也はぽりぽりと頬を掻いて、
「うん…パステルでね」
 ちょっと、恥ずかしそうに言った。
「パステルってほら、指とか使うでしょ。それがさ、楽しくてさ」
 それを聞いてくすっと笑う詩織。
「ああ。もぅ、笑わないでよ」
「ごめんごめん。でも、吉田君てやっぱり子供みたいな所あるんだなぁって思って」
「そぉ?」
 「でも、私そういうところ好きよ」って言おうとした詩織の言葉に、
「遙にも言われるんだよなぁ」
 と言う一也の言葉が重なった。


「ねぇ、詩織っ」
 と、廊下を歩いていてかけられた声に詩織は振り向いた。
 休み時間。ちょっとお手洗いに──と、とことこ歩いていたところを、
「あ、恵」
 中学の時の親友、渡辺 恵が目ざとく見つけて声をかけてきたのである。(注*17)
「見たよ見たよ!」
 と、楽しそうに笑いながら、詩織の横に小走りに駆け寄って来る恵。
「なにを?」
 詩織は小首を傾げて返す。
「なにをじゃないよ」
 中学の時の親友と言うけれど、今はクラスが違うと言うだけで、部活では毎日あう──彼女も美術部なのである──二人だ。だから仲も相変わらず。
 よって、
「今朝、吉田君と一緒に歩いてたでしょ?」
 なんて、興味津々といった表情で、恵は聞いてきたりするのである。
「なっ…たまたま、あったから…」
「詩織くん、君はそういう嘘つくとすぐ顔に出るっていうの、自分で知ってる?」
 中学の時も美術部で、二人、三年間一緒だったのである。
「しっ…知ってるよ」
 詩織は、何度か同じ様なことを恵に言われたことがあった。
「もしかして…」
 と、恵はもともとおっきい目をさらにおっきくして、
「らぶらぶなの?」
 なんて詩織の目を見て聞く。ので、詩織も思わず目をそらしてしまった。
「そ…そんなんじゃないよ!」
「あ。そうなんだ。ってことはぁー」
 なにかを勘ぐるような恵の語尾延ばし。
「そーなんだぁ」
 と、にっこり。
「あのね、恵?」
「まぁねぇ、詩織のタイプって、何となくわかるしぃ、吉田君がそうかぁって言うのも、わかるけどねぇ」
 語尾を伸ばして言う恵。詩織の言葉なんか、聞いちゃいない。
「そうねそうね。これからの高校生活三年間、彼氏の有無は重大だもんね。うんうん、それで吉田君を美術部に?なるほどー、いつも一緒にいたいという乙女心。わかるわかる。なんだ、なかなか詩織もやるでないの」
「そんなんじゃないってば」
 会話はここでしばらく途切れる。
 二人、目的地──お手洗い──についたのである。
 時間はちょっと飛んで、
「でもさぁ」
 と、手洗いついでに鏡に映る自分の髪を整えながら言う恵。
 隣の詩織は、蛇口をきゅっとひねって、流れる水を止めて返す。
「ん?」
 唇に挟むようにくわえていたハンカチで手を拭きながら、目をぱちくり。
「なに?」
「吉田君でしょ?彼って、フリーなの?」
 恵も何となく言葉を濁して聞いた。意識して見ていなくても、何となくわかるのである。
「ん…どうなのかな?」
 意識して見ている分、詩織はうつむいて返した。
「うーん…先輩相手かぁ…高一くらいの男の子って、先輩にあこがれたりするからなぁ」
 難しそうな顔をして言う恵。けれど、
「でも!私と詩織くんとの仲だ。応援してあげよう!」
 なんて言って笑いながら、恵は詩織の背中を景気よく叩いたのであった。
「もぅ」
 詩織は仕方なしに笑う。
 けど…
 本当に吉田君は──
 考え出してしまうとダメだとわかっているのに、詩織は自分の考えを止められそうになかった。
 そして自分がとってしまうであろう行動を、抑えられそうにもなかった。


 放課後。詩織は作品と向かい合っていた。
 向かい合っていたのである。筆は、全く進んではいなかった。
 進まない筆と、止まらない思考にため息を吐き出す詩織。
 胸の中のわだかまり。
 やっぱり──そうなのかな?
 恵にだってわかる、彼と彼女の間の特別な空気。
 あのヒト──やっぱりライバルなのかな…
 彼女──村上 遙のこと。
 そのことをずっと、詩織は考えていたからだ。
 やめよう。と、大きく息を吸い込んで、無理にでも筆を動かす。けれど、やっぱり欲しい色は出てくれなかった。
 再び、ため息。
 村上 遙。先輩。三年生。
 ニューヨークからの帰国子女。可愛い人。画もうまい。
 吉田君と親しい人。親しい人?そうなの?それだけなの?年上の先輩なのに、吉田君は呼び捨てに──遙と呼んでいるのに?
 きっと聞いても、以前にも聞いた答えが返ってくる。
 「バイト先の友達みたいなものだよ。それだけ」
 ──と、吉田君の、私と同じで上手くない嘘。その嘘は、それだけ──じゃないから?
 秘密にしたいようなことがあるの?吉田君。
 なにを?どうして?
 詩織は下唇を軽く噛み、手にしていた筆をバケツの中へ放り込んだ。そして、はぁとため息を吐き出す。
 ダメだなぁ…
 毛先からにじみ出る淡い絵の具の色。溶けて、透明な水を濁らせる。
 京都からこっちへ越してきた吉田君と、ニューヨークからこっちへ戻ってきたセンパイ。どこで、どう繋がってるんだろう。
 バケツの中の水を眺めて、再びため息。
 考えたくはないけれど──私の入り込む隙間は、ないのかも…
「しっおりちゃん!」
 と、詩織の背中に遙が抱きつく。
「進んでないみたいねぇ。乙女の悩みかしら」
 ぎゅっと抱きついて、耳元に息を吹きかける遙。「きゃっ」と、詩織は身を縮める。
「もー、止めてくださいってば。センパイ」
 苦笑いに遙の顔を見る詩織。さっきまで考えていたことも引っかからないわけじゃないのだけど、彼女の屈託のない笑顔は、どうしてか憎めない。──可愛いからかも。
「私と詩織ちゃんの仲じゃないのー」
 と、抱きつく遙。
「ほれほれ」
 なんて言って詩織の身体に手を伸ばす。
「ああ、止めてくださいっ。人が…って。もー」
「詩織ちゃんも、結構好きねぇ」
 楽しそうに笑う遙。
「いいなぁ…」
 遠巻きにみていた吉原が漏らす。
「そう?」
 隣で、指先のパステルを拭き取りながら言う一也。まるで「どうでもいいこと」のよう。ま。本当のところ、彼にとっちゃどうでもいい事なのかもしれない。
「まるで秘密の花園って感じだな」
 にやにや笑いながら吉原。
「そうか?花はハナでも、ラフレシアかなんかじゃないか?(注*18)」
 一也がその言葉に続く。
「ひどいなぁ。花ってったら──この場合ユリだろ」
「あ。そうか」
 納得すんなよ。
「吉田。そろそろ出来たか?」
 と、吉原が聞く。一也は小さくため息を吐き出して、返した。
「まだだよ。書き始めたのが遅いんだから、そんなに早くは終わらないよ。今、丁度のってきたところ」
 一也はイーゼルに立てかけてある自分の作品を、少し背筋を伸ばしたりして離れて見た。紙はパステル専用紙。大きさは、それほど大きくもない。
「パステルって面白いんだけど、うちの部活ではあんまりやる人いないんだなぁ」
 と、イーゼルの端に止めてあった写真をぴっと取って呟く。写っているのはイギリスの古い街並みだ。一也が今、描いている題材である。
「どうして?」
「ん?」
 吉原の声に一也は目を丸くして聞き返した。
「だぁら、どうしてウチの部活ではやる人がいないってわかんだよ」
「ああ、それか」
 写真を元の位置に止めなおして、足下に転がっているパステルのケースに手を伸ばす。
「減ってるパステルは凄く減ってるんだけど、使ってないのは原型のままなんだよ。ほら、青がない」
「油で描く人がほとんどだからな。お前も油にすればよかったのに」
「油は遙がうまいから、やだよ。同じのやってもなんか言われるだけだし…あれ、セピアもないや」
「どうかね、新人二人」
 と、偉そうに遙が二人の作品を覗き込んで言う。偉そうだが、別に遙は部長でもないし、ぶっちゃけて言ってしまえば彼女も新人なわけである。が、その持ち前の性格から、もう部活の人間とは完全に打ち解けてしまっていたのであった。
「吉原君、ここはタッチを荒くした方がいいんじゃない?」
「難しくて…」
「どれ」
 吉原の肩越しに手を伸ばし、彼の右手をきゅっと持つ遙。その手の中のへらを器用なタッチで動かし、こそげ取るように荒々しく削っていく。
「こうやるのよ」
 と、言う遙の言葉なんか、吉原の耳には届いちゃいない。遙の髪から香るほのかな香りに、恍惚となってしまっているのである。
 「はっ」と顔をしかめる一也。のそりと立ち上がって、
「部長さん。ちょっと、買い物行ってきていいですか?」
 部屋の隅で鉛筆デッサンをしていた神辺部長に言った。神辺 恭子部長はもちろん三年生である。遙の親友だ。
 神辺部長は「ん?」とスケッチブックから顔を上げて、眼鏡を外す。目頭をきゅっと押さえつけて、
「別に私に言わなくても、いいわよ」
「いや、でもその…画材を買いに行こうと思いまして…パステルなくて」
「あ、お金ね。えーと…会計って誰だったっけ?」
 六人がけの大きな机で談笑していた女子軍団の一人、佐藤 睦美が両手をあげて答える。
「わたし。でも、今お金持ってないから立て替えておいてくれる?領収書、もらってね」
「はいはい、頼むものがあったら今のうちよ。一也が買ってきてくれるって」
 手をぱんぱん叩きながら、そんなことを言うのはもちろん遙。
「重いものなんていいんじゃないかしら?」
「あのね…遙」
「んじゃ、溶剤。一番でっかい瓶の奴。五本くらいかな?」
「白と黒。缶で」
「キャンバスのロール、買ってきてくれよ」
 と、今まで物持ちにされていた男子部員が嬉々として言う。いくら何でもそんなに重くて大きいもの、無茶である。
「お金もないのに無理ですよー」
 と、一也が眉を寄せて言うと、
「ちっ、しかたねぇなぁ」
「今度買い物行くとき、吉田に持ってもらうこと決定」
 男子部員達は腕組みをして、大きく頷きあったのであった。
「そんなぁ…よしてくださいよぅ」
 情けない声で答えて笑い、一也は「じゃ、行ってきます」と美術室を出た。
 ポケットの中の財布だけを確認する。鞄は、そのまま置いてきたのだ。
 閉門になる前には、帰ってくるつもりだったのである。


 傾き始めた日は、ゆっくりとゆっくりと落ちていく。
 一也はその夕日を横目に見ながら、学校に向かっててくてくと歩いていた。右手に握られた紙袋の中には、何色かのパステルが入っている。
 前髪を撫でていく春の風。微かにする、潮の香り。
「このままずっと、普通に毎日が続けばいいのに」
 なんということもなしに、一也は遠回りをしていた。
 川沿いの遊歩道。一也の、気に入っている道である。
 駅から学校、学校から駅、もちろんのことだけれど、どちらの場合でもこの遊歩道を通ると遠回りになってしまう。そのせいもあって、この遊歩道を歩く高校生の影は少ない。
 何となく鼻歌なんて歌い出しそうになる自分に笑う一也。
 ゆっくりと流れる、河口付近の広い川。
 それと同じで、ゆっくりと動く、ほんわかとした時間。
 一也はそれを楽しむように、できる限り歩みを遅くして、歩いていた。
 それがいつか、壊れてしまうことがわかっていたから。


 放課後の、やけにしんとした学校が一也は好きだった。
 閑散とした廊下。自分の足音だけが響く。
 昼間の学校からは、まったく想像もつかない雰囲気。
 あ…しまったかな…
 そう思って、一也は少し急ぎ足に美術室へ向かった。静かすぎる校舎内に、思わず苦笑いを浮かべて見せる。
 静かすぎる美術室前の廊下。理由を理解して、頭を掻きながらゆっくりとドアを開ける。
 ドアの向こうには、一枚の風景があった。
 夕日の射し込む美術室。みんなが帰った後、ぽつんと取り残されたままになっている自分のイーゼルと、たくさんのパステルたち。
 思わず、一也は息を飲んだ。
 一日、働き疲れた空気たちは、音を伝えることもサボり気味だ。かすかに聞こえる吹奏楽部員の個人練習の音と、運動部員のかけ声。
 一也は棚から、誰の物だかも知れないスケッチブックを取り出すと、その風景を急いでデッサンした。たいして巧くはないが、雰囲気を描き留めておきたかったのである。
 かりかりと鳴る鉛筆。消しゴムはないので、何本も線を引くわけにはいかない。一也はただ急いでデッサンを済ませると、大まかなラフに細部を細かく表現したメモを付け、ふうとため息を吐きだした。
「終わった?」
 と言う声にどきりとして振り向く。
「あっ…いや、その…」
 美術室のドアの所で、彼女はこの部屋の空気を壊さないように行儀よく立って待っていた。手には、洗ってきてばかりの水彩用バケツを握っている。
「それ、私のスケッチブックだよ」
「あっ!ご…ごめん。手に取ったらこれだったから…このページだけ、ちぎっちゃってもいいかな」
「ん。いいよ」
 と、彼女は水彩用の水バケツを、用具置き場に置きながら言った。
「今、私もちょうど帰ろうかと思ってたんだよ。吉田君、鞄置いていったでしょ。どうしようかと思ってたんだから」
「ごめん。本当はもっと早く帰ってくるつもりだったんだけど…寄り道してて」
 ぴりりとそのページだけを千切り取り、元の位置にスケッチブックを戻す一也。
「みんなは?もう帰っちゃったの?」
 視線だけを振り向かせて聞く。
「うん。私たちが最後。鍵、預かってるから大丈夫よ」
「ごめん。じゃ、今すぐ片づけるよ」
 買ってきたパステルを急いで箱に入れ、一也はイーゼルをがちゃがちゃと片づけ始めた。
「いいよ。急がなくて。私も急がないし──」
 笑い、
「それに──」
 すうと軽く息を吸い込み、
「私、吉田君のこと待ってたんだし」
 松本 詩織は、少し恥ずかしそうに微笑んで言った。
 一也は、詩織に背を向けてイーゼルを片づけていたので、彼女の表情までは読みとれていなかった。彼女の言葉に、普通に答えて返す。
「本当にごめん。待ったでしょ。こんなんだったら、もっと早く帰ってくればよかったんだよね」
「そういう意味じゃないよ」
 詩織は、困ったように眉間にしわを寄せた。吉田君、その答えは、それはわざとなの?
「よいしょ、と。ごめんね。帰ろう」
 と、一也は鞄を手にして振り向いた。
 目の前に、詩織が立っていた。
 「お」と思わず一也も身を凍らせる。
「私ね。吉田君が戻ってくるの待ってたの」
「うん…だから…ごめ──」
「ちがうの。こうして、ふたりっきりで話がしたいから、待ってたの」
 詩織が一也に向かって、一歩を踏み出す。
「…え」
 喉を鳴らす一也。なにか──口の中にある言葉を噛みしめるように動く──詩織の唇。
「あ…あの…あのね吉田君?」
 何とか唇を動かしてそう言いながら、詩織はうつむいた。
「嘘や冗談じゃなく──聞いてくれる?」
 ぱっと詩織のあげた視線に見つめられ、一也は瞬き。
 えっ…と喉をつまらせ、ぴたりと止まった時間の中に、一人取り残されたような感覚に陥った。頭の中を、ぐるぐると何かか飛び交う。何だろう…何だって…何が?
 ──え?
 時間が動いてると再確認したのは、とくとくと鳴る自分の心臓と、少しずつ視線を落としていく詩織に気づいたときだった。
「あのね、吉田君。私ね、センパイやみんなが思ってるほど、いい子じゃないの。吉田君がセンパイと仲良くしゃべってれば、私、嫉妬するの。どうして?って。吉田君とセンパイだって、この春にあったばかりなのに、どうしてそんなに仲がいいのって──そう思って、私、嫉妬するの」
 一也はただ、詩織の言葉を上の空のような気持ちで聞いていた。
 え──…って。
 松本さん?
 うつむいた彼女のかけるべき言葉が、喉の奥から出てこなかった。
 ゆっくりと顔を上げる詩織。
「吉田君…」
 真っ直ぐに、彼女は一也を見て言った。
「好きです。私と、付き合ってください」


 ──え。
 一也は、自分の肉体と意識が全く別の所に存在しているかのように感じていた。
 耳で聞いた言葉と、頭の中で理解した言葉と、それは違うもの?
 それとも自分の目で見ている景色と、網膜で認識している景色とが違うのか?
 何より、今自分と呼べるもの、肉体はそこにいる。
 けれど、自分を動かすもの、意識は離れたところからそれを見ている。
 何が起こったんだ?何が起こってるんだ?
 目の前にいるのは松本さん。同じクラスの、同じ部活で、友達の女の子。
 彼女の前に立ってるのは、僕。
 彼女が言ったのは、言った言葉は──
 僕を──!?


 ぶるるるっと、一也のポケットの中でポケベルが震え、彼は現実に引き戻された。


 はっとしてポケットに手を突っ込み、震える手で震えるベルを掴む。
 まさかと思ってメッセージに視線を走らせる。遙のイタベル──お姉ちゃんの買い物お願い──シゲさんの本買ってきて──明美さんのディスクよろしく。
 メッセージは、そのどれでもなかった。
 教授の緊急出動──。
 エネミー襲来!?
 一也はメッセージを確認すると、ベルをポケットの中に押し戻した。
 詩織も、一也がベルを見て表情を変えたのに気づいていた。ただ、彼女は一也がR‐0のパイロットだなんて、知る由もない。
「吉田君…ベル…」
「あ…その…」
 言いにくそうに言葉を濁す一也。詩織は彼の言葉に隠したがるなにかを感じて、うつむいて漏らす。
「ベル、遙センパイなの?そのベル、吉田君にあげたのセンパイだし、ベル番知ってるの、センパイだけみたいだし…」
 うつむいたままで、詩織は続けた。
「吉田君…ねえ──」
「ごめん、松本さん。急がなきゃならないんだ。明日、明日かならず…」
 そう言って自分の脇を駆け抜けて行こうとした一也の腕を、詩織はぎゅっと掴む。
「いや!今、今答えて。私のこと嫌いなら嫌いって、センパイのこと好きなら好きって!今答えて!!」
「松本さ…ん」
「いま…答えて…私、このままじゃ辛いの」
 胸の中のつかえ。言葉と共に、淡い色を出して溶けていく。
 言葉を返さない一也に、止められず、詩織はうつむいていた。
「答えてよ…ねぇ…私、いいから…」
 うつむいたまま、詩織はそっと一也の腕を放した。夕日に照らされて栗色に輝く髪に隠れて、彼女の表情は、誰にもわからなかった。
 一也は、唇をきゅっと強く結んだ。
 僕は──
 そんなつもりは──目の前の彼女を悲しませるつもりは──ないのに…どうして…
「…ごめん」
 一也は小さく答えていた。詩織が、一也の言葉にぴくりと身を震わせる。
「今は、答えられない」
 一也はうつむいたままの詩織の反応を待った。けれど、彼女は、そのまま動かなかった。
「ごめん…」
 小さく吐き出した言葉を残して、一也は小走りに美術室を出た。廊下に出た後は、どうしてか、強く歯を噛みしめて、走っていた。
 詩織は、彼の足音が聞こえなくなってからゆっくり顔を上げると、すう吐息を吸い込み、
「吉田くん──」
 肩を落として、
「──のバカァッ!!」
 ため込んでいた物を、一気に吐き出した。


「BSS正常稼動を確認」
「全身のスキャニングテスト実行。モニター終了」
「リンク正常」
「明美さん、そこをシンクロに変えましょうって」
「BSSシステム解放。機体とのリンクを開始」
「ああ!無視」
「全機体システムオペレート完了。アクチュエーター、及びマニュピレーターとの、リ・ン・ク、正常」
「明美さん、僕の事いじめてます?」
「被害妄想よ」
「え?」
 明美助教授とシゲの言葉をインカムに聞きながら、一也ははぁとため息。もう、何度目だろう。
「一也、元気ないじゃない。どうしたの?」
 気づいた遙が、インカムの向こうから聞く。
「遙には関係ないよ」
 と、ぼそり。
「ああっ!冷たい。私たちが先に帰っちゃったの、根に持ってるんでしょ」
「そんなんじゃないよ」
 再び、一也はため息を吐き出した。
「イーグル、システム正常稼動を確認。シゲくん、ドッキング準備」
「はいはい。僕はあくまで明美さんに使われる身なのです」
「被害妄想」
「…何でもいいです。イーグル、レーザーサーチャー発信、R‐0受信。ドッキング準備完了」
「一也、すぐ帰ってくるって言ってたのに、来ないんだもの」
 と、遙。ちょっとはすまないと思っているのか、唇を軽く尖らせて言う。
「でもほら、そのおかげで詩織ちゃんと一緒に帰れたんでしょ。あのかわいい詩織ちゃんと♪」
 遙はにやぁと笑いながら言うけれど、一也としては、「はぁ」とため息。
「…うるさいなぁ」
「な…なによもー!一也のこと考えて、女の子と一緒にしてあげたっていうのにっ!!」
「でもエネミーが来たら関係ないじゃないか」
「あ。だーから、怒ってるんだ」
 と、にやぁ。
「ごめんねぇ、一也君。いートコだったのねぇ、あとちっと、あとちっとで──」
「うるさいなー…」
 一也はインカムのスイッチに手を伸ばし、それを切ろうとした──けれど、一応やめた。発進準備中に入ってくる情報まで切ってしまうわけにもいけない。もしかしたら、遙はそれをわかっててしゃべり続けているのかもしれない…なんて、一瞬思ったりもした。
「まあ、でもほら。まだ高校生活は長いんだからさ。その程度のこと、気にしない気にしない。はじめは誰だって失敗しちゃうもんなんだってー」
 なんて言って、楽しそうに笑う遙。
「初体験てやつはさ♪」
 けらけらと遙。楽しそう。
「うるさいなぁ…」
 一也は目を閉じて口を曲げ、返す。
「だから、そんなんじゃないって言ってるだろ!」
「なっ…おこんないでよ!」
「じゃあちょっと静かにしててよ!僕だって色々考えることがあるんだから!」
「なによぅ!なんかため息ばっかだから、心配してあげてるんじゃない!」
「ドッキング開始。ノーマルシステムでドッキング…っと」
 マイペースに明美助教授。喧嘩するほど──とでも思っているのかも知れない。
「教授、ドッキング完了です。いつでも出られます」
「一也君、機嫌悪そうだな」
「どうしたんでしょうねぇ…?」
 ぱちぱちと瞬きをしながら教授と香奈。
「教授、お姉ちゃん。そういう会話は、インカムのスイッチを切ってやってくれる?」
 一也に突っ込まれる。
「お、聞こえてたか」
「わざと──でしょ」
「刺々しいね」
 でも実際そうなのだけれど。
「一也、学校で何かあったの?いじめ?いじめられてるんだったらお姉ちゃんに言いなさい。そんな奴、私が行ってやっつけてあげるから」
 きゅっと右手を握る香奈。
「じゃ、まず遙かな」
 一也は事も無げ。
「なっ!なによっ!なんで私なのよ!!」
「遙ちゃん…」
「香奈さん!本気にしないでください!」
 ちゃんと言わないと、香奈の場合本気だから怖い。
「何はともあれ──」
 教授はこほんと咳払いをひとつして、続けた。
「二人とも喧嘩は後にしてくれ。今はエネミーの着上陸阻止!それを第一に考えてくれ」
「やりますよ。もう決めたんですから」
 軽く息を吸い込んで一也。
「何を?」
 小首を傾げた遙に聞き返される。
「僕はもう、人並みの幸せは得られないんだ」
「はぁ?一也、何言ってるの?」
「いいんだよ。これに乗って、エネミーを倒すんだ。そうしなきゃダメなんだ」
「よくわかんないんだけど…?」
「いいんだよ。僕はわかってるんだから」
 そうだ。そうしないと、僕には人並みの幸せなんて得られないんだ。
 この人たちと関わってたら、人並みの幸せなんて、僕には一生得られないんだ。
 ──と、悟ってしまったのである。
「よ…よし。よくわからんが一也君もやると言っているし…出撃だ。遙君、出撃!」
 腕を振るい、叫ぶ教授。弛む顔は実に楽しそうである。
「はーい。じゃ、行きまーす。一也、しっかりつかまってるのよ」
 なんて言う遙の声も楽しそうだ。
 思わず、またため息。
 巨大ロボットのパイロットなんて、ならなきゃよかったな。もっと小さな願いが、毎日ちょこちょこ叶う方が嬉しいや。
「ちょっと一也、聞こえてる?」
「聞こえてるよ。いいよ、大丈夫」
「ホントにぃ?ん──んじゃ、行くわよ」
「うん」
 一也はコックピットの中で大きく頷いた。
 でも、僕はこれでもR‐0のパイロットなんだ。
 この国を護る──そして世界中でただ一つの──
 決意をみなぎらせるけれど、思わず考えてしまうことは止められない。
 でも──それ以前に僕は高校生なんだよな…
 普通の高校生の幸せって、何だろう?
「──はぁ…」
 一也は、今日一番の深いため息を吐き出した。


つづく








   次回予告

    (CV 村上 遙)
 R‐0がアニメ化する?
 うそでしょ。だって…ホントなの!
 OVAでアニメ化?ロボットファンの熱い声援に応えて…はぁ…
 ストーリーとかはどうなるの?このまま?だって、こんなのそのままアニメ化したら大変じゃない。
 あ、やっぱり変えるのね。
 もっとかっこいい奴に。ふーん。
 ねぇ、私の声は誰が当てるの?
 え!?現役女子高生のアイドル声優、柚木 園子!?
 なーんであんなきゃぴきゃぴ女が私の声なの!じょーだんじゃないわよッ!!
 ──ってわけで次回『新世機動戦記R‐0』
 『ヒロインは誰だ!?』
 (ぽつりと吉田 香奈)あのぅ…私もその中に入ってるんですかぁ?
 んー…とっ、とにかく。見ないと絶対後悔するから、
 お見逃しなく!


[End of File]