studio Odyssey



また、夏がくる


 夏が終わる。

 夏という言葉の響きが好きになったのは、あの夏のころからだと思う。
 初めての恋をして、初めての失恋をした、あの夏のころからだと思う。

 東京で一人暮らしを初めて、5ヶ月。大学にも仲間と呼べる友達が何人か出来て、僕は、今という毎日を、楽しく、そつなく、生きていた。

 夏の終わり。

 8月の終わり。実家から戻ってきた僕は、日雇いのバイトをしながらだらだらと長い大学の休みをすごしていた。
 その夏の終わりの日曜。

 いつも通りに、僕は一人、ひとりの部屋があるアパート、「グリーンコーポ」へと帰ってきた。コンビニ袋を片手に、歩き煙草。夏の夜の中をひとり、抜けて。

 それは、いつもと同じ。

 だけれど、そのいつもと同じはずの「グリーンコーポ」の前の砂利道は、いつもとはちょっと、違っていたんだった。


 何人かの、人垣が出来ていた。見たことのあるようなないような顔。
 このアパートの住人たちの顔。
 5ヶ月ひとつの屋根の下にいて、だけれど、それだけの顔ぶれ。

 その人達が、今日は、その砂利道の上に集まっていたんだった。

「おかえりなさい」

 誰かが言う。たしか、一階に住んでいる人だったと思う。その人の隣に立つ男の人と、一緒に生活している女の人だったと思う。

「あ…こんばんわ」
 返す。それくらいだけの関係。

 だけれど、その女の人は言った。隣に立つ男の人と同じように、少し、笑って。

「あ、これからみんなで花火するんですけど、一緒にどうですか?」

 花火?

 夏。
 そう言えば、昔は毎年必ず花火をしていたけれど、しなくなって、どれくらいたっただろう。最後に花火をしたのなんて、いつの頃だったろう。

 夏の花火。

「いえ…いいです…」
「そんなこと言わないで、みんなでやりましょうよ」

 微笑みながら女の人が言う。と、隣に立っていた男の人は手にした携帯灰皿で煙草を消すと、その灰皿を僕に向かって差し出しながら、言った。

「昔はね、このアパートの恒例行事だったんだよ」
「へぇ…」

 僕は少し感嘆する。へぇ、そんな恒例行事があったんだ。
「あ、どうもすみません」
 差し出された携帯灰皿に、煙草を押しつけて消す。

「せっかくだから、みんなでやろう。そのつもりで、花火、たくさん買って来たんだ」
 笑いながら、男の人は言った。
 そしてひょいと指さす後ろ。何人かの見たことのある顔ぶれがあった。この「グリーンコーポ」、ひとつ屋根の下に住む、皆の顔ぶれ。
「あ…」
「これから、もっと増えるからさ」

 そして笑いながら、くるりとその人は「グリーンコーポ」のベランダが突き出た壁の方へ向き直ると、口の脇に両手を当てて、叫んだんだった。

「アパートのみなさーん!みんなで、花火やりましょうー!!せっかくですからー!!」

 僕は目を丸くした。
 そんな風に言えるその人と、そして、それを聞いてくすりと笑った、その人とに。


 やがて、火花の弾ける音が聞こえてくる。
 ひとつ屋根の下に暮らす、皆の笑い声が聞こえてくる。

「あ、火、持ってます?」

 僕の隣に来た女の子が言った。たしか、同じ大学だったと思う。学部はたしか違うけれど、学食で、何度か顔を見たことがあったと思う。

「あ、ありますよ」

 ポケットからジッポーを取りだして火をつける。しゃがみ込んでいた僕の隣に彼女も座って、僕の手の中にある火で、手にしていた花火にそっと火をつけた。

 少しだけのためらいがあって、やがて、花火に火がともる。
「わぁ!」

 小さく、彼女が言った。
 そして僕も、同じ花火に火をつけた。

「火、くれ!」

 僕の部屋の隣に住む、ひとつ上の学年の男の人が走り寄って来て言った。言って、僕の手にした花火から火を受け取っていった。盗んでいったという方が、もしかしたら正しかったかも知れない。
「うおぅ!」
 音を立てて爆ぜるそれをくるくる振り回しながら、その人は笑っていた。他の部屋の住人達と輪を作って、楽しそうに笑っていた。
 僕も思わず、吹き出した。
「あ、消えちゃう」

 ふいに、彼女が言った。手の中の赤い花火を、じっと見つめながら。
「まだ、たくさんありますよ」
 僕は笑う。
 夏の夜の中、照らし出された赤い頬が、すこし、あの頃のことを思い出させたから。

「そうね」
 消えた光の中で、彼女はくすりと、小さく笑った。

「あ、火、あります?」

 別の部屋の女の子が、彼女の前にしゃがみ込んで僕に言う。
 僕は、
「ありますよ」
 笑ってもう一度手の中にちいさな火を灯した。

 ひとつ屋根の下。
 それぞれに生きているみんなの声、笑い声が、聞こえいていた。
 そして、だけれどもしかしたら初めて、僕らは同じ時間を、共有していた。


「なつかしいな」
 煙草をくわえて、その人は小さく言った。
 それは隣に立つ彼女にだけ、聞こえていた。
「なつかしいね」
 彼女は返す。

「あれから、どれくらいの夏がすぎていったかなぁ?」
「大学の1年の時だから…6年か?」
「もうそんなに?それとも、まだ、それだけ?」
 くすりと、彼女は笑った。だから、彼は返した。
「これから俺たち、もっともっと一緒にいるんだぜ。たったの6年じゃないか。たっただよ」
「そうね」

 細める目の向こう、なつかしい自分たちの影が見えたような気がした。
 笑いあう「グリーンコーポ」、ひとつ屋根の下のくらす、同じ人生の時間を共有する仲間達の姿。

 その中に、あの頃の自分たちの姿が、見えたような気がした。


「夏の終わりの花火か」
「でも、これが始まり」
「でも、これで終わり」
「新しいスタートだろ?」
「そっか。そうね」


「なぁ」
 赤、オレンジ、青、黄色。
 輝く光を見つめながら、言う。
「俺たちみたいに、ここから始まる物語って、あると思う?」

 彼女は返す。
「あるでしょう」

「私たちがそうだったのと、同じように」
 そして彼女はそっと、彼の胸に頭を預けた。


「ごめん、また火、かして」
 申し訳なさそうに笑って言う彼女に、僕も笑った。
「はい」
 そして手の中に小さな火を灯す。
 彼女がちょっと笑いながら、その火に花火を近づけた。
 そしてちょっと、吹き出すようにして、笑った。
「何?」
「別に」

 そして聞こえる夏の音。
 輝く夏の光。

 夏という言葉の響きが好きになったのは、あの夏のころからだと思う。

 そしてまた、秋がやってくる。
 新しい、季節がやってくる。