studio Odyssey


聖夜という名のいつもの夜




「真っ赤なお鼻の〜♪」
 と、小声でだけれど、楽しそうに歌っているのは佐藤 睦美。(注*1)
 12月も中旬と呼ばれるくらいの時期になると、街はクリスマスという雰囲気が色濃くなってくる。そうなればもちろんのことだけれど、清純で純粋無垢な女の子(自称)の睦美なんかは、何となく心がうきうきしてきてしまう物なのである。
 ま。現実的なこと──今年もやっぱりシングルクリスマス──なんて考えてしまうと、そのうきうきも半減してしまうので考えないことにするのだけれど。
「クリスマスかぁ」
 日も落ち、冬の寒さがコートを通して肌にしみる時間帯。睦美は小さくため息を吐き出して、そのちょっとだけ白い自分の息に向かってぽつりと呟いた。
「ま、受験生の私にはあんまり関係ないかな」
 とか言ってる割に、受験生としてはあるまじき事なのかも知れないのだけれど、今日も部活でくだらないおしゃべりをして、今帰るところ。
「若モンは、楽しいクリスマスをおくるのかなぁ…」
 なんて言って、にやぁ。
 そうだろうな。一也君とか、詩織ちゃんとか、あの辺はあまーいクリスマスを──いやまてよ。あそこには遙も絡んでくるだろうから、結構面白いことに──
 完璧にオヤジ臭いことを考えながら、睦美は一人口元を弛ませていた。
 そういえば──詩織ちゃん、一也君にあげるって言ってたプレゼント、ちゃんと出来たのかなぁ…
 娘の恋の行方でも気にするかのように、睦美は冬の夜空を見上げてため息をひとつ吐き出した。
「私もなぁ…」
 と、言いかけてやめる。
 別にいいんだもん♪
 手にした鞄をちょっと大げさに振って、睦美は足を早めた。








   聖夜という名のいつもの夜


       1

「あのぅ…センパイ?」
 部活の後輩、松本 詩織にそう聞かれたのは、初秋の頃だったと記憶している。少なくとも、まだ冬と呼ぶには早すぎた時期だ。
「なーに?」
 放課後の部室。
「あの、ちょっと聞きたいんですけど、いいですか?」
「ん?ちょっと待って──」
 睦美は手元にあった猫の絵に、かりかりと色鉛筆で色を塗る手を止め──これは確か文化祭用に描いていた物だから、九月の中旬くらいだったのか──それをちょっと離して見たりしてから、
「なに?宿題とか、そういうのには答えられないよ」
 なんて言って、楽しそうに詩織に向かって笑いかけた。
「いえ、違います。そういう事じゃないんです」
「そうだよね。宿題なら、私なんかじゃなくて恭子に聞くモンね」
 と、睦美。自分でもわかっているのである。
 とすると──
 睦美はちょっとだけ考えてから、「にやぁ♪」と笑って言った。
「私に聞くことっていうと、アレとか、ソレとか、コレとか」
 なんて指をおったりして、
「何ですか?アレとか、ソレって?」
 と、逆に詩織に聞き返されたりしてしまう。
「もー。詩織ちゃんたら、ウブでネンネ♪(注*2)」
「──って言うか♪」
 突然話に割り込んでくるのは村上 遙。睦美の言う、「アレとかソレとかコレとか」の話は、基本的に大好きなのである。
「何なら、オネーさん達が教えてあげるわ」
「三人?三人?」
「きゃー♪」
「でも、私たちに頼まなくたってねぇ」
「そうそう。『詩織ちゃん。ぼっ…僕…』」
 と、遙は声を低くして言いながら、突然睦美にばっと抱きついた。だけれど、睦美もわかったもので、楽しそうに、
「『あっ…そんな、でも私初めてだから…』」
 なんて、精一杯女の子っぽく言って、うつむいたりなんかしちゃったりして。
「『大丈夫だよ。僕に任せて。さぁ、身体の力を抜いて』」
「『あっ、そんな…』」
 にやにや笑いながらの遙が、だんだんと睦美を押し倒していく。
「『キレイだよ、詩織…』」
「『んっ…』」
 暴走する遙と睦美に、詩織もやっと彼女たちの言う「アレとかソレとかコレとか」の意味が分かり、
「ちっ…違いますっ!」
 と、ちょっと頬を赤くしちゃったりして、真面目に言い返したのであった。(注*3)
「えー…ちがうのぉ」
 起きあがりながら、ことさら残念そうに言う睦美。髪の毛と一緒に、遙が手を突っ込んだせいで型くずれしたブレザーの胸元も正す。(注*4)
「でも遙、本当に手を入れるんだもんなぁ」
 睦美が口を尖らせて言うと、遙はその自分が突っ込んだ右手で、にぎにぎと空を揉みしだきながら、大真面目に言った。
「睦美、サイズいくつ?大きくなってない?」
「えー、変わってないよー。大きくしてくれる人もいないしぃ」
 と、本気で答える睦美にも困ったものだが、
「じゃ、私が──」
 そう答える遙にも困ったものである。
「遙、目が本気…」
 胸元を押さえて身を引く睦美。
「へっへっへっ…」
 その彼女に迫り寄る遙。
「あのー…」
 詩織が困ったように眉間にしわを寄せて言って、二人ははたとその場で動きを止めた。
「ごめん…今、完全にこっちで楽しんでた」
「で──なんだっけ?」
「いいです…もう」
 ちょっと口を尖らせて、詩織は小さく言った。


 結局、詩織が聞きたかったことは、いわゆる『恋愛相談』と言うようなものだった。その時はそれきりだったけれど、後日、また同じように聞かれたのである。
「男の子って、女の子から手作りのプレゼントとかされたら、恥ずかしいですかね?」
 なんて、ちょっと頬を朱に染めながら。
 はっきり言って、この質問には睦美も困った。
 これでも睦美は女の子である。男の子の気持ちなど、実際の所は、わかりゃしないのだ。
「どうかなぁ…何をあげるのかにもよるだろうけど、嫌って事はないんじゃないの?」
 当たり障りのない答えを返す睦美。遙ならもうちょっと違うことも言うのかも知れないのだけれど、詩織の『恋愛相談』は、さすがに遙には話しづらい。(注*5)
「一也君にあげるの?」
 と、詩織に耳打ちする睦美。二人の関係など、もはや周知の事実である。
「え…あ…はい。その…クリスマスに、なにか…マフラーとか…」
 照れて、詩織は頭を掻いた。
 詩織にすれば、この行為は一種の願掛けでもあった。先日から意識を失ったままの一也が目覚めてくれなければ、クリスマスのプレゼントなんて用意しても何の意味もない。だから、目覚めてくれなきゃ困る。──そういう意味も、そこに込めていたのである。(注*6)
「でもほら…編み物とかって…なんか一目一目に想いがこもってて、ちょっと嫌だって言う人もいるって言うじゃないですか…」
 「そんな事を言うヤツぁ、ブチのめしてしまえ」とは、思ったけれど言わなかった。女の子が一生懸命想いを込めて作ったものを、そんな風に言うような奴は、睦美ならこっちから願い下げである。
 ──もっとも、睦美はそんなものハナっから作りゃしないのであるが。
「一也君なら、そんなこと絶対言わないって」
 と、睦美は太鼓判を押した。
 現実、彼はそういうことは決して言わないだろう。そういう性格だし、彼も本当のところ、詩織のことを意識しているのだし。
「そうでしょうか?」
 なんて言う詩織の表情は、少し嬉しそうに弛んで──睦美にしてみれば、「いいなぁ」と、羨ましくすら思うような物であった。(注*7)


「よし。じゃ、やっぱりクリスマスプレゼントに間に合うように、吉田君にマフラーを編んであげよう」
 ──と。
 そんなわけで、詩織は暇を見てはずっとマフラーを編み続けていた。その願掛けが上手くいったと言うわけでもないだろうけど、一也も無事に意識を取り戻したし、季節はゆっくりと移り変わっていき、12月──冬──クリスマスも、少しずつ近づきつつあった。
「大丈夫、大丈夫」
 と、編み目の数を数えながら呟く詩織。このペースなら、余裕を持って終わらせられるはずだ。もう十分、マフラーとしての長さも足りてるし…(注*8)
 今日も部屋でラジオを聴きながら、詩織は流れてきたヒットナンバーに鼻歌をあわせ、編み棒をこまめに動かしていた。
 と、不意にドアをノックする音。
「詩織?入っていい?」
 ドアの外からかかった声は、母親、松本 倫子の声である。詩織はちょっと慌てて、
「ちょっ…いいよ!」
 編み物をする手を止めて、それを隠してから声を上げた。一応は、母親にも秘密にしているのである。
「勉強してたの?」
 言いながら、ドアを開けて部屋へと入って来る母親、倫子。もちろん我が娘が、そんな大層なことをしているとはハナっから思っていないので、ちょっと笑いながら言ったのではあるけれど。
「まさか」
 と、詩織も笑いながら返す。
「期末テストも終わったんだから、するわけないよ」
「胸を張って言うような事じゃないでしょ」
 倫子はそう言って、詩織のことを軽く睨みつけた。けれど、笑いながらであったので、そこに迫力という物は全然なかった。
 期末テストの結果は、詩織自身が「全部の結果が出たら、総合評価の表が配られるから、その時にね」と言うのでよく知らないのだけれど、まぁ多分、その表というのも見せないつもりでいるのだろうという事は、容易に想像できた。(注*9)それでも、あまりひどいと言うこともなさそうなので、一応は安心である。
「で。何?」
 小首を傾げて、聞く詩織。ちらりと時計に視線を走らせるけど、まだ少し夕飯には早いようだ。
「うん?あ…えーと」
 倫子は言葉を濁した。目ざとく探していたわけではないけれど、娘の隠した手編みのソレを、視界の隅に捕らえてしまったからである。
 倫子は、自分が理解のない母親であるとは、一度として思ったことはなかった。そりゃ、娘はもう16だし、(注*10)法的にも結婚できる歳な訳だし、世間で言われているような、援助交際なんかに手を出すような娘でもないし、親に黙って外泊するような娘でもない。
 ごく普通の高校生で、勉強、部活、そして恋──ってのも、十分に理解できる。
 けど、出来ればあんまりのめり込んで欲しくなかったことも事実だ。
 なんと言ったっけ?あの、エネミーとか言う気味の悪い宇宙生命体と戦っている男の子。確か、吉田とか何とか──ああ、吉田 一也君だ──直接の面識はないけれど、悪い子でないことは、詩織の話からも想像できる。けど…
 この夏に、初めて詩織が突然に外泊をした。(注*11)
 部活の先輩達とも一緒だったと言うけれど、その日と、その次の日のニュースからも、詩織が嘘を言ったわけではないことはわかったけれど、どうも「ああそうなの」とは納得できなかった。
 なんだかんだと言っても、詩織はまだ子供なんだから。その吉田君にあんまり熱を上げていると、「もしも」の事が起こった時、大変なことになるかも知れない。──そう倫子は危惧していた。
 その夏の時だってそう。上手くいったからいいようなものの、「もしも」の事態が起こっていたら、吉田君だけじゃなく、家の詩織も消滅しちゃっていたかも知れないのだから。
 そうよ。それにこの前の秋の時だって、(注*12)吉田君が意識を取り戻したからよかったものの、もしも取り戻さなかったら?もしも──彼はいつも死と隣り合わせなのだから──もしも本当に死んじゃったりなんかしたりしたら?
「お母さん?」
 詩織に呼びかけられて、倫子ははっとした。(注*13)
「どうしたの?」
「え?ううん、別に。ただそのー…」
 倫子は少し考えてから、
「お父さんがね、クリスマスにみんなで食事にでも行かないって言うんだけど…どう?」
 馬に蹴られるのも覚悟で──ついでに言うのなら、もちろんお父さんはそんな事言った記憶もないのであるが──詩織に向かって聞いていた。


「あ。そうそう」
 と、夕飯の席で思い出したように声を上げたのは村上 遙。
「クリスマスのことなんだけど──」
 ここは東京国際空港にほど近いマンションの一室。吉田家のダイニングキッチンである。
 3DKのこの家に住むのは、吉田姉弟、香奈と一也。それに、居候の遙と黒猫のウィッチの計三人と一匹である。
「クリスマスがどうかした?」
 聞き返すのは唯一の男であり、もっとも権力のない人物、一也。それに、
「そう言えば、もうじきね」
 一家の大黒柱を自称する、(もちろん自称である)香奈が続く。
「そのクリスマスなんですけどね」
 遙はもぐもぐと噛んでいたご飯を、ごくりと飲み込んでから続けた。
「私、夕方からちょっと用事があるんで、家には帰ってきませんけど、別に心配しないで下さいね。ちゃんと、25日には帰ってきますから」
 さらりと遙は言ったけれど、流石に一也も香奈もその言葉には凍り付いた。
「それってどう言う事なの遙ちゃん?」
 香奈が、ちょっと怒ったように聞く。香奈は遙の保護者の代わりなのである。もちろん、自称であるが。
「え?だから、クリスマスイヴの夜は、用事があるから帰ってこないって事です」
 こう言えばさすがに──と、言ってからちらりと一也に視線を送る遙。「どんな反応を示すかな」と思ったのだけれど、結局一也からの反応は特になく、彼は無言で、みそ汁を啜っただけなのであった。
 つまんない奴…
「遙ちゃん?イヴの夜に、用事って何なの?返答次第によっては──」
 香奈が問いつめる。遙はちょっと顔をしかめて、心持ちその顔を遠ざけた。
「いい?遙ちゃん。遙ちゃんは、もう3年生とは言え、まだ高校生です。それがクリスマスイヴの夜だからと言って──」
 香奈のお説教が長くなりそうな気配だったので、
「パーティーに出席しなきゃならないんです。パパの。それで久しぶりに家に帰りますから、24、25日は、帰ってこれないんです」
 仕方なく、軽く笑いながら、タネを明かした。
「ま、そんなことだろうとは思ったけど…」
 と呟いた一也を、キッと睨みつけて、
「何の予定もない男よりはいいわ」
 なんて言ったもんだから、一也の方もじろりと遙のことを見て言い返した。
「あのねぇ、僕はもう普通の高校生がおくるような生活は捨ててるの。クリスマスなんて言う一大イベントがあれば、絶対に何か起こるに決まってるんだから」
 と、小さくため息。
 ある意味、世俗とはかけ離れた感覚を持った高校生である。しかし、遙にも一也の言ったその言葉の含む意味を、否定できないのであった。(注*14)
「ところで、クリスマスは香奈さん、どうするんですか?」
 話題を変える遙。一也も姉、香奈にちらりと視線を送る。
「えー…と。そのぅ…」
 答えにくそうに、香奈は人差し指を立てた手を、顎に当てて苦笑い。けど、言わなきゃしょうがないし、今はちょうどいい機会だしと、
「ごめんね」
 と、前置きしてから言った。
「クリスマスイヴの夜ね。小沢さんが、お店予約してくれて──私は、「無理しなくていいのよ」って言ったんだけど、ほら、小沢さんて顔が広いでしょ。一ヶ月前からでも、お店が予約できちゃって。それでね、そのね。ホントごめんね。遙ちゃん家にいると思ったし、それにせっかく予約してくれたのに、断るわけにもいかないでしょ。だから──」
「いいよ」
 香奈の話──というか弁解──が長くなりそうだったので、一也はそう呟いて彼女の話を止めさせた。
「家で、ウィッチと一緒に猫カンでも食べるよ」
「う…」
 ちょっと、皮肉のひとつも言ってみたくなるような気持ちも、分からないでもない。
「あら。よかったじゃない」
 と、遙。
「なにが?」
 一也は彼女の視線に聞き返す。
「クリスマスの夜って言うのは、どこのホテルも予約でいっぱいだし、そーゆーホテルも、二時間以上は待たないと入れないモンよ。それが、このマンションが貸切り状態な訳でしょ。コレを利用しない手はないっ!」
 一也の肩をぽんと景気よく叩く遙。一也だって、つき合いが長いので遙の言わんとすることくらいわかったけれど、
「何に利用するつもりでいるんだよ」
 と、にこにこ笑っている遙を軽くにらみ付けて、聞き返したのだった。
「アレ♪」
 にこにこ笑いながら、ミもフタもない言い方をする遙。本当は香奈も何か言い返したかったのだけれど、ここで何か言うと、遙に突っ込まれそうなので止めることにした。つまり、一也は孤立したのである。
「僕はいいの」
 と、一也はみそ汁をずずっと啜る。
「なんで!?そんなんでいいの!?」
 身を乗り出して言う遙。せっかくなのに、もったいない!
「僕はほら、遙と違って、健全な高校1年生だから」
「私の意見を述べさせてもらうなら、あんたの考え方の方が健全じゃないと思う」
「自分の考え方が健全だと思ってるんなら、遙、危ないよ」
「…どーゆー意味よ」
「そのまんまじゃないか」
「なっ──!」
「あー!じゃあ、じゃあどう?」
 遙が掴みかかりそうな気配を見せたので、香奈は二人の間に割り込んで話し出した。
「一也も、小沢さんに頼んでどこかお店を予約してもらう?ほら、シゲさんとベルさんも、そうしてもらったのよ。一也も、どう?」
 ちょっと無責任な事を言ったかな?と思ったけれど──小沢さんなら大丈夫よね。
「あ。それいいじゃない。詩織ちゃん誘って──」
 遙も一也に向かって、楽しそうに言うけれど、
「いいって。本当に」
 一也はちょっと迷惑そうに笑いながら、返した。
「僕は何か特別なことのある夜より、何事もないいつもの夜の方が嬉しいんだから」
 そんなことを小さく呟いて、一也は食卓を立った。


「そんなこと言ったの?」
「言った」
「一也君も、いろいろと大変なのかしら?」
 12月24日と言うのは、大体の学校において終業式という、二学期の終わりを告げる、あまり面白いとは言えない式があったりする。
 それは遙達の高校でも例外ではなくて、今もその真っ最中だったりするわけなのだけれど、同じクラスでもある遙と睦美と恭子は、壇上に立つ生活指導の堀間の長い話など聞きもせずに、おしゃべりに興じていた。
「しかし長いなぁ…」
 と、ため息混じりに睦美。ここから堀間を睨みつけても、当然やつにわかるはずもない。
「校長より長いんじゃないの?」
「寒いよね」
 そう言って、神部 恭子は制服の前をあわせた。
「ちゃんと、防寒対策してくればよかった」
 と、ぽつり。
 全校集会は、もちろんの事ながら体育館で行われる。よって、寒いのである。この学校では、座って長々と話を聞かされるわけだが、座っていると床からじわじわと寒さが身体を登ってくるのだ。
「ああ、さむい」
 白い息をはぁと吐き出して睦美。
「冬だもん」
 当たり前のことを恭子に言われて、ちょっと口を尖らせる。
「でも、こっちは雪降らないからいいじゃない」
 ニューヨークに3年近く住んでいた遙からすれば、東京の冬はまだそれほど寒いとは感じられない。
「おおぉ、今日はクリスマスだって言うのに、こんな私を暖めてくれる人はいないのね」
 身を縮こまらせて、睦美は嘘泣き。だから遙は、
「睦美…」
 とか言って、二人、身を寄せ合ってひしと抱き合う。
「あ。あったかぁ…」
「ホント。やっぱ人肌ってあったかいわ」
「止めなさいってば」
 止める恭子をじろりと見て、
「私たちの仲を引き裂こうというのね!?」
 なんて、睦美は恭子を睨みつける。
「じゃ、いいよ。やってなってば」
「ホントは一緒にやりたいんでしょ。よしよし、仲に入れてあげよう。さんぴーだ♪」
「体育館でそう言う話題を話さないの!」
 恭子は周りにちらりと視線を走らせて、二人に向かってちょっと怒ったように言った。


 終業式が終わり、ホームルームなんてもので、欲しくもない成績表をいただいた後は、もう冬休みである。
 もっとも、今日12月24日はクリスマスイヴなどという大イベントのある日なのだから、学校から真っ直ぐ家に帰るような輩は、大方「オレはキリスト教徒じゃないからな」なんて言う──要するに、この年に一度の夜に、愛を囁き合う相手もいない者だったりするわけだ。
 廊下を、とことこと鞄片手に歩いていく睦美が、その「愛を囁く相手」がいない存在であることは先にも触れているが、だからと言って、彼女は「学校から真っ直ぐに家へと帰る」と言う類の者ではなかった。
 中には、いるのである。
「ごめんねー、遅れたぁ?」
 と、元気よく美術室のドアを開ける睦美。
 そう、「愛を囁く相手」がいない者は、いない者同士、「語り合う」事が出来るのである。──ま。要するに、部活連中で毎年恒例になっている、クリスマスパーティーをすると言うパターンなわけである。(注*15)
「遅いっスよー」
 と、2年生男子が、睦美に向かって文句を言う。彼女が来るまで、とりあえず乾杯は待っていたのである。
「ごめんて。掃除だったんだってば。遙と恭子に言っておいたでしょ?」
「そらま、聞きましたけど…」
「はい。睦美」
「あ、さんきゅ」
 睦美が遙の差し出したコップを手に取ると、そこに2年生男子が三人集まり、
「佐藤先輩、何飲むっスか?お注ぎします」
 と、三人、その手に握られているペットボトルをちょっと持ち上げ見せた。
「うーん…そうだなぁ…」
 睦美はちょっと眉を寄せて考える素振りを見せる。けれど、どうせ結局は、
「あ。恵ちゃん何飲んでるの?午後ティー?じゃ、私もそれにするー」
 なんて言って、1年生の女の子の飲んでいるのと同じ物──もちろん、2年男子の誰も手にしていなかった物──を選んで、その1年女子の「恵ちゃん」に注いでもらったりするのである。
「やっぱり、佐藤先輩って…」
「そんな…結構美人なのに!」
「しかしそれはそれで…」
 ペットボトル片手に語り合う2年男子を遠目に見ながら、一也、そしてその親友、吉原真一はぽつり。
「佐藤先輩って、絶対狙ってやってるよね」
「ああ、俺が思うに、両方をな」(注*16)


 クリスマスパーティーなどといっても、そりゃ学校の部室でやる位なので、それほど大層な物ではない。
 いつものおしゃべりの延長で、ちょっとたくさんお菓子があったり、誰かが焼いてきたチーズケーキがあったりするだけな訳なのである。(注*17)
 とは言っても、そのおしゃべりが楽しいことに変わりはない。そして、いつもと同じ時間の下校時刻が、そっと足音を忍ばせて近づいてくると言うのも、変わりはないのである。
「あ、もうこんな時間じゃん」
 遙は自分の腕に巻かれている時計を見て、ちょっと声を裏返らせるようにして言った。
「帰らなくっちゃ。ごめんね」
 と、椅子から立ち上がる遙に向かって、恭子が聞く。
「もうちょっとで下校時間だから、みんな帰るよ?もう少し待たない?」
「ごめん。実は今日、もうちょっと前に帰る予定だったんだ。実は、忙しいのよ」
 わざと意味深に言って、口元を弛ませる遙。「おおっ!」と、美術室の大きなテーブルを囲む部員達が唸る。
「遙の裏切り者っ!」
 睦美が嘘泣きしながら言う。
「いいんだっ!どうせ」
 と、ちゃっかり睦美は隣に座っている詩織にひしと抱きつき、
「詩織ちゃん、なぐさめて」
 なんて言われちゃった詩織は、苦笑いを浮かべるしかない。
「佐藤せんぱーい…」
「睦美に盗られるなよ」
 と、一也に耳打ちする遙。
「じゃ、しっかりね」
「…何がだよ」
 苦虫をかみつぶす一也の頭を軽くこづいて、遙は「じゃあ、よいお年を♪」と、みんなに手を振って美術室を飛び出していった。
 何が、「じゃ、しっかりね」だよ…一也は空になった紙コップを噛んで、不機嫌そうにそれをひょこひょこと動かした。


 時計の針が五時を指すと、一応仕事は終わりということになっている。
 ここは東京国際空港の片隅にある、対エネミー用組織、『Nec』の本部。日本を護る巨大ロボット、R‐1が置かれているところである。(注*18)
 お仕事──と言っても、香奈のする仕事というのはその大半がお掃除なのだけれど──もちゃんと全部終わって、後は時計の秒針と長針が重なるのを待つばかり。
「…そうか」
 その、ちょっとそわそわしている香奈を見て、一応Necの指令という立場にあたる男、平田教授は手にしていた書類から顔を上げて言った。
「今日は、クリスマスだったか」
「日付までわからなくなってるんですか?」
 皮肉めいたことを言っているのは、彼、平田教授の助教授、西田 明美。
「それとも、自分には関係ないことだから、記憶から削除してるんですか?」
 と、軽く笑いながら言って、明美助教授は覗き込んでいたノートパソコンのキーを叩いいた。「DEL」キー、ファイルの削除である。
「ま。私にも関係のないことですけどね」
 ため息を吐き出す明美助教授。液晶に映る、「ファイルを削除しています」と言うメッセージをぼうっと見つめながら、ここ数年のクリスマスに自分が何をしていたかな?なんて考えてみる。
 ──やめた。なんか、悲しくなってきた…
 ちろりと視線を走らせると、香奈だけではない。R‐0のハードウェア設計者である中野 茂──通称シゲも、そわそわと自分の手に巻かれている腕時計を気にして見ている。
「はぁ…」
 と、明美助教授がため息を吐き出し、
「若いっていいわ」
 と、呟きたくなる気持ちも、わからないでもない。
「シゲくーん?」
 明美助教授が楽しそうに笑いながら声をかけると、当のシゲは、ちょっとその顔をしかめさせて、彼女に返した。
「な…何ですか?R‐1の整備報告も出しましたし、緊急出動があった時は、ちゃんとおやっさんがいてくれますから、大丈夫なようにもしてありますし、それに──」
「…シゲ」
 シゲの言葉を聞いていた教授が、ぽつりと言う。
「何故普段は絶対にしないような面倒くさい事でも、こう言うときにはしっかりと出来るようになるのだ?」
「ハッ!?」
 頭を押さえて苦悶の表情を浮かべるシゲ。教授が次に続ける言葉が、わかってしまったからである。
「そういう風に出来るんなら、さっさと研究発表のレポートも作って出せ。建前でもださんと、卒業させんぞ」
「ああっ!教授、それは年明けまで待って下さい!!」
「香奈君もな。ちゃんと卒論を出しなさい」
「あ…あの…やっぱり出さなきゃダメですか?」
「もちろん」
 一応、この四人は『脳神経機械工学研究室』と言う、大学の研究室の一員なのである。大学の単位とか、そう言うしがらみからは、逃れられない立場なのである。
「ま。年明けまでは待ってやるが…」
 教授の言葉に、シゲと香奈はほっと胸をなで下ろした。何しろ、まだなんにも手をつけていないのである。その理由は、二人、全然違うとしても。
「ところでシゲ君?」
 ほっと胸をなで下ろしたシゲに向かって、明美助教授が再び笑いながら声をかける。シゲははっとして、目を丸くした。な…明美さん、僕にどんな無理難題をふっかけようと!?
「何でしょう?」
 と、一応、にこやかに笑って返すシゲ。
「車のキー、返してって言ったら?」
「貸してくれるって言ったじゃないっスか!!」
「気が変わったのよ。だって、シゲ君に車貸すと、廃車になって戻って来るんだもの」
「直しますよ。何度だって」
 口を曲げて、ちょっとすねたように言うシゲ。
「大体、あの車だって、僕が直したんですから(注*19)」
「だって、シゲ君が壊したんじゃない。直して当たり前でしょ」
「そりゃま…そうですけど…」
 そう言われてしまうと、シゲとしても返す言葉がない。
 ごにょごにょとシゲが言葉を濁していると、ここ、作戦本部室の壁に掛けられている時計の針がかちりと動き、5時を指した。
 一瞬遅れて、ハンガーの方でも夜勤との交代を告げるチャイムが鳴り響く。
「あーあ、5時になっちゃった」
 と、明美助教授はつまらなそう。
「あ。じゃ、お先に失礼します」
 と、シゲと、
「あ…じゃあ私も」
 香奈は嬉しそう。
「はい…おつかれさま」
 何となく、二人を見ていて余計に疲れたような気分になった教授と明美助教授は、小さくそれだけを呟いた。


 四人がいた作戦本部室から外に出るには、もっとも早い方法が、ハンガーにある出口を使用するという方法である。
 つまり、夜勤に入った整備員達の中を、小走りに駆け抜けていくのが、一番早いという訳なのである。
 当たり前のことだけれど、
「あ!シゲさんと香奈さんが帰ろうとしてるっ!!」
「なにっ!?オレ達整備員を置いてかッ!?」
「オレ達だってなぁ──!!」
 そう言うブーイングが二人に送られても、それは仕方のないことなのである。
「ごめんなさいっ!」
「ひがむなっ!!」
 どちらが香奈で、どちらがシゲか、ここで述べる必要はあるまい。
 ハンガーの出口脇では、自称ルポライターの小沢 直樹と、金髪の少女ベルが、ちょっと苦笑いをその顔に浮かべて待っていた。
「じゃ、私もお先に失礼しますね」
 と、作戦本部室の廊下から眼下のハンガーの光景を見ていた教授の背中に向かって、明美助教授が声をかける。
「何かあったら、家にいますから」
「ああ…」
 喉を鳴らして返す教授は、明美助教授に視線を送りもしない。明美助教授はノートパソコンを持ち直してコートに袖を通すと、少し高いヒールで、ハンガーへと降りる階段を軽く蹴っていった。
「明美君?」
 その音に視線を走らせ、彼女を呼び止める教授。
「はい?」
 階段の途中、振り向いた明美助教授は、ハンガーを見下ろす教授の横顔に返した。
「何か?」
「今晩、暇か?」
「は?」
「あれ──」
 と、教授は顎をしゃくってハンガーの出口を指す。もちろん、そこにいるのは香奈と小沢、シゲとベル、二組のカップルである。
「当てつけがましいと思わんか?」
 じっと四人を見つめたままで教授。
「…わからないでもないですが」
 教授と同じようにハンガーの出口に視線を走らせ、明美助教授も率直な意見を述べた。
「で?」
 そりゃま、ちょっとの期待はあったのだけれど、明美助教授は教授に横目で聞き返していた。ちょっとの意地悪。オンナはいくつになっても、女の子的な部分が残っているものなのである。
「なんか悔しい」
 と、子供みたいな事を言う教授。──実際、彼の考えていることなど、子供と対して変わらないのだが。
「飯でも食いにいかんか?」
「どこも予約でいっぱいですよ」
「空港のラウンジなら、何とかなるだろう。おごる」
「おごるって──なんかすっごい久しぶりに教授の口からそんな言葉聞きました」
「それじゃまるで、私がケチみたいじゃないか」
「私、学生の時以来、教授におごってもらった記憶ってないんですけど?」
 旗色が悪くなりそうだったので、
「で。どうする?」
 と、教授は明美助教授から視線を逸らして聞いた。
「そうですねぇ…」
 もちろん、このまま家に帰っても、普通に、いつも通りの夜を過ごす事になる訳なのだし、今日は年に一度のたったひとつの夜な訳だし──初めから答えは決まっていたわけなのだけれど──ま、断ることもないかなと、明美助教授は軽く笑って返した。
「でもおごりですよ」


 寒いな…
 冬なのだから、当たり前である。
 一也はその当たり前のことを考えながら、少し遅いペースでとことこと歩いていた。川沿いの遊歩道。いつもの、駅には遠回りになってしまうのだけれど、一也の帰り道だ。
 そしてそのいつもの帰り道。隣には、いつもと同じ顔がある。
「ね。見て。月が綺麗だよ」
「ん?」
 一也は隣を歩く詩織の言葉に、澄んだ冬の空気の中で煌々と照る月を見上げた。5時を少し周り、決して遅いという時間ではなかったけれど、冬の日の暮れるのは、今日が聖夜だからと言うわけでもなくて、早かった。
「ホントだ」
 漆黒の闇に浮かぶ、ちょっとまぶしいくらいの月を見て、一也は漏らす。
 部活でやっていたパーティーは、遙が帰ってすぐに、一也と詩織も抜け出してきた。もちろん、睦美を筆頭とする部員達ほぼ全員にからかわれたのだけれど、二人の間のことはみんなわかっていたし、それを羨ましくは思いこそすれ、非難したりは誰もしなかった。
 遙や睦美に言わせれば、二人が『健全すぎる』男女交際をしていると、誰もがわかってしまっているからなのだそうだ。
「寒くない?」
 と、詩織に向かって聞く一也。
 詩織は一瞬、躊躇するように言葉を飲み込み、けれど、
「寒いって言ったら、暖めてくれる?」
 なんて、遙あたりが言いそうなことを、ぽつりと呟いてみた。
「走ると暖かくなるよ」
 笑って返す一也。そう言う受け答えには、慣れたものなのである。
「もぅ…」
 詩織はちょっと頬を赤くして、目を伏せた。せっかく言ってみたのにな。と、口を尖らせる。
「でも、吉田君、今夜は村上センパイと一緒に過ごすのかと思ってた」
 一也の横を歩きながら、詩織は澄まし顔に聞いてみた。
「僕が?遙と?何で?」
 全否定を返す一也に、詩織は吹き出しそうになる。
「だって、仲いいじゃない」
「あれは、だってその方が仕事の上で──」
 と、言いかけて止めた。何となく、部下といい仲になったけれど、それを妻に問いつめられたときの、言い訳がましいサラリーマンの一言のような気がしたからだ。(注*20)
「まぁ、一応遙は家に居候してるわけだし──」
 「だからって、別に何の関係もないよ」と続けようとしたのだけれど、
「二人の間は、それだけのこと?」
 意味深に微笑みながら、詩織は一也の目に問いかけた。
「ど…どういう意味?」
 と、どもる一也。それは自分の目をじっと見つめる詩織の視線にであって、別に、
「あ。何かやましいことがあるんだ」
 そう言うわけではなかったのだけれど、一也が何かを言い返そうとするよりも早く、詩織はちょっと口を尖らせて、澄まし顔のままで続けた。
「別にいいんだけどね。そりゃ、吉田君だって、男の子な訳だし、センパイみたいな美人が近くにいれば、それになびいちゃう事だってあるだろうし、それに」
「あのね、詩織ちゃん──」
「センパイは、多分吉田君のこと好きなんだろうし」
「何でそうなっちゃうの」
「オンナの勘」
「はぁ?」
 眉を寄せる一也に、「本当は勘なんかじゃないんだけどね」とは、さすがに詩織も言えなかった。言ってどうなるものでもなかったし、言われることを、遙も望みはしないのだろうから。
「ね、吉田君」
「ん?」
 詩織はちょっと足を早めて一也よりも前に出ると、振り返りはしないで、聞いた。
「もし、センパイが『好き』って言ったら、吉田君どうする?」
 一也は躊躇なく、
「無視する」
 さも当たり前というように、詩織の背中へ返した。
 詩織は、思わず吹き出す。
「じゃあ──」
 笑いながら、勢いよく詩織は振り向いて、一也に次の質問をした。用意していた、もうずっと前にも聞いた事がある、同じ質問。
「もし私が『好きです』って言ったら?」
 振り返って立ち止まった詩織に、一也も足を止める。白い息が、しんとした夜の闇の中に踊った。
「あ…」
 一也は答えにくそうに、頬を掻いた。思わず眼前の詩織から視線を逸らしてしまうけれど、別にそれはその質問に答えられないからと言うわけではなくて──なくもないけど──なんか、真っ直ぐに自分のことを見つめる詩織の視線に、妙に恥ずかしさがこみ上げてきてしまったからだ。
「その…」
 言葉を濁す一也の前に、
「はい」
 と、詩織は楽しそうに笑いながら、小さな紙袋を差し出した。
「クリスマスプレゼント」
「え?」
 戸惑う一也に、詩織もちょっと戸惑いながら、「ん」と、それを押しつける。
「…ありがとう」
 言いながら、一也はその紙袋に手を伸ばした。がさりという紙袋の乾いた音と、それとは全く逆の柔らかな感触。何かやわらかい物?──綿とか毛糸とか──
 何となく答えはわかったのだけれど、こういう時って、どういう風に反応すればいいのかな──と考えた末に、
「開けても、いい?」
 と、詩織に軽く微笑みかけながら、聞いてみた。
「…うん」
 ちょっとうつむいて、うなずく詩織。冷たい冬の空気が、上気した頬を撫でる感触に、彼女は自分の頬を片手でそっと撫でた。もしかして、私、赤くなってる?
 かさかさと鳴る乾いた音に、一也の感嘆の小さな声が続く。
「これ…」
 一也が、紙袋の中のマフラーを取り出す気配。一生懸命に作った、手編みのそれ。
「うん。私が編んだんだけど…嫌だった?」
 顔をあげられず、詩織は聞いた。それだけが唯一の心配──だったのだけれど、
「そんなことないよ。へぇ──」
 一也は、一瞬の間もそこに開けることなく、彼女に返した。
「ありがとう」
 思わず、詩織は一也の言葉にはにかんだ。その言葉を待っていたというわけではなかったけど──心の隅では待っていたのだろうけど──そう言われて、本当に嬉しくなった。
 微笑みを浮かべたまま、ちょっと恥ずかしそうに上目遣いに顔をあげると、一也が、自分の編んだそのマフラーを、早速首にかけている所だった。
「かして」
 と、ほとんど反射的に手を伸ばす。
 驚いたように、一也は目を丸くした。しかし、特に拒むこともせずに、詩織の伸ばした手が届きやすいように、少し、身をかがめた。
 照れたのは詩織の方だ。ほとんど反射的に行動したせいもあって、意識なんてしていなかったのだけれど、近づく二人の距離は、キスまで本当に後少しの距離になっいた。
 ちょっと、手元が震える詩織。その詩織の耳元で、一也は小さな声で言った。
「ごめんね。実は、僕、なんにも用意してないんだ。本当は何かプレゼントでもとか、思わなかった訳じゃなんいだけど…」
「い…いいってば。これは、私があげたくてあげるんだから」
 きゅっと、一也の首にマフラーを結ぶように巻き付けると、詩織は彼のコートの前を合わせて軽くはたいた。そして、
「ひとつ、聞いてもいい?」
 一也のコートの前襟に軽く手を添えたまま──一也が腕を伸ばせば、その腕に抱かれる事も出来るくらいの距離で──そっと顔をあげた。
「ん?」
 軽く笑って、首を傾げる一也。
 詩織は、いくつかの言葉を頭の中で選んでいた。言おうと思えば、言えたのだけれど、結局、言わなかった。何故か──多分、その言葉を今ここで言ってしまうと、彼を困らせてしまうだけだと、自分自身でわかっていたからだ。
 ──それに、私たち、まだまだ沢山の時間があるものね。
 詩織は軽く微笑んで、聞いた。
「惚れなおした?」
 聞いておきながら、詩織は恥ずかしさにちょっとうつむいて、それをごまかすように、一也の鼻をちょいと右手の人差し指で押して、その身を離した。
 驚いて、呆気にとられた一也が、ただ一言ぽつりと漏らす。
「…うん」
 詩織は楽しそうに笑いながら、
「今日はそれで許す」
 そう言って、弾むような足取りで、川沿いの遊歩道を一也より先に歩いた。
 一也の吐き出す白い息が、澄んだ冬の空気の中、月明かりに白金のように輝いた。
 振り返った詩織の、ちょっと頬を染めたその微笑みが、やはりいつもとは少し違う風に、一也の目にも映ったのだった。







       2

「ただいまー」
 と、鍵を開けて家に入るとき、誰もいないとわかっていてもそう言ってしまうタイプの人間は意外と多い。たとえば、今ここにいる一也などがそうだ。
 まぁ、実際吉田家には黒猫のウィッチがいるので、誰もいないというわけではないのだけれど。
「ウィッチー?」
 と、一也がリビングの方へ声をかけると、
「にゃあ!」
 首の鈴をちりりんと鳴らしながら、黒猫のウィッチが駆けてきた。今日一日家から出してもらえず、よっぽどつまらなかったのだろう。一也の足下に駆け寄ったウィッチは、彼の足に身体を押しつけたり、そのまま股の間をくぐったり、ズボンをひっかいたりして、盛んに「遊んでよぅ」とアピールを始めだした。
「よーし、つまんなかったのか?ウィッチ」
 ひょいとウィッチを抱き上げる一也。
「よし、じゃあ僕と一緒にイヴを過ごすか?」
 なんて笑いながら言うと、黒猫のウィッチ──一応彼女──は、嬉しそうに「にゃあ」と鳴いた。
 思わず、一也も吹き出す。
「遙に言わせたら、『寂しいイヴねぇ』とか言われちゃうかも知れないけどね」
 詩織とイヴを──
 なんて、一応一也だって男の子なわけだから、考えなかったわけではない。けれど、彼女は「イヴは家族で食事に行くって、勝手に決められちゃったんだ」なんて言って──ちょっとつまらなそうにだけれど──笑ったので、それを止めるようなことは一也も口に出さなかった。もちろん、口に出す勇気なんてなかったというもの、事実だけれど。
 詩織の方は、もしかしたら止めて欲しかったのかも知れないが──
「とりあえず、今日も平穏な夜でありますように」
 ウィッチを抱きかかえたまま、一也はリビングへ向かって歩きながら呟いていた。
「遙の奴は、どうしてるかな?」


 ──パーティーか。
 村上 遙は、少し窮屈な気がするパーティードレスに身を包んで、小さくため息を吐き出した。
 別に、パーティーは嫌いじゃない。ニューヨークにいた頃は、クリスマスと言えばフラットをシェアしていた友達なんかと一緒にパーティーをしたりもしたし、目の前のテーブルにあるようなターキーや、ここにある物ほどじゃないにしても、それなりに豪華なツリーを飾ったりもした。
 けど、同じパーティーでもね。
 遙は頭の中にふっと思い浮かんだ、partyという単語の意味を思い出して、「ああ、そうか。これが本当の意味ではパーティーなのかな?」なんて、苦笑いを浮かべて、シャンパンの入ったグラスを口に運びながら壁に寄り掛かった。(注*21)
 ま。つきあいだと思って割り切るか。
 眼前に広がる光景。ホテルの大きなパーティールームを借り切ってのこのクリスマスパーティーも、高校生の遙からすれば、あまり面白くもない物である。何しろ、出席者のほとんどは、遙から見ればもう「おじさま」の領域にどっぷりと両足を突っ込んだ、政治家達がその大半なのだから。
 もちろん、中には若い男性もいないわけではない。
 その「おじさま」方の秘書や、息子なんかは、それなりに若い。ちょっと紹介された二、三人を例にとっても、まぁ顔も悪くなく、大学だって超一流なのだから、睦美あたりなら「玉の輿じゃん!」と嬉々とするところなのかも知れない。
 けどねぇ──
 理想が高いわけじゃないけど、そーゆー男達も、もうちょっと面白みがあればいいんだけどねぇ…
 壁により掛かったまま、遙は小さくため息を吐き出し、
「一也、うまくやったのかなぁ…」
 なんて、小さく呟いた。


「くしっ!」
 くしゃみである。(注*22)
「風邪かな…」
 なんて呟いて、すぐさまその考えを一也は捨てた。
「噂だな。多分、遙あたり…」
 あたっているから、怖いのである。
「ウィッチー!ご飯にするぞー!」
 あり合わせのもので作った自分の夕飯と、ウィッチの「金缶焼津マグロ」をシンクの下の戸棚から出し、一也は大声で言った。
「まぁ…遙が目の前にしているようなご飯とは、だいぶ違うだろうけど…」
 それでもウィッチは嬉しそうに、「金缶焼津マグロ」の缶に飛びついたのであるが。


「どうだ?楽しんでるか?」
 と、聞かれて、
「ぜんぜん」
 と、躊躇なく返す娘を見、村上 俊平は苦笑いを浮かべて頭を掻いた。
「そう言うな。そりゃまぁ、ここにはたいして面白くない男どもしかいないかも知れないが、みな明日──か、明後日くらいの日本を背負って立つことになるかもしれない男達なんだぞ」
「政治なんか興味ないもん。私、女子高生だし」
「だからって、つきあいってものがある事くらいわかるだろ。高校生なんだし」
「わかってるっば。だからこうして、ここにいるんだもん」
 遙は自分の隣に、同じようにパーティー会場を眺めるように立った父に向かって、横目で聞いた。
「ママ。ちょっと痩せた?」
「ああ、かもしれないな」
 と、村上は娘の言葉に妻の姿を目で追う。自分にとっての義父、彼女にとっての父と一緒に、彼女はなじみの政治家達と談笑していた。
「心労が重なったのかな?」
 なんて、遙。自分の母を見ながら、意味深なことを呟く。
「そんな事、お前が言えたモンじゃないだろう」
 と、村上も娘の言葉にやり返す。
「そんなことより、お前自身はこれからどうするつもりなんだ?」
「何が?」
 シャンパングラスを口に運んで、遙は村上を横目に見る。本気で、「何が?」と聞いているのである。
 村上ははぁとため息を吐き出すと、
「これからの、進路の話だ」
 と、遙があまり話したくないなぁと思っていたことを聞いてきた。
「…考えてない」
 ぽつりと遙。
「今、何月だと思ってるんだ?」
「12月。しかも、もうじき終わる」
「…わかってるじゃないか」
「だけど、別になんにも考えてない」
 空になったグラスを両手で持ち、遙はうつむいた。
「このまま、ずっと、このままだったらいいなぁとか思うんだけどな」
「そういうわけにも行かないのが人生だ」
「哲学だ♪」
 と、笑い、遙は続ける。
「でも、エネミーが地球に襲来し続ける間は、私はNecにいないとね」
「──って事は、一応就職になるわけか」
「しかも国家公務員」
「もっとも安泰でない国家公務員だがな」
 特務機関、Necの処置は、現在保留という形を取っている。解体すれば、エネミーの襲来があった際にこの国を護ることは出来なくなってしまうのだから、そうすることもできないのが現状である。
 苦渋の選択というわけでもないけれど、Necは──すでにご存じの通り──相変わらずの存続を今も続けていた。
「そんなことより、パパはこれからどうするつもりでいるの?」
 話題を変えるため、遙は少し声を弾ませて言った。元首相、村上 俊平。彼が内閣を解散して、時期2ヶ月が経つ。
「ん?」
 村上は娘の言葉に、少し考えるような素振りを見せて、頬を掻いた。
「さしあたって、まだしばらくは政治家を続けるかな。国民感情の方はどうか知らないが、私に付いてきてくれるという奴らも、何人かはいるからな」
 と、笑う村上。今日のパーティーも、そんな若い政治家達から呼ばれてきたのである。
「でも、この前の総選挙では当選しなかったみたいだけど」
 と、悪戯っぽく微笑みながら、皮肉のつもりで遙は言ったのだけれど、
「当たり前だ。出馬してない」
 ため息混じりの父の言葉に、軽くあしらわれた。
「そうなの?」
「政治家の娘でなくとも、高校生なら新聞くらい読みなさい」
「見てるよ」
 もちろん、遙が見るのはテレビ欄と四コママンガだけなのだけれど。
「そっか。…じゃぁま。しばらくは休暇って訳だね」
「総理をやってた間は、次から次へといろいろなことが起こりすぎたからな。(注*23)しばらくは休まんと…」
 と、村上は肩に手を当てて軽く揉んだ。首を回すと、小気味のいい音をたてて間接が鳴る。
「もう若くないんだから」
 ぽつりと遙。
「あ?」
 村上に横目で睨まれる。
「いくら歳を取っても、お前の晴れ姿を見るまでは、死ぬに死ねん」
 ため息混じりにそんなことを呟きながら、村上は娘、遙をちらりと見やった。しかしまぁ…よくここまで大きくなったもんだ。
「もう、18か」
「もうじきね」
 と、遙は笑う。
「もうじき、18歳未満お断りの映画も、躊躇せずに見れちゃう歳なわけよ」
 そんなことを言って笑う娘を見、村上は微笑みながらため息を吐き出した。何言ってんだか…ま。そんなことを言っている間は、まだ可愛いんだけどな。しかし──
「お前も、いつかは結婚する訳か」
 ぽつりと呟いた父の言葉に、遙は吹き出した。
「なに心配してるの。まだまだ先の話じゃない」
「いい男を連れてくればいいが…」
「パパに似た?」
「まぁ、それはある意味、嬉しいんだが…」
 自分によく似た男を娘が連れてくる。はっきり言って、これは男親にとって見れば嬉しい限りのことであろう。(注*24)だが、実際のところ、その男に娘を盗られるのだと考えてしまうと、何となくそれは悔しいような悲しいような…
「ま。お前が選んだ奴なら、別に誰でもいいんだがな」
「あ。強がってる♪」
 過保護にされているのを自分でもわかっているので、遙はそんなことを意地悪に言ってみた。思った通り、図星をつかれたらしい村上は、頬を掻きながら下唇を少し突き出して、何も言わずにいた。
「大丈夫だって」
 笑いいながら、だけど、本当はちょっとうつむいてしまう自分を止められずに、遙は言う。
「まだ、結婚なんて実感ないし…恋愛だって、まともに出来ないんだから」
 ちくりと、村上は娘の言葉に胸を痛めた。
 頭の中を駆け抜けた、一連の出来事。遙が、ニューヨークへ留学すると言いだした理由。まともに、恋愛もできないという理由。それがすべて自分のせいだとは思わないけれど、その引き金を作ってしまったことに、間違いはない。
「ま…まだまだ先の話だな」
 村上はぽりぽりと頭を掻きながら、言った。
「パパとママが結婚したのだって、25だかの時だからな」
「ママが24。パパが6」
「…細かいな」
「逆算できる。1、足すだけだもん」
 うつむいた遙は、細く微笑んで、両手でシャンパングラスを握りしめていた。透明なガラスの肌が、遙の体温に少しだけ曇る。
 娘の小さな声に、村上は次に続ける言葉を探していた。じっと、彼女の見つめるのと同じシャンパングラスを見つめたままで。
 話を変えるのは簡単だった。ただその前に一言を、村上はぽつりと呟いていた。多分、その時にその言葉を受けた人間と、その言葉を言った自分以外には、初めて。
 その時の、その事を。
 悪役を演じ続けようとしたわけではない。だからといって、本当は自分はいい人間なんだと思ったこともない。誰かが作ったもっともらしい嘘を、いつの間にか自分でも「本当の事」のように感じてしまっていただけのことだ。その方が、ある意味で楽だったから。
 その時の事──
「結婚…」
「ん?」
 ぽつりと呟いた父の言葉を、遙は聞き返した。
 村上は小さく、言う。感心なさそうに、ちょっとした、世間話のひとつのように。もちろん、その恥ずかしさを隠すために。
「結婚を申し込んだ…プロポーズしたのも、イヴの夜だったんだなって、ふと思い出しただけだ」
 なに言ってんだろ…と、遙は父の言葉に二、三度瞬きを繰り返した。けど、ちょっと考えてみて、わかった。
「え…」
 聞き返そうとしたけれど、自分と視線を合わせようとしない父の、その少し恥ずかしそうな表情に、遙の質問は意味を持たない物に変わっていった。
 聞き返すこともない。その意味、彼女自身でわかったし、それどころか、何となくこっちが恥ずかしくなってきちゃって、
「なにのろけてんの、もぅ!」
 と、肘で父の脇腹をえいえいと突っついたのであった。
 思わず勢いで言いそうになった、「そう言うことは、もっと早く教えてよね」と言う文句を、すんでの所でなんとか飲み込み──そうなんだ。──と、恥ずかしげにうつむいてシャンペングラスを握り直す。
 遙は自然と弛んでしまう口元をごまかし切れず、
「ばか」
 なんて、うつむいたまま小さく親に向かって言い、彼の脇腹を再びつついた。
 父、村上 俊平は、ただ何も言わず、ぽりぽりと顎を掻いていた。
 大きく息を吸い込む遙。ゆっくりと、微笑む。
 遙はこの時、自分にとって──もちろん他人にとっても──聖夜という夜は、本当に特別な夜なんだなと、改めて思ったのだった。(注*25)


 もう九時半か…
 一也は読んでいた本から顔をあげると、机の上に置いてある猫の時計に視線を走らせた。
「そろそろ…かな?」
 と、椅子から立ち上がり、コートと、今日もらった例のマフラーを首に巻いて、
「じゃ、ウィッチ。僕はちょっと出かけるからね」
 リビングの方、多分この時間ならもう眠っているのであろうウィッチに向かって、そう一言声をかけてから、玄関を出た。
「う…寒」
 きんと底冷えする空気の中、聖夜の空には、いくつもの星が輝いていた。


 一也が家を出てから、十分もしないうち、
「…遙お嬢様」
 こちらのクリスマスパーティの会場では、遙が父の第一秘書である美しい女性に、小さく声をかけられていた。
「なんですか?それと、その呼び方は止めて下さい」
「失礼しました。その…ご報告が」
「報告?」
 何となく、嫌な予感がした。いや、正確には嫌な予感と言うより、初めから「起こるだろうな」と思っていたことなので、今更嫌と言うほどのことでもなかったのだけれど。
「防衛庁別室から…」
「エネミーですね。降下地点は?出撃準備の方は?」
「それがその…」
「トラブルはいつものことです。状況を」
「はい」
 遙が彼女に聞いていると、「どうした?」と父、村上もやって来る。
「エネミーか?」
「はい。防衛庁別室から、Necに出撃命令が出たのですが、その…」
 秘書の彼女は言いにくそうに、
「本部に、責任者が誰もいないらしくて」
 困り果てたという表情で、言った。
 一方、
「そんなこと、大したことじゃないです」
 と、遙の方は慣れたもの。その程度のことで困っているようでは、あそこではやっていけないのである。遙は冷静に、続けた。
「一也との連絡は?」
「家には、いないようで…ポケットベルで呼出しを続けていますけれど…」
「あー…一也、せっかくのトコだったら、可愛そうに」
「遙、お前の言おうとするところの意味は分かるが、あまりパパとしてはそのようなことを言って欲しく無い」
「子供は、親の知らないトコでいつの間にか大人になってくモノ」
「ちょっ…待て遙!お前まさか!?」
「で。教授や他の人は?」
「遙!?話を変えるな!!」
「今はそんなことよりエネミー。その話は、また今度ね」
「遙っ!!」
 ああ…ごめんなさいパパ。私、実はふしだらな娘なんですぅ。(注*26)
「で?」
 と、遙は秘書の彼女に聞く。
「あ…はい。どうもみなさん出かけたきり、まだ戻ってきていないようでして…」
 出かけた?みんな?香奈さんとシゲさんはわかるけど、教授も明美さんも?
 あー…まぁ、今日はクリスマスイヴなんだし…わからないでもないけどさぁ…
「ああ…じゃあ、せっかくですから呼び戻すことはないです」
 遙はため息混じりに、ぽつりと呟いた。
「お楽しみのトコだったら、悪いですから…今日だけは特別です」
「遙…だから、そう言うことは思うだけにして、口に出さないようにしなさい」
 父の願いは、遙の耳には届かない。
「はぁ…でも、大丈夫ですか?」
 秘書の彼女は、眉を寄せて遙に聞いた。
「何とかなります。と言うか、します。車を一台用意して下さい」
「わかりました」
 うなずき、小走りにパーティー会場を抜け出す秘書の背中を見送ってから、ぽんと手を打つ遙。すうと大きく息を吸い込んで、言う。
「と、言うわけで、私は本部に行かなきゃならなくなっちゃった」
「ああ。相変わらず、ドタバタしてるな」
「しなくなったら、終わり。そういう人間の集まりなんだから」
「一也君は、大丈夫か?」
「大丈夫。あいつ、こうなることどこかでわかってたみたいだから。今頃、もう本部に向かって自転車こいでるわよ」
「そうか」
「じゃ、行くね」
 遙はにこりと笑っていた。実に、楽しそうに。
 パーティーは、これからだとでも言わんばかりに。


 携帯電話が鳴った。
 運転中の電話は、事故を起こす危険性が──なんて、そんなこと言ってられない。
「もしもし?」
 と、遙は左手でハンドルを握ったまま、初めから右手に持っていた携帯に出た。絶対にかかってくると、わかっていたからである。
『今、どこ?』
 電話の向こうの相手は、いきなりに聞く。
「ホテル──のベッドの中」
 なんて、躊躇なく遙が返すと、
『あれ?イヴの夜に一人だから、もうふて寝しちゃうんだ』
 電話の向こうの一也は、笑いもせずに一言を言った。
『じゃ、いいや。おやすみ』
「嘘だってば」
『わかってるよ』
「今、車の中。そっちに向かってる。状況は?」
『作戦本部には誰もいない』
 と、一也は自分が電話をかけている場所、作戦本部室を見回した。がらんとして、ストーブの火も入っていないので、コートも脱げないほど寒い。
「それはもう知ってる。R‐1の方は?」
『出られそう。シゲさんがイザという時のために、手はずを整えておいてくれたから』
「シゲさんも、ヤキがまわったわねぇ」
 小さくため息を吐き出す遙。
「クリスマスイヴの夜なんだから、『イザ』という時と重なることくらい、わかりそうなものだけど」
『そう言うことを言うなよ。シゲさんだって、ベルさんと初めてのクリスマスなんだからさ』
「ま。そうだけど──と。ところで、一也君の方は──」
『電話代がもったいない。切るよ』
「あっ!何よっ!!ちょっ──」
 遙の言葉が続いていたけれど、一也はぶちっと電話を切った。どうせ、もう大したことは言わないだろうし、あんまり変なことをしゃべって、自分で墓穴を掘るのもバカだし。
 受話器を置いて、一也は作戦本部室を出た。
「おやっさん!」
 階下のハンガーに向かって叫ぶ一也。作戦本部室前の廊下から身を乗り出して、
「R‐1のしゅつげ──」
 と、叫び続けようとした言葉を、そこで途切れさせた。
「こらぁっ!!なんで切るんだっ!!」
 階下のハンガーに、両腕を振り上げて怒鳴りながら、遙が姿を現したのである。
「お早いお着きで…」
 ぽつりと、一也は呟いた。


 いつもの即席会議室──要するにホワイトボード前で、腰に手を当てた遙が言う。
「エネミーは現在、東京湾を北西方向に向かって進行中。すばらしいことに──」
 遙は手にしていたA4サイズの報告書と、ホワイトボードに貼られた地図の二つを確認して、笑った。
「すばらしいことに、このまま真っ直ぐ行ってくれると、お台場あたりのカップル連中を次々と踏みつぶしてくれる、正義の使徒となる!」
 おおっと、整備員達が吼えた。一也、仕方なく苦笑い。
「あのぅ…遙?」
「なにか?」
「『なにか?』じゃなくて…」
 一也の意見は、笑いながら首を傾げる遙のその表情に、意味を失った。
「ま。私としてはそう言う連中がいくら踏みつぶされても、まったく困りはしないんだけど──(注*27)」
 一也の周りで、遙の言葉に大きくうなずいて同意する整備員。こ…この人達は…
「ところが、そう言うわけにもいかないのが、我々のお仕事!『このクリスマスイヴの夜に、なんで仕事なんかしなきゃいけないの!』とか思うかも知れないけれど、ここはひとつ、ぱあっと派手にやって、楽しいイヴを過ごす人達を、いろいろな意味でもりあげてあげようじゃないの!!」
 吼えた。整備員、その全員が遙の言葉に。ハンガーの空気を揺らし、恐ろしいまでの結束力。こっ…これが遙流人心掌握術!?
 一也はただただ、敬服するばかりであった。
「さぁっ!パーティーはこれからだッ!!」
 遙の言葉に、整備員達の怒号とも言える返事、そしてR‐1出撃の警報音が続いた。


 お台場潮風公園あたりで愛を囁き合っていた──ついでに、暗がりの辺りでは、身を寄せあってもぞもぞと動いていたりする奴らとかもいるが──カップル達は、徐々に近づいてきて、頭上でホバリングを始めた巨大なヘリコプターのローター音に、その顔をあげて思い切りしかめさせた。
 ムードもクソも、あったもんじゃねぇだろうと言わんばかりの表情で。
「Ladies and Gentlemen♪」
 と、そのヘリコプターの中の遙。パーティー会場からそのまま直行したので、ちょっと貞淑に見えなくもないドレスに身を包んだまま、インカムに向かって言う。(注*28)
「たいへん長らくお待たせしました」
 微笑みながら、小さな管制用モニターに眼下の潮風公園を見る。パーティーのメインイベントが、今まさに始まろうとしているのである。
「サンタさんから、恋人達への愛の贈物だよん♪」
『どこが…』
 インカムから、一也のため息混じり声が返って来る。
『こんな贈物するんじゃ、よほどサンタクロースもひがんでるんだな』
「一也と一緒で」
『なんでだよ!』
 本気で怒鳴る一也の声に顔をしかめさせ、
「では、こちらの準備もいいようなので、そろそろあちらさんにも登場してもらいましょう♪」
 遙がぱちんと指を鳴らすと、ヘリコプターを操縦していた操縦士が、副操縦士と目配せをしあってから、スイッチパネルの中のスイッチを立て続けに3つ、押した。
 ばん、と、巨大なヘリコプターの下部に取り付けられた、これまた巨大なライトが漆黒の海を照らし出す。
 潮風公園にいた若い男女達、皆が息をのんだ。まさか…である。よりにもよって、今日みたいな日に、こんな所でやらなくたっていいじゃないか。頼む…嘘であってくれ…
 だがしかし、約九八パーセントの男女達が望んだことは、残念ながら、「聖夜」と言う夜であっても、神様の耳に届くことはなかったのであった。(注*29)
「さあ、『悪役』の登場です♪」
 悪魔の微笑みを浮かべ、遙が言う。
 強烈な光に照らし出された海面が、ゆっくりとせりあがる。
 漆黒の色をした東京の海を割り、エネミーがその姿を現した。
「一也!いけるわね!?」
 遙が叫ぶ。
「ダメって言っても、ダメなんでしょ?」
 笑いながら、一也も返す。
「わかってるじゃないの」
「つきあい長いもん。嫌でもね」
「んじゃ──♪」
 インカムに向かって、楽しそうに言う遙。膝の上に置いたノートパソコンのモニターに映る情報を確認してから、
「R‐1、降下!」
 勢いよく、『Enter』キーを叩いた。


 悲鳴。そして逃げ出す若者達。
 その若者達に襲い来る、巨大な波。ま。2、30人飲み込まれたとしても、この程度の大波では、人間、死にゃあしないので問題ないと、遙は口を軽く曲げたまま眼下の光景を眺めていた。
 着水したR‐1。そのアクチュエーターが高鳴る。
 潮風公園の眼前の海に、巨大な二体の巨人が今、対峙した。
「一也。これが終わったら、お台場あたりでデートしよっか?ま、お台場のデートスポットが、まだ残ってればの話だけど」
「エネミーを埠頭の方へ誘導する。二度も、同じ場所で戦ってものを壊さないよ」
「なぁんだ。じゃ、お台場は残るのか」
「…壊して欲しかったわけ?」
「別に。私、そんなにひがむような人間じゃないもん」
「嘘つけ」
 ぴぽっと、一也の耳元で鳴る電子音。モニターの向こうを見て、一也はマニュピレーションレバーを握り直した。
「来るわよ」
「わかってるって」
 モニターの向こうで、甲殻虫のようなエネミーの顎が、なにかの感触を確かめるように動いた。そして、そのエネミーはR‐1に向かって、すさまじい速さで襲いかかった。
「!!」
 左手のシールドをかざし、防御姿勢をとるR‐1。そのシールドに、体当たりをかますエネミー。バランスを崩したR‐1は、そのまま足をもつれさせて倒れ、潮風公園の上へ。つまり、潮風公園はR‐1の重みによって海へと沈んでいったのであった。
「埠頭の方へ誘導するって…」
「予想外に動きが早かったんだよ!」
「二度もお台場は壊さないって…」
「しょうがないだろっ!!(注*30)」
 立ち上がりながら、ちょっと泣きそうな声で言う一也。R‐1の両肩に装備されたツインピコランチャーが、威嚇の射撃を行う。
「予想できたことだけど…」
 と、遙。
「わかってるってば!」
「このエネミーにも、『超硬化薄膜』があるから(注*31)」
 エネミーの身体を包む薄膜の界面に、ビーム光が拡散する。一也はちっと舌を打ち、
「だったら、壊すまでだろ!」
 左手に装備されたシールドを薙ぎ、エネミーの巨体を打った。
 ダメージは超硬化薄膜のせいで受けなくとも、さすがにエネミーも衝撃には絶えきれない。ぐらりと揺らぎ、海に巨大な水柱を立ちのぼらせて倒れこむ。
「誘導する!」
 威嚇射撃でビームライフルを撃ちながら、後退するR‐1。高エネルギーのビームが海面を撃つたび、厚い水蒸気の雲が立ちこめた。
「奴が次に襲いかかってきたとき、ケリをつける!」
 インカムに向かって一也は叫んだけれど、自分の膝の上のパソコンモニターをじっと見つめたままの遙の耳には、その言葉は届かなかった。
「埠頭の方は…随分、ひらけてるのね」
 後退するR‐1の行き先をモニターに見、小さく呟く遙。
 浮かび出た作戦を決定するのに、1秒とかからなかった。
「一也?」
 インカムに手をかけ、遙は言う。
 クライマックスの演出は、今、まさに決まったのであった。
「…え?」
 一也は、遙の『作戦』と呼べない作戦に、凍り付いたのだけれど。


「ダメだって!そんなこと!!」
 一也は、スタンバイモードに入って光量を落としたモニターに、薄暗くなったコックピットで悲鳴じみた声で叫んだ。
「そうは言っても、R‐1のコントロールはもうこっちが奪っちゃってるし、エネミー君もR‐1を探して、私たちのヘリコプターを追いかけて接近中だし♪」
 一方の遙は、実に楽しそう。
「遙!?これがどれだけの威力があるか、十分知ってるでしょ!?」
「うん。だから、クライマックスには、持ってこいじゃない」
「そう言う問題じゃないだろ!」
「でも、もう『最終安全装置』ははずしちゃったから」
 笑いながら、遙は眼下を見下ろす。R‐1がいるはずの地点に、徐々に接近していくエネミー。その巨体を支える足下に立ちこめている、深い靄にも気づかずに。
「もう残された選択肢は、『撃つ』しかないのよ♪」
 遙の声に、電子音が重なった。コックピットの一也は、その電子音に、顔を引きつらせることしか出来なかった。ちらりとエネルギーゲージを確認すると、赤く点滅したゲージは『MAX』と、その横にある数値は、デジタルの数値の8がいくつも並んで、しっかり点滅していた。
「…終わった」
 ぽつりと呟く一也。
 それはまぁ、いろいろな意味でである。
「一也。エネミー、接触まで後5」
「わかったよ!やるよ!撃てばいいんだろッ!!」
 悲鳴じみた声──実際悲鳴──で、一也は叫んだ。
 R‐1のFCSが、エネミーを確かに捕らえた。


 エネミーがR‐1を探し、埠頭の上──青梅流通センター前の、一段海面よりも高くなった所──に登ったとき、厚い靄の包む眼前の海面を割って、二本の翼が天をさした。
「どうなったって、僕は知らないからなっ!!」
 一也の無責任な叫びが響く。いや、正確には、遙がこうすることに決めたのだから、彼に責任はないのだが。
 海中より、上半身を起こしたR‐1。右脇の下からせり出した巨大なランチャーは、正式名称『超伝導動力転換炉内蔵立体光学式外部火気官制自動追尾高速導入測距儀搭載型二連高速粒子加速方式分解砲』、通称『ツイン・テラ・ランチャー』である。(注*32)要するに、この地球を破壊することすらも可能な、無敵の超破壊兵器だ。
「こんのやろぉッ!!」
 歯を食いしばり、顎を引き、モニターの向こうを睨みつける一也。個人的な恨みはないけれど、一也は思い切り、トリガーを引き絞った。
 ツイン・テラ・ランチャーの連なる2つの銃口から、強烈な閃光が生み出される。闇を裂き、天を撃つ閃光に飲み込まれるエネミー。原子の塵へと変換され、光の中で消滅する。
 光、そしてそれに続く音。
 高エネルギーの閃光は、空気を一瞬のうちに膨張させ、それを音へと変換させた。雷鳴のような爆音を生み、海面を駆け抜ける。音の駆け抜けた後の海面には、ただ、ゆっくりと蒸気が立ちのぼるばかりだった。
 白い、靄のヴェールがR‐1を包み込む。
 ゆっくりと夜空に吸い込まれ、かき消えていく爆音。
 閃光が駆け抜けた後には、静寂以外のなにものも、そこには残っていなかった。


「一也?」
 遙の声が、インカムから届く。
「ん?」
 一也が喉を鳴らして答えると、ツインテラランチャーを撃ったために停止していたR‐1が再起動し、モニターが通常に光が戻った。
「どうしたの?」
 と、呟く一也。
 その眼前のモニター、ゆっくりとはれていく靄の向こうに、星のちりばめられた夜空がそっと姿を現した。
 星?東京で、こんなに星が見えるはずがないじゃないか…
 一也は、その夜空に輝く星のようなものを見つめて、思わず息をのんだ。
「クリスマスパーティーのクライマックスには、最高の演出じゃないの♪」
 と、満足そうな遙の声。
 一也はただ、息を飲む事しかできなかった。
 聖夜の夜空に、光の粒子が舞っていた。ちらちらと降る、雪のように。実際、その正体はツイン・テラ・ランチャーの高エネルギーに発光する、空気中の塵であったのだけれど、
「キレイなもんじゃない」
 遙の言うように、それは聖夜という名の夜にふさわしく、美しく夜空を彩っていたのであった。
「偶然の産物って凄いなぁ…」
 と、ぽつりと一也。
「なんだって?」
 遙は顔をしかめさせて、インカムに向かって文句を言った。
 弱く輝き、降り続ける光の雪は、聖夜という名の東京の街を、そっと包み込んでいた。


「あ。もう、じきに0時になるんだ」
 お台場海浜公園のボードウォークを、レインボーブリッジを眺めながら、一也と遙は歩いていた。
 静かなものである。
 イヴに夜だというのに、ここには二人以外に誰もいない。
 それもそうだろう。すぐ近くでR‐1とエネミーの戦闘があった後なのだし、今でもまだそこでは、警察が事後処理をしている最中なのだから。
「寒いんじゃない?」
 と、一也。別に、気を利かせて言ったわけではなく、本当に見ていて寒そうだったのである。何しろ、遙はまだパーティードレス姿のままなのだ。
「ちょっとね」
 遙は弱く微笑んで言う。
「暖めてくれる?」
「い・や・だ」
「きっぱり言うな」
 一也の頭を、軽くパンチする遙。その時に、ふと、驚いたように目を瞬かせた。
「あれ?」
 と、少し首を傾げる。
「なに?」
「ちょっと一也、まっすぐ立って」
 一也の手を取り、立ち止まらせる遙。
「ん?」
 言われるまま、一也は立ち止まって背筋を伸ばした。その一也の背中に、寄りかかるように遙がへばりついて自分も背筋を伸ばす。
「あ…」
 ショックというように、小さく呟く遙。
「いつの間にか、抜かれてる…」
 背中をぴたりとくっつけあって立つ二人。ちょっと前までは、遙の方が大きくて──いや、それでもほとんど変わらなかったのだけれど──それがいつの間にか、一也の方がちょっとだけ大きくなっている。
「あんた、シークレットブーツとか、履いてるでしょ?」
「履いてないよ。adidasのEQTが、シークレットブーツだって言うんなら、話は別だけどさ。でも──(注*33)」
 ちらりと足下に視線を走らせて、
「大体、遙ヒール履いてるじゃないか」
 と、ぽつり。だけれど、言葉は遙の胸にざくり。
「じゃあナニ?あんた、もしかしてもっと大きいの?」
「まぁ…素足になんないとわからないけど、遙よりはもう4、5センチは…」
「うそぉ!なんで私が一也なんかに抜かれちゃうの!?信じられない!!」
「僕は、これでも男の子だぞ。──どうでもいいけど、いい加減、手、離せよ」
「いいじゃん別に」
 さっき、一也を立ち止まらせたときのまま、遙はずっと一也の手を握っていたのである。
「暖かいんだもん」
 と、いう理由で。
「ねえ、一也知ってる?」
「知らない」
 素っ気ない一也の背中に、遙は自分の身を押しつけた。ついでに、軽く頭で彼の頭をこづく。
「いたっ」
「知らないなら教えてあげよう。手の冷たい人って、心が暖かいんだって」
 一瞬、一也に考えるような沈黙があった。
「…遙、今僕の手が暖かいって言ったよな?」
「うん。言った。だから、逆は逆なのかなって思ったんだよ」
「離せっ」
 と、一也は遙の手を振り解く。
「ああっ!ほら冷たい!!」
「余計なお世話だ」
 つんと口を尖らせて、歩き出す一也。遙はその背中に向かって、一瞬だけ悪戯っぽく微笑んで、だけれど、すぐに物憂げな少女の瞳を演じて、
「一也。私、本気で寒い」
 と、小さく呟いて、自分の肩を抱いたりなんかしちゃったりして。
 一也は立ち止まって、肩越しに振り向いた。もちろん、演技だとはわかっているのだけれど──いや、でも本当にパーティードレスじゃ寒そうだし──なんだかんだといろいろ考えても結局は、
「はぁ…」
 と、白いため息を吐き出して、
「わかったよ。ほら」
 自分が着ていたコートを脱いで、遙に渡してしまうのであった。ああ…なんでだろ…
「さんきゅ♪これでわかったね、手の温かい人にも、心の温かい人はいるんだ」
「そうね。手の冷たい人にも、心の冷たい人がいるのと一緒で」
「どういう意味?」
「そのまんまだよ」
 真顔で言って、一瞬にやりと笑ってから、一也はすぐさま逃げ出した。後ろから、遙が手を振り上げて追いかけてくる。ま、もちろん彼女は慣れないハイヒールなんて履いているので、どんなに頑張っても追いつけやしないのだけれど。
 ちょっとだけ走って、遙はすぐにあきらめた。体力の無駄だと、悟ったのである。
 弾む息を軽く整え、ボードウォークに腰を下ろす遙。吐き出された白い息が闇に踊り、漆黒の静かな海の向こうに輝く、赤や黄色のイルミネーションを滲ませた。
 寄せる波音の合間に響く足音。一也の足音。ゆっくりと、遙の方へと戻ってくる。
「もうじき、日が変わるよ」
 と、一也は自分の腕に巻かれている時計を見ながら言った。
「…そう」
「後1分で、12月25日になる」
「ふーん…」
 遙は、ただ喉をならすだけで答えて、じっと、寄せる波の向こうに輝く虹色の橋を眺めていた。
 一瞬だけその遙に視線を走らせ、
「遙、今度18になるんだよね?」
 ぽつりと一言を呟く一也。
 腕の時計を見つめたままで言う一也の言葉に、遙は顔をあげて彼のことを見た。
「あ…あれ?」
 と、目を丸くして言う。
「私、一也に私の誕生日のこと、話したっけ?」
「してないと思うよ」
 一也の方は、腕時計を見つめたままで、遙と視線を合わせようとはしない。
「けど、佐藤先輩とかにはしゃべったでしょ?一度聞けば、クリスマスが誕生日の人なんて、普通は忘れないよ」
 一也は笑った。
 一瞬の沈黙の後──
「時間だ」
 長針と短針と秒針の、すべてが重なった瞬間に、
「誕生日、おめでとう」
 一也はそう言って、ちょっと照れくさそうに、鼻の頭を掻きながら歩き出した。
「でも、もちろんそれだけだけど」
 ボードウォークに、一也の足音が響く。
「ばか」
 小さく、一言を返して遙も立ち上がった。
「18歳なんて、全然嬉しくないもん。ずっと、17歳の方がよかったんだから」
「はいはい。そうだね」
「一也だって、17になればわかるよ。あーあ、私の青春の1ページが、今日も無駄に使われていく」
「はいはい…」
 興味なさそうに呟いて先を行く一也の背中を眺めながら、遙は軽く口を曲げて呟いた。
「あーあ。結局、今年のイヴも何事もなく終わっちゃったかぁ」
 ふぅとため息を吐く遙。夜空に溶ける白い息に、情けなく笑いかける。
「別に、それでもいいじゃない」
 一也も夜空をひょいと見上げて、呟いた。
「聖夜という名の、いつもの夜だと思えば」
 二人、立ち止まったまま、落ちてきそうな聖夜の星空を、しばらくじっと見つめていた。
「ねぇ一也?」
 ぽそりと、遙が呟く。
「ん?」
 喉を鳴らして返す一也。
「さっきから気になってたんだけど…」
「なにが?」
「そのマフラー、今朝までは持ってなかったよね?」
「──気のせいだよ」


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