studio Odyssey


H.S.G.F Milky's - 02:But Tomorrow - A


「ねぇ、美鈴、聞いてる?」
「え?」
 呼ばれて、私ははっとなった。
「あ…うん」
 返事を返す。
「…ごめん」
「これだからー」
 と、彼女は楽しそうに私の答えに笑った。
 高校に入って初めて出来た友達、高橋さん。高橋美智子さん。たまたま席が私の前で、入学式の日に、私に話しかけてきてくれたんだった。
 私は高見。高見美鈴。
 この春に高校に入学した、新一年生。毎日新しい刺激のある生活を続けている、十五歳。
「五月病ってあるじゃん」
 と、高橋さんは別に子に向かって言う。
 学校帰り、ファーストフードのお店に寄り道。
 高校に入るまでは、そんな事したこともなかったんだけど、高橋さんに連れられて、制服のままファーストフードのお店に入ったのは、彼女と出会って、二週間もしない内だった。
「ええっ!?なにそれ!じゃあ、美鈴もしかしてプリクラとか撮ったことない?」
 その時、高橋さんは目を丸くして言ったんだった。
 もちろん私はその時、
「え…うん」
 と、頷き――数分後には、初めて入ったゲームセンターで、プリクラを撮っている私が彼女の隣にいたんだった。
「もー、美鈴はなんにも知らないんだからなぁ」
 知り合ってから、高橋さんのこの台詞を何度聞いたかわからない。彼女といると、新しい刺激がたくさんで、私はいつもどきどきしているんだった。
「五月病?ミチコ?」
 と、高橋さんの中学時代からの友達という、北条さんが言う。
「ゴールデンウィークに遊びすぎた。もー、学校行きたくなくって」
「つまんないもんねー学校。高見ちゃんは?学校楽しいと思う?」
「え?」
 突然の北条さんの台詞に、驚く私。それに高橋さんが続く。
「ねぇ、美鈴、聞いてる?――ってさっき言ったの」
「え…あ…」
 答えにつまっていると、高橋さんはその間を埋めるかのようにして、
「もー。正面切って言っても、これだからー」
 なんて言って、笑ったんだった。
 テーブルを囲んでいたみんなも、楽しそうに笑う。
「ちょっとずれてるトコが、美鈴のタイミング」
 と、北条さん。
 こういう時、私はただ笑ってる。何か言うよりも、こうして笑ってみんなの顔を見て、話を聞いてる方が面白いから。
 それに、何も言わなくても、その方が会話も弾むみたいだった。
「五月病、五月病。もぅ、学校つまんない。行きたくない」
「ねー、勉強はつまんないよねー。高校入ったら、なんか面白いことあるかと思ってたのに。なんもないもんね」
「男少ないし?」
「そう。んで、そういうときに限って、高見ちゃんみたいのがモテたりすんだよ」
「それで意外と一番早かったりすんだよねー」
「え…?」
 なにが?
 首を傾げる私に、みんな笑う。
「あー、つまんない。明日も学校行かなきゃならないんだよー。小テストあるのにー」
「いっそ、学校壊しちゃう?」
「いいねぇ〜」
 そんなことを言って、高橋さん達は楽しそうに笑っていた。








 第二話 『But Tomorrow』

       1

「ただいま」
 と、勝手口から家に入る私。
 勝手口から入ったからと言って、別に玄関から入れない訳があるわけじゃ――ないと思う。…そりゃ、ここのところ真っ直ぐに家には返っていないけど、門限を破ったことは、まだない。
 勝手口から入った理由は、ひとつ。玄関はお客様が使うから、私たちは使わないと言うだけのこと。
「…ただいま?」
 と、小声に母屋へ続く廊下を覗く。忙しい時間なのか、誰の姿も見えない。
 私の家系は、ここ、京都で古くから旅館を営んでいる。最近は大きなホテルなどに押されてあまり流行っていないようなのだけれど、昔からのお客様などの御贔屓もあって、今もそれなりの繁盛を続けているようだった。最近は――高校受験もあったから――あまり手伝っていないので詳しいことはよくわからないのだけれど。
 母屋とは反対に続く廊下。こちら側は建て増しした私たち家族の家になっている。小学校低学年くらいの時に建て増ししたものなのだけれど、一人っ子の私のために両親は部屋を作ってくれて、当時はそれを喜んでいたような気もするけれど――
 階段を上がり、二階の自分の部屋へと急ぐ。
「ただいま」
 と、もう一度言ってしまいながら、部屋のドアを開ける私。真っ直ぐ目の前にある窓から、小さい頃、なんて大きいんだろうと思っていた桜の木の葉が、沈む夕日に輝いて見えた。
 鞄を机の上にそっと置き、私は窓を開けた。柔らかな風が、髪を撫でていく。
 その風に小さくため息を吐き出して、私はベッドの上にすとんと腰を下ろした。
 制服のままだったけれど、スカートに皺がついちゃうかなとは思ったけれど、私は、そっと肩の力を抜いて、そのまま、風を感じてじっとしていた。
 夕日に光る木の葉の香りを、柔らかな風の中に探していた。
 きっと、高橋さん達はこんなことしている私を見たら、「やっぱり美鈴ってわかんないわ」と言うと思う。
 けど、やっぱりみんなと一緒に遊んでいるのも好きなのだけれど、こうして、じっとしているのも私は好きだった。
 窓の向こう、新入学の頃には咲いていた桜も、今はもうその花を散らしている。
 まだそれほどの時間がたった訳じゃないのに、私と同じで、ずいぶんとそこの景色も変わったのかも知れない。
 良く?――それとも悪く?


 着替えよう。
 私は立ち上がって、クローゼットに向かって歩いていった。
「美鈴?帰ってるの?」
 と、ドアを叩く音と、母の声。
「あ…うん。開いてるよ」
 もともと、部屋の鍵なんてかけたこともないのだけれど。
「帰ってきたら、『ただいま』くらい言いなさい」
 そう言いながらお母さんはドアを開け、私の部屋へと入ってきた。言ったんだけどな…けど、きっと聞こえなかったんだろう。元々、 あまり声が大きな方でもないし。
 お母さんは私の部屋に入ってくると、ちらりと部屋中に視線を走らせて、
「いま帰ってきたの?」
「ん…ちょっと前」
 少し、嫌みな言い方をして言った。
 その瞬間に、あ、嫌だな、と思った。
「美鈴?」
「うん?」
「ここのところ、学校が終わってから真っ直ぐ家に帰っていないみたいだけれど、どうして?」
 と、聞く。高橋さんが言っていた、親に言われて嫌な言葉ベスト5に入る言葉を。
「美鈴。学校が終わってから家に帰るまでの間、何をしているの?」
 なにって…
「うん…別に」
 当たり障りのない答えを返す私。でも、本当に、「別になにも」。友達と一緒にお話ししているだけ。
 ただ、それだけ。でも、
「美鈴」
 お母さんは私の答えに満足しなかったのか、
「あなた、高校に入ってから、ちょっと生活が乱れたのじゃない?」
 そんなことを言って、少し首を傾げた。
「中学の頃は部活をやっていたから、少しくらい帰りが遅くても心配しなかったけど、高校に入って、部活もやっていないのに帰りが遅くなって、一体何をしているの?」
「なに…って言われても」
 別に、なにも…
 それ以外に言いようがなくて、私は言葉を探していた。それに、何かお母さんは確信的なことを隠して、私に物を言っているような気がしていた。
「ねぇ、美鈴?」
 お母さんは言う。
「あなた、高校で変なお友達とつき合ってるのではない?」


「親は絶対そういうコト言うって」
 高橋さんは私の言葉に、いつも通り楽しそうに笑ったのだった。
 一夜明けて、学校。
 結局高橋さんも「学校になんて行きたくない」と言っても、来ている。結局私も、お母さんに「変な友達とつき合うのはやめなさい」と強く言われても、いつも通りの友達と、いつも通りに話してる。
「美鈴ん家って、旅館やってたんだっけ?」
「うん…それほど大きな所ではないけど」
「あれだ。そういうのってローカルネットワーク強いじゃん」
 高橋さんはぽんと手を叩く。
「そのせいだよ、多分。誰かが私たちと美鈴が一緒にいるの見たんだね。それで、変な噂流してるんだ」
「そうかな…?」
「そうだよ」
 笑いながら高橋さんがそう言った時、教室の前のドアがからっと開いて、先生がそこから、いつもの笑い顔を出した。
「お。先生、来たな」
「はーい、席について。授業しますよー」
 そういう本人にあまりやる気が見られなくて、いつも誰かが「先生、やっぱり授業するのやめよう」なんて事を、言う。
 すると決まって、
「でもそういうわけにいかないのが、先生の立場」
 なんて言って先生は笑うのだった。
 理科Tの先生が、つい先週、病気で入院してしまった。高橋さんや私たちは、「これで授業が無くなるんならうれしいんだけど」なんて言って笑いあっていたのだけれど、結局次の週には、この先生が臨時で私たちのクラスの授業を受け持つことになっていたのだった。
「えーと、前回どこまでやったっけ?ニュートンの話はしたっけ?あ、したな。それで脱線して――」
「あの話の続きが聞きたいでーす」
「そうか?たしかニュートンの方程式と、アインシュタインの――あ、ダメだ。また脱線する。次の話に入るぞ」
 と、クラスのみんなと一緒に笑いながら、先生は開いた教科書に折り目をつけた。
 臨時の先生。
 いつもネクタイにスーツ姿の、先生の中でも綺麗でさっぱりとした感じの人。高橋さん達なんかはとてもこの先生が気に入っていて、結構親しくしている。昼休みや放課後には職員室に行ったりして、授業とは全く関係のない話で盛り上がったりするのだった。
 私はと言うと――
 いつも高橋さん達と一緒に職員室に行ったりするのに、一度も話したことがない。
 ただ、授業中と同じで、黙って見ているだけ。
「美鈴、職員室行こう」
 高橋さんが誘う。
「今日の先生のネクタイ見た?ウッドストックのやつ。結構可愛かったよね。あれ、絶対女の人からもらったんだよ。聞きに行こう」
 と。
「え…うん」
 私は鞄に教科書を詰める手を止め、返した。
 放課後。高橋さんの帰る準備は早い。机の脇にかけてある鞄を、手に取るだけだから。
 私はと言うと、ちゃんと毎日教科書を持って帰っていて――別に、家でそれを見るわけでもないのだけれど、慣習的に――いつも、鞄が高橋さん達の物よりも重いのだった。
「美鈴、いこ」
「うん」
「放課後になると元気になる」と言う高橋さんの後ろに、鞄を手に続く私。
 帰る人の波をぬって、職員室へ向かう。
 その途中で、他のクラスの子に引き止められて話す、先生の姿を見つけたんだった。
「先生」
 丁度その子との話が終わった先生を、高橋さんが呼び止める。
「ああ、高橋高見の、ギャップコンビか」
 先生は高橋さんの声に振り向いて笑った。
「ひどいなー。それって、なんか私が美鈴と比べて見劣りしてるみたい」
「ギャップって言っただけだろう。そんな風には言ってないじゃないか」
 先生の脇に並ぶ高橋さん。私はその、斜め後ろについて歩く。
 先生と高橋さんは、例の「ウッドストックのネクタイ」について、話しているようだった。
 私はと言うと、いつも通り、二人の話を聞いて笑っている。
 ただ、それだけだった。
 私たちは、そのまま職員室に入っていった。
 先生と高橋さんは、相変わらず楽しい話を続けている。私もその話を聞きながら笑っていたのだけれど、
「あ、高見。丁度良かった。ちょっと…」
 職員室に入るなりかけられた声に、ふと立ち止まった。
 視線を走らせると、担任の永橋先生が手招きしている。
「はい?」
 なんだろうと、私は永橋先生の方に歩み寄っていった。高橋さんに一言言おうとしたのだけれど、先生と高橋さんは私のことに気づかなかったように、とことこと先に行ってしまっていた。
 でも、先生の席はわかるし――と、永橋先生に視線を返す。
「なんでしょうか」
 永橋先生は、
「ああ…」
 と、小さく咳払いをすると、職員室の奥の方へと歩いていった高橋さんを認めてから、言った。
「その、なんだ。高見は見たところ周りに流されやすそうな感じだからな。あまりよくない友達とつき合って、それに流されないようにしろよ。――ってな」
「はぁ…」
 先生の言いたいことはわかっていたのだけれど、私は、気のない返事を返していた。
 どうしてみんな、そういうことを言うんだろう――と思いながら。









       2

 帰り道。
 久しぶりに本屋に寄ってみた。
 買いたい文庫本があったのだけれど、あいにくこのお店にはなくて、私は手持ちぶさたに、うろうろとしていたのだった。
 何も買わないで出てもよかったのだけれど、少し、長居をしすぎて――
 ふと、足を止めたところ。ファッション紙が山と積まれた、雑誌のスペース。
 高橋さん達は、こういう雑誌をよく買っているみたいだった。みんなで見て、この服がほしいとか、鞄がほしいとかと、よく話題にする。
 私はと言うと、みんなには「ときどき読むよ」とは言うけれど、買ったことはなかった。それに、その「ときどき」と言うのも、中学の頃からずっと一緒で、誰かが買ってきたものをちらっと見る程度で――でもそんなこと言ったら、また高橋さんの「やっぱ美鈴って――」を聞くことになるんだろうな。
 そうっと、雑誌に手を伸ばしてみる。本当に同じ高校生なのかな、この人?と思ってしまうような、小麦色の肌をした女の子達が、楽しそうに笑っている表紙。
 タイトルを見てみると、高橋さん達がよく買っている本みたいだった。
 ぺらり、とページをめくってみる。
 新しい雑誌特有の、印刷の臭いがちょっとする。あまり好きな臭いではないのだけれど――面白そうな記事を探して、私はページをぺらぺらとめくっていった。
 とは言っても、一ページに詰め込まれた情報量の大きさに、目が回りそうだったのたけれど。
「へぇ、高見くんも、やっぱりそういう雑誌を読むんだ」
 突然かけられた声に、どきっと心臓が大きく鳴った。
 視線を走らせると、私の後ろに先生が立っている。
「せ…先生」
「ふーん…靴ね。ビルケンシュトック、ストックマン、ハッシュ・パピー…だめだ、ハッシュしか知らない」
 と、先生は私の手の中の雑誌を見て言う。けど――私はどれも知らない。
「せ…先生、何してらっしゃるんですか?」
 私はそそくさと雑誌を閉じるとなにか、恥ずかしくてそれを積まれた雑誌の上に戻した。
「本を買いに」
 先生はそう言って、私の脇からひょいと手を伸ばす。背の高い先生の顔が、私のすぐ目の前に来てしまった。――と、先生は伸ばした手で私の戻した雑誌を、元の位置に、戻す。
「なんか気になって」
 と、先生。私、手に取った雑誌を、違う雑誌の上に置いてしまっていたのだった。急に、凄く恥ずかしさがこみ上げてきてしまい、
「…す、すみません」
 身体を小さくして、謝ってしまっていた。
 帰る方向が一緒だった先生と私は、本屋を出て、歩いていた。
 夕日が、街を赤く染めあげる。
 時々、何故か立ち止まる先生。振り向いて、私と顔を見合わせて、私が立ち止まったまま見返していると、困ったような顔をして、また歩き出す。
 けど、またすぐに立ち止まる。
 なんだろう。
 そうしている内、何度目かに、
「…高見くん」
 咳払いをしてから、先生は言った。
「君はどうして僕の後ろについて歩くの。話しにくいでしょ。横に来ていいから」
「す…すみません。あの…人の後ろについて歩くの、癖で」
 なんだ、だから先生、時々立ち止まって、私が前に来るのを待ってたんだ。でも、私も立ち止まっちゃうから――
 私は小走りに、先生の隣へと歩み寄った。けど、やっぱり本当は、少し斜め後ろ。
「高橋くんとかに、『やっぱり美鈴は変わってる』ってよく言われてるけど、本当だね」
 そんな私に、先生は笑うようにして言う。
「…そ、そうでしょうか」
 普通にしているつもりだけれど…やっぱり、どこかずれているのかな。
「それと、前むいて歩かないと危ないよ」
「は…はい」
 私、どうしてか、いつもうつむいて歩く癖があった。
 このときも下を向いて歩いていて、先生が言ってくれなければ、バス停にぶつかりそうになってしまうところだった。
「うーん…誰かの後ろをついて歩くってのは、ある意味正解かも知れない」
 そう言って、先生は笑った。
 そんなつもりは自分ではないのだけれど、やっぱり私って――
「あの…」
 相変わらず下を向いたままで、言う。
「やっぱり私って、みんなと違うと思いますか?」
「違うかも知れないね」
 はっきりと先生は言った。
「そうですか…」
「でも、違っていて悪いって事はないだろう。それが個性だと思う。もちろん、違いすぎていても、問題はあるし、個性が強すぎても、問題はあるだろうけど」
「そうですか…」
 でも、やっぱり、ちょっと違うのかな。私も、高橋さんみたいに、普通の高校生活を、もっと楽しんだ方がいいのかな。
 確かに、みんなといると楽しい。けど、やっぱり少し疲れちゃうかなと思うときもあって、一人で、風に吹かれている時間がほしくなったり、ただ、流れる時に身を任せているだけでいたかったり思う時も――けど、そう思うこと自体が、変わってるのかな…
 先生と私は、その会話の後、ずっと、話すことなく歩いていた。
 ただ、歩く。
 会話を交わすこともなく、けれど、急ぐでもなく。


「あの…先生も変わってるって、言われますか?」
 私から話しかけていた。
 自分でも、少し驚いた。私から話題を振るなんて。やっぱり私も、少し、変わったのかな…?
「僕が?どうして?」
 先生は首を傾げて目を丸くする。
 ――だって、先生、普段と違って、高橋さん達と話しているときと違って、全然喋らなくて、だけど、つまらなそうにしているわけでもなくて…
「いえ…ごめんなさい」
「なにが?」
 うつむく私に、先生は眉を寄せた。
 そして、尋ねるような視線を私に向ける。
「いえ…いいんです」
 私はうつむいたままで、呟くように言っていた。
「その…私、あまり自分から喋ったりしないから、先生、つまらないかなって」
「高見くんは、楽しい?」
「え…?」
「みんなといて、僕やなんかと、こうして歩いていて。たとえば、何も話していなくても」
「はい」
 はっきりと答えを返している自分がいた。
「じゃあ、いいんじゃないか?」
 先生は笑う。
「今の高校生とかは、正直言って、みんながんばりすぎだと思うよ。もっとゆっくり生きてもいいんじゃないかと思うんだ。たとえば、高見くんみたいに」
 私みたいに?
 でも、日本中の高校生が私みたいになったら、大変なことになっちゃうんじゃないかな。
「高見くん」
 と、先生は立ち止まる。私も、先生の腕にぶつかりそうになってしまいながらも、立ち止まった。
「どうしたんですか?」
「上を向いてみよう」
「上…ですか?」
 と、空を指差す先生に、顔を上げる私。先生も、笑いながら上を向く。別に、そこに何かがあるわけでもなく、ただ、暮れていく夕空があるばかりでときどき、小鳥が家路を急いで飛んでいったりするけれど、ただ、それだけ。
 道行く人が、立ち止まって空を見上げている私と先生を、「なんだ?なんだ?」と言う視線で見て、追い抜いていく。
 けれど――
 暮れていく五月の空は、とても綺麗だった。
「…綺麗ですね」
 呟く私。夕焼けの空を見上げるなんて、ずいぶん久しぶり。
「うん」
 先生は頷いて言う。
「高見くんも、下を見て歩いてばかりじゃいけない。周りの早さにあわせて、歩いているばかりじゃいけない。時には立ち止まって、周りを見回して、空を見上げてみるくらいのゆとりを持っていなくちゃ。いつでも、どんな場所でも」
 そう言いながら、先生は笑っていた。
「急がなくたって、君たちにはまだ時間はたっぷりあるんだから」


「つまんないね、学校」
 いつものファーストフードのお店で、高橋さん達がそんなことを言っていたなんて、その時の私が、知る由もなかった。
「じゃあ、なんで学校になんて行くんですか?」
 と、聞くのは、夕焼けのせいだけというわけでもなく、赤い髪をした女の子。私たちと同じ制服に身を包んではいるけれど、学年を示す校章はつけていなかった。
「なんでってねー」
 高橋さんが笑うようにして言うと、
「高校行かないでふらふらしているわけにも行かないしねぇ。高校行って、高校生してれば、それだけで一応世間的にはオッケーって感じだし?」
 そう北条さんが言い、それに他のみんなも続いた。
「行きゃあ行ったで、みんないるしね」
「遊びに行ってるようなモンだよ。学校なんて。それに、今時高校も出てないようじゃ、働き口もないじゃない。不況だし?」
「別に、働きたくなんて無いんだけどね。今はいいよ、女子高生ってだけで、もてるじゃん。だから、今を生きるってヤツ?今だけだって、こんな風にできんの。やっぱり」
「そうそう。それ真理だよね」
「あー、言えてる言えてる。だってさ――」
 飛び交う会話に、私と同じように、目を回しそうになる赤い髪の女の子。
「つ、つまり――」
 会話を遮るようにして、彼女は言った。
「本当のことを言うと、別に学校なんて、勉強しに行くわけじゃない――と」
「そりゃ、そうでしょ」
「勉強すんのは、留年しないためと、いけりゃー、大学行くため?親もなんか、そのためにお金貯めてるみたいだしさー。なんか、かわいそーじゃん」
「あーそうそう。家も教育ローンとかって言って、お金貯めてるよ。大学なんて、行けないっちゅーの」
「んで、行けなきゃ行けないで、そのお金くれるかって言うと、そうでもないんだよね」
「そうそう!んでさ――」
「あー!じゃ、じゃあ――!」
 またも話に割って入る赤い髪の女の子。流れるような早い会話に、彼女もついていくので必死のようだった。
「もし、この日本から学歴社会という物がなくなったとしたら、それでも、みんなは学校へ行きますか?行きませんか?」
 答えは、即答で返ってきたのだった。
「行かないよー」
「行くわけないじゃん。遊んで暮らす」
「だって、学校つまんないもん。毎日毎日、同じ事の繰り返しだし」
「勉強して、テストして、通知票もらって、それだけじゃん。学歴なんてもんがなきゃ、高校や大学なんて行ったって意味ないもん」
「大体さー、今学校で習ってる事って、実社会でなんの役にも立たないじゃない。物体の落下運動がわかったからって、なんだっちゅーの。二階から目薬指す訳じゃあるまいし」
「そうそう!昔っからの決まり事をさ、覚えてるだけなんだよね。新しい刺激なんて、なんにもないの」
「無くなっちゃったら、面白いと思うけどね」
「あれ――?」
「ん?」
「あの子、どこ行っちゃったの?」
「あれ?」
 次に高橋さん達が彼女の座っていた席を見たときには、もうそこには、誰の姿もなかったのだった。


 次の角でお別れ――と言うところで、先生は不意に立ち止まった。
 私も、また、先生の腕にぶつかりそうになってしまいながら、立ち止まる。
 どうしたのかな?と、先生を見上げる私。けれど先生は、そんな私に気づかずに、真面目な顔で、前方の一点を凝視していたのだった。
 なんだろう――と、先生の視線の先を追う。坂の上、十字路の、丁度真ん中当たりを。
「また会ったな、若造」
 と、先生の視線の先にいたおじいさんが、言った。
「ドクター…」
 呟く先生。
 先生にドクターと呼ばれたその人は、鼻眼鏡をかけ、伸びすぎという感じの眉毛にその目を隠した、とても風変わりなおじいさんだった。
 だから、凄く印象に残っていた。
 …あの方、今家に泊まっていらっしゃる方じゃ――
「ドクター・フューチャ…何故お前がここに…」
「それはこっちの台詞だ。何故お前が、ここにいる?また私の計画を、邪魔するつもりではあるまいな?」
「計画だと!また何か企んでいるの――」
 勢い良く言っていたのに、先生はその途中で、言葉を切った。
 私たちを走って追い越していった、人影に。
 私たちを追い越していった女の子。赤い髪の、私と同じ制服を着た、女の子。
 先生と、そのドクター・フューチャと呼ばれたおじいさんは、言葉を飲んだまま、とことこと小走りに走る、彼女のことを見ていた。
 ふと、
「?」
 その子は二人の視線に気づき、立ち止まって、振り返った。
「あっ!貴方はっ!?」
 目を丸くして驚いて、身を引く女の子。
「何で追い越していって、数歩も行ってから気づくんだっ!!」
 でも、ああいうこと、時々あるから…私は何とも言えない。
「貴方また、フューチャ様の妨害をしようと言うのですね!あっ!今度はその女の子に手を出してですねっ!?」
「人が聞いたら誤解をするような言い方をするんじゃないっ!」
「…似たようなモンだろう」
「黙れドクター・フューチャっ!」
「今度は邪魔させませんよっ!いでよっ、一般戦闘員の――」
「よせ、クラスシックス!」
 なんだろう…なんか、私の知らないところで、どんどん話が進んで言ってるような――でも、先生達の話していること、余りよくわからないし…
「貴重な戦力を、無駄にするな」
 と、ドクター・フューチャと呼ばれたおじいさんは言う。
「はっ」
 赤い髪の女の子は、急にかしこまって、そのおじいさんの脇に立った。すらりとした均整のとれたプロポーションが、その時になって急に、私に妖しい魅力を感じさせたのだった。
「今度は何を企んでいるんだ、ドクター・フューチャ」
 と、先生。
「企むだと?何を…私が常に考えているのは、この国の未来だ。そして、この国の未来のため、若者達の未来のために、今、必要なことをしているだけのことだ」
 軽く笑いながら、ドクター・フューチャは言う。
「今ひとつだけ言えることは、若者達は、今を生きるという言葉の意味を、失いつつあると言うことだけだ。私は、若者達に今を生きると言うことの意味を問う。そして、そのために不必要な物を排除し、その道を示して見せようとしているのだ」
「貴方には、フューチャ様の理想は理解できませんですっ」
 右手をぎゅっと握って、赤い髪の女の子。
「なにを…何が理想だ…」
 歯をかみしめる先生に、
「ふっ…」
 ドクター・フューチャという老人は笑い、くるりときびすを返したのだった。
「では、さらばだ。若造よ」
「待てっ!」
 追う先生。私も、後について走り出す。
 けれど、私達が坂の上の十字路に辿り着いた時には、もうすでに、ドクター・フューチャとあの赤い髪の女の子の姿は消えていたのだった。
「…先生?」
 辺りを見回す先生を見上げて、私は小さく呟いた。
 先生は、ただ眉を寄せて、ドクター・フューチャが消えた道の先を、睨み付けていた。
 何か――胸騒ぎのようなものが、私の胸の中に生まれていた。