studio Odyssey



明日私は月に行く



 私はその日、仕事を定時に終わらせて、会社を出た。
 ちなみに、午後六時。
 早いか遅いかは意見の分かれるところだけれど、まぁ、私にして見れば、早い時間。だいたい、いつも十時過ぎまで会社のデスクに座って仕事をしている私にして見れば、こんな時間に会社の外にいるなんて、まるで奇跡。
 冬の街は、すでに夜の帳が降りていて、クリスマスの近づく季節に、イルミネーションが輝きはじめてる。
 少し、心も軽くなると言うもの。
 っても、実際問題、来るべきクリスマスの夜を私と一緒に過ごす人は、今のところいないんだけど。
 足早に家路に急ぐ人たちの流れの中、私も駅に向かって歩く。
 今日は早く家に帰って、明日に備えて寝ようと思う。
 明日はついに念願の──と思って、足を止めた。ハンバーガーショップの前。
 帰ってご飯を作るのも面倒だし、コンビニでお弁当を買っていっても、ゴミを捨てるのが帰ってきてからになってしまう──そう思った私は、0.2秒で心を決めて、店に入った。
 そう、明日私は──月に行く。


 一年前の、秋の始まりの頃の話。
 このハンバーガーショップに、彼と一緒に入った。同じ店じゃ、ないけど。
 まぁ、もうその彼とは別れちゃったわけだけど。
 どれくらいつき合ってただろう。大学の頃からつき合ってたから、片手じゃ足りない。両手──は、あぶない。足りた。それくらい。
 あの日は休日で、デートか何かだったんだろうか。多分、そうだろう。でないと、彼とバーガーショップに入る理由がない。あんまり覚えてないけど。ただ、私はなんとなくハンバーガーが食べたい気分だったんだ。あと、ポテトとコーク。
「安いなぁ、お前」
 と言われた気がする。
「安くていいでしょ、シャネルやグッチをねだるよりは」
 とか、応えた気がする。
 ただ、その安い選択が、彼と私にとんでもない幸運のチケットをもたらしたわけだ。
「月見バーガー食べる」
 理由は単純。秋しか売ってないから。
「俺、バーガーいいや…コーヒーで。席取ってくるよ」
 二階への階段を上がっていく彼の背中を見送って、私はレジに並んだ。程なくして私の番になって注文。
「少々お時間いただいてもよろしいですか?」
 高校生くらいの可愛い店員のスマイル0円に、私のスマイル、マイナス二百円くらいで応える。コーヒーとポテト、それから私のコーク、順番待ちのプレートをトレーに乗せてもらって、会計を済ませて二階へ。と、思って、足を止めた。0.2秒で、「話のネタにはいいかもね」と、レジの隣にあったそれを手に取った。
 懸賞ハガキみたいなやつ。


「ボールペンとか、持ってない?」
 席について、私は開口一番、言った。
「は?」
 トレーの上のコーヒーを手にとって彼は口を開けた。
 私は手にしていたそのハガキを見せた。
 それは懸賞というか、なんというか、正しい言い方があるのかも知れないけど、とりあえず私は知らない。まぁ、要するところ、住所氏名年齢性別、その他お店の事とかなんとかを書いて、備え付けの箱に入れるという奴だった。そんでもって、抽選でステキな景品があたります的な。
「そういうのは、この五等の、五百円カードして当たらないようになってんだ」
 夢のないことを彼が言う。
「そうかもね」
 返して、私は住所氏名年齢その他を書きはじめた。
「一歳若く書くなよ」
「あっ!?」
 いや、マジで。
 彼はコーヒーを啜りながら、私の手元を覗き込む。
「当たるのか、それ」
「当たったらすごいよね」
 私、笑う。
「当たるわけがないな」
 彼、夢がない。
「そんな夢みたいな話」
 そのハガキ風アンケート用紙には、綺麗なカラーでその写真と共にこう書かれていた。
 『アンケートに答えて、月に行こう』
 ちなみにペア、一組。
「もしも当たったら、一緒に行こうね」
 私、笑う。
 当たるわけがないと思いながら。
「当たればな」
 彼、笑う。
 当たるわけがないと思いながら。


 ポテトとコーク、それから順番待ちのプレートが載ったトレーを持って、私は二階の席に着いた。
 そして話のネタにしたその紙っぺらが、私に不幸の手紙となって届いた。
 ちょっと後悔してる。
 なんで年齢は嘘書いたくせに、住所と氏名と電話番号は正しいものを書いたのか。ケータイ電話の番号だったら、その1ヶ月後には変えてしまっていたから、通じなかったはずなのに。
 私は明日、月に行く。
 当たったから。
 皮肉なことに、ペアで。


 その当選通知が来たのは、ちょうど、今くらいの季節だった。
 いつものように十時過ぎに会社を出て家路を辿り、一人暮らしのアパートに日付が変わった直後くらいについて、身体に染みついた一連の動作──手にしたコンビニ袋を持ち直して鍵を開けて、ポストの中のダイレクトメール一式を手にとってから部屋に入り、リビングというのもおこがましい、1Kの我が安らぎの場に置かれたおこたの上にコンビニ袋とダイレクトメールを置いて、その脇に鞄を置いてという一連の動作──の中で、私はそれを見つけた。
 はじめは、何の冗談かと思ったくらいだ。
 秋に彼と一緒に行ったバーガーショップでそんなものに応募したなぁと思い出したのは、コートを脱いでお弁当を暖めて、ノートパソコンの電源を入れて、ぷるぷる震えていた身体が温まってきてからくらい。そして思い出して私は、「え?」と思ってそのハガキを再び手にとって見たんだった。
 間違いなかった。
 キリトリセンがあって、返信用のハガキが着いている。当選されましたお客様は下記の消印までに返信用ハガキに所定の云々という注意書きがあって──
「も、もしもし?」
 夜中なのにもかかわらず、私は電話をかけていた。
「もしもし?」
 と、寝ぼけたような声が帰ってくる。
「ごめん。寝てた?」
 と、当たり前の事を聞く。一般的なサラリーマンなら、午前二時はすでにおやすみなさいの時間だ。私が一般的なサラリーマンかどうかはともかく…つか、出社する時間は彼も一緒のはずなんだけど。
「なんだよ」
 不機嫌そうな彼の声を聞いて、少し冷静になった。
 っていうか、冷静に考えてみれば、消印有効のその返信ハガキに書かれた日付は、約一ヶ月くらい先の日付で、何も急いで電話しなくちゃいけないと言うような物ではなかった。当たり前だ。今日来て明日出せというようなものであるはずが──ああ、当選しましたといいつつ、期限切れですとか言う詐欺ならあるかも知れないけど。
 ともあれ、それはそのような物ではなかった。
「月旅行、あたった」
 間抜けな第一声だったと思う。
 でも、それ以外には言いようがない。
「はぁ?」
 当然の返答だと思う。
 それ以外には、言いようがない。
「ご、ごめん。私、ちょっと舞い上がってるっつーか、にわかに信じがたいといいましょうか、何を言っているのか、意味不明」
「なんだよ…寝てたんだけど?」
 不機嫌そう。
 まぁ、寝起きでハイテンションな相手との会話というのは、多分すごく嫌だ。私もそう思う。でも私、自分に起こったことがイマイチ本気で信じられなくて、でも本当で、彼に一刻も早くそれを話したいと思っていた。
 不機嫌そうな彼の言葉を無視して、
「えっと、あの、秋に、応募したじゃない。月旅行の──」
「ああ、悪い。俺、明日早朝会議で早いんだ。メールしておいてくれよ。今度、いつ会える?」
「あ、そ、そうだね」
 おこたの隣の鞄を取って、スケジュール帳を開く。
 土日祝日出勤は当たり前の私の仕事だけど、予定なんて先に入れたもの勝ちなのも私の仕事。「えっと…」と日付を決めようとした私の耳に、
「んじゃ、メールしといて」
 彼の声が届く。
 そして通話が途切れて、トーンパルス。
「あ」
 呟いたけど、すぐに、
「ま、いっか」
 と、ノートパソコンに手を伸ばした。メーラーを立ち上げて、メール作成をしようとして手を止めて、スケジュール帳に刺さっていたペンを取る。簡単なコト。舞い上がってたから。だから順序は私の中ではこれが正しい。ボールペンで返信用ハガキに必要事項を書いて、コートをまた着て家を出て、近くのポストに投函。
 帰ってきた頃にはお弁当が冷え冷えだったのなんて、些細なこと。
 私は彼と月へ行く。
 私の心はぽかぽか。


 だけれど、その年のクリスマス。
 私は会社で、仕事をしてた。
「あれ?帰らないんですか?」
 と、後輩の男の子が聞いてきた。手には買ってきたらしい缶コーヒー。
「帰っても、することないしね」
 パソコンのモニターを見つめながら、私は返す。
 彼は一瞬、「え?」という顔をしてから、
「えーと…」
 言葉を濁す。
「セクハラ発言したければ、どうぞ」
 私はモニターから目を離さずに言う。彼は私の直属の部下。まぁ、そういう言い方はちょっとパワーハラスメントっぽい気もしないでもないけど、私は彼が新入社員の頃から教育をしている身なので、こんな会話もいつものことなんだけど。
「先輩、彼氏どうしたんすか?」
「別れた」
「そうなんすか?」
「ついこの前」
「へー」
 デスクについて缶コーヒーを開ける我が後輩。なんてことのないその返答に、ちょっと腹が立つ。
「そういう君はよ」
「セクハラですよ」
「彼女いないのか、若人」
「いませんよ」
 苦笑して言う後輩に、私は笑った。
「じゃあ、私と一緒に月にでも行く?」
 あの時の彼の「はぁ?」という顔は、今でも覚えてる。


 彼と私が別れた理由は簡単だ。
 結局の所、私が忙しすぎたというか、彼と時間があわなすぎた。
 私の仕事はいつも夜十時過ぎまであったし、土日祝日も関係なしにいつもいつも仕事だった。「貴方、仕事ばかりで、私と仕事と、どっちが大事なのよ」なんて台詞は女の子の台詞だと思っていたけれど、まさか男も同じような事を言うのだとは思わなかった。つか、その時はじめて知った。つか、私と彼でしたんだけど。
 彼は、私と別れ話をした頃には、すでに別の彼女がいたそうだ。ずっとあとになって、大学の友達と飲みに行ったときに聞いた話だけど。
 まぁね。
 秋のデートから、そのあとにしたデートが、別れ話の時だったんだから、なんとも…という感じだけど。
 そして私の鞄の中には、彼に渡しそびれた、月へのチケットが1枚。


「もしもーし?」
 トレーの上の順番待ちのカードをいじくりながら、私は電話の向こうに向かって言った。
「あ、先輩っすか?」
 電話の向こう、我が後輩が返す。
「あれ?今そっち、何時っすか?もう、定時過ぎてます?」
「過ぎてるよ」
 応えて返す私の元へ、高校生の店員がやってきて、遊び相手にしていた順番待ちのカードを持ってった。代わりに、ハンバーガーを置いていったけど。
 バーガーの包みを開ける私の耳に、我が後輩の、無駄に元気な声が聞こえてくる。
「今、ハンコもらいました」
「おめでとう」
 素っ気なく言う。
「初の海外取引成功をお祝いしてあげたい所だけれど、タイムリミットだ」
「リミットですか」
 彼、苦笑。
 私、わざと。
「うむ。君に残された時間は、もうない」
 言う。
 我が後輩は、先月頭から海外事業所に出向いていた。何やら重大なプロジェクトチームに参加することになったそうで、育てた私としては鼻が高い所だったけれど、何にせよ、
「貴方、私なんかより、仕事の方が大事なのね」
「はぁ?」
 多分コイツ、あの時の「はぁ?」と同じ顔だ。笑う。
 笑って、私は言った。
「明日から、月に行ってくる」
 「あっ」と、電話の向こうで彼が声を上げた。
 そして多分、0.2秒もなかったと思う。
「誰と行くんすか?」
「セクハラ」
「彼氏っすか?」
「いないよ。今年のクリスマスは、月で過ごす。一人で」
「チケット、二枚あるんスよね?」
「そうだよ」
「じゃあ、俺と一緒に行きましょう」
 その時の私の「はぁ?」という顔は、多分、あの時の彼の顔と一緒だったと思う。


 彼と私が別れた理由は簡単だ。
 結局の所、私が忙しすぎたというか、彼と時間があわなすぎた。
 男と女がつき合うのに理由なんていらないように、男と女が別れるのに理由なんていらないんだろうねと、私は彼に言ったことがある。いつもの「はぁ」で応えられた気がするけれど。
「男と女なんて簡単な事で別れちゃうものだって。あんたもあんまり仕事ばっかりしてると、彼女に見捨てられちゃうよ?」
「いないっすよ」
「男と女なんてさー、距離が離れるだけとか、時間があわないだけとか、そういう、些細な理由で別れたりするわけ。実際、私がそうだったんだから、そう」
「はぁ」
「一ヶ月もあわないでいれば、気がつけば別の子に取られていたりするわけ。実際、私がそうだったんだから、そう」
「はぁ」
「若い子にはかなわんしね」
「はぁ」
「ちょっとくらい否定しろよ」
「いや、そんなことないですよ」
 気持ちがこもってねーよとか、言ったような気がする。そして、説教臭く、言ったような気がする。


「あのさ…」
 私は電話の向こうに向かって聞いてみた。
「そこからここまで、どうやって戻るの?」
「飛行機で」
「どんだけあると思ってんの?」
「たいしたことないですよ」
 笑うようにして言う。
 いや、たいしたことないわけがない。海外旅行もまともにしたことがなくて、世界地図もうろ覚えの私だけど、我が後輩がいるのは、多分地球の裏側っぽい所だったはずだ。たいしたことないはずがない。
 そんなことがあるわけがないと思いながらも、聞いてみた。
「…間に合うの?」
「大丈夫ですよ」
 多分、根拠ない。0.2秒、かかってない。
「間に合わなかったら、置いてくよ?」
「いいですよ。じゃ、そっちについたら電話──」
「ちょっ…仕事は?仕事どうするの?」
 今にも電話を切って飛行機に飛び乗りそうな勢いの彼に、私は聞いた。
 彼は、しばらく無言だった。
 私にはその無言の時間が、当たり前の事だと思った。
 でも、どうやら彼のその無言の時間というのは、全然、私が考えていたものとは違っていたようだ。
「なに言ってんすか?」
「は?」
「いや、先輩の教えで」
 そう言えば、説教臭く、言ったような気がする。
「仕事は理由にならないって」
「いや、状況違う」
「あれ?こう言うときの事ですよね?」
「それは女の子に対しての話」
「じゃあ、あってますよ」
 ハンバーガー落とした。
 ケチャップついたかも知れない。明日から月に行くのに、スーツ、クリーニングに出してる暇なんてあるんだろうか、とか、思った。
「いや、だって…」
 でも口は別の事言ってる。
「時間的に、無理でしょ?」
「時間も理由にならないって」
 言った。多分言った。
「どれだけ離れて──」
「距離も理由にはならないって」
 それも言った。
 多分、他にもいろいろ言った。
 多分だから、全部返されるような気がする。
「本気で…来られるの?」
 だから、聞いてみた。
 彼はすでに動き始めているらしかった。電話の向こうで、何やら動き始めている気配がする。
 きっと、素直な我が後輩の事だ。今すぐに会社から出て、即座にタクシーを拾ってホテルに戻りスーツケースを抱えて、空港へと向かうんだろう。
 彼が、言った。笑いながら。
「38万キロよりは、短いですよ。たぶん」
「そりゃそうだ」
 0.2秒で返した。
 ここから月まで、38万キロ。それに比べれば、たいしたことない。
「仕事より、私と月に行くことの方が、大事なの?」
「そりゃ、そうですよ」
 我が後輩は、とても素直に、笑いながら言った。
「主に、月に行くことの方がですけど」
「遅れたら置いていく」
 0.1秒で返して、切った。
 でも、それだけあれば、多分、十分。


 帰り道。
 月を見上げながら、歩いた。
 明日私は、あの月に行く。
 38万キロ離れた、あの月へ行く。
 38万キロ。
 よくわかんないけど、多分、スゲー遠い。どれくらいか想像もつかないけど、多分、スゲー遠い。
 でも、空港に着いてチケットを買ったとメールをくれた我が可愛い後輩くん曰くは、たいしたことはないんだという。そりゃ、彼に取ってみれば、私との距離だってたいしたことがないと言っちゃうくらいだから、その感覚で言ったら、たいしたことはないのかも知れないけど。
 38万キロは、彼曰く、光の速さで1秒ちょっと。
 その感覚でいわれちゃ、日帰り旅行だって出来ちゃうから、仕事なんて関係ないじゃん。
 だいたい、その感覚で言われちゃ、私の彼の間の距離は、0.1秒もない。
 だから当たり前のように、時間も距離も、理由になんない。

 明日、わたしたちは、月に行く。