studio Odyssey



地平線の彼方へ


 十年も前。
 この、小さな小学校の体育館裏で、僕たちは遊んでいた。
 体育館裏には、下水を流す溝があって、それは普段一滴の水も流れてはいない場所だった。
 真っすぐ、あの頃はすごく長く感じたけれど、実際は一五メートルほどの下水溝。
 だけれどその下水溝が、僕たちの地平線へと続く、レースコースだった。
「まだ…走れるか?」
 僕はタイプTシャーシの電源スイッチを入れた。今のシャーシなんかとは違い、横にちょっと動かすだけのスイッチだ。そういえば、クラッシュするとすぐにスイッチが切れて、止まってしまっていたりしたっけ。
 FA-130モーター──要するにノーマルモーターだ──が、ゆっくりと回転を始める。
 そっと、僕は下水溝にマシンを置いた。
 切れかかったマンガン電池を積んだ僕のマシンは、ゆっくりと、最後の力を振り絞って、走り始めた。
 僕は、それを早歩きに追う。
 ブーメランJr。
 それは僕の初めて手にしたマシンだった。
 下水溝を進むマシン。
 マシンは姿を変えていく。
 エンペラー。
 そして──
 僕たちの地平線をめざす、僕たちの夢のマシンへと。

第一話 再び…

 大学の帰り、今年──といっても、一月生まれなので正確には来年だけれど──二一歳になろうかという大の大人──村上 祐一は、模型店の店員に向かって残念そうに聞き返し た。
「えー…ないんですかぁ?」
「あー…フルカウルやエアロ全盛の時代だからねぇ。今更──」
 と、店員はプラモデルのたくさんつまれた棚から視線を外して、
「今更、ダッシュシリーズのミニ四駆がほしいって言われてもねぇ」
 妙な大学生の気まぐれな質問に眉を寄せた。
「やっぱりないですか…」
 はぁとため息を吐く村上。
 彼はミニ四駆を探していた。それも、レーサーミニ四駆、ダッシュシリーズのマシンだ。
「なんで今更そんなもの?」
 と、気のいい店員は再び棚を捜しながら彼に聞いた。村上は、躊躇せずに返す。
「流行ってるから」
 流行っているのは『ダッシュ四駆郎』ではない。
 店員は、彼の言葉に苦笑いを浮かべながら返した。
「確かに今のミニ四駆ブームは、昔ミニ四駆に燃えた世代にとっては懐かしくも嬉しくもあるだろうね。あの頃は手に入れられなかったパーツも、今なら簡単に手に入れられるようになってるし」
「あはは…そ…そうですね」
 村上はぽりぽりと頭を掻いた。
 ちょっと違うのである。
 確かにあの頃手に入れられなかったマシンや、パーツを今そろえてみたいとは思っている。けれど、彼を突き動かすのは、もっと別のことだった。


「どうも、ご迷惑をおかけしました」
 そう言って、村上は模型店を後にした。
 模型店のワンスペースにあるコースに、自分たちのマシンを誇らしげに走らせる子供たちを、懐かしむように眺めながら。


 僕は、あの子たちに勝てるだろうか──
 街に冬が近づいていた。
 村上は冬物のコートのポケットに手をつっこみ、わずかに星の輝く夜空に向かって白い息を吐きだした。
 幼い頃、あの子供たちと同じで、自分も自分のマシンを追い掛けて走っていた。
 体育館裏の下水溝。自分たちの、レース場。
 あの時に自分たちが感じた想いは、あの時に自分たちが夢見たものは、果たして今も通用するんだろうか?
 試してみたい。
 僕たちは、今もあの子たちに勝てるんだろうか──自分自身が一番だった、自分自身が主人公(ヒーロー)だった、その時代にいる、あの子たちに──同じ舞台で。
 ふと、村上は足を止めた。
 古い、小さな玩具屋の前だった。
 それは、いつかの記憶の風景だった。


「ばあちゃん、これ何?新製品?」
 薄汚れたガラスの自動ドアの向こう、自分が大きな箱を抱えて店のおばあちゃんに聞いていた。まだ、幼い頃の自分が。
 手にしているのはミニ四駆──ブーメランJr。
「これ、いくら?」
 六○○円。
 今の自分にしてみれば、昼食一回程度の金額だ。けれど、その大きな箱を抱えて目をきらきらと輝かせている彼にとってその金額は、二ヵ月分のおこづかいにもあたる金額だった。
 だけれど──
 彼はそれを手にしていた。ラグビーボール型のサイフ、その中から、百円玉を六枚取り出して。
「買う」
 と、短く言って。
 ばあちゃんは、ただにこにこと笑っていた。
 ばあちゃんは、白いビニール袋にそれを入れてくれた。彼はそれを小さな手にしっかりと握り締めると、駆け出していた。
 自動ドアがゆっくりと開く。
 彼は、消えゆく記憶の自分と入れ違いに、その店のなかに入っていた。


 少し暗いと感じるくらいの蛍光灯の灯。
 村上は、懐かしさに目を細めた。
 変わっていない。全然、変わっていない。
 プラカラーのラック。あの頃から埃をかぶっていたけれど、今も変わらずに埃だらけ。無造作に積まれたプラモデルたち。ちょっと箱が変形していたりする。
「いらっしゃい」
 変わらない笑顔で、あの時のばあちゃんが迎えてくれた。


 村上は迷う事無く、その棚の前に立った。
 積み上げられた、ミニ四駆の箱たち。
 ここなら──
 村上は右上から順に、その箱たちに書かれている名前を確認していった。
 だけれど──
 ここにも、自分たちが夢を見たマシンはなかった。
 ただ、ため息を吐き出すだけだった。
 もう、あの頃の自分には戻れないのか──


「何を探してるの?」
 ばあちゃんが聞いてきた。
「ミニ四駆?今ね、また売れてるのよね」
「…え…ええ。みたいですね。昔自分も──」
 村上は軽く笑いながら、ばあちゃんに視線を走らせた。それは店を去ろうと、一歩を踏み出したときだった。
「それ…」
 ばあちゃんの座るカウンターの脇で、そのマシンは彼を待ってくれていた。
「そのミニ四駆!?」
 村上はカウンターに駆け寄った。激しく記憶がスパークする。
 「これ、スゲーほしいなぁ」「けどもうパーツ買っちゃったからお金ないんじゃない?」「でも絶対ほしいよ、これ」「棚の奥に隠しとけば?来月、再来月で金貯めてくりゃいいじゃん」「そうだよ、そうしなよ。絶対買われないって。隠しとけば」
 「うーん…んじゃ──奥の方に隠しとこう」


 カウンター脇のミニ四駆を見つめながら、ばあちゃんは笑って、言った。
「このお店、もうじき大きなチェーン店に吸収されちゃうからね。品物の整理をしようと思って棚卸しをしていたら、こんな古いミニ四駆が奥の方から出てきたのよ。きっと当時の子供たちが棚の奥に隠して忘れちゃったものだろうと思うけど」
 村上は、思わず吹き出しそうになった。
 そうだ。そうだったんだ。
 忘れていた。
「それ…売ってもらえますか?」
 村上は言っていた。
 僕は、十年近くも、こいつを待たせていたんだった。だけれどこいつは、十年近くも僕の事を待って──この時を待って──
「こんな古いの、いいの?」
 ばあちゃんは言う。
「はい、それが欲しいんです」
 村上はサイフをポケットからひっぱりだしていた。
 ばあちゃんは笑っていた。彼は気付いてはいかなったかもしれないけれど、彼の目は、子供のそれと同じ輝きを放っていたんだった。
「じゃ、六○○円ね」
 言いながら、ばあちゃんはあの時と同じビニール袋にそのミニ四駆を入れてくれた。
 村上はどきどきしながら、サイフからお金を取り出す。百円玉を六枚。あの時と、同じ。
「そう言えば──」
 ばあちゃんは言った。
「昔流行ってた漫画の主人公が、このミニ四駆を持っていたんだっけ?」
「ええ…そうです。僕も昔、こいつを欲しくって──」
 棚の奥に隠した──とは、言わなかった。
 ばあちゃんは笑いながら、言った。
「はい。じゃ、頑張って速いマシンを作ってね」
 なぜか、その言葉が嬉しかった。その言葉は、ミニ四駆を、そのパーツを買うたびにばあちゃんが自分たちに言ってくれていた台詞だった。
 永久不変の、ミニ四駆レーサーたちの求めるもの。


 村上はぎこちなく笑いながら、その袋を受け取った。ばあちゃんの手に、六○○円を乗せながら。
 十年の時を越えて、そのマシンは、約束された彼の手に、しっかりと手渡されたのであった。
 DASH−1号──
 その名を『皇帝(エンペラー)』