studio Odyssey



始まりのベンチ。


      

 スピットは青い空を見上げて目を細めました。
 ここはプロンテラの南東に位置する衛星都市、イズルード。剣士ギルドの存在する、小さな町です。
「…さて、どうするかな」
 腰に下げた道具袋の中の赤いポーションの位置を直しながらつぶやきます。この赤いポーションは剣士ギルドからの支給品。転送されたスピットを見るやいなや、「おおっ、新しい剣士志願者か!がんばれよ!!これを持っていけ!!」と、ギルド職員に手渡されたものでした。
「喉が渇いたな──」
 つぶやき──赤いポーションを飲みはしませんでしたが。
 イズルードの中央広場を抜け、町の出口へと向かいます。中央広場には、ぽつぽつと露天が並んでいました。芋や赤いポーションの他、店売りの武器を安く売っている露天などもありました。と言っても、スピットにはお金がないので、あまり関係はありませんでしたが。
 ふらふらとイズルードの町を出ます。
「レベルあげるか…」
 ナイフを片手に持ち、つぶやきます。
 剣士に転職するかどうかはともかく、何にもまして、レベルをあげないことには始まりません。低レベルモンスターのファブル、ポリンを地味に叩きながらレベルをあげていくうちに、もしかしたら、決心もつくかもしれません。
 とことこ、スピットは歩き出しました。
 方向は北西。
 その方向なら、ゆっくり歩いていっても、夕暮れ前にはプロンテラの街が見えてくることでしょう。
 結局、冒険者になりたくてプロンテラを飛び出したはずなのに、ふらふらとスピットのその足はプロンテラへと向かっていたのでした。


 夕暮れの頃。
「あれ──ポーション、結構減ったな…」
 ぽつり。
 夕焼けに照らされたプロンテラの南門前。スピットはつぶやきます。
「腕がいてぇ…」
 なれない筋肉を使ったからでしょうか。スピットの二の腕はぱんぱんにふくれあがっていました。今日だけで、どれだけのポリン、ファブルを倒したでしょうか。ちょこちょことレベルは上がってきてはいるものの、ひとり、もくもくと狩りを続けてても、さすがに半日にも満たない時間では、転職できるレベルにまではなれませんでした。
 もっとも、転職できるレベルになったとしても、スピットの心はまだ決まってはいなかったのですが。
 ふと、南門を見上げます。
 何かを考えて──いたような、いなかったような──スピットは軽くため息を吐くと、その門をくぐりました。
 プロンテラ大聖堂の方から、鐘の音が聞こえてきていました。
 聞き慣れた鐘の音です。
 夜の入りを告げる、鐘の音です。
 プロンテラ城から南門へとつながる、プロンテラの目抜き通り。スピットは歩きなれた道を、てくてくと歩いていました。道の両脇に立ち並ぶ露天商人が、店をたたみ始めています。じき、静かな夜がこの街にも訪れることでしょう。さて、どうしようか──歩きながら考えよう──
 家路をたどる道へと足を向けそうになって、はっとスピットは立ち止まりました。この道をまっすぐ行けば、昨日まで眠っていたベッドがそこにあるはずです。でも──プロンテラの街を行く冒険者の波の中へと、スピットはひとり、とことこと戻っていきました。
 俺は、冒険者として旅立ったんだろうが──その波はやがて、街の中心、噴水広場へと流れていきました。
 そこを少し脇にそれれば、旅館、ネンカラス。近くには冒険者たちの酒場。スピットは腰の道具袋を覗き込みました。「じゅう…にじゅう…」収集品のゼロピーがいくつか…これを収集品商人に売れば、今日の宿代くらいはなんとかなりそうです。
「とりあえず、メシでも食って考えるか…」
 つぶやき、スピットはその足を酒場の方へと向けました。
 冒険者たちの旅館、ネンカラス──中にはセミ屋という人もいますが──から、少し離れたところに、酒場があります。スピットはその酒場に訪れたことは、今まで一度もありませんでした。お酒を飲むということを、普段からしなかったというのもありますし、冒険者たちの酒場というのは、ちょっとガラがよろしくないのでは──なんて思っていたのも、少し、ありました。
 酒場特有の、役にたっているんだかいないんだかわからない両開きの押し戸の向こうから、陽気な笑い声が聞こえてきています。スピットはすぅと大きく息を吸い込み、意を決して、その中へと足を踏み入れました。
 陽気な冒険者たちの喧噪が、スピットを包みました。
 今まで感じたことのない、冒険者たちの熱気。剣士、シーフ、マジシャンもアコライトも、アーチャーだって商人だっています。丸いテーブルを囲んで、皆、陽気に語り合っています。「いやぁ、今日の狩りは大変だったな!」「あそこはお前、火壁を出して後衛を守るべきだったろ」「無理無理、もうSPなかった」「マスター!お酒もらえる!?」「いよぉし!健闘を祝して、いっちょカンパイといくか!」「イッテヨシ!!」「誰か、歌えー!!」「ひっこぬか〜れて〜♪」「チガウダロ!!」
「おひとりなら、カウンター席へどうぞ」
 かけられた声に、スピットははっとしました。振り返ると、細い腕にたくさんのジョッキを持ったマスターがそこにいました。「テーブル席はこの時間、パーティの人たちでいっぱいですから」「あ、はい──」
 促されるままに、スピットはカウンター席へと進みました。カウンター席は丸テーブル席とは違って、ひとりの──いわゆる、ソロと言われる──冒険者の姿が多く見られました。とは言っても、皆、屈強そうな剣士や、知的なマジシャンがそのほとんどではあったのですが──場違いな感じに、スピットが背中を丸めていると──
「ご注文は?」
 カウンターへと戻ってきたマスターが、スピットに声をかけました。「あ…なんか、食べ物を」「お酒はお召し上がりにはなりませんか?」「えと──いや、いいです」「少々お待ちください」
 スピットの注文に、マスターは厨房の方に声をかけてから、彼の前を離れました。離れ際、コップに一杯の水を注いで。「ごゆっくり」
 出されたコップに手をかけ、スピットは酒場の中をちらり。
 たくさんの冒険者たちが、わいわいと楽しそうにやっています。──いいなぁ…
 コップを口に当てながら、スピットは冒険者たちを眺めていました。ウィータは今頃、何してんだろう…もう、転職はしたのかな。新しい仲間は、出来たのかな。いつかまた、会うことがあるのかな。
 ふと、ある剣士と視線が合いました。
 自分と同じ、翡翠色の髪。よく似た顔立ち。それなりに上等そうな武器と防具。向こうも気づいて、「あ」と、パーティメンバーが囲む丸テーブルから立ち上がり──
「お?こんなところにへっぽこノビスが一人でいるぞ?」
「あぇ?」
「どーした?仲間とはぐれたか?んー?」
 スピットの隣にふらふらと寄ってきたがっしりとした体つきの剣士が、彼の肩に手をかけて言いました。
「ここはおこちゃまのくるところじゃあ、ないぞ?ミルクはおいてない」
 何がおかしいのか、そう言ってその剣士はがははと下品に笑いました。そしてその息が──とてつもなくクサイっ!?
 顔をしかめていたスピットに、
「あーん?そう不景気な顔をするなよ、ノビス!」
 と、剣士はスピットの頭をくしゃくしゃ。「おーおー、へっぽこの緑あたまか!」「へっ…へっぽこ…!?」
「よせって、ノービスに絡むなよ」
 近くにいたシーフが、間に割って入りました。
「悪いな、こいつ、酔うとこうなんだ」
「いいじゃねぇか。ミドカルドの冒険者はみんな兄弟だ!なぁ、へっぽこ緑あたま!!」
「へ…へっぽこ…」
 また言われた…!?
「そうさ!」
 大きく腕を振って、その剣士は言いました。
「俺はこの、広大なミドカルドの大地の事を、今からこのへっぽこ緑あたまのノビスに教えてやろうとしてるんだ!いいか、へっぽこ緑あたまのノビス!!」
「──あ、はい」
 そしてその酔っぱらい剣士は臭い息とともに言いました。その大仰な仕草に、酒場中の皆が注目している中で、その中の皆に、聞こえるような声で。
「へっぽこは邪魔だ!チネ!!──以上!!」
 どっと、酒場に笑いが巻き起こりました。そしてやんややんやの大喝采。
「へ…へっぽこ…って…」
「まぁ、その指示代名詞は、今はお前だな」
 喝采に両手をあげて答える剣士とスピットの間に、同じ翡翠色の髪をした剣士が割って入って言いました。「まぁ、今この瞬間に、それは変わるけどな」
「なぁ、兄弟!」
 翡翠色の髪の剣士はぐっと腰だめに構え、右手を引きました。その声に、酔っぱらい剣士が振り向きます。酔っぱらい剣士の目に、翡翠色の髪の剣士の、輝く右手が目に入りました。「俺の拳が光って──以下略!!」
 翡翠色の髪の剣士は、拳を突き出す勢いとともに、叫びました。
「マグナムブレイク!!」
 右ストレートが炸裂すると共に、光がはじけました。同時に、本物の意味での炸裂──爆発が巻き起こり、酔っぱらい剣士がカウンターの端にまで、はじき飛ばされました。
 辺り一面が、爆発によって盛大な音と共に崩れました。酒場に響いていた笑い声も、その爆発音にかき消され、あとに残ったのは、しんとした静寂だけでした。
 静寂の中、翡翠色の髪の剣士はにやりと笑って、言いました。「よぉ兄弟、ミドカルドの冒険者たちは皆兄弟だっつったけどな──」
「へっぽこ緑あたまのリアル兄弟をバカにされたとあっちゃ、黙っちゃられないね」
 スピットは目を丸くしたまま、ぽつりとつぶやきました。
「…兄貴」
 徐々に薄れていく爆風の中に、同じ翡翠色の髪が揺れていました。


      

「ちょっと待てよ、スピット!」
 夜のとばりが降りたプロンテラ。
 すたすたと歩くスピットの後ろを、同じ翡翠色の髪をした剣士が追いかけてきます。「待てって!」
 追いついて、彼はスピットの腕を取りました。
「なんだよ」
「なんだよじゃねーよ」
 ふんと鼻を鳴らし、言います。
「お前、いつの間に冒険者になんかなったんだよ」
「関係ないだろ」
 噴水広場。
 昼間は露天商人たちでにぎわうこの場所も、夜を迎えた今は静かです。絶え間なく流れ続ける噴水の水の音だけが、プロンテラの夜に響いていました。「んまぁ、まだノービスのところを見ると、始めて間もないってところだろうけど」
「うるさいなー」
「お前、家はどうしたんだ?」
 兄の問いに、スピットは軽く答えました。
「出てきたんだよ」
「出てきたって──おまえ──」
「兄貴だって、冒険者になるために、家を出たじゃねぇか」
「おい、それは違うぞ」
 食ってかからんばかりの勢いのスピットに、返します。
「俺は冒険者になって剣士の修行をして、一人前になったら家に戻ろうと思ってるだけだ。うちは代々続く剣士の家柄だからな。俺たちの代で、名前を落とすわけにもイカンだろ」
「よく言う…」
 そっぽを向いて、ため息混じり。
「いつ一人前になれるっつぅんだか」
「うぐ…」
 スピットの痛い一言に、彼は言葉を飲みました。
「ああぁ、待ってくださいよー!」
 と、酒場の方からひとり、アコライトの男性がこちら向かって走ってきていました。「飲み代、払ってくださいよー!!あと壊したカウンターの修理代もー!!」「ああ、来週払うよ」「先週も同じ事いってましたが!?」「それが何か?」
 とかなんとかやりながら、そのアコライトはふたりの前にまで駆け寄ってくると、
「弟さん?」
 と、スピットの事を指さして言いました。
「できの悪い弟」
「できの悪い兄に言われたくない」
「てめぇ、シバクぞ」
「おぉ、やって見ろや」
「マグナム──」
「まってまってまって!」
 アコライトの彼はふたりの間に割って入りました。
「えーと、初めましてですね。私はアルク。お兄さんと一緒に旅をしている、しがないアコライトです」
 にこりと、アルクは笑いました。その柔らかな表情と物言いに、「あ、スピットです。初めまして…」「おい、スピ。こいつはこー見えて、腹の内は実際は全然違うから気をつけろ」「あ、ひどい言い方ですねぇ」
 アルクはスピットの顔を覗き込みながら聞きました。
「冒険者になりたてですね?」
「あ、はい──」
「あの手の輩は、どこに行ってもいますし、いくらレベルが上がったって言うヤツはいいます。気にしちゃダメですよ」
「──はぁ」
「そうだ、アルク。そんなことより、こいつに言ってやってくれよ」
 ふぅとため息混じりにアルクを見て、
「こいつ、家飛び出してきて、冒険者になったとか言ってんだ」
「をを!」
 アルクは目を丸くします。「血は争えませんねー」「シバクぞ?」「マグナムはやめてください」
「これと一緒で、書き置きひとつで飛び出してきましたか?」
「これ言われた」
「──ん」
 口を曲げて答えないスピットに、アルクは苦笑します。「ですか」
「何考えてんだ、お前」
 はーあとため息と共に、スピットに向かって彼は言いました。
「俺はお前が家にいるから、ぷらっと出てっても大丈夫だと踏んで、出てきたんだぜ。お前は俺より頭の出来もいいし、なにより──」
「そんなの、兄貴の勝手じゃんか」
「おおっ!?なんだテメェ、おめぇだって勝手にしてんじゃねぇか!!」
「いや、会話かみ合ってないですし…」
「だいたい、お前まで出てきたら、家はどうすんだ!?」
「家って、街道場かなにかでしたっけ?」
「アルク、やばいとおもわねぇか?『跡取り全員冒険者になりました』って──」
「いや、むしろあなたが長男じゃ──」
「わかるか、スピ!」
「話題かえんなよ、強引に!」
 スピットははぁとため息を吐きます。「そんなに家が気になるなら、兄貴が戻れよ」「論点はそこじゃない」「いや、むしろそこのような気も…いや、いいです。マグナムは勘弁してください」
「俺は、家にはもう戻らない」
「ハァ!?」
「家も継がない。俺は別に、剣士になりたい訳じゃないんだ」
 スピットは言いました。言って、くるりときびすを返しました。
「兄貴、剣士になったんなら、家に戻って、ちゃんと剣士の家を継げばいいじゃんか」
「おい、スピ!」
 呼び止めようと、手を伸ばした時でした。
 歩き出したはずのスピットが、くるりと勢いよく振り向きました。咄嗟、彼は腰の剣を引き抜きました。
「わっ!?」
 思わずアルクが飛び退きます。ひゅうという、風を切る音が噴水広場前に響き、続いて、金属のぶつかりあう音。「…なんの真似だ?」
 星明かりの下、ナイフの切っ先が弱く輝いていました。
「くそっ!」
 スピットは右手を返して兄の剣をはじくと、再びナイフを突き出します。しかし、鮮やかに星明かりの下で輝いたのは、すらりとした長身の剣の方でした。乾いた金属音に、はじかれた短いナイフが、プロンテラの石畳の上に、音も立てずにゆっくりと落ちました。
「──なんの真似だ?」
 ただ聞こえる水の音の中、真摯な声が響きます。
「別に」
 答えて、スピットは足下に落ちたナイフを拾いました。「当たるわけがないとは、思ってたけどね」
「俺は剣士に向いてないんだ」
 軽く息を吸い込んで、スピットは言いました。
「はぁ?」
 翡翠色の髪の剣士は眉を寄せて言います。
「何いってんだ?俺とお前とじゃ、そもそもレベルが違うだろうが」
「俺はへっぽこだからなー」
 軽く笑う風にして言ったスピットに、剣士は目を伏せました。「──そうか」
「腰抜けめ」
「あ!?」
「お前みたいなへっぽこは、冒険者になったって、トードに食われておしまいだ。さっさと死ねよ。チネ!!助けるんじゃなかったな!!」
「この──っ」
 拳を握り、踏み出そうとしたスピットの頬のすぐそばを、冷たい銀色の刃が駆け抜けていきました。
「──…」
「お前、なんで冒険者になった?」
 翡翠色の髪が、夜風に弱く揺れていました。
「何かを心に決めたから、冒険者になったんじゃないのか?」
 アルクがそっと片手で制しました。気づいたスピットが、ゆっくりと視線を動かしました。
「いいじゃないですか?」
 アルクはふたりに向かって笑いかけます。「それぞれ、自分なりの生き方がある。私たちは、冒険者なんですから」
「家を継ぐのは、スピさん、安心してください。これがちゃんと、時期を見て継ぐそうです」
「また、これ言われた…」
 ふぅとため息を吐いて、彼は剣を納めました。
「その辺のことは、明日あたりにご実家に伺って、お話を通した方がいいでしょうかね」
「えっ!?マヂで!?ヤダ!?」
「わかりました。スピさん、私が、責任もって、そこはまとめておきます」
「何でお前がウチの事に責任もって口出すんだー!?」
「おだまりなさい!」
 びしっと、アルクが言いました。「PDに飛ばしますよ!?」「ご、ごめんなさい…」
「──俺…」
 スピットは目を細めました。アルクはそんなスピットに笑います。笑って、
「スピさん、あなたはもう、冒険者なのですから」
 ゆっくりと、でもしっかりと、言いました。「あなた自身が心に決めたのならば、それを曲げる事はありせん」
「でも、冒険者である以上、決して、その自分の心に、負けないでください」


「ね、お兄さん。それなら、約束してもいいでしょう?話も、ちゃんと通せますよね?」
「あ…あー…なんか俺が損してる気がすんのは気のせいか?」
「ええ。気のせいです」


      

 夜のとばりが、プロンテラの街を包み込んでいました。
 とぼとぼと一人歩いていたスピットは、ふぅとため息をひとつはいて、手近なところにあったベンチに腰を下ろしました。
 プロンテラの南門から、まっすぐ。
 噴水広場を抜け、プロンテラ城へと向かう道。城前広場の西の隅。
 その、ちいさなベンチに、スピットはそっと腰を下ろして夜空を見上げました。
 ミドカルドの夜空に、春の星座がちらほら。
 吐き出す息はけっして白くはありませんでしたが、スピットには自分の吐息が自分の心のもやもやを表しているように、白く濁って見えました。
「冒険者である以上──」
 ぽつり。
 アルクの言った言葉を、繰り返してみます。
 彼の言わんとすることは、理解できました。冒険者として旅立った以上──小さく、もう一度ため息をはき出します。
 そして視線を落とし、ぽつり。
「長い一日だった」
 初心者修練所から始まり、同じ初心者冒険者のウィータとの出会い。その修練所、実技コースの主、自称ノービスますたーとの出会い。そして望まずとも現れた適性。剣士ギルドからの旅立ち。プロンテラの酒場。兄と、アルクとの出会い。
「つかれた──」
 そして今。
 星空の下のベンチ。
 スピットはもう一度、深くため息を吐きました。そして、弱く、つぶやきました。「これから、どうしよう──」
 このままここに座り込んで夜を明かすとしても、この時期ならばきっと大丈夫でしょう。でも、今日はそれでいいとしても、明日は?明日もそれでいいとしても、明後日は?明後日もそれでいいとしても、明々後日は?明々後日もそれでいいとしても──考えてしまいます。
 何かを求めて、何かを心に決めて、冒険者として旅立とうと決心したはずなのに。
 修練所を、その決心を胸に抜けてきたはずなのに。
 その何かが、どうも思い出せませんでした。
「俺、どうしようか──」
 うつむいたまま、スピットは自分の右手を見ました。軽く、握ってみます。ちょっとだけ、ふるふると手がふるえていました。なれない、武器なんてものを一日中ふるって、手の筋肉が不満を漏らしているようでした。今日はとりあえずその不満をなだめるとして、明日は?──明後日は?
「俺はこの街を飛び出して、世界の果てを見てみたいんだ」
 そうしたら、何かが変わるような──そんな気がしていたのです。
「そんな気持ちくらいじゃ、ダメなんか?」
 スピットは右手に向かってつぶやきます。
 広大なミドカルド大陸を旅する冒険者は、たくさんです。
 その冒険者たちにあふれるここ、プロンテラはいつも活気に満ちています。
 変わらない日常を繰り返す自分と対照的に、日々、くるくると変わっていく世界。その世界の果てがあるとしたら、そこにたどり着いたら、そうしたら、きっと世界すら変わるような──
 震える手を、そっと、彼はもう一方の手で包み込みました。
「──俺は、世界の果てを目指す、冒険者になる」
 夜風が、翡翠色の髪をなでて、そっと、流れていきました。

 その時でした。


「──迷える子羊よ」
 優しい声が、聞こえました。
「主は、常にあなたたちを見守っています。さぁ、顔をお上げなさい」
「え?」
「おネェさんに、何もかもを話してご覧なさい。今なら相談いっこ、たったの六○○ゼニー!」
「はあぁぁ!?」
 ベンチの前に、一人のアコライトの女性がいました。
 彼女はけらけらと楽しそうに笑いながら、続けます。
「ええ、ええ。いいのよ。私たち聖職者は、人々の悩みを聞き、心を癒してあげるのがお仕事です。一○○○ゼニーなんて、そんなに多くのお金はもらえません。どうしてもと言うのであれば、八○○ゼニーくらいまでならば!」
「いや、あの…」
「ええっ、主へのお布施を一緒にですか!?では、仕方ありませんね。一四○○ゼニーくらいで──」
「いや、ってゆーか、そんな金ないし──」
「じゃ、有り金ダセや」
「えええぇっ!?」
「って、何してるか!フィアットー!!」
 別のところから声が聞こえたかと思うと、その方向から空き瓶がひとつ、すごい勢いで飛んできました。そしてあやまたず、その空き瓶はスピットの前にいたアコライトの女性の頭にすこーんと当たりました。
「あぅ!!」
「テメェはそれに聖水でも詰めてろ」
「ひ、ひどぅい」
 つかつかとやってきたのは先ほど投げた空き瓶と同じ瓶──どうやらビールが入っているようです──を手にした、赤いの髪の剣士。そして隣には、苦笑いの魔法士の姿がありました。
「ごめんね」
 魔法士の方がスピットの前に来て言いました。「痛いじゃないのぉー!」「お前の行動の方が、百倍は痛いわ!」「なによぉー!」「なんだぁー!?」
「ごめん、ふたりとも酔ってるんだ」
 魔法士の彼は苦笑のまま続けます。「冒険の帰りでね、軽く一杯のつもりが、ふたりとも、しこたま飲んで」
 言いながら、魔法士は頭の上にあった帽子を、ちょいとなおしました。
「あのねぇ、インテ」
 アコライトの女性──インテと呼ばれた剣士に、フィアットと呼ばれていた女性──が、かみつかんばかりの勢いで言います。
「私は迷えるノービス君の悩みを聞いてあげようと、声をかけたわけ?わかる?」
「ゼニーがどうとか、聞こえたような?」
 こちらの剣士も、頭の上の帽子をなおしながら言います。
「俺には、初心者冒険者をだまくらかして、金を巻き上げる冒険者にしか見えなかったが?なぁ、エア?」
「いやぁ、同意を求められても」
 返したのは魔法士です。エアと呼ばれた魔法士は、苦笑気味に返しながら、スピットの座っていたベンチの隣に腰を下ろしました。
「実際、フィアットの言ったように、彼になにか悩み事があるようにも見えますし」
「でしょ!!さすがお兄ちゃん!よっくわかってる!」
「それと金とは別問題な…」
「世の中はギブアンドテイクと思うのですが。それが何か?」
「お前のギブが、テイクに対して等価じゃないな」
「なによー!」
「こんなところに座り込んで、どうしたんですか?」
 わいわいとやっているふたりを無視して、魔法士、エアはスピットに向かって言いました。
「え?あ──いや…」
「ああ、そうだ」
 魔法士、エアは軽く笑います。「いきなり見ず知らずの人にそんなこと言われても、困っちゃいますね」
「私は魔法士の、エア‐マックス。そっちの剣士が──」
「剣士のインテリアル。インテで結構」
「私、フィアット‐マックス」
「破戒アコライトですが、あれでも一応、私の妹です」
「失礼な!」
「で──」
 エアはちょいと帽子をなおしながら、言いました。
「あなたのお名前は?」
「あ──俺はスピット」
「スピットさんですか。初めまして」
「あ、初めまして」
 帽子を押さえてちょいと頭を下げたエアに、スピットもぺこり。
「よし、わかった。スピ」
「いきなりフレンドリーね、インテ」
 言うフィアットを無視して、
「お前の悩みというのを当ててやろう──えーと…」
 剣士、インテはおでこに指を当ててうなりました。「わかった!」
「オンナにフられた!」
 なぜっ──!?
 ショックに、スピットは身を引きます。
「…かわいそう。お姉さんが癒してあげる」
「気にするな、スピ!オンナなんか、星の数ほどいる!」
「ごめん、ふたり、酔っぱらいだから気にしないで」
「はぁ──」
 弱く返すスピットの事なんか、知った事ではないらしく、インテとフィアットは勝手に暴走しています。「こう考えろ、ああ、あんなオンナと別れてよかった」「そーよぉ」「そうさ、あいつはどー考えたって、オンナとは呼べん!中身は男にちまいない!フィアットの様に!!」「なんでよっ!?」「破戒僧に違いない!!」「インテ、殴り殺すわよっ!?」「かかってきやがれ!」「上等だー!!」
「それで、何か悩み事なら相談に乗るけど?」
 殴り合いでも始まりそうな雰囲気にスピットが飲まれていると、エアは気にもとめない風に言いました。もしかすると、こんな事は彼らにとっては日常茶飯事なのかもしれません。
「え──」
 かけられた声に、スピットはエアに振り向きます。「あ…いや…悩みなんて事では──」言葉を濁します。
「おおかた、冒険者として旅立ったはいいけど、自分の力の限界でも感じて、ノービスから何に転職したらいいかわかんねぇとか、そういうことだろ」
 軽く、インテが言いました。
「あ──」
「なに?そうなの?それなら決まってるじゃない!」
 はぁっと顔を明るくして、フィアット。
「アコライトになりなさい!当然、知力全振り」
「また、茨の道を…」
「そして世の乙女達を癒し殺すのよー」
「殺してどうする」
 インテはげんなりと言った感じでつぶやき、
「いや、スピ。剣士になれ!男は近接職!!どんなモンハウにも、果敢に飛び込む戦士になるんだ」
「そして死ぬ──と」
「なんか言ったか、フィアット!」
「魔法士もいいですよ」
 今度はエアです。
「すべての職の中で、最強の攻撃力を持っています。魔法の力は、偉大ですから」
「タゲられると、即死するけどな」
「お兄ちゃん、貧弱ヒンジャクゥ!」
「あっ──ヒドっ!?」
 やがて、ベンチ前で自職のいいところ、他職の悪いところをずかずかと言い合う、口喧嘩が始まりました。物腰は三人とも攻撃的でしたが、それでもけらけらと笑いながらの言い合いに、スピットは軽く息を吐きました。
 ──いいなぁ…
 ちょっと、思います。こういうの──
「んだから、だ!」
 インテがスピットに向かって、言いました。
「剣士になれ!」
「魔法士です!」
「アコライトよ!」
 エア、フィアットが続きました。
「え──あの…すんません。途中から聞いてなかったです…」
 三人、げんなり──
「…まぁ、いい」
 ふんっと、インテは鼻を鳴らして腕を組みました。
「ま、最終的に何になるかを決めるのは、スピットくんだしね」
 フィアットも口許を曲げて言います。
「私は別に、魔法士を強要はしませんけどね。うちのパーティにはシーフもアーチャーも商人もいないですし。どの職に就いていただいても、戦力アップです」
 笑いながら、エアは帽子をちょいと直し、立ち上がりました。
 それを見たインテが、
「うーし、じゃ、行くかー。しょんべんしたくなった」
「きったないなー」
「その辺でしないでくださいよ、騎士団のご厄介にはなりたくないですから」
「俺だってなりたくネェよ。帰るぞー」
 きびすを返し、インテは歩き出します。手に持っていたビールはどうやら空になったらしく、「やる」「くれるのはいいけど、洗ってからちょうだいよ」なんて、歩き出したフィアットとやり合っています。
「どうしました?」
「はい?」
 歩き出したエアが、立ち止まって言いました。
「行きますよ?」
「は?」
「『は?』じゃねーよ」
 立ち止まり、インテ。振り返りながら、頭の上の帽子をなおして、言います。「お前、どこから聞いてなかったんだよ?」
「お前は、俺が立派な剣士に育ててやるっつったろ」
「違うよ!私がアコライトに調教するって話だよ!」
「フィアット…兄として言いますけど、調教という言い方はどうかと思います。それに、スピットさんは私が責任をもって、一流の魔法士にするのです」
「剣士だろ!」
「アコだってば!」
「魔法士ですよ!」
 再び、自職自慢、他職批判が始まります。
「え?え?」
 スピットには、何がなにやら、よくわかりません。よくはわかりませんでしたが、
「とにかく、行くぞ!スピ!!」
 インテが言いました。「あー、口で勝てないから、逃げる気だなー?」「うるさい、黙れ」
「俺は早く帰って、しょんべんがしてぇ!」
「きたなっ!?」
 ずんずんと、インテは帽子をかぶりなおして、歩いて行ってしまいました。城前広場を出ていき、その姿が、フィアットと一緒に、スピットからは見えなくなりました。
「これも、何かの縁でしょう」
 手を差しだし、エアは笑いながら言いました。「実は、ここ──このベンチは、私たちのたまり場なんです」「あ…そうなんですか?」
「帰り道、歩いていて、あなたを一番始めに見つけたのは、インテです。私たちのパーティリーダーなんですけどね」
 差し出した手を、すっとスピットに近づけながら、エアは続けました。
「フィアットをけしかけて、あなたに声をかけました。私たちのたまり場に、ノビがひとりぽつんと座っていれば、同じ冒険者として、放ってはおけません。何があったか、本当のスピットさんの悩みが何かは知りませんし、詮索するつもりもありませんけど──」
 差し出した手を、いつまでたってもスピットが取らないのに笑い、エアは自らスピットの手を取って、彼を立ち上がらせました。「それはもしかしたら、ひとりでは解決出来ないないことかもしれません」
「我々冒険者が、ひとりでは旅を続けられないのと同じで」
 立ち上がったスピットに笑いかけながら、エアは頭の上にあった帽子の位置を、ちょいとなおしました。
「何してんだオラ!行くぞ兄弟!!」
 スピットはびくりとしました。声に振り向くと、ベンチの後ろ、壁の上からインテが顔を出しています。
「おしっこ、漏れるって」
 隣に顔を出して、フィアットも笑います。「ねこ広場を抜けて、その先に帽子屋があるんだけど、そこが私たちの寝床なの。いくよ、スピットくんっ」
「あっ──」
 何かを言おうとして、スピットが壁に向かって背を伸ばすよりも先に、そこからふたつの頭が消えました。
 エアは笑っています。笑いながら、言います。
「インテははじめから、あなたをパーティに入れるつもりだったんですよ」
「…パーティ?」
「そうです。旅は道連れ。私たちも、このベンチで出会って、いつの間にか一緒に旅をするようになった仲間たちです。だからあなたも、そこに座ってしまったのが、運の尽き──あ、いや、運命です」
 春の星座の下、ちょいと帽子をなおして笑いながら、その魔法士は言いました。
「仲間がいて初めて、ミドカルドを旅する者たちは冒険者となるのです」


「ようこそ。パーティ、プロンテラベンチへ」