studio Odyssey



おはなしのつくりかた

 管理人、しゃちょ流のお話の作り方講座。

よんでもらう。

 「よんでもらうことは、上達への近道である」

 なんて格言はないけれど、「おはなし」づくりは他人の目によってどんどんと上達していく。
 誰でもが、「自分の好きな小説家の文を書き写して、それが終わったら、自分が書いたものを誰かに読んでもらうようにするのが、小説を書く秘訣だ」なんて、言ったりするでしょう。

 「そのいち」で、先の文については「そんなコト、したこともねーや」と書き続けてきたので、今度はこの後半の文について、考えていくことにします。
 全ての文章は、誰かに読まれるために生まれてくるのですから。


他人の目による校正

 さて、努力と気合いと根性でなんとか書き上げた一作が出来たら、誰かに読んでもらいたいと思うでしょう。
 しかし、その前にちょっと待った!

 そのおはなし、一番はじめに見せる人にだけは、感想とかそういうものを求めるのではなくて、校正を求めてみたらどうでしょう?

 読者がいてくれるというのは、うれしいことです。
 しかし、読者がいてくれるかわからない場合、読者の事を考えて思い悩んだりするのは、非効率的です。
 だったら、読んでくれる誰かをひとり、確保して、その人には読者ではなくて、校正という視点で読んでもらってはどうでしょうか。

 読者に文章の指摘やストーリーの矛盾をつかれると、貴方は「むっ」とするかも知れません。
 まぁ、楽に行く秘訣はそうしないというモンですけど(僕は書き上げたものに愛着も執着もないので、何を言われても気にならないんだけど)、考え方を変えて、それが貴方に専属の校正の意見だったら、どうでしょう?
 耳を傾けてみようと思いませんか?

 さて、僕の書いたものをいつも「校正」してくれる、studio Odysseyの古株社員に「校正のN氏」という方がいます。ま、通り名で言うのなら、「李」氏ですか。

 彼とはずいぶん古いつきあいで、僕の書いたものの80%以上は、彼がまず第一に目を通してくれます。そして、漢字の間違い、不適切な文体などを指摘してもらっています。

 実際、「おはなし」をつくっている方々の中にも、僕とこの彼との関係のような仲間がいる人は少ないのではないでしょうか?自分の書いた、ある意味で独りよがりなものに対して、「校正」をかけてくれる人。
 こういう仲間を持つことは、本当に「おはなし」づくりを上手にします。

 もっとも、作り手側の考えというものも、大事だとは思いますけどね。

 今回は、この校正のN氏こと、李氏と共に、書き手と第一番目の読み手との考えの違いを探っていきたいと思います。

他人の目による校正は必要だと思う?

 ないよりはあったほうがいいでしょう。

 作者の言いたいことが伝わるかどうか判断できる。独り善がりになり過ぎない。
 作者の気づかなかった(忘れていた)設定を指摘できる。


 今回は(も?)少し長くなるかも知れませんが、校正Nのアンケートの答えを乗せて、僕の考えをそこに書き加えていくことにしましょう。

 まず、校正の必要性。僕は、すごく必要だと思うのですよね。

 「独りよがりになりすぎない」と彼も書いていますが、結局、「おなはし」づくりって、個人作業であって、「独りよがりなもの」なんですよね。
 だけれど、それを多くの人に見てもらおうとした場合、はたして「独りよがり」な物はおもしろいか面白いか面白くないか。

 たとえ、「ただ好きだから」とおはなしを作っていたとしても、それが、友達すらも読んでくれないような「独りよがり」のものだったとしたら、それは「おはなし」ではなくて、「日記」の延長物でしょう。

 第一の読者として「校正してくれる人」を考える。
 そういう意味も込めて、校正してくれる人は必要かなと。

 「作者の気づかなかった(忘れていた)」の一文は…はい、すんません。物忘れ激しいんで。
 お世話になってます。

校正とは本来どういうものだと思う?

 赤鉛筆耳に乗っけて血走った目で原稿睨むの。で、「今日のレースはこれできまりじゃあ!」って…それは冗談。
 本来ってねぇ。本来はもっとすぱすぱざくざく変なところ指摘したり、切ったりしちゃうモンだと思うよ。


 なんでや。(上の文)

 あとにも触れますが、彼は僕の書いたものを校正するとき、基本的に誤字脱字と伝わりにくい文を指摘してくれる程度です。

 つまり、彼は僕の原稿を「校正」してくれてはいるですが、実際は、彼の考える「校正」というものでは、基本的にないということなんですね。

 興味深い結果です。

 実際の校正というものがどんなものなのか僕も彼も知らないので何とも言えませんが、すぱすぱざくざく切ってもらうというのも、書きすぎ気味の僕にはいいかも知れませんね。
 そう考えると、校正してくれる人は、作品を研磨してくれる人と考えられるかも知れません。

誤字脱字の他に、どんなところに注意を払う?

 表現=「この書き方じゃ何言いたいのかちょっとわかんないぞ」とか。
 用語=「『日本空軍』じゃないでしょ」とか。


 これは少し2とかぶってしまいましたね。

 日本空軍はもういいでしょう〜。(R‐0の第一話で僕が間違えた名称:これを境に、彼は僕に校正として使われることになる)

 僕は個人的に漢字や、日本語の正しい使い方などを知らないので、とりあえず少ないボキャブラリーの中から選び出した文を組み立てて「おはなし」を作っていきます。
 で、彼は僕とは違い、文系人間ですので(私は実はもろ理系人間)漢字や正しい日本語の使い方などを、常にチェックしてもらっています。

 結構、自分ではあっていると思っていながら、間違えて覚えてしまっている言葉というのは、あるものなんですよ。
 で、「校正」を常に頼むようにしていると、「あれ?この日本語、少しおかしいかも…」と思ったときに、自分で辞書を引く癖を付けられるんですよ。
 まず第一の読者に「ここ違う〜」といわれないために。

 あとやっぱり、「何が言いたいのかわからない」という表現は、こうして指摘してもらえると、独りよがりにならなくていいですね。

自分の書いた作品に、他人の入り込む要素は必要だと思う?

 ひとつめと重なっちゃうけど、言いたいことが伝わるかとか、忘れてた設定を思い出すかとか言う部分で必要だと思うよ。
 %…むー大負けに負けて5%。私の場合はこんなモンでしょう。


 ひ…低い!

 こんなに低い数値とは思いませんでしたねぇ…(%の数値)

 でも実際、僕の短編1本は60ページ前後なので、それで考えると、2ページほどということになりますか。
 そう考えると、妥当とも考えられなくもないですが…

 僕は30%位入ってきてしまってもいいかとも思っていたのですが…意外と、彼は控えめに校正してくれているようです。

 でも、「書いている人」と「校正」してくれる人、どっちが偉いかっていうと、微妙なんですよね。どっちの意見を尊重するか…うーん。

 僕は基本的に、彼に「ここ変」といわれたところは、そこに意味がない限りほとんどの場合で直しています。逆に言うと、「変なところには意味がある」とも、取れなくもないですが。
 で、大体、意味のあるところというのは、テーマに関係するところ以外にはないので、ほとんどの場合は、直されているというわけですけれど。

 その辺りのことは、彼もわかってくれているようですし。(変えないときは言うし)
 ま、ここに演出家さんとか、監督さんとか入ってくると、話はがらりと変わるんでしょうが…

批評と批判についてどう考えてる?

 批評は基本的に誉めること。
 批判は基本的にけなすこと。
 大雑把にいうとこんなかんじかなぁ。


 「おはなし」を作っていれば、必ずは「批評と批判」に直面することがあるでしょう。
 幸いに、私は批判を受けたことがないので、何とも偉そうなことは書けませんが(批判されてもいいやってこと、いっぱい書いてるのに、おかしいなぁ)、僕個人では、ここにたいした境界は引いていないのですね。

 もちろん、「基本的にけなす」ような批判は気分のいいものではないですが、それが役に立たないかというと、そうでもないでしょう。
 そこに批判されうる要素があったことは事実な訳ですし、そして批判してくれる人がいるというのも、有り難いわけです。

 もちろん、それを聞き入れるかどうかは別としてですけど。

 そう考えれば、批判もちょっとは批評になるでしょう。もちろん、メールで一言、「つまらん」と書かれても困っちゃいますが…
 でも、それだって、「ああ、つまんなかったか…どこがつまんなかったろう…」と思って、自分の書いたものを読み返せば、何かか見つかるかも、知れないですけど。

読んでいて、「わ…つらぃ…」と思う瞬間は?それは、どんなとき?

 基本的にはないけど、あるとしたら何度も読んだことのある長い作品。(R−O復刻版の後半のほう)


 これは個人的に聞いてみたかったというのもあるのですが(笑)、確かに何遍も同じものを読むのは辛いですね。すみません。
 R‐0は、最終回付近、かなりごたごたしたからなぁ…(書き上がったの、アップの1週間前だし)

 校正に回すのは、せめて2回以内にしろと言うことですね。

自分がもしも他人に校正してもらうとした場合、どのような校正を望む?

 ここ文字違う、とか、この表現わかりにくいよみたいな感じ。


 これは、上の答えにかぶりましたね。当然といえば当然ですが。

 僕も時々、「これ読んで」といわれたりして目を通したりしますけど、僕は結構そういうときに「あーだこーだ」と書き込む派なんですよね。(苦笑)
 もちろん、上でも触れましたけど、あくまで批評として、それをするようにしてはいますけれど。

 僕の考える批評とか、校正というのは、書き手が作ろうとしたものを研磨するものだと思っているんですね。もちろん、それは僕が書く側の人間だからなのかも知れませんが。(かといって、別に彼が書かない人ではないのだけれど)
 ただ、僕のやり方の問題点は、画一的になってしまうということでしょうか…

 それを考えると、個性を伸ばすタイプの彼のやり方は正しいかも知れません。

うちの作品の中で、いちばん思い出に残っている作品の校正秘話とか?

 『日本空軍』!これが一番最初だし、思い出に残ってるなぁ。
 最近のでは『フィクションのリアリティ』かな。
 珍しく暗い話だったのでってこともあるけど、ムカツク台詞や嫌な台詞を入れることが出来たからかな…


 日本空軍は、もういいじゃないっすか。

 最近の話として、『フィクションのリアリティ』の話が出ているので、この話を少し。(とは言っても、この原稿の執筆時に最近だったのであって、今となってはかなり古いですし、現在は掲載されていません。というのも、この作品はBBSの書き込みとしてストーリーが展開して行くもので、しかも、自殺してしまおうとする書き込みに対して、そのBBSの住人たちが会話し合うという話なのです)

 この作品は、ご覧になればおわかりになられるでしょうが、すべて会話(?)のみで形成されています。
 で、6人のキャラクターの持ち味を出すために、僕が書きあげたものをベースに、彼と僕とで3人ずつ語尾修正や、書き方の癖などをくわえていったのですね。3回くらい、メールでやりとりしましたか。

 校正をしてくれる人は、このように、作品の幅を持たせるのにも、活躍してくれることでしょう。一人で作る「おはなし」は、どうしてもキャラクターが一人が生み出したものになりがちです。
 この『フィクションのリアリティ』は、テーマ的なことからも、どうしても人物に厚みを持たせたかったんですね。で、彼にこうして協力してもらい、作品の色を強くしてもらいました。

 表には全く出てこないところですが、この作品でのこのやりとりは、僕も印象にありますね。

 このことから得られることは、特に、人物の一人称形式と台詞の語尾感は、考えている以上に重要だという事です。
 彼と僕の中ではもはや暗黙の了解となりつつありますが、作品の最初から終わりまで、登場人物の一人称の言い方と(相手の呼び方もですが)語尾感は、統一しなければならないということです。でないと、人物がぼけてしまうという訳なんですね。

 校正は、実はこういうところも見ていてくれています。

一番やっかいだった(読みにくかった等)作品のタイトルと、その秘話とか?

 R−O復刻版の最後のほうの長かった奴。
 一回校正してるし、実際のところあまり校正個所もなかったし。


 予定もタイトだったですしね。(苦笑)

 校正原稿を受け取ったと思ったら、その2日後に、「ごめん。ちょっと変えた」とか言って、また送られて来るんですから。
 いや、あれは僕自身で「読みにくい」と思った位なので、大変申し訳なく思っております。はい。(アップされているものはこの第1稿から比べると、かなり変わってます)

 さて、こうして校正のN氏のアンケートの答えと僕の主観とを混ぜて今回はやってみましたが、いかがだったでしょう。
 もう少し突っ込んで書いてよかったかも知れないですが、ともあれ、重要なのはやはり書き手と校正者との考え方の、いい意味での違いでしょう。

 校正をしてくれる人は大事です。
「どうだった?」
 と、書き手は読んでもらったら、やっぱり聞きたくなるものです。
 その時に、自分の書きたかったものが伝わっているか、いないか、それを知る手がかりとなってくれるのが、校正者なんでしょう。

 その時に、「ここが読みにくかった。これのテーマは『〜』?」なんて言ってくれる人がいたとしたら、その人は大事にしなければなりません。
 決して、自分の考え通りに読めてもらえていなくとも、文句なんて、絶対に言ったりしちゃいけません。
 自分の力量不足かな?と首を傾げるくらいの謙虚な姿勢でいきましょう。
 大きいこと考えてると、つぶれちゃいますから。

 さて。
 じゃ、第一の読み手に書きたかったことが伝わらなかったとしたら、どうしたらその人に伝わるのかな?と考えて書き直しを始めましょうか。
 で、
「あのさ、この前の、書き直してみたんだけど、また見てくれる?」
 と、書き直したものをまた読んでもらいましょう。

 ほら、彼はもう、あなたの専属校正者ですよ。
 誰がなんと言おうとも。