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「なに泣いとんねん」
そっと腕を伸ばして彼女を包む。「可愛い顔がだいなしや…」静かに踏み出し、優しく娘を腕の中に包み込む。
「それに、男の腕の中で泣くなんて──千年早いわ」
泣きじゃくるばかりの娘の髪に手を添え、晴子は微笑んだ。
「海、行くんやろ?」
「…おかぁさん」
小さく、少女は返した。「だめだよ…」
「おかぁさんまで…」
「なに言うとんねん、観鈴が言ったんやないか」
泣きじゃくる少女を包み込んだまま、晴子は往人のことを見た。軽く口許を弛ませて、「観鈴が、望んだんやないか」
視線に顔を上げる往人。けれど、そこにいたともだちに、やはり、うまくは笑いかけられなかった。
観鈴の頭を優しく叩きながら、晴子は言った。
「みんなで一緒に、海、行こって」
静かに、踏み出す足があった。
少女は顔を上げる。
そして小さく呟く。
「とおの…さん?」
泣きじゃくる少女に近づき、少女もまた、優しく微笑んだ。「笑って」言う。
「今、それは──神尾さんにしかできないことだから」
そしてもうひとり、静かに踏み出す。「一緒に海、行こっ」
「かの…ちゃん」
「ともだちさんは、みんなで一緒に海にいくんだよぉ」
少女の隣に座り込んで、屈託なく笑う。
そして自分の肩に飛び乗って、頬をやさしく叩くくちばし。「そら…」
赤くなった瞳を、少女はこらえきれずに細めた。
「…みんな」
だから、少女は泣き続けた。「みんな…っ」小さく繰り返しながら、ずっとずっと、少女は泣き続けた。「ごめんね…ごめんね…」
繰り返しながら。
夏空の下。青い空の下で、繰り返しながら。
静かに腕を動かす。引き寄せる。
青年は、その耳元に向かって言う。「約束、したろ。おまえをひとりになんて、絶対にしない」
「どうなろうとも…俺が…おまえがどうなってしまおうとも」
泣きじゃくりながら、少女はおずおずと腕を動かした。そして、自分を抱き留めてくれる青年の背に腕をまわす。ただ、泣きじゃくりながら、泣き続けながら、でもそれが答えというように。
泣きじゃくる娘の髪を撫でながら、晴子は待つ。
優しく微笑みながら、美凪は待つ。
隣に一緒に座って、大きな目に少しだけ不安の色を見せながら、それでも佳乃は待つ。
どこまでも、どこまでも続く夏の中。
千年の夏の物語の悲しみを吐きだすように、そのすべてを吐きだすように、少女は悲しみから生まれた涙を流して、泣き続けた。大きくて、大きすぎて、ひとりでは受け止めきれなくて、でも、たったひとりでその悲しみと向き合ってきて、そんな自分に、少女は泣きじゃくった。
ずっと、ずっと──
「ごめんね…」
少女は繰り返す。
繰り返す悲しみを吐きだしながら、繰り返す。
長い間、ずっと、ずっと、繰り返してきたものを、ため続けてきたものを吐き出しながら。
青年たちは待ち続ける。
夏はどこまでも続いていくから。
夏はどこまでも続いていくから、そのたくさんの時間の中で、千年の悲しみの涙を、全て受け止めて──ひとりで受け止めるには大きすぎて、心を、身体を蝕んで殺してしまうとしても、心を寄せるものたちと、その悲しみを分かち合って。
心を寄せる、ものたちと──
静かに、頬を何かが流れていった気がして、美凪は指先で頬を撫でた。濡れた指先が見えた。「…涙?」観鈴の隣に座る佳乃を見る。佳乃は気づいていないようだった。「かなしい…?」
千年の悲しみ。
ひとりで受け止めるには、大きすぎて。
美凪はそっと目を伏せた。大きすぎて──
溢れ出る悲しみは押さえきれず、ひとりでは、それでも、恋人がいても、母親がいても、友達がいても、それでも、それでも大きすぎて──「ごめんね」
小さく言った観鈴を、往人はもう一度強く抱き寄せた。「…観鈴」
「俺たちは、ひとりじゃないから」
俺たちは、ひとりじゃないから。
繰り返す悲しみの少女を、抱き寄せたかったのは、受け止めたかったのは、助けたかったのは、俺、ひとりじゃないから。旅を続けてきたのは、かけがえのない翼に、再び巡り会うための旅を続けてきたのは、「俺だけじゃないから」
溢れ出る涙の伝う頬を、優しく撫でる手があった。柔らかな、そして小さな、小さな手があった。
千年の時を、時を越えてさえ旅を続けてきたのは、俺だけじゃないから。
観鈴はその小さな手を見つめた。見つめて──微笑んだ。
古ぼけた、人形。
ひょこひょこと動いて、観鈴の頬を伝う涙をぬぐう。その布きれの手に涙がしみこんで、色が変わっても、いっしょけいんめいに、続ける。
「…往人さん」
「俺じゃない」
抱きしめた少女を少しだけ離して、彼女に周りを見えるようにしてやる。「俺だけじゃ、ない」
晴子、美凪、佳乃。そして、みんな。泣きじゃくる彼女を包んで、たくさんの人形たちがいた。お気に入りの恐竜の人形が不安げに足下から彼女を見上げている。観鈴は微笑む。その頬を、そらが優しくつつく。「観鈴」
「俺は、お前を笑わせてやりたいんだ」
往人は笑った。
あの日、失ったもの。それをもう一度見つけて──俺の力。この力で、笑わせてあげたいと思う存在。
「ただ、それだけなんだ」
俺の『力』。
なんの役にもたたない。ただ、人形を動かすだけの力。その力。
遥かな約束を守るために、受け継がれてきた力。
最後の最後にまで残った、大切な力。たったひとつの『力』。
時を越えて、叶わなかったいくつもの願い。籠められた、いくつもの心。
いつか誰かが、いつか誰かが。
願いを、籠められた願いを。
古ぼけた人形が、少女の頬を優しく撫でる。溢れ出る悲しみを、千年の時を越えて、そのいくつもの心が、少女の心に寄り添っていく。
空に、悲しみとともに、光とともに消えていった少女の心に。
抱きしめて、往人は言った。
「ただ、それだけなんだ」
「…うん」
少女はそっと目を伏せた。
その頬には涙を。
その心には悲しみの先を。
その口許には微笑みを。
少女はそっと、目を伏せた。