studio Odyssey



海へ…

   4

 どうしてだろ…
 もう起きられないと思ってたのに…
 もうダメだって、思ってたのに…
「往人さん?」
 声が聞こえた気がして、往人はそっと目を開けた。
 窓から差し込む陽が、夏のそれに変わっていた。まぶしさに目を細めて、ベッドの上を見る。そして、言う。
「…起きたか?」
「うん…」
 静かに、ベッドの上の観鈴が頷いた。「いま、起きたとこ。もう…」
 言葉を続けようとする観鈴を遮って、
「晴子は?」
 のそりと起きあがりながら往人。膝の上から落ちた人形を拾い上げ、ポケットにねじ込んで聞く。
「お母さん?」
「ああ…」
「わからない」
 うつむきがちに返す観鈴に、往人はぼやいた。
「…どこに行ったんだ、晴子のやつ」
「でも、お母さんの声、聞こえた」
 うつむいたまま、だけれどかすかに微笑みながら、観鈴は言った。「戻ってきてくれたんだね」
「往人さんと一緒で」
 言いながら、観鈴は右手に左手を触れていた。夢の中で感じた感触。確かな感触を確かめるように、そっと。
 往人は言葉を返そうとして、飲み込んだ。もう、言うべき言葉はない。することはひとつ。したいことは、ひとつ。
 同じ夢を見て、そして、なすべきことはひとつ。
「観鈴…」
 往人が続ける言葉をわかって、観鈴は顔を上げた。
 そしてその言葉に、そっと微笑んだ。
「海に行こう」
「うん」
 連れていってやることができるに違いないんだ。まだ陽は高い。時間は、まだまだある。きっとたどり着ける。今ならきっと、たどり着ける。俺たちの空へ。ゴールへ。
 その場所へ。
「歩けるか?」
「うん…」
 そっと手を貸す。
 その彼女の肩の上に、一羽のカラスが飛び乗った。ふたりは微笑む。「いこっ」観鈴が言う。
「ああ」
 往人は返した。
 いつかと同じやりとり。
 でも、今なら──
 手を取り合って部屋を出る。肩を寄せ合って、玄関を出る。
 照りつける午後の陽射しに揺らぐアスファルトの道を行く。一歩一歩。
 海へ、海へ。
「ゆっくりでいいからな。無理すんなよ」
 同じ台詞。だけれど、あの時とは違う。
 きっと今なら、観鈴は微笑みを返してくれる。
「うん、大丈夫」
 額にした汗を隠すように微笑み、陽炎の向こうに広がる海をその深い瞳に映して、観鈴は言う。「わたしは、行ってあげなくちゃならないから」
「…そうだな」
 往人は観鈴の手を首に回させた。観鈴が身を寄せてくる。小さな、終わりなき悲しみを受け止めるには、あまりにも小さすぎる身体を往人は受け止めて、そしてふたりは歩き続けた。
 歩き慣れたはずの、海への道。あの堤防への道。
 遠くなんて、ない。
 繰り返してきた時間、遠回りしてきた距離に比べれば、決して遠くなんかない。だから、俺たちはたどり着ける。その海を越えて、海の向こう、空と繋がるその場所にだって。
 往人は、観鈴の身体を支えなおした。
 その時だった。
「…往人さん」
「海まで、あと少しだから──」
「ごめんね」
 小さく、観鈴は呟いた。「ごめんね」その言葉は往人の耳に確かに届いた。けれど、往人は彼女の事を見つめはしなかった。見たくなかった。見つめるのが、恐かった。背中に、鋭い痛みが走った。
 一瞬の心の隙間に流れ込んできたものに、腕の中から、小さな身体がこぼれ落ちていく。「ごめんね…」
「すぐに…治るから…海は、また──」
 鋭い痛みが身体を走り抜けていく。
 どうして──
 どうして!?
「あ…うぐ…」
 結局、繰り返す。結局、繰り返す悲しみから俺たちは──海にはたどり着けない。どんなに頑張っても、ひとりじゃなくても、あの海にはたどり着けない。
 頭上には、晴れ渡った青空があった。
 ──あの空に…
 約束したんだ。
「観鈴…っ」
 青年は少女を強く抱き寄せた。絶え間ない痛みが身体を襲う。だけれど、それでも青年は少女を強く抱きしめて、その名を呼んだ。「観鈴っ」
 腕をふりほどこうと、少女がもがく。その頬を、一筋の涙が流れていく。
 少女は、声を上げて泣きじゃくった。
 それでも青年は彼女を抱きしめ続けた。心と、そして身体を痛めながらも、それでも往人は観鈴を抱きしめ続けた。「一緒に行こう」ただ繰り返す。
「俺は──死んでない」
 強く、少女を抱きしめる。
 ただ、泣きじゃくるばかりの少女を、強く、強く。
「だめ…」泣きながら少女は繰り返す。「だって…痛いでしょ?」
「わたしと…おなじで…ゆきとさんも…」
 嗚咽の中、確かに観鈴は言った。「わたしから…離れて…っ」
 心までもを蝕む痛みに、往人はぎゅっと目をつぶった。
 もう──痛みに腕の力が抜けていく。
 青い夏の空。
 焼けたアスファルト。
 海からの、かすかな潮の香りを乗せた風。
 行き交う人々。
 泣きじゃくる少女。
 約束──結局また、繰り返す──
 静かに、踏み出す足があった。