studio Odyssey



遠い約束

   3

 まぶたの向こうで、白い光が揺らいでいた。
 ゆっくりと往人は目を開く。
 朝だった。
 ぼんやりとした頭であたりを見回す。見慣れた部屋。観鈴の部屋。
「…観鈴?」
 呟いてベッドの上を往人は見た。一羽のカラスが、そこで眠る少女の頬をそっとつついていた。「起きたか…?」夜明けの空気を揺らす声が耳に届く。
「晴子…?」
「死んでるのかと思ったで、居候」
 赤い目をした晴子が呟くようにして言った。「ふたりして、死んでもうたのかと思ったわ」
「帰ってきたのか」
「ついさっき──」「いや、俺たち──」
 窓から差し込む朝の陽光に往人は目を細めていた。晴子が眉根を寄せているのを見て、
「なんでもない」
 往人は呟いた。
「観鈴は?」
 ベッドの上の観鈴を肩越しに見、晴子。「寝とる」
「でも、さっきまでとは違う。安らかな寝顔や」
「そうか──」
 ゆっくりと息を吐きだして、往人は気づいた。肩の力が抜けていく。そんな自分に、口許を弛ませる。
「何が、あったんや?」
「言っても、きっと信じてもらえない」
 夢を見ていた。きっと、観鈴が見続けてきたのと同じ夢。何故同じ夢を見られたのか、同じ大気の中にいられたのか、それはわからなかったけれど──足下には、古ぼけた人形が転がっていた。
「──そっか」
 気のない返事を晴子が返す。往人は古ぼけた人形を手にとって、語りかけるようにして言った。
「晴子…」「なんや?」
「夢の中で、観鈴のことを呼んだか?」
 答えに、晴子は躊躇しているようだった。自分たちが夢の中にいた時、この場所で何が起こっていたかは知らない。けれど、晴子の赤い目と聞こえた声は、確かにそこにあった。
「言っても、信じてはもらえへんかもしらんけど──」
 静かに、ベッドの上の観鈴を見つめながら晴子は言った。
「うち、橘の家に行って来たんや」
「たちばな?」
「観鈴の、父親の家や。居候に言われた台詞が、ごっつ効いてな」
 手の中の古ぼけた人形を、往人はじっと見つめていた。晴子はただ観鈴を見つめて、少しだけ口許を弛ませて続けていた。「うち、ほんまの母親やあらへん。けどな…観鈴を失いたくないんは──居候と一緒や」
「橘の家に行って、直談判してきよってん。観鈴をうちで引き取ると、あの夜に決めた。決めたから、うち、行って来たんや」
「──引き取ることにしたのか?」
「せや。そういう根性だけは、誰にも負けへんねん」
「そっか…」
 ふと、夢を思い出す。少女の求めた、母親の姿。そして目の前の晴子。「そっか」往人は古ぼけた人形を、ただ、その両手で包み込んでいた。
「そのつもりで、戻ってきたんや。せやのに──」
「ありがとう」
 小さく往人は言う。晴子が目を丸くして、視線を送り返してきた。「なんでもない」「…そっか。置いてけぼりにして、悪かったな」「いいんだ…」
「晴子…」
「なんや?」
「少し、眠る」
 ゆっくりと往人は目を閉じた。
「観鈴が起きたら、起こしてくれ。やらなきゃならない、しなきゃならないことがあるんだ」
 手の中の人形を握り直す。
「約束、したんだ」
「何を?」
「一緒に、海に行こうって…」
「──わかった」
 そして往人は静かに眠りについた。「俺たちの空へ、一緒に行こうって──」
「…せやな」
 朝日の差し込む部屋の中、眠りについたふたりに微笑み、静かに晴子は言った。「もう、ひとりやない。な…観鈴…」
「みんなで、海、行こうな…」