studio Odyssey



翼があれば──

ごま挿絵より    2

 夏だった。
 光の向こうに見えたのは、青々とした林の間をなだらかに続く峠道。どこまでも飛んでゆけそうな空に包まれた、夏の景色だった。
「…観鈴」
 まっすぐに前を見つめ、往人は言う。
 翼の少女は静かに視線を外す。見つめる先、誰かが泣きわめいている。
 腕の中にひとり、誰かを抱きしめた誰かが、泣きわめていてる。
 泣きわめくその少女の背には、矢を受けてぼろぼろになった翼が、陽炎のようにゆらめいていた。少女はただひたすらに、腕の中の誰かに向かって言っていた。「…余の命であるぞっ…起きよ…起きよっ!」
「なぜ…動かぬ…なぜ、目を開けぬっ…ゆるさぬぞ…余を、残してゆくなど…ゆるさぬ、ぞ」
「わたしたちは、ほんとうは誰も強くない」
 往人の前に立つ翼の少女は、小さく呟いた。
「なぜ…なぜにみな、余だけを…残して…」
 腕の中の誰かを揺り動かし、少女は、ただずっと繰り返していた。
「柳也どのっ、柳也どのっ…」
「ひとりは──ひとりぼっちは──」
 その頬を、一滴の涙が伝った。「…りゅうやどのっ…りゅうや…どのお…」少女は狂ったように幾度も呼びかける。「ほんとうは──」
 少女の姿が、悲しみの向こうに霞んで見えた。
「観鈴っ!」
 悲しみの向こうに消えていく少女に向かって、青年は手を伸ばす。「俺はここにいる!ここにいるんだ!」
「戻ってきたんだ。もうどこにもいかない。おまえと一緒にいて、おまえを笑わせ続ける。そうすることにしたんだ!」
 悲しみに、少女の姿が消えていく。
「観鈴…っ、いくな!」
 背の向こうから、声が聞こえた。
「あの夜、神奈さまに向けられた呪法は、比類なく強力なものでした」
 翼の少女と共にいた女性が、同じ記憶を見つめながらに言う。
「神奈さまのお心を砕いてしまうほどに…」
「どうして──」
「母君が倒れた時、その呪いは神奈の身体へと受け継がれた。それが、翼人である神奈の運命だったんだ」
 青年が言う。
「たくさんの呪い。跳ね返せないほどの呪い。そして、その心を砕く呪いは、翼人へと心を寄せる者の身体もまた…想いの深き者はそれ故に」
 往人は二人を肩越しに見つめていた。始まりを知る、ふたり。「どうすれば、いいんだ…?」
CD-ROM版より  女は静かに首を振った。
「呪いは消えません。それは、翼人が夢を継ぐものであるが故に」
「夢?これが夢?」
「夢。夢とは、記憶。そのすべて。しかし、神奈さまのお心を受け継ぐ翼人は、もうこの世には──」
「観鈴は…」
「空にとらえる法術は朽ち、人として神奈は生まれ変わった。だが──人の心の中に翼人の心は大きすぎて…生まれ変わろうとも、その記憶が心を砕いてしまう」
 青年は静かに目を伏せて告げた。
「たとえ、輪廻の中に生まれ変わろうとも、終わらない夏の中で、少女は大切な者を失い続けるんだ」
「──…」
 往人は強く拳を握りしめた。「俺には、あいつを救えないのか」
 悲しみの空。
 その空に、翼をもった少女がいる。救いたい。助けてやりたい。あいつの笑顔が見たい。俺の隣で、ただ、馬鹿みたいに笑っていてくれればいい。ただ、それだけなのに。
 それなのに、俺には翼がない。
 俺には、彼女を救えない。
 振り返る。
 悲しみの向こうに、限りない優しさと憂いを込めた瞳で自分を見つめる少女が、消えていく。
 手を伸ばそうと、一歩を踏み出す。その腕をつかもうと、踏み出す。けれど翼がない。
 届かない。
 手を伸ばしても、翼のない俺には、届かない。
「さようなら」
 翼が、翼があれば──
 俺にも、この空を越える翼があれば──!
CD-ROM版より 「観鈴っ!」
 夏空の陽を遮って、往人の頭上を越えて、まっすぐに翼を広げたそれが彼女へと迫った。往人は目を見開いてその鳥の描いた軌跡を追った。一羽の、真っ黒なカラス。「…そら」
「観鈴っ!」
 声が聞こえた。夢じゃない。これは、夢なんかじゃない!
「観鈴っ、起きやっ!」
 遠くから声が聞こえた。羽を広げた一羽の鳥が軌跡を描くその空の向こうから、声が聞こえた。これは、夢なんかじゃない!「何してんねん、居候っ!」
 そうだ──俺は──!
 踏み出す。
 悲しみの向こうへと消えていくその腕に向かって、往人は手を伸ばした。
ごま挿絵より